2016年12月27日火曜日

仕事もパソコン 遊びもパソコン

休み中しかできないことをと取り組んでいるのは自宅書斎パソコンのハードディスク内整理、ブログレイアウト整理。あとはブログ、SNS、メール。それ毎日やってるだろと言われそうだが、まあそうだが、気分は違う。仕事もパソコン、遊びもパソコン。

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2016年12月27日更新

星に願いを

大学や神学校で教えたいと思ったことは一度もない。しかし、「私の」ファン・ルーラー研究を受け継いでくれる人を求めてきた。「教えたい」のではない。ファン・ルーラーの一次文献を徹底的に調べて、私の書いてきたことを片っ端から訂正してほしい。

関口 康「ファン・ルーラー研究」(ここをクリックしてください)


A. A. ファン・ルーラー


ファン・ルーラー著作集(2種類)



ロボットは信仰を持ちうるか

自宅書斎パソコンのハードディスク大公開
休みの間しかできないので、自宅書斎パソコンのハードディスク内の書類整理をしている。セキュリティの問題で学校の仕事を自宅に持ち帰ることはしていないが、自宅で書いた説教原稿や授業レジュメを自分のメールアドレスに送って学校のパソコンで開いたりはする。休み中にたくさんかわいがっておこう。

歩くのも走るのも昔から遅く、自分のペースで歩道を歩いているとどんどん追い抜かれて後ろに誰もいなくなる。学校の勉強も昔から遅く、自分のペースで勉強しているとどんどん追い抜かれて後ろに誰もいなくなる。競争心がない。協調性がないのかもしれないが、自分のペースでない協調性は血圧が上がる。

教会を場にして働いていたときはテレビやマンガに興味津々だったが、学校を場にして働きはじめてからは興味を持てなくなった。単純に今は忙しいというのはあるが、教会がひまだったわけではない。加齢が理由かもしれないが、よく分からない。本については、買うことも読むこともほとんどできていない。

私の立ち位置から言わせていただけば「人生に学歴は関係ない」とは言えない。学業のために不眠不休の努力をしている眼前の生徒を傷つけることになり、申し訳が立たない。ただ「学歴だけが人生ではない」。開き直らなくてもいいと思うが、もっといろいろある。あとFランだの言って学校をバカにするな。

理系の人から「何をいまさら」と言われそうなことにふと気づくのだが、ロボットロボットと言うが、要は口と目と手足がついたしゃべる自走式PCのようなものだろうから、過去20年くらいカチャカチャ入力してきた説教原稿やファン・ルーラーの翻訳も、ロボのハードディスクに記憶してもらえるよなと。

そうそう、一昨日の日曜日、若い説教者がご存じないとおっしゃるので、教会からの帰りの車中「人造人間キカイダーの良心回路」について長時間講義してしまったのだった。キカイダーの不完全な良心回路は、ギル教授の悪魔の笛の音を聴くと狂ってしまう。原作者・石ノ森章太郎さんの炯眼がすごいと思う。

その次に「ウルトラマンガイアの最終話」の講義にもなった。宇宙から襲いかかる根源的破滅招来体のボス怪獣に倒されてしまったガイアとアグルを生き返らせるために、天才科学者集団アルケミースターズとマッチョな軍人集団シグが協力して、地球生まれの怪獣たちが発する「地球の光」を集めるという話。

アグルの中の人(スーツアクターの意味ではない)は、もともとアルケミースターズの一員で根源的破滅招来体から地球を守るための方法を考える立場だったが、彼が開発した高量子コンピュータ「クリシス」が出した結論が「地球の敵は人類」(大意)だったことで、中の人は人類の敵となる。が、後に改心。

なぜアグルの中の人の高量子コンピュータ「クリシス」が「地球の敵は人類」(大意)という結論を出したのかといえば、根源的破滅招来体が「クリシス」に不正アクセスしてデータを書き換えたからだった。このあたりで私は「キカイダーの良心回路」の問題と「クリシスの結論」の問題が結びつくと思う。

私は何を言いたいのかというと、「ロボットは信仰を持ちうるか」という問いに近い話だったりする。「信仰」というと叱られるに決まっているので石ノ森先生が命名された「良心回路」がいい。外部から「殺せ」「壊せ」「盗め」「騙せ」という悪魔系コマンドを入力されても実行できない人工知能の仕組み。

ここで話が最初に戻る。私が過去20年くらいカチャカチャ入力してきた説教原稿やファン・ルーラーの翻訳をロボのハードディスクに記録してもらって、それを人工知能さんに勉強してもらえば、そのロボの「良心回路」に役立つはずだと言いたい次第。

ロボットくん、きみも説教を聴き、神学を学びたまえ。

生きるとは片付けることを意味する


我ながら地味なことをと思いつつ早朝から取り組んだのは、資源ごみ出し(びん、カン、ペットボトル、段ボール、布類)と、転居後1年を経過したので前住所から現住所への郵便物転送の「延長願」を郵便局に出すこと。郵便局の帰りに松戸市小金原のパン屋「モール」さんと、阿藤店長のコンビニで買い物。

2016年12月26日月曜日

東京の冬の夜に


今日(2016年12月26日月曜日)の夜は、新宿副都心の東京都庁近くの某所で家族で食事をしました。いろいろとごちそうをいただきました。帰りみちの車窓から見えた東京駅前の丸の内仲通りのイルミネーションがとてもきれいでした。今年はまだ終わっていませんが、1年間本当にお疲れさまでした。

2016年12月25日日曜日

千葉若葉教会クリスマス礼拝

今日(2016年12月25日日曜日)は日本バプテスト連盟千葉若葉キリスト教会(千葉市若葉区)のクリスマス礼拝に出席しました。小澤昂平先生(千葉英和高等学校宗教科)の説教は素晴らしかったです。午後の祝会で「われらはきたりぬ」(讃美歌第二編52)を東方の博士に扮して私が独唱しました。

2016年12月24日土曜日

新松戸幸谷教会のクリスマスイブ礼拝に出席しました

今日(2016年12月24日土曜日)は日本基督教団新松戸幸谷教会(千葉県松戸市新松戸2ー169)のクリスマスイブ礼拝(18時開始)に出席させていただきました。聖歌隊の賛美が素晴らしかったです。「幼子はいと高き方」と題する吉田好里牧師の説教で心熱くされました。ありがとうございます!

1年前の今日

手の込んだ朝食ありがとう。今日何の日だったっけ。












昨年の今日(2015年12月24日木曜日)に今の借家に転居しました。1年間の神の恵みに感謝します。


2016年12月23日金曜日

2016年の反省 エンタメ編

4月から9ヶ月間の状況をいえば、録画したサンダーバード(終了)以外のテレビ番組を観ず、映画を観ず、紙の新聞を講読していない。ニュースはネットから得ているが、他のことは、他の人たちが盛り上がっていても全くついていけない。真田なんとかもPPなんとかも逃げなんとかもさっぱり分からない。

音楽は1月から8月まで毎日レベッカさん。9月以降は毎日ずっとガーネットクロウさんを聴いている。今の流行歌は知らないし、ついていけていない。レベッカさんは私にとっては学生時代(ということは30年前だが)のリバイバルだったので最近はさすがに食傷。ガーネットクロウさんは初めての出会い。

何を書きたがっているかといえば、「2016年の反省」のつもり。1年を振り返って自分のしてきたことを省みないと。それのエンタメ編。その結論が、今年はテレビも映画も観ず、紙の新聞も読まず、音楽は最新のものは聴かず、もう解散しているレベッカさんやガーネットクロウさんを聴いたという話。

最新の流行についていけていないことを私はとても苦にしているが、「苦にしているふりをしているだけ」でもあり、実はどうでもいい。私の関心は宗教と聖書と神学、そして学校教育と生徒ひとりひとりの成長にある。宗教も学校も人類の歴史と共にある。その中にずっと引きこもる価値のある世界でもある。

出かけていた家族がたくさん買い物の荷物を抱えて帰ってきた。コストコでいろいろ買い込んできた。帰りみちに大好きなインドカレー店でいろんなカレーとナンをテイクアウトしてきてくれた。みんなでいろんなカレーを味わった。私は丸一日書斎に引きこもり。寝て起きて字を書いた。コンビニには行った。

教会面白化宣言

どうしたら教会が面白くなるかを考えてきたし、これからも考える。同じ志の人と意見交換をしたし、これからもする。そもそも教会が面白くなることはありえないという混ぜ返しに応じたことはないし、これからも応じない。自分だけ面白いとか特定の少数者だけが面白いというのでない教会面白化をめざす。

私がこれまでネット経由で発言してきたことを少しでも覚えてくださっている方には、「どうしたら教会が面白くなるか」について私が抱く関心は「何をもって面白いとするか」であり、その点こそを問題にしてきた人間であることをご理解いただけるだろう。私はそれを「教義学の課題」としてとらえている。

字にすると(あざ)笑われるだけだろうが、私は「教会面白化の神学」の必要性を真剣に訴えたい。高校の倫理の教科書でも教えられているホイジンガの「ホモ・ルーデンス(遊戯人)」という人間の定義を真剣に考える必要がある。人間の本質が「遊戯」にあるなら、教会の本質に「遊戯」がないはずがない。

「教会とは遊戯である」という意味の「エクレシア・ルーデンス」(遊ぶ教会)がどうして言えないかと繰り返し考えさせられている。そして最終的に「デウス・ルーデンス」(遊ぶ神)を厳密に神学的に語ることが十分可能であると私は考えている。この発想の先駆者がアーノルト・ファン・ルーラーである。

ともかく私は「どうしたら教会が面白くなるか」という問題は「教義学の課題」であるととらえている。それは教会の本質についてのきわめて深刻な神学的問いである。「教会に人を集めるために子どもや若者向けに遊びの要素を取り入れて楽しくする」というハウツーのレベルの問題ではないと認識している。

それと私は、「教団・教派」も「教会」の範疇に含まれるのは当然であると考えている。そのうえで、教団・教派を「面白くなくしているもの」は何かを考えている。人間の集まりなのでドロドロしているのは一向に構わないが、イエスの再解釈を経たモーセの十戒の線くらいは守ろうよくらいのことは考える。

それは「父母を敬え、殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、貪るな」だ。互いに敬意を持つ。ばかだアホだ言わない。あやしげな目を使わない(とくにセクハラだめ)。説教盗用も盗み。うそやだましはだめ。ねたみやひがみはたとえ心に浮かんでも軽々に口にしない、おおっぴらにしない、放置しない。

しかし今書いているようなことは、あえて言挙げするまでもないほど当たり前のことだ。常軌を逸した状態になったときだけ緊急発動するが、ふだんは忘れていてもよい。「どうしたら教会が面白くなるか」という問いの中では必ずしも中心課題ではない。ネガティヴなことばかり考えている教会は面白くない。

ただ、「エクレシア・ルーデンス」(遊ぶ教会)にせよ「デウス・ルーデンス」(遊ぶ神)にせよこういうことを言うと激しく拒絶し激怒するのも「教会」であることを私は認識している。「苦難の民の歴史」とも「十字架のイエス」とも矛盾すると感じてしまうようだ。まさにこれが「教義学の課題」である。

教会が「面白いところ」になることを不快に思う人々がいる。教会の中にもいるし、教会の外にもいる。まるで教会が「面白く」なってもらっては困るかのようだ。あくまでも「面白くないところ」であり続けてくれることが望まれているかのようだ。なぜそう思う人々がいるのかを、丁寧に考える必要がある。

そしてこういうことを共同で考えるグループが必要であると私は思う。各教会や「教団・教派」には特性の違いがあるので、たとえば「日本の教会を面白くする会」と言ってもほとんど意味はない。結局ハウツーの問題で終わってしまう。それより、たとえば「日本基督教団を面白くする会」と言うほうがいい。

そういうのが全国の各教会やそれぞれの「教団・教派」の中で立ち上がっていけばいい。「○○教会を面白くする会」や「○○教団を面白くする会」がたくさん生まれてくること自体が面白い。「そもそも教会は面白くないところなので、面白くなることはありえない」という混ぜ返しに応じないことが重要だ。

私が今日こういうことを書いているのは、理想論や空想を言いたいのではなく、具体的な行動を起こすための結党宣言のひな形のようなものを提供したいという意図がある。私もすでに具体的に動いている。同じ志の人々はぜひ行動を起こしてほしい。くれぐれも言うがハウツーの問題で済ましてはならない。

一方の意見だけを言わせ、他方の意見を封じるやり方で人を切り捨てる団体や組織が切り捨てた後にするのは、封じた人物の存在を否定するだけにとどまらず、でっちあげの噂、悪口、罵詈雑言を浴びせることだ。プラマイゼロではなく、挽臼で粉砕するまで徹底的に貶める。そういう団体や組織に気をつけよ。

2016年12月23日

関口 康