2017年5月14日日曜日

新しい時代に伝道を(青戸教会)

日本基督教団青戸教会(東京都葛飾区青戸3-31-2)
コリントの信徒への手紙二10章1~6節

関口 康(日本基督教団教師)

「さて、あなたがたの間で面と向かっては弱腰だが、離れていると強硬な態度に出る、と思われている、このわたしパウロが、キリストの優しさと心の広さとをもって、あなたがたに願います。わたしたちのことを肉に従って歩んでいると見なしている者たちに対しては、勇敢に立ち向かうつもりです。わたしがそちらに行くときには、そんな強硬な態度をとらずに済むようにと願っています。わたしたちは肉において歩んでいますが、肉に従って戦うのではありません。わたしたちの戦いの武器は肉のものではなく、神に由来する力であって要塞も破壊するに足ります。わたしたちは理屈を打ち破り、神の知識に逆らうあらゆる高慢を打ち倒し、あらゆる思惑をとりこにしてキリストに従わせ、また、あなたがたの従順が完全なものになるとき、すべての不従順を罰する用意ができています。」

青戸教会の皆さま、おはようございます。日本基督教団教師の関口康です。深沢教会の齋藤篤先生のご紹介により、青戸教会の主日礼拝で初めて説教させていただきます。よろしくお願いいたします。

初めてお会いする皆さまにどんなお話をしようかと考えましたが、すぐに心が定まりました。日本の教会が今こそ考えなければならないことは、一に伝道、二に伝道です。伝道についてお話しします。皆さんが元気になるような話をします。

それで開いていただきましたのが新約聖書のコリントの信徒への手紙二10章1節から6節までです。使徒パウロの手紙です。ここに書かれていることをわたしたちはよく読んで理解する必要があります。この箇所に書かれていることが、わたしたちの伝道の重要な突破口になるだろうと信じます。

本当にそれほどのことが書かれているでしょうか。そうであるかどうかを、これから見ていきます。1節に次のように記されています。

「さて、あなたがたの間で面と向かっては弱腰だが、離れていると強硬な態度に出る、と思われている、このわたしパウロが、キリストの優しさと心の広さとをもって、あなたがたに願います」。

新共同訳聖書はこのように訳されていますが、原文を読みますと、もう少し違った感じに訳すほうがよさそうです。この新共同訳聖書の文章は、原文の言葉の順序をかなり組み替えて訳しているからです。原文の順序に戻すと次のようになります。

「このわたしパウロが、あなたがたに願います。キリストの優しさと心の広さとをもって。あなたがたの間で面と向かっては弱腰だが、離れていると強固な態度に出ると思われている」。

しかしこの訳はだいぶ硬い感じです。実際のパウロはもっと柔らかい優しい言い方をしています。そのように言える理由をこれから申し上げます。

原文では最初になっているのは「このわたしパウロが、あなたがたに願います」です。わたしたちがここで考えなければならないのは、いきなり難しい話になって申し訳ありませんが、ギリシア語の文法の話です。

神学校でギリシア語を勉強すると最初に必ず学ぶのは、ギリシア語の動詞は人称ごとに格変化するので、主語を省略しても文意は十分伝わる。だから、「わたし」とわざわざ書いている場合は強調があると考えなさい、ということです。

それはどういうことかといえば、今日の箇所にパウロが「このわたしパウロが」と書いているときに読者が考えるべきことは、著者パウロは「わたし」を強調しているということです。「他の誰でもなく、このわたしが」言っています。俺さま口調が入っているということです。

しかし、ここでパウロは「俺の言うことを聞け」と上から目線で押し付けるようなことを言いたいのではありません。むしろ逆です。正反対です。

ここでパウロが「このわたしパウロが、あなたがたに願います」と言っていることの意図は、自分が書いているのは、神の権威においてでもキリストの権威においてでもなく、あくまでもただのひとりの人間である私の個人的な意見にすぎない、という謙遜の意味です。

つまり、ここでパウロが「このわたし」をわざわざ強調して書いているのは、神とキリストの権威に基づく絶対的な命令ではありませんということです。押し付けられているなどと決して思わないでくださいという呼びかけでもあるということです。

そのことを言うために付け加えられているのが、原文では二番目の文章である「キリストの優しさと心の広さとをもって」です。その意味は、救い主イエス・キリストが優しい方であり心が広い方であることを思い起こしつつ、ということです。つまり「優しい」のはキリストです。「心が広い」のもキリストです。パウロが「俺さまは優しい」とか「俺さまは心が広い」と言っているわけではありません。

しかし、このあたりもわたしたちがよく考えなければならないところです。パウロが書いているのは「キリストの優しさ」であり「キリストの心の広さ」であって、パウロ自身の優しさでも心の広さでもありません。しかしだからといってパウロは、私自身は優しくもないし心が広くもないと言っているのかというと、それもなんだかおかしな言い方です。

私が愛用している聖書注解の中にオランダ語で書かれたものがあります。その著者の訳は「キリストの謙遜(zachtmoedigheid)と友情(vriendlijkheid)をもって」です(F. J. Pop, De tweede brief van Paulus aan de Corinthiers, De prediking van het Nieuwe Testament, 1962, 277)。

「謙遜」も「友情」も、キリストはそうであるが私はそうではないなどと言って済ませてよいことではなく、キリストを信じる者たちも学ぶべきだし、真似るべきことです。

そのことはパウロもよく分かっていました。だからこそパウロは、これはあくまでもわたしパウロがお願いしていることではあるが、「俺さまの言うことを聞け」と言いたいのではなく、キリストが示してくださった「優しさ」と「心の広さ」、あるいは「謙遜」と「友情」に自分自身も常に学び、真似しようとしている者のひとりとして、謹んで申し上げたい、と言っているのです。

そしてそれに続くのが、原文では三番目の文章である「あなたがたの間で面と向かっては弱腰だが、離れていると強硬な態度に出る、と思われている」です。これは私はいかにもパウロらしい彼の真骨頂を表す極めつけの一文だと思っています。

なぜ私はそう思うのでしょうか。この文章の中で誰もが目を引かれる衝撃の事実は「あなたがたの間で面と向かっては弱腰だが」とパウロが書いていることでしょう。

ここで最も重要な言葉は「弱腰」(タペイノス)です。この言葉をギリシア語辞典で調べるといろいろ面白い訳が出てきます。単純に「弱い」という意味もありますが、「卑屈」とか「へつらう」とか「腰抜け」という意味もあります。ここでパウロが書いているのはどうやら後者の意味です。

そして、いずれにせよはっきりしているのは、これは人を軽蔑する言葉であるということです。ほめているのではありません。パウロは明らかに、貶されているのです。

しかも、誰から貶されているのかというと、これが大問題なのですが、悲しいことに教会の人々からです。キリスト教や教会のことが大嫌いな人々からではありません。教会に通っている人々です。キリスト者です。その人々からパウロは「弱い」だの「卑屈」だのと、あからさまに侮辱され、軽蔑されていたのです。

わたしたちならどうだろうかと、考えるほうがよさそうです。教会の牧師をつかまえて「弱い」だの「卑屈」だのさんざん言う方が皆さんの中におられるでしょうか。言っても構わないと思いますが。

しかし、立場を逆にして、軽蔑する側ではなく軽蔑される側になったときはどうでしょうか。皆さんはそれに耐えられるでしょうか。そういうことをよく考えてみる必要がありそうです。

ここでパウロが書いている「弱腰」と訳されているタペイノスという言葉の意味として「卑屈」とか「へつらう」とか「腰抜け」というのがあると申し上げました。それは肯定的な言い方をすれば、平身低頭を貫く謙遜な態度であるということです。

「平身低頭」とは、ひれ伏して頭を下げ、恐れ入ることです。それは良いことでしょう。しかし、それと全く同じ姿がパウロに対して批判的な人々の目から見れば「卑屈だ」「へつらっている」「へこへこしている」「腰抜けだ」「慇懃無礼だ」という否定的な評価にもなるということです。

ですから、今申し上げたように考えることができるなら、もしわたしたちがパウロと同じ立場なら、無視するのが最良の対応かもしれません。だって、人の評価というのは勝手気ままなものですから。謙遜な人をつかまえて卑屈だ腰抜けだと言いたい人には言わせておけばよい。そういう対応の仕方も十分ありえます。

しかし、パウロは無視しません。言い返してしまいます。炎上するタイプです。しかし問題はその返し方です。「やられたらやり返す。倍返しだ」というのもあるでしょう。パウロはどうでしょうか。

ここで大きく脱線するのをお許しいただきたいです。「腰抜け」という言葉で私が思い出すのは、30年前に世界的に大ヒットし、3部作になった映画「バック・トゥ・ザ・フューチャー」です。ご覧になっていない方には分からない話で申し訳ありません。

あの映画の主人公の名前がマーティー・マクフライと言ってマイケル・J. フォックスが演じましたが、その主人公の弱点が「腰抜け(チキン)」と人から言われることでした。

この言葉を聞くと頭に血が上り、冷静さを失って、自分が今しなければならないことを忘れ、それを言った相手を思いっ切りぶん殴ってしまい、取り返しのつかないことになって後悔するという、あの3部作の映画全体のキーワードでもありました。それが「腰抜け」でした。

その主人公のセリフとして有名になったのが、Nobody calls me chickenでした。日本語版の字幕や吹き替えは「だれもぼくを腰抜けと呼ばせない」でした。このセリフを言ってからマーティーは相手を思い切りぶん殴るというのが、ひとつのパターンでした。

パウロはどうだったでしょうか。今日は映画の話をしに来たわけではなく、聖書の話をしに来ました。今日の箇所にはっきりと書かれているのは、パウロは教会の人々から「あいつはチキンだ」と罵られていた、ということです。

このように言われると、どこかのスイッチが入って、頭に血が上り、相手をぶん殴ったでしょうか。どうもそうではなさそうです。むしろパウロは「腰抜け」呼ばわりされるのを喜んでいたようでさえあります。

本当にそうでしょうか。そうではない。2節以下を見なさい。「勇敢に立ち向かうつもりです」とか「そんな強硬な態度をとらずに済むようにと願っています」とか、ずいぶんと強そうな言い方をしているではないか。彼はすっかり腹を立て、仕返しする気まんまんでいたのだという読み方もありうるかもしれません。

しかし、私にはそういうふうに読めません。もう時間がありませんので詳しい話はできませんが、ここでパウロが「勇敢に立ち向かう」と言っているのは、パウロは「肉に従って」(カタ・サルキ)生きていると誤解する人々に対してです。そうではなく私は「肉において」(エン・サルキ)生きているだけだと言っているだけです。

「肉に従って」生きるとは、肉の欲望のままに生きることです。それに対して「肉において」生きるとは、「肉体の中で」あるいは「肉体をまとって」生きる人間として、ありのままに生きることです。全く異なる2つのことを一緒くたにしないでほしい、と言っているだけです。

パウロは人間でした。「人間臭い」人でした。ある見方をすれば「腰抜け」でした。そう言われて無視するのではなくしっかり受けとめたうえで、腹を立てずに受け容れる人でした。自分が貶されることには大らかでした。自分の評価やプライドなどどうでもいいことでした。

パウロは神とキリストの権威に立っても語りました。そのことを否定するつもりはありません。しかしパウロは彼自身の言葉でも語りました。人間らしい、人間的な言葉でも語りました。その両面があったということです。それが大事です。こういうのを格闘技の用語で「二枚腰」と言います。

こういう人はどうでしょうか。私はこのような人こそ今の教会に求められていると思っています。

私は昨年度1年間、高等学校で聖書を教える常勤講師(代用教員)でした。その経験の中ではっきり分かったことですが、今の高校生たちは居丈高に振る舞う教師などは心の底から毛嫌いします。一方的に押し付ける言葉などには全く聞く耳を持ちません。

まして宗教や聖書に関してはなおさらです。神の権威もキリストの権威も教会の権威も全く通用しません。

かろうじて彼らが自分の心を開く相手は「人間として信頼できる大人」だけです。自分も将来そういう大人になりたいという願いを持っています。しかし「信頼できる大人がどこにもいない!」と彼らは嘆いています。そこに彼らの切なる求めもあります。

教会はどうでしょう。わたしたちはどうでしょう。権威的な存在でなければならないでしょうか。今はもうそういう時代ではないし、宗教と教会に権威がある時代は二度と戻ってこないし、戻ってこなくていいのではないでしょうか。

そういうのではなく「弱くて優しい大人の集まり」であることが教会に求められているのではないでしょうか。

今日皆さんに考えていただきたいのは、このことです。

(2017年5月14日、日本基督教団青戸教会 主日礼拝)

2017年5月12日金曜日

サイボーグ009が読みたいだけなのだ

サイボーグ009(コンビニコミック版)
今日の予定がひと段落ついたので、出先で立ち寄ったブックオフで買ったコンビニコミック版サイボーグ009で和む。豪華版とサンデーコミック版各全巻、メディアファクトリー版と文庫版各一部は入手済み。内容は同じだが、味わいは違う。1冊100~300円程度。マニアではないが、楽しみではある。

すべては過去のことなので、そろそろ書いてもいいだろう。ファン・ルーラーを読みたくてオランダ語を独習し、ファン・ルーラー研究会を何人かと立ち上げた。そうしたら、ファン・ルーラーを訳すくらいならカイパーを訳せ、ベルカウワーを訳せと言われはじめた。なぜ人にやらせようとするのかと思った。

何度も明かしてきたことだが、ファン・ルーラーを読むためにオランダ語を独習する気になったのは、東京神学大学の先輩でもある高崎毅志牧師(物故者)が「組織神学をやる者は自分の読みたい著者の言葉を独学するものだ」と励ましてくださったその一言による。全く同じ言葉を私も後輩たちに言ってきた。

もちろん組織神学だけの話ではないとは思うが、こと思想系を学ぶ場合、自分が読める範囲内の語学で本を読むだけでは超えられない壁がある。各国の思想的な空気の中での暗黙の了解のようなものがあり、そのあたりにこそ甘えや罠や弱点がある。そういうのを容赦なく突いていくのが組織神学の仕事である。

しかしそれは今はどうでもいい。自分で読みたい本があるなら自分でその著者の言葉を学び、自分で読んでくれ。それ以外に道はないし、他人のふんどしで相撲はとれない。オーダー通りその本を訳してもお世辞以上のことは言ってもらえないだろう。自分で訳さないかぎり外国語の本の心は分からないものだ。

なぜ今夜こんなことを考えているのかといえば、だからサイボーグ009なのだ。私はサイボーグものやロボットものなら何でもいいと思っているわけではないし、石ノ森章太郎作品なら何でもいいと思っているわけでもないし、すべてを読む気はさらさらない。サイボーグ009が読みたい。それだけなのだ。

2017年5月10日水曜日

おいしいカレーの作り方

おいしいカレーを作りました。レッツ・エンジョイ・クッキン!

①買い出し
②調理
③配膳
④片付け

2017年5月9日火曜日

私は復活の神学のほうがいいや

Windows10 Creators Updateの「ディスプレイ夜間モード」は眠い

幸い私は、というか牧師たちは(とあえて言わせてもらう)「自分がどこから来てどこへ行くのか」を知っている。自分の出発点を覚えているし、目標も分かっている。そういう心の支えがあるので、たとえ生活環境に乱高下があろうと、大いに狼狽えはするが(するんだ)、自己崩壊まではなかなか至らない。

私は復活の神学のほうがいいや。十字架上で絶望して絶叫した存在のままでいてくれるメシアのほうが自分と重ね合わせられる身近な存在なので、自分以上の存在を認めなくて済んで「慰められる」のでプライドが傷つかなくて済むかもしれないが、そういうのはごめんだ。プライドなんかいいかげん捨てろよ。

メシアは復活したが40日したら「昇天」して弟子たちの前から姿を消した。弟子たちは結局置いてきぼりにされたし、自分たちで全部やらなくてはいけなくなった。それが大事なんだよ。「慰め」で終わるとか、はあ?だよね。ありの~ままで~レリゴーレリゴーって言ってもらえるの未成年までじゃないの。

宗教はアヘンだと言った人がどういう理由や根拠でそう言ったのかを調べたこともないし興味もないが、分かるところは大いにある。ありの~ままで~レリゴーレリゴーの線で、あなたのままでそのままで受け容れられているとか言ってもらえる「慰め」だろ。まずいよね。人の自立と成長を阻むものがあるよ。

そういうのがイヤだから牧師になったんだけど。牧師の説教がどうしても納得できなくて、だけど教会や聖書の教えそのものが間違っているとは思えなくて、だったら自分で調べるしかないじゃんという結論が出て、自分が牧師になろうと思っただけだ。それが自立と成長でしょうに。「慰め」が動機ではない。

他人の失敗談とか大好きな人たちいるよね。自分と同じだと「慰め」られるようだけど。一緒にしないでほしいんだけど。そのうち思いっきり振り切って逃げられるよ。そのときまたそのプライド傷つくんじゃない。もっとどん底味わうよ。その覚悟があるならいいけど。「慰め」で終わるなよ、お願いだから。

日本だけではないと思うがとりあえず日本で牧師をしている者たちは、そもそもの最初からマイノリティの極致だったし、ずっとそうだし、死ぬくらいまでそうなので、要は基本が最底辺だということで、乱高下の「高」の状態をほとんど知らないし、ほとんど信用していないところがある。それが強さになる。

それと、神学や教会論を「狭く」切り取ってとらえる立場に立つとか、ピンポイントの聖書箇所についての釈義的な大発見の上に立つ神学(〇〇の神学)のようなものに全体重を乗せてしまうと、自己矛盾に耐えられない状況が訪れるのが早まる可能性が高いので、「論理的な自己崩壊」は比較的起こりやすい。

その手の「狭い」神学にありがちな「あれか・これか」の決断主義はナイーブになりやすい。「あれも・これも」受け容れる包容力というか、ルーズさを身につければ、少なくとも「論理的に」自己崩壊することは免れられる可能性が高くなるし、交友関係が広がり、助け合いの幅が広がる。これも強さになる。

Windows10のCreators Update(バージョン1703)をインストールしたとき加わったらしき「ディスプレイ夜間モード」という新機能に昨夜気づいてさっそく試している。睡眠障害の原因になるブルーライトを抑えているのは分かるが、これなんだか眠くなる。やる気スイッチオフ。

2017年5月8日月曜日

Nobody calls me chicken

最近は毎週のようにどこかの教会で説教させていただいている。定住牧師不在の教会の場合、聖書や信仰についての質問にお応えする日もある。「わたしたちも牧師さんたちがおっしゃることを理解したいと思っているんですよ。質問しやすい先生でよかった」と言われたときはうれしかった。怖くないからね。

同じ理由で叱られることもある。「もっと指示すべきだ」とか「自信がなさそう」とか「優柔不断だ」とか。その先「無責任だ」「卑怯だ」あたりまで言われるとカチンと来て、怖くないキャラでカバーしようとしてもボロが出る。まあでも、このキャラはたぶん一生変わらない。上から言うとか、ほんと無理。

ネットのお友達に勧められて「貴族探偵」を観た。面白かった!木南晴夏さんの個人的なファンを自任。圧巻の名演技。「こういう人いるいる」と納得。リッチでゴージャスで大らかだけど、ゼンゼンいやみが無くて落ち着く。初回から観ればよかった。ネット配信もあるようなので、そのうちまとめて観よう。

「貴族探偵」視聴中
先月よりやる気が回復してきた。来週の礼拝説教は初めてお訪ねする教会。ふだんより緊張するので早めにしっかり聖書に取り組む。説教箇所をギリシア語から私訳し、長年愛用のオランダ語注解署を参考にしながら釈義と黙想。読み込むほど面白い箇所だ。Nobody calls me chicken.

「説教原稿」作成中

2017年5月7日日曜日

小金教会の主日礼拝に出席しました

日本基督教団小金教会(千葉県松戸市小金174)
今日(2017年5月7日日曜日)は日本基督教団小金教会(千葉県松戸市小金174)の主日礼拝に出席させていただきました。自宅(借家)から最も近い教会(1.2キロ)です。創立は1949年4月24日とのこと。今泉幹夫牧師の力強い説教を伺い、聖餐式にあずかりました。ありがとうございます。

2017年5月5日金曜日

最高のゴールデンウィークになりました

お茶の水といえば楽器の街
今日(2017年5月5日金曜日)は旅行中の友人Takeshi Hatayaさんと午前9時にお茶の水で待ち合わせ、朝食をご一緒した。「お茶の水の」吉野家で朝定食をいただき、「お茶の水の」スタバで冷コーをいただきながら語り合った。とても有意義で楽しかった。Hatayaさんありがとう!

八千代市市民会館(千葉県八千代市萱田町728)
今日の午後は「千葉英和高等学校吹奏楽部 第32回定期演奏会」(会場・八千代市市民会館 大ホール)に行った。新3年生も新2年生も元気そうで安心した。演奏はとても見事だった。たくさん涙が出た。劇の悪役が名演技だった。司会進行が丁寧で分かりやすかった。最高のゴールデンウィークになった。

2017年5月4日木曜日

日本聖書神学校に行きました

日本聖書神学校(東京都新宿区下落合3-14-16)
今日(2017年5月4日木曜日)は日本聖書神学校(東京都新宿区下落合3-14-16)を訪問した。訪問目的は神学校チャペルでの結婚式の見学。来月から司式者の中に加わることになった。結婚式司式の経験は教会でも一般の式場でも何度もあるが、毎回緊張する。気を引き締めて取り組む所存である。

2017年5月3日水曜日

上野で重要な会合に出席しました

ハードロックカフェ上野駅店(東京都台東区上野7-11-1)
今日(2017年5月3日水曜日)は久しぶりに上野に行き、重要な会合に出席した。何度目の開催だろう。待ち合わせは毎回「ハードロックカフェ上野駅店」(東京都台東区上野7-1-1)の前と決めてある。後代の歴史家はこの場所を「あの重要な会合に出席する人々の集合場所であった」と記すだろう。
日本基督教団下谷教会(東京都台東区東上野3-37-10)
集合時刻より早く到着したので、日頃の運動不足を解消するために上野駅周辺を歩くことにした。5分ほど歩くとなんと教会が。日本基督教団下谷教会(東京都台東区東上野3-37-10)だった。そのとき出席者のひとりから「まもなく到着」と連絡があったので駅へ引き返した。歩行距離1キロ。少なっ。

2017年4月30日日曜日

確かなる希望としての復活(千葉若葉教会)

コリントの信徒への手紙一15章20~21節

関口 康(日本基督教団教師)

「しかし、実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました。死が一人の人によって来たのだから、死者の復活も一人の人によって来るのです。」

先々週の日曜日がイースター礼拝でした。私は日本基督教団下関教会(山口県下関市)から説教者としてお招きを受けて行ってきました。羽田空港から山口宇部空港までジェットに乗りました。帰りは新幹線でした。広島や岡山の実家にも立ち寄りました。そのような五泊六日の旅をしてきました。千葉若葉キリスト教会でもきっと盛大なイースター礼拝が行われたことでしょう。そういうわけで、皆さんに申し上げるのが遅くなりました。イースターおめでとうございます。

言うまでもないことですが、教会がイースターをお祝いするのはもちろん宗教的理由です。最近は日本の各地でイースターをお祝いしてくださる方々が増えているようですが、必ずしも宗教的理由ではないようです。しかし教会は間違いなく宗教団体ですので、遠慮なく宗教的理由でお祝いします。

イースターとは、イエス・キリストが死者の中から復活されたのは歴史的事実であるということを信じる人々の喜びの祝いの日です。その意味でイエス・キリストは「本当に」よみがえられたことを喜び、感謝する思いで、教会はイースター礼拝を毎年行っています。

しかし、教会がイースターをお祝いする理由は厳密に言うとそれだけではありません。少なくとももうひとつあります。それは何かといえば、イースターは「死者の中から復活したのは現時点ではイエス・キリストだけであるが、復活そのものはイエス・キリストだけで終わるものではない」ということを信じ、やがて訪れる将来において自分自身も復活するのだと信じる人々の希望の祝いの日であるということです。

私が今、やや早口で何を申し上げたのかは、きっとお分かりいただけていると信じます。それが、実は先ほど朗読していただきましたコリントの信徒への手紙一15章20節と21節に書かれている内容そのものです。それを私なりの言葉で言い換えて申し上げただけです。

まず20節を読みますと、「しかし、実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました」(20節)と書かれています。重要な言葉は「初穂」です。この「初穂」は英語の聖書ではだいたいfirst fruitと訳されています。つまり「最初の果実」です。

ここで考えなければならないことは、イエス・キリストの復活が「最初」(ファースト)であるということは、その「次」(ネクスト)の復活もあるということです。最初の1つだけで終わるのではなく、2つ目も3つ目もあるし、もっとたくさんあるということです。

何がもっとたくさんあるのかといえば、それが復活です。何と驚くべきことに、イエス・キリスト以外にも復活する存在があるのです。イエス・キリストが「初穂」(ファーストフルート)ならば、「次の果実」(ネクストフルーツ)もあるのです。それが全人類です。何と驚くべきことに全人類が復活するのです。そのようなことを誰が信じられるだろうか、冗談は休み休みに言ってくれと、多くの人に思われるに違いないのですが、パウロが書いているのはそのようなことです。

しかし、驚くべきことはまだ残っています。それは、この箇所にパウロが書いていることの趣旨は「イエス・キリストの復活」のほうではなく「全人類の復活」のほうであるということです。「全人類の復活」は本当に起こるのだということを言うために、その根拠として「イエス・キリストの復活」を持ち出しているだけです。このような書き方をしている以上、どちらに強調点があるかといえば、前者ではなく後者であることは明らかです。

しかも、「イエス・キリストの復活」と「全人類の復活」を聖書に基づいて比較してみると、両者が全く同じことの単純な反復ではないことが分かります。聖書によると、「イエス・キリストの復活」は40日間弟子たちの前で起こりましたが、その後父なる神のもとへと昇天することによって弟子たちの前から姿を消し、見えなくなりました。しかし「全人類の復活」は、わずか40日で終わるような一時的な出来事ではなく、永久に続く出来事として理解されるべきものです。

ですから、次のように考えることさえできます。「イエス・キリストの復活」は、今はまだ起こっていないが将来起こるであろう「全人類の復活」にとっての「予告編」の意味を持っていました。しかし、それはまだ「本編」ではありませんでした。「イエス・キリストの復活」においては「全人類の復活」のさわりの部分をほんの少しだけ、ちらりと見せてもらえたに過ぎません。

さらに次のように考えることもできます。「イエス・キリストの復活」は、キリスト信仰全体の目標ではなく、途中の通過点にすぎません。キリスト教信仰の目標は「イエス・キリストの復活」を信じることのほうではなく「全人類の復活」を信じることのほうにあります。このように申し上げるからと言って、「イエス・キリストの復活」を信じることが重要ではないと言っているのでは決してありません。それを信じることも重要です。しかしだからといってわたしたちは「イエス・キリストの復活」のほうだけを信じて事足れりとすることはできません。

イースターをお祝いする目的も同じです。「イエス・キリストの復活」をお祝いすることだけではなく、少なくとももうひとつあると申し上げたとおりです。それは、将来における「全人類の復活」を期待することです。イースターは、わたしたち自身の復活を待ち望む将来をめざす希望の祝いです。それは「イエス・キリストの復活」をお祝いすること以上に重要です。

私が言いたいのは次のようなことです。「イエス・キリストの復活」はありえないことだが、不合理なことであっても、理性を犠牲にして無理やりにでも信じ込むことがキリスト教信仰の本質なのだ、という仕方で、ようやくのところ「イエス・キリストの復活」を信じることができたというだけでキリスト教信仰が完結するわけではないということです。キリスト教信仰には、もっと大きな、人をつまずかせる要素があります。それが「全人類の復活」です。

歴史的な事実としては、「全人類の復活」についての思想はパウロが生み出した思想ではないし、新約聖書の著者たちが発明した思想でもありません。それは旧約聖書の時代からあり、サドカイ派を除くユダヤ教の人々に広く受け入れられていた思想でした(ヘンドリクス・ベルコフ『確かなる希望』藤本治祥訳、日本基督教団出版局、1971年、42頁)。事柄の歴史的な順序としては、「全人類の復活」を信じる信仰は「イエス・キリストの復活」を信じる信仰より古いです。

これで分かるのは、イエス・キリストの復活の事実が「全人類の復活」を信じる信仰を生み出したのではなく、順序はその逆であるということです。「全人類の復活」を信じる信仰が先にあり、それは「本当に」起こるのだということを、「イエス・キリストの復活」を目の当たりにした人々がその確証を得たと信じて受け入れたということです。

今日なぜ私がこのようなことをしつこいほど繰り返し強調するのかについても申し上げておきます。

「イエス・キリストの復活」を信じるだけならば、ある意味で簡単なことです。自分に当てはめて考えることをしなくて済むからです。イエス・キリストはわたしたちにとって他人ですから、他人事として考えるだけで済ますことができます。「へえ、そんな不思議なことがあったのですね。神さまの力はすごいですね」と言っていればいいだけです。

しかし「全人類の復活」は違います。他人事で済ますことができません。なぜなら、全人類の中にあなたも私も含まれるからです。あなたも私も復活するのです。そのようなことを本気で信じなければならなくなります。そのほうがわたしたちにとって、「イエス・キリストの復活」を信じることよりも、はるかに難しいはずです。

しかし、難しいことをわたしたちは信じかつ受け入れる必要があります。そうでないかぎり、復活がわたしたち自身の希望にならないからです。なぜ他人事で済ましてはいけないのでしょうか。そのことを最後に申し上げておきます。そのことを理解するために、今日の箇所の31節に書かれていることが重要です。

「死が一人の人によって来たのだから、死者の復活も一人の人によって来るのです」(31節)と書かれています。その説明が22節にあります。「つまり、アダムによってすべての人が死ぬことになったように、キリストによってすべての人が生かされることになるのです」(22節)。

論理は単純です。「死が一人の人によって来た」と言われている中の「一人の人」とは最初の人類アダムです。「アダムによって死が来た」とはアダムが罪を犯したためすべての人に死が定められたという意味です。しかし、その死の定めを打ち消すために「一人の人」イエス・キリストが来ました。イエス・キリストが来てくださったので、すべての人から死が取り除かれた、ということです。

ここで考えなければならないのは、アダムによって何が始まったのかということです。この箇所には記されていませんが、それが「罪」であることは明らかです。アダムの「罪」によって「死」が来ました。しかし「キリストによってすべての人が生かされることになる」。その意味は、キリストによって「罪」が除去されるならば「死」が除去される、ということです。

そしてそれでわたしたちが理解すべきことは、「全人類の復活」を信じることは、全人類が罪から完全に取り除かれ、罪から解放される日が来ることを信じるのと同じであるということです。つまり、わたしたちは、「罪」との関係で「死」を、そして「復活」を理解する必要があるということです。

今かなりややこしいことを言いましたが、ご理解いただきたいのは、ひとつのことです。それは、「全人類の復活」と信じることと「世界と人類からすべての罪が取り除かれること」を信じることは同じことである、ということです。そういう日が必ず来ると信じることが必要なのです。

罪は永遠の存在ではありません。罪の力に飲み込まれてはいけません。罪に市民権を与えて当然視してはいけません。「人類が罪を犯すのは当然なのだ」とか「やむをえないことなのだ」などと言って是認してはいけません。そのようなことを聖書が教えているわけではありません。

しかも、わたしたちは、自分自身は罪に対して無抵抗であり、人生の最期の最期のぎりぎりまで罪の甘い蜜を味わい尽くしながら、天国に行きさえすれば罪から自由になれるなどと考えるべきではありません。神にお委ねするだけではなく、わたしたち自身も、罪の力、悪の力に対して徹底的に抵抗しなければなりません。

わたしたちは主の祈りにおいて「御国を来たらせたまえ」と祈ります。「我らを試みにあわせず、悪よりすくいいだしたまえ」と祈ります。このように祈りつつ生きていくわたしたちの人生の将来に「復活の日」が訪れます。

罪は完全に滅ぼされ、世界と人類の中から完全に取り除かれる日が来ます。罪が取り除かれれば、わたしたちが死ぬこともなくなります。その意味での「完全な救いの日」が来ます。それが「全人類の復活」です。

(2017年4月30日、日本バプテスト連盟千葉・若葉キリスト教会 主日礼拝)