| 日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-5) |
明日(4月12日日曜日)の昭島教会イースター礼拝は「各自自宅礼拝」です。看板に「2020年4月5日より各自自宅にて礼拝を守っております 感染防止のため」と記しました。明朝10時30分にいつもどおり礼拝開始のチャイムを鳴らします。思いをひとつにして世界の救いを祈ります。
| 日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-5) |
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| 礼拝後の記念撮影。説教者は前列左から2番目 |
| 日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-5) |
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| 2021年12月17日に描く |
【学校は本番ではない】
ファン・ルーラーが(オランダの超伝統校の)ユトレヒト大学の(超伝統的な)神学部教授だったときこそ「神学は遊び(spel)である」と言った意味が今なら少し分かる。神学とか中高でいえば聖書とか、言ってしまえば実害ない分野でさんざん生徒・学生も教員も失敗しとけと。学校も勉強もどのみち練習試合。
そのあたりがおかしくなっているのか大昔からおかしいのか、学校こそ本番だと思い込まれている。そのように追いつめられて威嚇されて萎縮している。失敗が許されるほど世は甘くないと説くも結構。それはそうだが、学校の授業でこそリラックスできないのは不幸。学問の本質は遊びである。
おそらくもちろん超高層ビルや長大な大橋の設計中に計算ミスがあったとかいう話なら、とんでもない規模の被害があろう。「失敗は許されない」という言葉の現実味が違う。でも、だからこそ思うが、学校で失敗できなくてどこで失敗する。生徒だけが失敗するのではなく、先生も失敗していいだろう。
単純な話だよね。教員が授業中に「すみませんでした」と教室のみんなに謝って、改めて蓋然性の高い解を教えればいいだけのこと。そうすることが可能な信頼関係を築くことに、開講から何か月かけても構わない。「教師の私はパーフェクト。私の教えを聞いてちょうだい」スタンスの人は、はなから嫌われている。
有名人なので名指しをお許しいただきたいが、私の教師でもあった旧約学者の左近淑先生(故人)が講義中にチョークで板書しながらしょっちゅう言っておられたのは「ぼくこれ今考えながら話してるからね。次は違うこと言うかもしれないよ」。こういう講義なら聴ける(私は当時ハタチ)と思ったものだ。
【サボる牧師】
珍しい例ではないだろうが、生後から半世紀以上クリスチャンしかしたことがないのに、パターン化されたキリスト教の常識のようなことが一向に身に着かない。理由はたぶん、神学校以外のキリスト教学校に通った経験がないとか、カトリック経験も福音派経験もないとか、劇的な回心体験もないとかだろう。
反発を食らいそうなことをあえて言えば、そういうのが植村正久的というか、私が(2つの)神学校で覚えた空気だったりはする。パターン化を嫌うというか、毎回「えっと聖書では」「えっと歴史では」とイチから考えなおして解を求める。レシピ無いのか見ないのかと叱られそうなほど毎回料理の味が違う。
パターンに安心や安定を見出す向きの方々はノーコン投手の危険球のような恐怖を抱くかもしれない。私だけがそうだと言いたいのではない。私が習ってきたキリスト教というか牧師教育の範囲内の神学というかは、概ねそういう空気感を持ち続けている。パターン無き恐怖の神学であると言えるかもしれない。
その意味で私は「自分で考えること」に何の躊躇もない。「神を考える(Gott denken)」(ドロテー・ゼレ)と言われても何の反発も感じない。逆に、考えるのをやめると終わると思っている。生ける神を信じていないという意味ではない。考えるのをやめることが信仰であるわけではないと言いたいだけだ。
「神を考える(Gott denken)」ことに躊躇がないのは、ファン・ルーラーの影響ではない。彼の本を読み始めたのは30歳を過ぎてからなので。しかし、ファン・ルーラーが補強し、励ましてくれた面はある。「神義論(theodicee)は温かく擁護されるべきだ」と書いてくれる神学者に初めて出会って驚いた。
「神が世界を作っただとか、あんたらは言う。もしそうだというのなら、この世に悪がはびこっているのは神のせいだというわけだ。そんなひっでえ話をあんたらよく信じてられるね。うちはまっぴらごめんだよ。ほぼほぼ恨みしかねーわ。はい、さようなら」。ぶっちゃけこれが神義論(theodicee)だろう。
神義論(theodicee)の問いは、創造と終末の関係は何かという問いの中に生じるとファン・ルーラーは言う。ざっくりいえば、もし終末(おわり)が創造(はじめ)と全く同じなら、途中の歴史はすっとばされて無視されたことになるよね、ということだ。「救いもある」と言えなくては、まさに救いがない。
しかし、ここから先はファン・ルーラーの引用ではないが、「実際の」神義論は抽象でもなんでもなく、きわめて具体的な眼前の悪に脅かされている人の悩みであることが決して少なくない。「神はいない」「救いはない」としてしまうと思考が止まる。すっきり絶望できるかもしれないが、未練は残るだろう。
私の話に戻る。私は何十年経ってもキリスト教の常識的なパターンのようなものが一向に身に着かない。「この問いかけにはこう答える」というような模範回答例をうさんくさいと思う。尊重はするが、とらわれない。毎回改めて新しく考え直す。分からないことは「私には分かりません」と説教原稿に書く。
30年牧師を名乗り、牧師しかしたことがないのに「牧師に向いていない」と自覚しているのも同じ理由だ。やめればいいのに未練がある。「神はいる」「救いはある」と言い続けることに未練がある。言うだけなら牧師なんかやめても変わりはないだろうと自分でも思うが、現実はそこまですっきりしていない。
幸か不幸か、牧師の職務に未練があるので、やめたいと思ったことはない。躊躇なく言うが「神が」私をやめさせてくれない。自分で願い、計画し、実行してきたことは、ことごとく道を閉ざされた。しかし、なぜかいつも、すきま風が吹いてきた。小さな穴が開いていた。「すきま牧師」と呼んでください。
今日は出勤日ではないが、学校に行く気でいた。明日は授業だし、期末試験が近い。シャワーして着替えた後、考えごとをしているうちに雨が降り出した。非常勤は出勤日以外は交通費は当然自腹。それでもいいやと思っていたが、雨で心が折られた。今日はサボる。二度寝するか(やめとけ昼夜が逆転する)。
【じわじわくるキリスト教】
何十年も前から国民の 1 %未満国民の 1 %未満と自他ともに認めてきた日本のキリスト教人口のことで話し合っていたとき、それは日本の教会が怠慢だったからではなく、強制の要素を自ら嫌い、万人の自由を尊重しつつ「丁寧に」伝道してきた結果ではないかと言いたくなった。じわじわくるキリスト教の線で。
それと、ありえない話だと思えるから書ける面があるが、もし仮に日本にまもなく突然キリスト教ブームが起こったら、現存する教会はキャパシティオーバーで、押し寄せる人を「お断り」することになると思う。建物の大きさの問題ではなく、応対する体勢の問題。商品を製造して販売するというのとは違う。
アドベントは「待つ」ではない。もしその意味なら主語は「人」だろう。原意は「来る」で、主語は「神」。キリスト教の「行事ブーム」や「書籍ブーム」や「学校ブーム」はありうるかもしれないとしても、それは「キリスト教ブーム」ではない。「回心ブーム」は不気味だろう。作為で起こすものではない。
だらだら書きながらいいこと思いついた。来年は2020年。キリスト教のブームなど期待しなくてよろしい。そういうのは熱しやすく冷めやすい。ブームは去るときが来る。「2(じ)0(わ)2(じ)0(わ)くる」年にしよう。「遠赤外線伝道」とか名付けるといいかも。何言っているのかさっぱり分からないぞ。