2023年12月24日日曜日

天に栄光、地に平和(2023年12月24日 クリスマス礼拝)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13)

讃美歌21 261番 もろびとこぞりて

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「天に栄光、地に平和」

ルカによる福音書2章8~20節

関口 康

「『あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。』すると突然、この天使に天の大軍が加わり、神を賛美して言った。『いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ。』」

クリスマスおめでとうございます!

今日の聖書箇所は、ルカによる福音書2章8節から20節です。イエス・キリストがお生まれになったとき、野宿をしていたベツレヘムの羊飼いたちに主の天使が現われ、主の栄光がまわりを照らし、神の御心を告げた出来事が記されています。

「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ、主メシアである」(10節)と、天使は言いました。

天使の名前は記されていません。ルカ福音書1章に登場するヨハネの誕生をその母エリサベトに告げ、また主イエスの降誕をその母マリアに告げた天使には「ガブリエル」という名前が明記されていますし、ガブリエル自身が「わたしはガブリエル」と自ら名乗っていますが(1章19節)、ベツレヘムの羊飼いたちに現われた天使の名前は明らかにされていません。同じ天使なのか別の天使なのかは分かりません。

なぜこのようなことに私が興味を持つのかと言えば、牧師だからです。牧師は天使ではありません。しかし、説教を通して神の御心を伝える役目を引き受けます。しかし、牧師はひとりではありません。世界にたくさんいます。日本にはたくさんいるとは言えませんが、1万人以上はいるはずです。神はおひとりですから、ご自分の口ですべての人にご自身の御心をお伝えになるなら、内容に食い違いが起こることはありえませんが、そうなさらずに、天使や使徒や預言者、そして教会の説教者たちを通してご自身の御心をお伝えになろうとなさるので、「あの牧師とこの牧師の言っていることが違う。聖書の解釈が違う。神の御心はどちらだろうか」と迷ったり混乱したりすることが、どうしても起こってしまいます。

もし同じひとりの天使ガブリエルが、エリサベトにもマリアにもベツレヘムの羊飼いたちにも、さらにマタイ福音書に登場するヨセフにも、東方の占星術師たちにも現れたということであれば、天使自身は神ではありませんが、情報源が統一されている点で、聴く人や状況によって神の御心の内容が違って聴こえることは起こらないので、不統一よりは安心できるかもしれません。

ところで、ベツレヘムの羊飼いに現われた天使が「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる」(10節)と言いました。しかしこれは翻訳のひとつの可能性です。原文には4つの単語が並んでいます。「ユーアンゲリゾーマイ・ヒューミーン・カーラーン・メガレーン」ですが、最初の「ユーアンゲリゾーマイ」だけで「喜びを告げる」(announce glad tidings)という意味になります。「ヒューミーン」は「あなたがたに」(to you)。「カーラーン」は「喜び」(joy)。そして「メガレーン」が「大きな」(great)です。つまり「喜び」が“ダブって”いるということです。さらに「大きな」(great)で“ブースト”されています。とても大きな喜びです。

その内容は「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ、主メシアである」(11節)です。この言葉を厳密に理解することを求める方々は、「あなたがたのために」(to you)とは誰のためかが気になるはずです。大別して3つの可能性が考えられます。

第一に、「民全体」(10節)をイスラエル民族に限定して「あなたがたイスラエル民族のために」。その場合は、イスラエル王国の再建を目標とする人にとっての喜びを意味します。

第二に、ベツレヘムの羊飼いに限定して「あなたがたベツレヘムの羊飼いのために」。その場合は、差別の対象になっていた羊飼いの苦境と関係し、弱い立場の人にとっての喜びを意味します。

第三に、すべての限定を解除して「全人類のために」。まさにすべての人にとっての喜びです。クリスマス礼拝のメッセージとして最もありがたいのはこの可能性でしょう。私も同意します。ただし、自分の読みたいように読む、というのは危険な面があることは覚えておくべきです。

しかし、第三の読み方にも根拠があります。天使の言葉の中で「救い主」(ソーテール)、「主」(キュリオス)、「メシア」(クリストゥス)と、それぞれ意味が異なる3つの称号がイエスさまに当てはめられています。「救い主」(ソーテール)と「主」(キュリオス)はどちらもローマ帝国の皇帝が自ら名乗り、周囲に呼ばせた称号です。その称号がイエスさまに当てはめられたのです。それはつまり、地上におけるソーテールでありキュリオスである存在は、あの独裁者ローマ皇帝ではなく、今宵生まれたイエスさまである、ということが明確に示されたことを意味します。

そして「メシア」(ギリシア語でクリストゥス)は、ユダヤ人たちが長い歴史の中で待ち望んだ存在です。つまり天使が「あなたがたのために救い主(ソーテール)がお生まれになった。この方こそ、主(キュリオス)メシア(クリストゥス)である」と羊飼いたちに告げている言葉の中に出てくる3つの称号の意味は、ユダヤ人のためにも、異邦人(=「ユダヤ人以外の人々」を指す)のためにも、すなわち「全人類」(=ユダヤ人+異邦人)のためにイエスさまはお生まれになった、という意味であると理解できます。

天使は最後に「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ」(14節)と言いました。これも翻訳のひとつの可能性です。しかも、この言葉は歴史や国境を越えて多くの人に誤解されてきた事実があることを指摘しておきたいと思います。

特に誤解されてきたのは後半の「地には平和、御心に適う人にあれ」です。私も誤解していたことを正直に告白します。「御心」は「神の御心」です。しかしそうなりますと、「神の御心に適う人(だけ)に平和が訪れますように」という意味なのかと考える人が必ず現れるでしょう。「神の御心に適わない人には平和は訪れなくても構わない」と、神は天使を通して羊飼いに告げたのか、聖書を通してそのことをわたしたちに告げているのか、と考える人が必ず現れるでしょう。

全く違います。完全に正反対です。しかし、翻訳をやり直す必要はありません。「御心に適う人」と「御心に適わない人」がいる、という読み方をやめるだけで済みます。「御心に適う“人”」は「全人類」を指していると理解すれば、問題は解決します。

日本語聖書で「御心」と訳される伝統になっている「エウドキア」の意味は「神の喜び」です。この言葉には旧約聖書の背景があります。特に創世記1章31節に「神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった」とお喜びになったことと関係しています。

全人類が「神の喜び=神の御心」(エウドキア)に適った存在です。例外も限定もなく「全人類に平和がもたらされますように」と歌う天の大軍の歌声がベツレヘムの夜空に響き渡ったことを想像しながら、今夜のクリスマスイヴ音楽礼拝を共にささげたいと願います。

(2023年12月24日 クリスマス礼拝)

2023年12月17日日曜日

マリアの召命と献身(2023年12月17日 待降節第3主日)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13)


讃美歌21 175番 わが心は

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「マリアの召命と献身」

ルカによる福音書1章26~38節

「マリアは言った。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」そこで、天使は去って行った。」

(2023年12月17日 聖日礼拝)

2023年12月10日日曜日

救い主の降誕を喜ぶ(2023年12月10日 待降節第2主日)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13)

讃美歌21 231番 久しく待ちにし

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「救い主の降誕を喜ぶ」

マタイによる福音書2章1~12節

関口 康

「彼らが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった、学者たちはその星を見て喜びにあふれた。」

(2023年12月10日 聖日礼拝)

2023年12月3日日曜日

神は我々と共におられる(2023年12月3日 待降節第1主日)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13)

讃美歌21 241番 来たりたまえ われらの主よ



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「神は我々と共におられる」 

マタイによる福音書1章18~25節

関口 康

「『見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。』この名は、『神は我々と共におられる』という意味である。」

(2023年12月3日 聖日礼拝)

2023年11月19日日曜日

悩みも多いが楽しく生きる(2023年11月19日)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13)

讃美歌21 412番 昔 主イエスの



「悩みも多いが楽しく生きる」

ローマの信徒への手紙8章18~30節

関口 康

「同様に、“霊”も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、“霊”自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです。」

「現在の苦しみは、将来わたしたちに現されるはずの栄光に比べると、取るに足りないとわたしは思います」(18節)とあります。「現在の苦しみ」の「現在」は、時間的な「今」を指しているだけではありません。神が天地万物を創造された日から、真の救い主イエス・キリストが再臨されて、世界が完成する終末までのすべての時間を指して「現在」とパウロは記しています。

しかし、今のわたしたちも、いまだイエス・キリストの再臨の日を迎えていませんので、二千年前のパウロの「現在」と同じ意味の「現在」の「苦しみ」を、わたしたちも味わっていると言えます。その「現在の苦しみ」が「取るに足りない」すなわち「大したことはない」と思える日が来るというのが、今日の箇所の趣旨です。しかし、「現在の苦しみ」が「取るに足りない」と言われると、将来は苦しくなくなるという意味なのか、それとも、もっと苦しくなるという意味なのかと考えてしまいます。

結論を言えば、両方の意味です。今より負担が大きくなり、もっと苦しくなります。しかし、それに耐えられるだけの意味や楽しみがあることを理解させていただけるので、「苦しいけれども苦しくない」という境地に達しうるという線で理解して大丈夫です。「悩みも多いが楽しく生きられるようになる」という線です。

「被造物は虚無に服しています」(20節)は、旧約聖書のコヘレトの言葉に通じます。口語訳聖書で「空の空、空の空、一切は空である」、新共同訳聖書で「なんという空しさ、なんという空しさ、すべては空しい」と記されているあの書物です。私が愛用するローマ書の註解書(著者レカーカーカー)に「ローマ8章20節はコヘレトの言葉の註解である」と記されていました。

「被造物」は「被選挙権」などで用いるのと同じ「被」を用いて「神によって造られたもの(物・者)」を表現しますので、当然「人間」を含みます。神が造られた被造物が、なぜ「虚無」に服しているのかは、常に大きな謎です。なぜなら、そうなるとまるで、神は人間を含む被造物を造りっぱなしで、管理責任も監督責任も負わず、放置しておられるかのようだからです。

神の支配力が弱い、とも言えます。旧約聖書の創世記によれば、神が最初に造られた人間アダムに「善悪の知識の木からは決して食べてはならない」と、神はただ言葉で禁じただけで、それは抑止力にならず、アダムは木の実を食べました。本当に食べてはいけないなら最初から神がその木を造らなければよかったし、近づけないように柵を設けておけばよかったのに、と言いたくなる出来事です。

しかしそれは、神が人間の主体性と自由を尊重してくださったことの証拠です。神は人間を奴隷にしたくないのです。被造物に干渉し、根掘り葉掘り情報を聞き出して、心配しているのか監視しているだけか分からない接触を取り続ける、かまってくれる、支配という名の過干渉の神ではありません。

それを「温かい」と感じるか「冷たい」と感じるかは、各自の感覚の問題です。しかし、「被造物は虚無に服していますが、それは、自分の意志によるものではなく、服従させた方の意志による」(19節)は“神が被造物を虚無に服させた”という意味なので、神は本気で被造物を突き放されたと考えるほうがよさそうです。いつまでも依存して甘えないでいるように。自分で判断することを怠らないように。

“神が被造物を虚無に服させた”からこそ「同時に希望も持っています」(28節)という命題が成立します。「虚無」は数字で言えばゼロです。数学だとゼロ以下はマイナスですが、会計帳簿ならば赤字なので、どこかから借りられなければ終わりなのが「虚無」です。それが「同時に希望も持っている」というのは愉快です。虚無(ゼロ)より下は無いので、上を見上げて生きるしかないということです。

「被造物がすべて、今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっていることを、わたしたちは知っています」(22節)の「うめき」や「産みの苦しみ」の直接の意味は、母親が子どもを出産するときに上げる声や、そのとき味わう陣痛です。女性にしか体験できないことだとも言えますが、もう少し広い意味で比喩的にとらえることも可能です。

はっきりしているのは「うめき」も「苦しみ」も否定的な意味であるということです。自分の側から買って出るのは自虐です。なるべく避けたいのがうめきや苦しみです。パウロが記している「うめき」という言葉にも否定的な意味の「ためいき」や「嘆き」というニュアンスが含まれます。

しかし、どのような意味やニュアンスで理解するにせよ、共通していなくてはならない要素は、その陣痛のうめきや苦しみを経た後に、それまで見たことも触ったこともなかった新しい存在が生まれ、そこから新しい何かが始まるという希望につながるので、その希望ゆえに苦しみに耐えられるということです。目標が大きいほど苦しみは大きいのですが、その苦しみを経て産まれる存在への期待ゆえに苦しみに堪えることができるということです。

新しい存在とは何かといえば、パウロの確信によれば、真の救い主イエス・キリストの贖いのみわざを通して生み出された「わたしたち」すなわちキリスト教会の存在です。加えて、イエス・キリストが再び来られる終末的完成をめざして歩む新しい信仰告白が与えられた世界の存在です。

その新しい存在の誕生を、希望をもって待ち望んでいる存在が今日の箇所に3つ示されています。第1が「被造物」(19節)。第2は「“霊”の初穂をいただいているわたしたち」(23節)。キリスト者のことだと言ってよいでしょう。そして第3は「“霊”」(26節)です。

「“霊”」(26節)については「待ち望んでいる」ではなく「助けてくださる」と記されていますが、意味は同じです。そして新共同訳聖書で二重引用符が付いている「“霊”」は「聖霊」です。聖霊なる神です。

被造物とキリスト者と聖霊なる神が、陣痛とうめき声をあげて何を待ち望んでいるのかは、先ほど言いました。キリスト教会の存在であり、かつ終末的完成を目指す世界の存在です。しかし、いずれにせよ、それらは将来に属することを少なくとも含みます。それは、今ここにいるわたしたちも見ることができない将来の教会と世界です。そのためにわたしたちは苦労しているのです。教会も、幼稚園も、キリスト教主義学校も、何十年後、何百年後の教会と世界の将来を待ち望みながら働くのです。

これも私の愛用註解書(著者レカーカーカー)のことですが、8章26節「私たちはどう祈るべきかを知らない」の解説にルターの言葉が引用されていました。愉快な内容でしたので紹介します。わたしたちの祈りが必ずしも聞かれず、願い通りにならないことの理由をルターが述べている言葉です。

「ルターが次のように述べています。『私たちが祈っているとき、明らかに反対のことが起こるのは最良のしるしです。それは私たちが祈った後、すべて計画通りに進むのが良い兆候ではないのと同様です。まるで神は私たちのすべての考えに反対し、私たちが祈る前よりも後のほうが、さらに私たちに対して怒っておられるように感じます。神は私たちに贈り物を与える前に、まず私たちの内にあるものをお壊しになる性分をお持ちなのです』」(Vgl. A. F. N. Lekkerkerker, Romeinen 1, 1962, p.350)

神の怒りを買いながら、神の御心がどこにあるかを探り求めながら祈ることの大切さを、ルターが教えてくれています。“自分の願い通りにならないことのほうが良い”ことだってあるのです。

(2023年11月19日 聖日礼拝)


2023年11月11日土曜日

新しき生(2023年11月12日)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13)






肉に従って生きるなら、あなたがたは死にます。しかし、霊によって体の仕業を断つならば、あなたがたは生きます。

2023年11月5日日曜日

葛藤と隘路からの救い(2023年11月5日 昭島教会創立71周年記念礼拝)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13)

讃美歌21 510番 主よ終わりまで

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 「葛藤と隘路からの救い」

ローマの信徒への手紙7章7~25節

関口 康

「わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします。このように、わたし自身は心では神の律法に仕えていますが、肉では罪の法則に仕えているのです。」

今日の礼拝は昭島教会創立71周年記念礼拝です。長い間、献身的に教会を支えて来られた皆さまに心からお祝い申し上げます。

この喜ばしい記念礼拝の日にふさわしい宣教の言葉を述べるのは重い宿題です。私がその任を担うことがふさわしいと思えません。2018年4月から鈴木正三先生の後の副牧師になりました。そして2020年4月から石川献之助先生の後の主任牧師になるように言われました。2020年4月は、日本政府から「緊急事態宣言」が出され、当教会も同年4月から2か月間、各自自宅礼拝としました。また、教会学校と木曜日の聖書に学び祈る会は3か月休会しました。そのときから3年半しか経っていません。

3年間、教会から以前のような交わりが失われました。なんとかしなくてはと、苦肉の策でインターネットを利用することを役員会で決めて実行したら「インターネットに特化した牧師」という異名をいただきました。申し訳ないほど「私」の話が多くなってしまうのは、3年間、家庭訪問すらできず、皆さんに近づくことがきわめて困難で、皆さんのことがいまだにほとんど分からないままだからです。

日本語版がみすず書房から1991年に出版されたアメリカの宗教社会学者ロバート・ベラ―(1927~2013年)の『心の習慣 アメリカ個人主義のゆくえ』で著者ベラーが《記憶の共同体》という言葉を用いたのを受けて、日本のキリスト教界でも特に2000年代にこの言葉を用いて盛んに議論されていたことを思い起こします。この言葉の用い方としては、個人主義、とりわけミーイズム(自己中心主義)に抵抗する仕方で「教会は《記憶の共同体》であるべきだ」というわけです。

なぜ今その話をするのかといえば、昭島教会の現在の主任牧師は、残念なことに《記憶の共同体》としての昭島教会の皆さんとの交わりの記憶を共有していないし、共有することがきわめて困難な状況が続いていると申し上げたいからです。この状態が長く続くことは決して良いことではないと、本人が自覚しています。不健全な状況を早く終わらせる必要があると考え、そのために努力しています。

教会はルールブックで運営されるものではありません。ルール無用の無法地帯ではありませんが、それ以上に大切なのは、教会の皆さんが共有しておられる「記憶」です。「記憶」が大切だからこそ、今日のこの礼拝が「昭島教会創立71周年記念礼拝」であることの意味があります。

今日開いた聖書の箇所は、ローマの信徒への手紙7章7節から25節です。理解するのが難しい箇所だと多くの方がおっしゃいます。私もそのことに同意します。しかし、この箇所を読むときの大前提が、読む人によって違っている場合が多くあります。特に重要な問題点を2つ挙げます。

第1に、この箇所に繰り返し出てくる「わたし」は誰のことかという問題です。7章だけで「わたし」が45回出てきます。シンプルに考えれば、この手紙は使徒パウロが書いたので、その中に「わたし」と単数形で書かれている以上、パウロ自身のことを指しているに違いないと言えなくはありません。しかし、そうなると、わたしたちがこの箇所を読む場合、これはあくまで《パウロの自叙伝》であるととらえて読む必要があることになります。伝統的にはそう読まれてきました。たとえば、オリゲネス、アウグスティヌス、ルター、カルヴァンがそう読みました。しかし、それで本当に正しいでしょうか。

第2は、いま申し上げた第一の問題と深い関係にあります。それは、この箇所で「わたし」は明らかに自分の心の中に潜む罪の問題で葛藤していますが、この葛藤はイエス・キリストを信じて救われる《以前の「わたし」》つまり《過去の「わたし」》の心の状態を描いたものであり、イエス・キリストを信じて救われた後はこの葛藤から全く解放され、罪の問題について悩むことも苦しむことも無くなる、という理解があるが、その読み方で正しいかという問題です。

第一の問題と第二の問題の関係性を言うなら、パウロが自叙伝として「わたし」が過去に属していたユダヤ教ファリサイ派からイエス・キリストを信じて救われたときに彼の中に内在していた罪の問題が解決し、葛藤が無くなったことを述べることがこの箇所に記されていることの趣旨であるということになるとしたら、先ほど挙げた2つの問題の読み方のどちらも正しいということになります。

しかし、結論だけ言いますと、今日的には、どちらの読み方も支持できません。それは聖書の解釈上の問題でもありますが、わたしたち自身に当てはめて考えてみれば理解できることだと思われます。

「律法は罪だろうか。決してそうではない。しかし、律法によらなければわたしは罪を知らなかったでしょう」(7節)とパウロが記していることの趣旨は、先ほど「教会はルールブックで運営されるものではないが、ルール無用の無法地帯でもない」と申し上げたことと関係します。「律法」は「法律」の字並びを逆さまにしただけで、英語では同じLaw(ロー)です。法律の存在そのものが罪であることはありません。しかし、律法にせよ法律にせよ、「法」の役割は私たち人間に、そのルールに従うことができない自分の罪や弱さや欠けを否応なしに自覚させることにあることは、わたしたちの体験上の事実でしょう。「法」の存在がわたしたち人間にとって究極的な意味の「救い」をもたらすことはなく、むしろ、ダメな自分をさらされ、それを直視することを求められるだけです。

しかも、法律の順序を逆さまにして「律法」という場合、その意味することは「神の言葉」であり、なおかつ「神を信じる者たちが従うべき教え」なので、個人的なものではなく、共同体が共有するときこそ意味を持ちます。「律法」は個人のルールブックではなく教会のルールブックだということです。そもそも誰ともかかわりを持たない完全な個人は存在しませんが、自室でひとりでいるときにルールは不要かもしれません。他の誰かとかかわりを持つときに初めてルールが必要になります。

しかし、それが先ほど第二の問題として挙げた、今日の箇所の「わたし」の葛藤はイエス・キリストを信じて救われるよりも前の、過去の「わたし」であると、もしわたしたちが読んでしまうと、共同体としてのキリスト教会は、ルール無用の無法地帯であるかのようになってしまいます。キリスト教会は律法主義には反対しますが、律法そのものを除外することはありませんし、あってはなりません。

そして、もうひとつ、今日の箇所の葛藤する「わたし」、なかでも特に「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこのからだから、だれがわたしを救ってくれるでしょうか」(24節)という悲痛な叫びは、あくまでも未信者だった頃の、あるいは他の教えに従っていた頃の過去のわたしであって、今は違うということになるとしたら、キリスト者にはこの葛藤は無いのかと問われたときにどのように答えるかの問題になります。キリスト者は「惨めな人間」ではなくなるのでしょうか。それはわたしたち自身がよく知っていることだと思います。

今日の宣教題を「葛藤と隘路からの救い」としましたが、救いはイエス・キリストへの信仰によってすべて成就され、今はもはや悩みも苦しみも無いと申し上げるためではありません。隘路(あいろ)は「狭くて通るのが難しい道」のことです。今のわたしたち自身が、昭島教会が「葛藤と隘路」の只中にいると申し上げたいのです。その中からの「救い」のために必要なのは、コロナ禍の3年間で失われた教会の交わりの回復と、《記憶の共同体》としての教会が再興されることだと、私は信じます。

教会の交わりの回復の第一歩として今日はこれから聖餐式を行います。今後の課題として、愛餐会、シメオン・ドルカス会、読書会や勉強会を取り戻すことを役員会で検討しています。

(2023年11月5日 昭島教会創立71周年記念礼拝)

2023年10月29日日曜日

永遠のいのち(2023年10月29日 永眠者記念礼拝)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13)

讃美歌21 434番 主よ、みもとに





「永遠のいのち」

ヨハネによる福音書3章1~21節

関口 康

イエスは答えて言われた。「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることができない。」

今日の礼拝は永眠者記念礼拝です。「永眠者」というのは日本キリスト教団の教会暦の表現ですが、難しい問題を含んでいます。人の死を「眠りにつく」と表現する聖書箇所はあります。たとえば、使徒パウロのコリントの信徒への手紙一15章20節には「しかし、実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました」と記されています。

しかし、続く15章31節には「わたしたちは皆、眠りにつくわけではありません。わたしたちは皆、今とは異なる状態に変えられます」と記されていて、亡くなった方は永遠に眠るのではなく、眠りから覚めて復活すると教えていますので、「永眠者」という表現でよいかどうかを熟考する必要が生じます。しかし、「永眠」を「永遠に眠る」ではなく「永く眠る」という意味でとらえれば、目を覚ますときが必ず訪れることを含みますので、大きな矛盾は無くなります。

「召天」という表現については、使うべきかどうか、先日ある方から相談を受けました。この表現にも問題があります。私の知るかぎり30年以上前から議論があります。「天に召された者」という意味で用いられますが、漢文の知識がある人によると「召天」は「天を召す」としか読めない、というのが「召天」という表現を使うべきでないとする理由のひとつです。聖書で「天」は「神」の言い換え表現で用いることが多いので、「神を呼びつける者」という意味になってしまうというわけです。

しかし、主にプロテスタント教会が用いてきた「永眠」や「召天」、またカトリック教会では「帰天」という言葉が用いられますが、いずれにせよ意図していることは、人間の死を「一巻の終わり」であるとキリスト教会は考えていないことの意思表明です。わたしたちは、先に召された信仰の先達たちが、神から「永遠の命」を授かり、まさに生きておられることを信じています。そして、あとに続くわたしたちも同じ道を歩んでいると確信しています。

いま私はキリスト教主義学校で聖書科の非常勤講師をしている関係で、週2日の授業の他に月1回、全校生徒1200名が出席する学校礼拝で話す立場にいます。9月の学校礼拝では「永遠の命」について話しました。今はコロナ対策で、学校礼拝で説教者に与えられた時間は3分です。1200人の中高生に3分で「永遠の命」の話をしました。ひとりの生徒が「今日の話よかったです」とほめてくれました。

話した内容まで言わないと消化不良ですが、今日の聖書箇所に触れてからにします。共通する要素があるからです。今日の箇所に登場するのはイエス・キリストと、ニコデモという人です。「ユダヤ人たちの議員であった」(1節)とは、70人の議員と議長・副議長各1名で構成されたユダヤの最高法院(サンヘドリン)の議員であったということです。ニコデモが裕福で、多くの人から尊敬され、地位も名誉もあった人であることは確実です。

そのニコデモが「ある夜」(2節)イエスさまを訪ねて来たというのは、人目につかぬように、夜の暗闇に隠れて来たということです。地上の富に恵まれ、地位や名誉がある人は、かえって逆に、本当の自分をすべての人の前で隠して生きて行かねばならず、寂しさや孤独を感じ、心に飢え渇きを覚えている可能性があります。そのような〝裕福で孤独な人〟の代表として、ニコデモが登場します。

そのニコデモにイエスさまが「神の国に入る」とはどういうことか(3節以下)、また「永遠の命を得る」とはどういうことか(16節以下)をお教えになるのが、今日の箇所の流れです。聖書で「天」は「神」の言い換え表現として用いられると先ほど言いました。ここでも同じことが言えます。「天国」と「神の国」は同義語です。そして「永遠の命を得ること」とも同義語です。「永遠の命」は「天国で生きていること」以外の何を意味するでしょうか。ですから、イエスさまのみことばの要点は次の3点ですが、どれも同じ意味であると考えることが可能です。

「人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることができない」(3節)。

「だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることができない」(5節)。

「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」(16節)。

「新たに生まれる」の意味が、母の胎内に戻って生まれ直すことではないということは、ニコデモとイエスさまの対話から分かります(4節以下)。「新たに生まれる」とは「水と霊によって生まれること」(5節)であると言われます。その意味は、キリスト教会の伝統においては「洗礼を受けること」です。しかし、そのように教会が説明しますと大きな反発が返ってきます。「要するに『洗礼を受けていない人は天国に行けない』という意味か。それはキリスト教の独善ではないか」と。

先ほど途中までお話ししたことの続きをお話しします。私が学校礼拝で「永遠の命」について3分で話したことの内容です。それは2009年から2010年にかけてアメリカで制作された「人類滅亡 Life after people」という映像作品の話でした。それは、もし突然全世界から全人類が消滅したら、その後世界はどうなっていくかを検証する科学的ドキュメンタリー作品でした。

それによると、現在はピラミッドから博物館へと保管場所が移動している古代エジプト王のミイラも、マイナス196度に保たれた液体窒素で氷漬けにされている人の体も、冷凍保存されている何十万個もの人間の受精卵も、保管施設を管理する人がいなくなれば結局いつかは腐敗して消えてしまう、つまり「永遠の命」を得ることにならないというのです。結局は人の助けが必要で、自分の体やDNAの保存をしてくれる人たちが死のうが生きようが、ミイラや氷漬けの人は知る由もないというわけです。

それで、私は全校生徒に問いかけました。「みなさんは『永遠の命』が欲しいですか。他の人のことなどどうでもいい、自分だけ生き残りたいと願うよりも、目の前にいる人、大切な人、困っている人を助けるほうが先ではないですかと、イエスさまが教えておられるのではないですか」と。

その「人類滅亡 Life after people」という作品で紹介される冷凍人間やクローン技術とその限界の問題は、今日の箇所のニコデモの質問に通じるところがあります。「母の胎から生まれ直す」ことは、生物学的な「延命」以上ではなく、「永遠の命」ではありえないからです。「延命」というのは、結局のところ裕福な人だけにしか実現できないので、ニコデモの願いの中に含まれていた可能性があります。イエスさまはニコデモの心を見抜いて、先回りして言われたのです。

「水と霊とによって生まれること」すなわち「洗礼を受ける」とは、教会の仲間に加わることを意味します。ここは教会なので、そう言わせてください。しかし、「教会」とは「イエス・キリストの体」であり、神が独り子イエス・キリストの命をお与えになったほどに愛された「世」の「一人も滅びない」道を開くために、御子を信じる信仰をもって生きる者たちの場を神が作り出してくださったものです。

教会には「目の前にいる人、大切な人、困っている人」がいます。お互いを大切にする訓練を教会で受けることができます。〝孤独で寂しい〟と感じておられる方は、ぜひ教会の仲間、助け合いの仲間に加わってください。教会でこそ、真の意味の「永遠の命」を得ることができます。

(2023年10月29日 永眠者記念礼拝)

2023年10月15日日曜日

信徒の成長(2023年10月15日 信徒伝道週間)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13)


讃美歌21 504番 主よ、み手もて

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「信徒の成長」

フィリピの信徒への手紙1章1~11節

関口 康

「そして、キリストの日に備えて、清い者、とがめられるところのない者となり、イエス・キリストによって与えられる義の実をあふれるほどに受けて、神の栄光と誉れとをたたえることができるように。」

今日は日本キリスト教団の定める「信徒伝道週間」の初日にあたり、お2人の教会員の証しを伺いました。ご準備くださったお2人に心から感謝申し上げます。

今日の聖書箇所はフィリピの信徒への手紙1章1節から11節までです。この手紙は使徒パウロが書いたものです。今日の箇所に記されているのは、パウロがフィリピの信徒のためにささげた祈りの言葉(9~11節)と、その祈りをささげた理由(3~8節)です。

パウロはフィリピの教会のみんなのことを思い出すたびに、神に感謝し、喜びをもって祈っていると言います(3~4節)。なぜなら、あなたがたが最初の日から今日まで福音にあずかっているからだと言います(5節)。

「最初の日」(5節)の意味は、パウロとフィリピ教会が最初に出会った日を指していません。その意味で受け取ると、私パウロと出会ったことで初めてあなたがたがイエス・キリストの福音を受け入れることができた、その日から今日に至るまで、ということにならざるをえませんので、まるでパウロの伝道者としての個人的な力量について書いているかのように読めてしまいます。

「福音」は宣べ伝えられた途端に伝道者の手を離れます。また、手を離さなければなりません。伝道者は「福音」そのものが持つ力を信頼し、「自分が宣べ伝えた、自分が教えた」という思いを捨て、教会の信徒を自分の支配から解放しなければなりません。

「あなたがたの中で善い業を始められた方が、キリスト・イエスの日までに、その業を成し遂げてくださると、わたしは確信しています」(6節)の「その方」は、神です。福音宣教の主体は、神です。神はご自身が始めたことを最後まで成し遂げてくださり、完成してくださる方であるとパウロは言っています。パウロが始めたことをパウロが完成するわけではありません。

12節の「福音の前進」も、私パウロが福音を前進させた、という意味ではないし、あなたがたフィリピ教会に連なるみんなが福音を前進させた、という意味でもありません。福音それ自体が、自らの力で前進した、という意味です。福音そのものに躍動的な意志がある、ということです。

いま申し上げていることは、私が声を大にして言わなくても、比較的長いあいだ、教会生活、信仰生活を続けて来られた方々はよくご存じです。自分自身のことを振り返っても、家族や友人、教会の中で出会った方々のことを思い返しても、たとえば、教会が立てた伝道目標として、毎年何人を教会に招き、受洗者を何人生むかを決めて、その通りになったことがあったでしょうか。仮にあったとして、教会が計画通りに右肩上がりに教勢を拡大し、財政的にも潤い、社会的にも大きな影響を及ぼすようになっていく、というようなことが、どれほど続いたでしょうか。

もし続いていないのであれば、それはわたしたち人間の失敗でしょうか。「偉大でない」伝道者の力量不足が教会衰退の原因でしょうか。そのようなことを教会の中で言い争うこと自体が教会衰退の原因かもしれないと、手を胸に当てて考えてみることには、意味があるかもしれません。

パウロの祈りは9節以下です。注目すべき言葉は「あなたがたが清い者、とがめられるところのない者になるように」(9節)です。「清い者」と「とがめられるところのない者」はニュアンスが違います。前者は内面の状態を指し、後者は目に見える外面の状態を指します。「ひたむきに神を求めること」と「非の打ちどころのない生活を送ること」です。それが「知る力と見抜く力を身に着けて、愛がますます豊かになった」(9節)状態を指していることは明らかです。

これで分かることは、パウロは、イエス・キリストの福音は、信じて歩む人間の性質に内面的にも外面的にも変化をもたらすと信じているということです。信徒は福音と出会った最初の状態のままにとどまりません。人間としての性質が善きものへと変化し、成長します。それがパウロの信仰であり、代々の教会の教えです。「聖化」(sanctification)と言います。

このように言うと、教会の内からも外からも非難の声があがります。教会の外からは「それはキリスト者の傲慢である」とか「教会に通っている人より通っていない人のほうがはるかに誠実で高潔な生活を送っている」と。

教会の内からは、今日の箇所の「イエス・キリストによって与えられる義の実をあふれるほどに受けて」の意味はあくまで「キリストの義」であって「人間の義」ではない。人間にはキリストの義が転嫁されるに過ぎず、人間はどこまでも罪人であり続ける、と。

教会の外からの非難については、私たち教会の反省材料として甘んじて受けるほかありません。しかし、教会の中の我々は、今日の箇所の「義の実」の意味を過小評価すべきではありません。たとえば、「日本基督教団信仰告白」(1954年制定)の「聖霊は我らを潔めて義の果を結ばしめ、その御業を成就したまふ」は、今日の箇所が典拠です。

「実」(英語のフルーツ)は、キリストの義が人間へと転嫁された「結果」を指します。原因と結果を混同してはいけません。「結果」は、聖霊(「聖霊」は「神」です)によって「与えられる」ものですが、聖霊の働きにおいては、人間の意志と主体性が排除されないことが重要です。

「あふれるほどに受けて」は新共同訳(1987年)ですが、以前の口語訳(1954年)でも、最新の聖書協会共同訳(2018年)でも「満たされて」と訳されています。新共同訳のように「受けて」と訳すほうが人間の主体性を後退させて、神の主体性と恩恵の一方性を強調することができますが、それではパウロの意図に反します。「知る」のも「見抜く」のも、「愛する」のも、「清い者となる」のも「とがめられるところのない者」となるのも、すべて人間が主体だからです。

人間の意志も感情も主体性も奪われて、まるで夢にうなされているかのように「させられる」のではありません。わたしたちの身代わりにイエス・キリストが「知り」「見抜き」「愛し」「清い者となり」「とがめられるところのない者になってくださった」のであって、私たち人間自身には何の変化もないと、パウロは言っていませんし、考えてもいません。

「キリストの義」が転嫁された結果としての「実」(フルーツ)は、人間の側の主体的な行動の変化です。それもまた十分な意味で神の恵みです。人間が自分の努力で自分をつくりかえることはできません。神の導きと助けなしに自分の力で成長したと言い張るなら、傲慢のきわみです。またそれは事実ではありません。しかし、教会に何年、何十年と通っても、何の変化も無かったというのであれば、それはそれで寂しいことだと言わざるをえません。

「決してそうではない」ということを、今日証しをしてくださったお2人が教えてくださったと信じます。「この教会に通って良かった」とわたしたち自身が心から思えるような教会を、神の導きと助けのもとに、共に作り上げていくことを祈ろうではありませんか。

(2023年10月15日 聖日礼拝)

2023年10月8日日曜日

弱さへのいたわり(2023年10月8日)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13)

讃美歌21 197番 ああ、主のひとみ


「弱さへのいたわり」

フィレモンへの手紙 8~22節

関口 康

「オネシモは特にわたしにとってそうですが、あなたにとってはなおさらのこと、一人の人間としても、主を信じる人としても、愛する兄弟であるはずです。」

今日はフィレモンへの手紙を開きました。使徒パウロの手紙です。しかし、他の手紙とは性質が違います。ローマの信徒への手紙、コリントの信徒への手紙といった、教会に宛てて書かれ、多くの人が目にすることを前提して書かれたものではありません。きわめて個人的な性格を持ち、厳格に言えばこの手紙が公開されるのは守秘義務違反ではないかと言いたいほど「デリケートな」内容を含んでいます。しかし、2千年前の「事件」は時効です。そして、この手紙こそ、パウロの「人となり」と「熱い思い」がよく表れているものです。

フィレモンはコロサイにいたと考えられます。コロサイは現在のトルコの町です。「アフィア」(2節)はコロサイから出土した墓碑に名が刻まれているそうですが、フィレモンの妻の名前としてよいだろうと言われています(P. シュトゥールマッハー)。

フィレモンは裕福な人で、広い家を持ち、その家が教会(家の教会)となり、その教会の牧師だったと考えられます。そのフィレモンの家に「オネシモ」という名の奴隷がいました。この点は2千年前の話として我慢して読まざるをえません。奴隷制度をパウロは否定もしていません。

しかし、そのオネシモがフィレモンの家で働いているうちに、そこは「家の教会」でもあったのでイエス・キリストの福音に接するようになり、その影響で、自分はもっと自由であるべきだと考え始めたようです。しかも、当時多くのキリスト者から尊敬されていたパウロがコロサイにいるという情報をオネシモが手に入れ、パウロのもとに行きたいという願いを持ちました。

それでオネシモは、主人のフィレモンに黙って家から逃亡したようです。しかし、奴隷である以上、奴隷を購入した主人から逃げること自体が主人の損失ですし、それだけでなく、オネシモはフィレモンの家から逃亡する際に金品の持ち逃げのようなことをしたようです。盗みを働いた、ということです。

いま私は「ようです」とか「考えられます」という言葉を繰り返していますが、私の想像ではなく、この手紙の研究者が書いていることをまとめています。ただし、想像の域は越えません。

この手紙は「デリケート」な問題を扱っていると、先ほど申し上げました。パウロは牧師です。フィレモンも牧師です。つまり、この手紙は牧師同士のやりとりです。教会の中で口にできないトップシークレットの手紙です。しかし、この手紙を読むと分かることは、たとえ極秘の手紙の中であっても、パウロはオネシモがしたことについての描写においてかなり言葉を選んでいるということです。わたしたちとしては言葉の端々に基づいて当時の状況を想像するしかありません。

しかし、それこそパウロの「人となり」だったと言えます。オネシモ本人がいないところでは犯行内容を克明に暴露し、口汚く罵るような使い分けをしていません。ただし、ひとつの可能性として、この手紙をオネシモは読んだかもしれません。そう言える理由を後で言います。

話を戻します。オネシモがフィレモンの家から逃げてパウロのところに来たことで、パウロが喜んだかというと、必ずしもそうでなかったというのがオネシモの誤算でした。2点あります。

ひとつは、オネシモとしては自分が奴隷であることを憎み、自由を求めてフィレモンの家から逃亡してパウロのもとに行ったつもりだったのに、そのパウロ自身が捕らわれの身であることが分かったという点です。当時の囚人は、今ほど世間から隔絶された閉鎖状態に置かれていませんでしたが、パウロがオネシモにできることは、ほとんど何もありませんでした。

もうひとつが、パウロとしては、オネシモがフィレモンの家の奴隷であることを続けるほうがオネシモにとって善いことなので、元いたところに帰るべきだと考えたようです。パウロがなぜそのように考えたのかははっきりとは記されていませんが、奴隷であることには嫌な面やつらい面があるとしても、フィレモンの家は「教会」なので、教会の中でのキリスト者としての奉仕において、神の前での自由と平等を味わうことができる、と言いたかったのではないでしょうか。

「もはや奴隷としてではなく、奴隷以上の者、つまり愛する兄弟としてです。オネシモは特にわたしにとってそうですが、あなたにとってはなおさらのこと、一人の人間としても、主を信じる者としても、愛する兄弟であるはずです」(16節)とパウロがフィレモンに迫っています。

別の言い方をすれば、オネシモとパウロの出会いは、全く無駄だったわけではなかったということです。無駄どころか素晴らしい出会いとなりました。「監禁中にもうけたわたしの子オネシモ」(10節)とあるのは、信仰上の親子関係の意味であって、血縁関係ではありません。オネシモはパウロのもとでイエス・キリストへの信仰を告白してキリスト者になりました。それがオネシモとしても、パウロとしても、2人の出会いの最大の収穫でした。

それで、パウロはこの手紙をフィレモンに書き送った次第です。この手紙の主旨は、あなたの家から逃げたオネシモを赦してもう一度受け入れてほしいと説得することです。ひとつの可能性は、この手紙はオネシモがフィレモンの家に到着したときに添えられていたもので、フィレモンとオネシモがいる前で読まれたものではないかということです。「あとで申します」と言った点はこれです。この手紙にオネシモの犯行内容が詳細に暴露されていないのは、オネシモ自身が読む可能性があったからかもしれません。パウロはオネシモを傷つけたくないのです。

興味深い解説を読みましたのでご紹介いたします。「彼は、以前はあなたにとって役に立たない者でしたが、今は、あなたにもわたしにも役立つ者となっています」(11節)で「役に立たない(無用な)」(アクレストス)と「役立つ(有用な)」(エウクレストス)が語呂合わせで、要するにダジャレであるというのです。しかも、オネシモという名前が「役立つ者」という意味だそうで、そのオネシモ(役立つ者)が「役立たない者」だったのに「役立つ者」になったというのはパウロが場を和ませるためのジョークを言っている、というのです。

そしてパウロは、オネシモがフィレモンの家から逃げたことで発生した損害ばかりか、盗みを働いた分まで、すべてわたしが肩代わりして弁償しますと言い出します(18~19節)。パウロは「年老いて」いる(老人である)(9節)と自分で書いています。若い人や困っている人を信仰的に励ますだけでなく、物質的・金銭的に支援することは年長者の役目であると考えているようでもあります。今日の宣教題「弱さへのいたわり」に直接つながるのは、この部分です。

しかもパウロは、フィレモンが若い人だったようで、少しばかり威嚇する言い方を混ぜているのも興味深い点です。「あなたがあなた自身を、わたしに負うていることは、よいとしましょう」(19節)の意味は、わたしこそあなたをキリスト教信仰へと導いた恩師なのだから、言うことを聞きなさい、ということです。これもユーモアです。信頼関係があるからこそ言えることです。

しかめ面ではなく、笑顔と安心を保てることが教会の良さだとしたら、ユーモアは大事です。

(2023年10月8日 聖日礼拝)

2023年10月1日日曜日

豊かさと貧しさ(2023年10月1日)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13)

讃美歌21 518番 主にありてぞ



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「豊かさと貧しさ」

ルカによる福音書16章19~31節

関口 康

「やがて、この貧しい人は死んで、天使たちによって宴席にいるアブラハムのすぐそばに連れて行かれた。」

今日の聖書箇所に記されているのは、イエスさまのたとえ話です。登場する人物は3人です。

ひとりは「ある金持ち」です。名前は明かされません。西暦3世紀のエジプトの写本では名前が付けられていますが、後代の加筆です。名前がないことに意味があると考えるほうがよいです。名前があるとこの人物の言動が他人事になるからです。イエスさまの意図はむしろ、この金持ちは自分のことだと、自分に当てはめて受け取るように、聴衆(読者)に求めることにあります。

2人目には「ラザロ」という名があります。多くの方はヨハネによる福音書11章に登場するマルタとマリアの弟のラザロを思い出されるでしょう。しかし、今日の箇所のラザロは架空の人物です。とはいえ、大事な点があります。イエスさまのたとえ話の中で名前がある登場人物は、今日の箇所のラザロだけです。また、ラザロという名前は、ヘブライ語で「神が助ける」という意味の「エルアザール」をラテン語化したものです。この名前に大きな意味があると考えることができます。

3人目はアブラハムです。ユダヤ人の先祖です。しかし、アブラハムは血縁としてのユダヤ民族の父であるだけでなく、使徒パウロがローマの信徒への手紙4章で詳しく論じているとおり、キリスト者にとっての信仰の父でもあります。ただし、今日の箇所でアブラハムはやはりイエスさまのたとえ話の中に登場しているにすぎません。しかも、登場場面は死後の世界です。

「ある金持ち」は「いつも紫の衣や柔らかい麻布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた」(19節)とあります。「紫の布」は上着で、「麻布」は下着。上下とも高価な衣服を身に着けていた、という意味です。「ぜいたくに遊び暮らす」は毎日宴会を開いていた、という意味です。

金持ちの門前に「ラザロ」が横たわっていました。「できものだらけ」と訳されているのは医学用語で「ただれ」という意味です。ラザロが金持ちの門前にいた理由は「その食卓から落ちる物で腹を満たしたいものだと思っていた」(21節)からです。ただし、書いてある通りに理解すべきなのは、ラザロはその家の食卓から落ちる物で腹を満たしたいと「思っていた」だけで、実際には、食卓から落ちる物すらもラザロの口に入るものはなかった、ということです。

しかも、当時の金持ちは、自分の(汚れた)手を拭くためにパンの切れ端を使い、使用後は食卓の下に投げ落としていたそうですので、「食卓から落ちる物」の中にそれが含まれている、と考えることができます(J. エレミアス)。「犬もやって来ては、そのできものをなめた」(21節)とあるのは、当時のユダヤ人にとって「犬」が不浄な動物と考えられていたことと関係あります。

ラザロの苦痛は肉体的にも精神的にも激しかったに違いありません。しかし、彼の口からの苦情については何も言及されていません。金持ちは自分の家の門前に横たわっている人がいることを知っていましたし、その名が「ラザロ」であることも知っていましたが、何も与えず、何もしませんでした。

そして、2人の人生が終わりました。ラザロは「神が助ける」という名前にふさわしく「天使たちによって宴席にいるアブラハムのすぐそばに連れて行かれ」ました(22節)。天国です。「アブラハムのすぐそば」(アブラハムの胸)はユダヤ人にとって最高の名誉ある場所です。そこは涼しいそうです。

「金持ちも死んで葬られ」ました(22節)。ラザロは「葬られた」と記されていませんので、葬儀はなかったかもしれません。金持ちのほうは葬儀が行われましたが、行き先は「陰府(よみ)」(ハデス)でした。いわゆる死後の世界です。ただし、このたとえ話において「陰府」は中間状態を指しています。最後の審判の判決が下る前の「未決」(pending)の状態の人々が置かれる場所です。

陰府の金持ちから、アブラハムのすぐそばのラザロの姿が見えたそうです。ただし、「はるかかなたに」(23節)とあるとおり、距離が遠い。それで「大声で」、金持ちがアブラハムに「父アブラハムよ、わたしを憐れんでください。ラザロをよこして、指先を水に浸し、わたしの舌を冷やさせてください。わたしはこの炎の中でもだえ苦しんでいます」と(24節)と言う。

丁寧な言い方をしているようですが、ラザロに対してはもちろんアブラハムに対しても事実上命令しています。金持ちの習性かもしれません。彼が「ラザロ」の名前を知っているのは、ある意味で驚きです。ラザロが自分の家の前にいたのだから名前を知っていて当然かもしれませんが、生前のラザロに対して何もせず、見て見ぬふりしていました。自分が陰府の業火で苦しんでいるときだけ、ラザロの名前を呼び、しかも、自分に仕えさせようとする。そうするようにラザロに言ってほしいとアブラハムに依願するような言い方で、アブラハムに対しても事実上命令する。

この傲慢な金持ちに対するアブラハムの対応はとても冷静で公平でした。天において報いを受けるのはラザロであってあなたではないということを、この金持ちに明確に示しました。そもそもの前提として、この人が金持ちだったのは地上の人生においてだけで、死後は無一文です。死んだ後まで貧富の差は無いし、財産争いもありません。そういうのはすべて地上の事柄です。

金持ちとアブラハムの対話の中で特に大事な点は、金持ちが、自分が陰府(ハデス)の火で焼かれても仕方ないほどひどい仕打ちをラザロにしたことを認め、自分の救いは断念したうえで、まだ生きている5人の兄弟たちには「こんな苦しい場所に来ることのないように、よく言い聞かせてください」(28節)とアブラハムにお願いしたとき、アブラハムが「お前の兄弟たちにはモーセと預言者がいる。彼らに耳を傾けるがよい」(29節)と答えているところです。

「モーセと預言者」とは、わたしたちの呼び方では「旧約聖書」のことです。「モーセ五書」と呼ばれる創世記から申命記までが、ユダヤ教の聖書の第1部「律法」(トーラー)です。そしてユダヤ教の聖書の第2部が「預言者」(ネビイーム)、第3部が「諸書」(ケトゥビーム)です。ここで「モーセと預言者」はトーラーとネビイームを指しています。

「彼らに耳を傾けるがよい」(29節)とアブラハムが答えたと、イエスさまがおっしゃっている、という点を忘れないようにしましょう。これはイエスさま御自身の教えです。わたしたちは律法主義を避ける勢いで、律法を否定する危険があります。自分は贅沢三昧で、貧しい人を見下げ、愚弄し、無視するような人生を送らないために旧約聖書の律法が役に立つことをイエスさまが教えておられます。

イエスさまはマタイ福音書の「山上の説教」では「心の貧しい人々は、幸いである」(マタイ5章3節)とおっしゃっていますが、ルカ福音書の「地上の説教」では「貧しい人々は、幸いである」(ルカ6章20節)とおっしゃっています。後者は明らかに物質的な貧困を指しています。「貧しさ」自体は「悪いもの」と今日の箇所(ルカ16章25節)で呼ばれています。しかし貧しい人を「神が助ける」(エルアザール=ラザロ)と信じることができるのが、わたしたちの信仰です。

助けを求めている人を助けなかった人々が、自分の救いと報いを求めるのは、虫が良い話です。豊かな人々のためにもイエスさまは死んでくださいました。しかし、それを免罪符にして贅沢三昧を続け、貧しい人を見下げ、愚弄し、無視するのがキリスト教なのかと自問することが求められています。

(2023年10月1日 聖日礼拝)

2023年9月17日日曜日

愛はすべてを完成させるきずな(2023年9月17日)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13)

讃美歌21 520番 真実に清く生きたい

礼拝開始チャイム

「愛はすべてを完成させるきずな」

コロサイの信徒への手紙3章12~17節

関口 康

「これらすべてに加えて、愛を身に着けなさい。愛は、すべてを完成させるきずなです」

コロサイの信徒への手紙3章12節から17節を開いていただきました。最初に申し上げたいことは、今日の箇所に限らず、コロサイの信徒への手紙の全体に書かれていることはすべて「教会」に関することであり、しかも具体的な現実としての「キリスト者同士の交わりとしての教会」のあり方に関することである、ということです。

16節以下に「キリストの言葉があなたがたの内に豊かに宿るようにしなさい。知恵を尽くして互いに教え、諭し合い、詩編と賛歌と霊的な歌により、感謝して心から神をほめたたえなさい」と記されています。「キリストの言葉」とは聖書に基づく説教を指していると言いたいところですが、この手紙が書かれた当時は「新約聖書」は存在せず、あったのは「旧約聖書」だけでした。

しかし、イエス・キリストが多くの人々の前で、または12人の使徒たちの前でお語りになった言葉は口づてに、または文書として教会に伝えられていました。それがなければ、その後の教会が「新約聖書」をまとめることはできませんでした。教会は「新約聖書」の成立以前からイエス・キリストの言葉を知っていました。

その言葉が「あなたがたの内に豊かに宿るようにしなさい」と勧められているのは聖書の知識を増やすべきだということではなく、イエス・キリストにおいて現わされた神の御心があたかも自分自身の心になったかのように自分のからだと心に浸透させ、現実生活を御言葉通りに生きてみる、という意味です。

また、「知恵を尽くして互いに教え、諭し合い」とあるのは教会の具体的な交わりそのものです。「互いに教え」の「互いに」や、「諭し合い」の「合い」が大切です。一方通行ではなく相互関係です。教会はミーティングであり、コミュニケーションが交わされます。それが大事です。

過去3年、コロナ禍で教会の最も大事な要素であるミーティングとコミュニケーションが破壊された感がありました。全世界の教会が同じ状況でした。インターネットのやりとりでも十分に代用できると私個人は考えたことがありませんし、考えることができません。全く別物です。

そして「詩編と賛歌と霊的な歌によって神をほめたたえる」のが教会です。讃美歌を歌うことは教会の存在にかかわります。祈りを込めて共に歌う人々の具体的な交わりこそ教会の存在そのものであるという理解は、西暦1世紀から今日まで、なんと2千年以上も引き継がれています。

16節と17節についての説明を先にしました。12節以下に記されているのは、教会の中の具体的な人間関係のあり方についてです。「あなたがたは神に選ばれ、聖なる者とされ、愛されているのですから、憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい」と記されています。

これを読むと心配になる方がおられるとしたら、ご心配には及びませんと申し上げたいです。「身に着けなさい」と言われている「憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容」はすべて、イエス・キリストが持っておられます。「あなたがたは神に選ばれ、聖なるものとされ、愛されている」は、直前の11節の「キリストがすべてであり、すべてのもののうちにおられるのです」と結びつけて考えるべきです。

その意味は、キリストはすでにわたしたちの中におられるので、わたしたちがこれから無理をしてでも努力して得ようとする以前から、キリストの恵みはわたしたちの中へと注がれ、宿っているのであって、「身に着けなさい」と確かに言われているが、実際にはすでに身に着いているし、少なくとも身に着きはじめているので、「私には憐れみの心も慈愛も謙遜も柔和も寛容もないし、得ようと努力する忍耐もない」と嘆いたり卑下したりする必要は全くない、ということです。

この箇所で私にとって特に興味深く考えさせられたのは「憐れみの心」と訳されている言葉の意味です。カール・バルト(Karl Barth [1886-1968])が興味深い解説をしていました。

バルトによると、「神の愛と神の恵みは数学的で機械的な関係ではなく、神の心の動きの中にその本来な場所と起源を持っている」のであり、「人格的な神は心を持っておられ、神は感情を持っておられ、心を動かされる」のであり、「他のものに対して、同情し、他のものの苦しみを助け、みずから身代わりとなるべく心を開き、用意し、進んでそのように心がけておられる」のであり、それが「神の憐れみ」の意味であるということです。

しかも、「憐れみの心」というギリシア語の言葉のヘブライ語の原意は「はらわた(内臓)」であるということを、バルトも書いています。聖書の神は、機械仕掛けの神(Deus ex machina)ではなく人格的(パーソナル)な存在であり、神は心を持ち、苦しんだり痛んだりする「はらわた(内臓)」を持ち、人間と世界を愛するために苦しむ方であるというのが「神の憐れみ」の意味だというのがバルトの説明です(Vgl. Karl Barth, Die Kirchliche Dogmatik, II/2, S. 416 f.)。

なるほどたしかに、私たちは人間ですから、どこまで行っても神になることもキリストになることもできません。神とキリストが持っておられる「憐れみの心」や「慈愛、謙遜、柔和、平和、寛容」を「身に着けなさい」とか言われても無理です。それはそのとおりです。しかし、それは「身に着ける」という言葉を自分の努力目標であるかのような意味でとらえるから出てくる反発や不安なのであり、実際の意味はそうではない、ということです。

すべてのもののうちにキリストがすでにおられ、わたしたちの中にもキリストはおられるのだから、意図的に猛然と拒否しないかぎり、「憐れみの心」はわたしたちの心の中に生まれ、育ち、わたしたちはそのようにして内部からつくり変えられているのだ、と信じてよいということです。ですから、「身に着けなさい」とは「すでに身に着きはじめているし、十分に身に着いて来ていることを感謝して受け取りなさい」という意味です。

今日の宣教題と今週の聖句として選んだ「これらすべてに加えて、愛を身に着けなさい。愛はすべてを完成させるきずなです」も趣旨は同じです。この「愛」はイエス・キリスト自身であり、十字架において現わされた真実の犠牲の愛です。人間が生まれつき持っている情愛とは別物です。

「私には愛がない」と嘆くか、「あの人には愛がない」「あの教会には愛がない」と不満を言うか、どちらにせよその意味で14節をとらえ、完全な愛を身に着ける努力をしたり、「身に着けてください」と他人に要求することに用いてはいけません。むしろヨハネによる福音書13章34節のイエス・キリストの言葉を思い起こすべきです。「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」。

わたしたちはイエス・キリストに愛されているから、互いに愛し合うことができるようになるのです。すべてを完成させるきずなは、イエス・キリストの愛と憐れみの心(はらわた(内臓))です。わたしたちのために心を動かし、はらわたを痛め、苦しんでくださるほどにわたしたちを愛してくださったイエス・キリストの愛が、教会の一致と平和をもたらすきずなです。

(2023年9月17日 聖日礼拝)

2023年9月10日日曜日

十字架を背負う教会(2023年9月10日)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13)



讃美歌21 430番 とびらの外に

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「十字架を背負う教会」

ガラテヤの信徒への手紙6章11~18節

関口 康

「しかし、このわたしには、わたしたちの主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはなりません。この十字架によって、世はわたしに対し、わたしは世に対してはりつけにされているのです」

先週は夏期休暇を取らせていただき、別の教会の礼拝に出席させていただきました。どの教会に行くか考えていたとき■さんのお怪我の話を伺い、にじのいえ信愛荘でも聖日礼拝が行われているので、ご出席なさってはと、おすすめをいただきました。

そうしようと思い、にじのいえ信愛荘に電話したところ、■先生ご夫妻は療養のため別のところにおられると教えていただきましたので断念し、別の教会に出席しました。

「のんびりできたか」とお尋ねがありましたが、あまり休めませんでした。文句を言っているわけではありません。私が行った教会の牧師もずいぶん疲れておられる様子で、私も同じだなと、いろいろ考えさせられる機会になりました。

今日開いていただいた聖書の箇所は、これも日本キリスト教団聖書日課に基づいて選びました。聖書日課には「十字架を背負う」とだけ書かれていましたが、私が「教会」という言葉を加えて「十字架を背負う教会」としました。

この箇所は使徒パウロが書いたガラテヤの信徒への手紙の結びの部分です。「パウロが書いた」と言ったばかりですが、11節の意味は、パウロ自身が自分の手で書いた部分は今日の箇所だけだということです。「このとおり、わたしは今こんなに大きな字で、自分の手であなたがたに書いています」というのは、この箇所より前の部分は別の人に書いてもらっていた、という意味です。

つまり口述筆記です。パウロが口で話すことを書記役の人に書いてもらっていました。しかし、手紙の最後の部分だけは自筆で書きます、しかも大きな字で書きますというのは、手紙ですから「声を大にして言う」ことはできませんが、これだけは分かってほしいと、パウロが強調したい内容を書いた部分であるという意味です。

パウロは何をそれほど強調したがっているのかといえば、ひと言でいえば、教会の中に分裂が起こっているが、それを食い止めなければならないということです。12節の「肉において人からよく思われたがっている者たちが、ただキリストの十字架のゆえに迫害されたくないばかりに、あなたがたに無理やり割礼を受けさせようとしています」というのが、教会の分裂の原因です。この問題はガラテヤの信徒への手紙の始めから終わりまで一貫して取り上げられているものです。事件の経緯が比較的詳しく記されているのは2章ですので、ぜひお読みください。

そこに書かれていることを短く言えば、この手紙で「ケファ」と呼ばれている使徒ペトロまでがイエス・キリストの十字架の福音を信じて律法の束縛から全く解放されて自由になったはずのキリスト者にユダヤ教の割礼を受けさせようとする勢力に負けて妥協していることに、パウロが我慢できず、ペトロ本人に面と向かって抗議した、というのです。

教会の洗礼は「水」を用います。水はかけたら流れ落ちるだけで、からだに証拠は残りません。しかし、割礼はからだに傷をつけることですから、動かぬ証拠が残ります。旧約聖書に基づいているので権威が生じますし、いわゆる包茎手術と同じですので、相応の費用がかかったはずです。そういうことで優越感と主導権と実利を得ようとした人々がいました。

私の教会生活は生まれたときからなので、もうすぐ58年になります。24歳で伝道師になってからも33年目です。そのことで悩んだことまではありませんが、キリスト者であることについて、目に見える客観的な「証拠」や「しるし」を求める人々のニードに、何度となく接してきました。

揶揄したいわけではないので、具体例を挙げること自体に躊躇がありますが、何も言わないと分かりにくいので例を挙げます。たとえば、仏教や神道にあるような仏壇や神棚のようなものがキリスト教には無いのか、というようなニードです。あるいは、カトリック教会の人々が用いるロザリオやベールのようなものはあなたがた(日本キリスト教団はプロテスタントです)に無いのか、というようなニードです。「ありません」と答えると、とても残念がられました。

いま申し上げていることは、パウロが直面した問題と本質的に同じです。この手紙の5章6節に「キリスト・イエスに結ばれていれば、割礼の有無は問題ではなく、愛の実践を伴う信仰こそ大切です」と記されていることの意味は、わたしたちキリスト者には第三者の目に見える客観的な「しるし」や動かぬ「証拠」となる割礼のようなものは何も無いし、要らないし、有害無益なのであって、外側からは決して見えない心の中の信仰だけが必要である、ということです。

なぜそういうものが何も無いし、要らないし、有害無益なのかといえば、そのような「しるし」を持っているかどうかで争いが始まり、教会を分裂させるからです。それを持っている人たちは持っていない人たちを見下げてもよいと思い込んで威張り、押し付けたり売りつけたりしようとするからです。西暦1世紀の生まれたばかりの赤ちゃんのようなヨチヨチ歩きの小さな教会の中で主導権争いが始まり、コップの中の嵐が起こり、教会が分裂して弱くなり、イエス・キリストの福音を宣べ伝える、教会本来の使命を果たすことができなくなるからです。

パウロは言います、「しかし、このわたしには、わたしたちの主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはなりません。この十字架によって、世はわたしに対し、わたしは世に対してはりつけにされているのです」(14節)。

この言葉は正確に理解される必要があります。特に後半の「この十字架によって、世はわたしに対し、わたしは世に対してはりつけにされている」の意味は何かをよく考えることが大切です。

「はりつけにされる」の意味は、死ぬこと、または殺されることです。しかし、「この十字架によって」が「イエス・キリストの十字架」を指していることは明らかですので、イエス・キリストの十字架にわたしまではりつけにされるという意味ではありません。ここに書かれているとおり「世がわたしにはりつけにされている」のであり、「わたしが世にはりつけにされている」という意味です。その意味は、わたしと世とは「死んだ」関係であり、つまり「終わった」関係である、ということです。わたしが「世」のマナーやルールに従う理由はもはやない、ということです。

「世」とは現代の世俗社会(Secular society)よりも広い意味です。しかし、かなり近い意味です。教会の中にまで持ち込まれる「心の中の信仰」だけでは足りないとする、目に見える客観的な動かぬ「証拠」を見せつけてまで主導権争いをしようとする人の動きそのものが「世」です。

「イエス・キリストの十字架以外に誇るものがあってはならない」とは、そのような争いとは一切手を切って生きる者に自分はされた、というパウロの信仰告白です。

パウロだけでしょうか。わたしたち「教会」もそうでなければならないのではないでしょうか。私が今日の宣教題に「教会」と付け加えたのは、そのことを申し上げたかったからです。

(2023年9月10日 聖日礼拝)

2023年8月27日日曜日

栄光は主にあれ(2023年8月27日)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13)

讃美歌21 280番 馬槽の中に

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「栄光は主にあれ」

ローマの信徒への手紙14章1~10節

「わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。従って、生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです。」

(2023年8月27日 聖日礼拝)




2023年8月20日日曜日

信仰と実践(2023年8月20日)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13)

讃美歌21 493番 いつくしみ深い


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「信仰と実践」

ヤコブの手紙1章19~27節

関口 康

 「御言葉を行う人になりなさい。自分を欺いて、聞くだけで終わる者になってはいけません」

(2023年8月20日 聖日礼拝)


2023年8月13日日曜日

心の支えがあるか(2023年8月13日)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13)


讃美歌21 484番 主われを愛す

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「心の支えがあるか」

テサロニケの信徒への手紙一1章1~10節

「この御子こそ、神が死者の中から復活させた方で、来たるべき怒りからわたしたちを救ってくださるイエスです。」

今日の聖書の箇所は、使徒パウロのテサロニケの信徒への手紙一1章1節から10節までです。この手紙はパウロがキリスト教の伝道者としての生涯の最も早い時期に書いたものです。

この手紙の趣旨は、はっきりしています。パウロにとってテサロニケ教会は、いわば自分自身にとっての命の恩人たちであり、思い返すたびに感謝の思いを抱いていたので、その思いを言葉にしてテサロニケ教会の人々になんとかして伝えようとしている、ということです。

言い方を換えれば、テサロニケ教会の存在は伝道者パウロにとっての「心の支え」だったとも言えます。その教会を思い起こすたびに感謝があふれてくるというのですから。人生の中でそういう教会に出会えた人は幸いです。

自分の「心の支え」が教会でなければならないことはありません。家族や友人が「心の支え」であるという方もおられるでしょうし、学校や会社がそうだという方も、動物や自然がそうだという方も、哲学や趣味がそうだという方もおられるでしょう。しかし、教会の存在が「心の支え」である方々もおられる、というくらいで止めておきます。人の考え方や感じ方は自由ですので。

キリスト者の「心の支え」が「神」であり「イエス・キリスト」であることは、そうだと言われればそのとおりです。しかしまた、地上に現実に存在する/した特定の教会と、その教会に集うキリスト者たちの存在が「心の支え」であると言ってはならないわけではありません。使徒信条の「われは教会を信ず」という信仰箇条を思い起こすべきです。しょせん教会は人間の集まりにすぎない。人間に頼ると裏切られる。神とキリストだけを頼りにするのがキリスト者であって、教会は信仰の対象ではないという考えは、退けられるべきです。

ただし、いま申し上げたことは教会によるところがあります。パウロにしても、すべての教会に対して同じことを言えたわけではありません。きわめて厳しい言葉で非難しなければならない教会がパウロにもありました。たとえばコリント教会です。内部に道徳的な腐敗が発生し、混乱と分裂をきわめていました。あるいはガラテヤ教会。パウロも激昂して「ああ、物分かりの悪いガラテヤの人たち」(ガラテヤ3章1節)とまで書いています。テサロニケ教会はコリント教会やガラテヤ教会のようでなかった。だからパウロの「心の支え」になったということは考えてよいでしょう。相対評価には残酷な面があります。しかし、地上の教会は複数あります。「この教会」と「あの教会」を比較してどちらがよいかと考えることを止めることはできないでしょう。

テサロニケ教会がどういう教会だったかについてパウロが書いている言葉には、美しい響きがあります。3節がそれです。「あなたがたが信仰によって働き、愛のために労苦し、また、わたしたちの主イエス・キリストに対する、希望を持って忍耐していることを、わたしたちは絶えず父である神の御前で心に留めているのです」。

ここでパウロは「信仰、愛、希望」という順で書いています。希望と愛を入れ替えて、「信仰、希望、愛」という順に並べ替えるとパウロの別の手紙の一節を思い起こされる方が多いでしょう。コリントの信徒への手紙一13章13節です。「それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である」。

パウロが「信仰、希望、愛」の三つを一組にして書いた手紙はまだあります。ガラテヤの信徒への手紙です。この手紙もパウロが若い頃に書いたものです。5章5~6節に「信仰、希望、愛」の三つが出てきます。「わたしたちは、義とされた者の希望が実現することを、霊により、信仰に基づいて切に待ち望んでいるのです。キリスト・イエスに結ばれていれば、割礼の有無は問題ではなく、愛の実践を伴う信仰こそ大切です」。

ここで大事なことは、テサロニケの信徒への手紙一とガラテヤの信徒への手紙はパウロが若い頃の著作であるのに対し、コリントの信徒への手紙一は晩年の作であるということです。これで浮かび上がる可能性は、パウロは若い頃から晩年に至るまで「信仰、希望、愛」の三つを一組にして語ることにおいて一貫していたであろうということです。偶然の一致でなく、パウロが意図的に三つを結び付けたのです。

パウロが説いた「信仰、希望、愛」の三つを「キリスト教の三元徳(さんげんとく)」と言い、特に西暦4世紀に活躍したラテン教父アウグスティヌスが強調したと、高校向けの倫理の教科書に記されています(濱井修・小寺聡他2名著『現代の倫理』山川出版社、2016年、58ページ)。高校の教科書に記されているということは、日本社会で一般教養に属しているということです。

テサロニケ教会の人々と知り合う前のパウロの身に何があったかについては、使徒言行録16章に記されています。エルサレムで行われた使徒会議(使徒言行録15章)終了後の第2回伝道旅行の途中、パウロはテサロニケでしばらく過ごします(同上書17章)。そのテサロニケに行く直前のフィリピでパウロは逮捕・収監されます(同上書16章)。

フィリピで何があったのかといえば、奴隷の少女が占いの商売をさせられていたのをパウロがやめさせました。すると、その少女で商売していた人たちが金もうけできなくなったと激怒し、パウロと同行者シラスを暴力で捕まえて、役人に引き渡して逮捕させる事件に発展しました。

そして、パウロとシラスが牢の中でも讃美歌を歌い、お祈りをするといういつも通りのことをしている最中に地震が起こり、牢の扉がみな開いてしまい、そのことに責任を感じた看守が自害しようとしたとき、パウロが「自害してはいけない。わたしたちは皆ここにいる」と大声で叫んで食い止め、看守が「先生方、救われるためにはどうすべきでしょうか」とパウロたちに尋ね、「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます」と答える場面も、フィリピでの出来事です。そのフィリピの次にパウロが訪ねたのがテサロニケでした。

テサロニケでパウロは安心できたかと言うと、そうではありませんでした。またもや騒動です。テサロニケのユダヤ人の集会で「3回の安息日にわたって」聖書を引用しながら、十字架につけられたイエスこそ真のメシアであることをパウロが論証したら何人かの人たちが信じて受け入れました。特に「神をあがめる多くのギリシア人や、かなりの数のおもだった婦人たちも同じように二人(パウロとシラス)に従った」(同上書17章4節)という点が重要です。それを見たユダヤ人たちが嫉妬して、暴動を扇動しました。そのときパウロたちの命を救ったのが、テサロニケでイエス・キリストを信じた人々でした。彼らがテサロニケからアテネまで、二人を連れて行ってくれました(同上書17章15節)。その人々がその後、テサロニケ教会の基礎を築きました。

苦労の多い人生の中で、「心の支え」になる教会に出会えた人は幸いです。感覚の問題が含まれますので、強制はできません。自由意志で「自分の教会」を選ぶことが、すべての人に可能です。

(2023年8月13日 聖日礼拝)

2023年8月6日日曜日

悪を憎み、敵を愛せよ(2023年8月6日)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13)

讃美歌531番 こころのおごとに

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「悪を憎み、敵を愛せよ」

ローマの信徒への手紙12章9~21節

関口 康

「悪を憎み、善から離れず、兄弟愛をもって互いに愛し、尊敬をもって互いに相手を優れた者と思いなさい。」

先週予告しましたとおり、今日は日本キリスト教団の定める「平和聖日」です。78年前の1945年8月15日の日本敗戦の日を思い起こし、戦争に反対し、平和を祈るために設けられました。

今日の聖書箇所は、ローマの信徒への手紙12章9節から21節です。全体を詳しく話すことはできません。戦争の問題、平和の問題と直結する言葉を中心に見ていきたいと願っています。

最初に申し上げるのは、この箇所を取り上げるたびに同じ説明をしていることです。ローマの信徒への手紙12章9節「愛には偽りがあってはなりません」から始まり、13章10節「だから、愛は律法を全うするのです」までのすべてが「愛とは何か」をテーマにして書かれた部分であるということです。「愛とは何か」というテーマとは無関係に思える部分があるとしても無関係ではありません。少なくとも著者パウロの中で「愛とは何か」という問いに結びついています。

その点との関係で特に問題になるのは13章1節から7節までの箇所です。この中に登場する「支配者」ないし「権威者」が警察や軍隊を伴う国家権力を指していることは明らかです。そのような存在に「従うべきである」(5節)とパウロは述べています。軍隊のことまでは言及されていませんが、剣をもって悪を取り締まる存在を指していますので警察の存在は肯定されています。

しかし、そのことと「愛とは何か」というテーマとがどのような関係にあるのかを、よく考えなければなりません。パウロが言おうとしていることをまとめれば、警察の存在はわたしたちが愛し合うために必要である、ということになります。

13章3節の言葉が、比較的理解しやすいでしょう。「実際、支配者は、善を行う者にはそうではないが、悪を行う者には恐ろしい存在です。あなたは権威者を恐れないことを願っている。それなら、善を行いなさい」。

警察を恐れるのは悪事を働いている人たちだけであって、そうでない人たちまで警察を恐れることはないと言い換えれば、よく分かる話になるでしょう。その意味での「悪」は社会的な犯罪行為です。殺人、窃盗、詐欺、偽証、姦淫、性犯罪。その意味での「悪」を「憎む」ことと「神と隣人を愛する」という聖書の教えは一致している、ということになります。

しかし、今の説明で納得していただけるとは思っていません。警察もまた悪事を働くからです。法律の中にも他国から見れば犯罪に加担しているとしか言えないような悪法が存在するからです。法律を決める人々の中にとんでもない悪人がいるからです。そのような人たちに「従いなさい」などと、なぜパウロは言えるのかとお考えになる方々がおられるでしょう。

しかし、矛盾しません。聖書の言葉はすべて「神の存在」を前提しています。権力者はどんな犯罪をいくらおかそうと、だれからも裁かれない絶対不可侵の存在などではなく「神」が鉄槌で打つのです。

権力者はどんな犯罪をおかそうと裁かれることはないというほうが真実であるならば、「自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい」(12章19節)という教えを受け容れることなど、わたしたちには到底できません。人間は悪事を黙って堪えられるほど忍耐強くないからです。精神と肉体を鍛えても無理です。もし神が復讐してくださらないなら自分で復讐するしかなくなります。そのときこそ問われるのが、私の代わりに悪を倒してくださる「神」を信じる信仰です。

私は抽象的な話をしているつもりはありません。ウクライナ戦争が始まっても、教会で私が何も言わないでいるのは関心がないからではありません。

戦争は、いったん始まればどちらが善で、どちらが悪でと区別できなくなります。他国に届く情報は必ずどちらか一方を利するものです。教会が、あるいはどなたか個人が真実の情報を常に確保できる情報源を持っているなら別ですが、どちらが勝つどちらが負けると、勝負ごとに教会が加担すべきでないと私は考えていますので、教会では何も言わずにいます。

しかし、日本が戦争に直接巻き込まれることになれば話は別です。どのような求人方法になるのか、徴兵なのか志願兵なのかは分かりませんが、いずれにしても兵隊になるのは若者たちです。

そうだと思うので、今は夏休みですが、高校の授業で私はほぼ毎週のように、生徒に戦争反対を訴えています。そのことを生徒たちは知っています。私は教会で言わないでいることを、学校では口を酸っぱくして言っています。

しかし、わたしたちに、今の教会に、何ができるでしょうか。昭島教会に来る前の私のことは、皆さんとは関係ないので言わずに来ました。

2012年の原発再稼働反対官邸前デモにも、2013年の特定秘密保護法反対の国会前デモにも、2015年7月の安保関連法案の国会前デモにも、ひとりで参加しました。無力さを痛感しながら、そこにいた人々と一緒に声を上げました。

教会も、ほかのだれも、私の態度決定に引きずり込むことはできないと思い、デモに行くときは必ずひとりで行きました。千葉県松戸市に住んでいましたので、千代田線直通常磐線で、国会議事堂前駅まで片道55分、往復1000円で行けました。

だから何ができたと私は思っていません。私たちは悪を憎まなければなりません。そのために私にもできそうだと思えた行動を起こしただけです。

神さまは、ご自身がお造りになったこの世界と人間をとても愛しておられますので、罪を憎み、罪をなくしたいと神ご自身が望んでおられます。

悪を憎むことは、人間を憎むことではありません。人間の心の中から悪が取り除かれることを求めるだけです。「敵を愛しなさい」とイエスさまがおっしゃったこととそれは矛盾しません。

昨日の午前中、今日の礼拝のための看板を書いていたときに、「悪を憎み、敵を愛せよ」という説教題の中に「心」という字が3つもあると気づきました。「悪」と「憎」と「愛」です。

聖書は日本語で書かれた本ではありませんので、漢字の話は余談です。しかし、悪も憎しみも愛も「心の問題」であることは確かです。

心が変われば人は変わります。戦地に出かけた兵隊たちが戦後も敵への殺意に満ちたままなら、戦後復興は無かったでしょう。

日本の敗戦から78年。日本と世界の平和のために祈ろうではありませんか。

(2023年8月6日 平和聖日)

2023年7月30日日曜日

苦しみの意味(2023年7月30日)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13)

讃美歌21 460番 やさしき道しるべの

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「苦しみの意味」

ペトロの手紙一3章13~22節

関口 康

「神の御心によるのであれば、善を行って苦しむ方が、悪を行って苦しむよりはよい」

来週8月6日(日)は日本キリスト教団の「平和聖日」です。78年前の1945年8月15日の日本の敗戦を想起し、戦争反対を貫き、平和のために祈るために「平和聖日」が設けられました。

来週の「平和聖日」の礼拝で取り上げる聖書の箇所を本日の週報で予告しています。ローマの信徒への手紙12章9節から21節です。その箇所の冒頭の12章9節以下に「悪を憎み、善から離れず、兄弟愛をもって互いに愛し、尊敬をもって互いに相手を優れた者と思いなさい」と記され、14節に「あなたがたを迫害する者のために祝福を祈りなさい。祝福を祈るのであって、呪ってはなりません」とあり、さらに17節に「だれに対しても悪に悪を返さず、すべての人の前で善を行うように心がけなさい」とあります。

ローマの信徒への手紙の著者は、使徒パウロです。その中でも特に「悪を憎み、迫害する者のために祝福を祈りなさい」という教えは、イエス・キリストの「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」(マタイによる福音書5章44節)という教えの系譜につながるものです。

そのように考えて、私は来週の「平和聖日」の宣教題を「悪を憎み、敵を愛しなさい」とさせていただきました。あえて分けるなら前者の「悪を憎みなさい」のほうは使徒パウロの言葉であり、後者の「敵を愛しなさい」のほうは主イエス・キリストの言葉としてマタイによる福音書の著者マタイが書いた言葉であるという違いがあります。しかし出所が違う2つの言葉をひとつなぎにしたのは、両者の教えの間に何の矛盾もないことを言い表したいからに他なりません。

ここまで申し上げたのは、来週の「平和聖日」の聖書箇所についての予告です。今日の箇所は主イエス・キリストの言葉でも使徒パウロの言葉でもなく、使徒ペトロの言葉です。先ほど朗読していただいたのはペトロの手紙一3章19節以下ですが、少し前の3章8節には「終わりに、皆心を一つに、同情し合い、兄弟を愛し、憐れみ深く、謙虚になりなさい。悪をもって悪に、侮辱をもって侮辱に報いてはなりません。かえって祝福を祈りなさい。祝福を受け継ぐためにあなたがたは召されたのです」と記されています。これも、主イエス・キリストの教えとも使徒パウロの教えともつながる、同じ系譜の教えであることは明らかです。

そしてその教えの流れの中に今日の朗読箇所があります。「もし、善いことに熱心であるなら、だれがあなたがたに害を加えるでしょう。しかし、義のために苦しみを受けるのであれば、幸いです。人々を恐れたり、心を乱したりしてはいけません」(13~14節)とあり、さらに「神の御心によるのであれば、善を行って苦しむ方が悪を行って苦しむよりはよい」(17節)とあります。

今日の問題は、たったいま読んだばかりのペトロの手紙一3章17節の「善を行って苦しむ方が悪を行って苦しむよりはよい」という言葉の意味は何か、ということです。それを考えるための材料または土台として、先ほどは主イエス・キリストの言葉と使徒パウロの言葉を紹介しました。

主イエス・キリストと使徒ペトロと使徒パウロという3者の教えが本質的に一致していて全く矛盾がないとすれば、新約聖書の教え、ひいては二千年のキリスト教の教えとして確定したものだと言えるかどうかは、よく考えなければならないことです。

なぜそう言わなければならないかといえば、「悪を憎みなさい」という教えも「敵を愛しなさい」という教えも、たとえそれがイエスさまの御言葉であろうとだれの言葉であろうと、わたしたち自身が日々営んでいる現実の生活とその中で形成される生活感情が、その教えを拒絶し、生理的な不快感や反感を抱き続けるかぎり、それは決してわたしたち自身の心の中で納得し、受け入れ、喜んで従う教えになることはありえないからです。聖書と教会の教えは、現代社会においては、どこまで行っても参考意見にすぎず、不服であれば拒否すれば済むことだとみなされています。

今日の問題が「善を行って苦しむほうが、悪を行って苦しむよりはよい」の意味は何かであると先ほど申しました。この言葉で分かる一つのことは、苦しみそのものが悪ではないということです。わたしたちは、人から苦しめられること、あるいは自分自身に原因や発端が無いと感じることで苦しむ経験をするとどうしても、苦しみそのものが悪であるかのように感じてしまいます。私自身はどこまで行っても善であり続けているのに対し、あくまでも私を苦しめる人/事/物が悪であると言いたくなります。しかし、そうではないということを17節の言葉が教えています。悪を行って味わう苦しみとは区別される、善を行って味わう苦しみがある、というのです。

この意味での「善」が「悪を憎むこと」と「敵を愛すること」を少なくとも必ず含んでいることは明らかです。具体例を挙げれば、すぐ分かることです。

悪を憎めば、たちまちわたしたちに苦しみが襲いかかってきます。政治の問題、社会の問題、経済の問題、そして信仰の問題においても、正義に反すること、すなわち「悪」が行われる場所や状況は、ほとんどの場合、光のもとではなく、陰や闇に隠れています。それを明るみに出そうとすると、必ずや激しい抵抗にあい、抹殺されかねませんので、その抵抗や殺意に堪えなくてはなりません。それが悪を憎み、善を行って苦しむことの意味です。

敵を愛すれば、味方が敵になりかねません。敵でなかった相手から敵視され、拒絶され、孤立する可能性が生じます。たとえイエスさまが「敵を愛しなさい」とおっしゃったとしても、味方を失いたくないから、仲間外れにされるのが嫌だから、孤立するのが怖いから、そのこと自体が苦しみだから、苦しみそのものが悪だから、私は敵を愛することなどできないし、自分のことを愛してくれるほんの一握りの人たちとだけ一緒に生きていきたいと願うなら、「善を行って苦しむこと」になっていないと言われても仕方がありません。

今日の箇所の後半、特に18節から始まる箇所に、イエス・キリストが十字架のうえで味わわれた苦しみの意味が記されています。「霊においてキリストは、捕らわれていた霊たちのところへ行って宣教されました」(19節)と記されているのは、旧約聖書のノアの洪水物語(創世記6~9章)で、箱舟に入らず滅ぼされた人たちのところまでイエス・キリストが行かれ、福音を宣べ伝えられた、ということです。それは、イエスさまが地獄の底まで罪人を追いかけて愛してくださった、という意味になります。イエス・キリストは、悪を悪でないと白黒を差し替えるのでなく、悪を憎んだうえで、敵をどこまでも愛し抜くために、十字架のうえで地獄の苦しみを味わわれました。

「わたしたちは罪ある人間なのであって、イエス・キリストではないのだから、敵を愛することなど絶対できない」と言い張り、善のために苦しもうとしないわたしたちのためにイエスさまが苦しみの模範を示してくださいました。

実際には、イエスさまの教えのとおり「敵を愛すること」なしに、戦争が終わることも平和が実現することもありません。敵を愛する苦しみは、愛さないで苦しむよりはよい。どれほど堪えがたかろうと、憎い相手を受容し、共存する道を探ることが、わたしたちに求められています。

(2023年7月30日 聖日礼拝)

2023年7月16日日曜日

重荷を負う務め(2023年7月16日)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13)


讃美歌21 226番 輝く日を仰ぐとき 


「重荷を負う務め」

ガラテヤの信徒への手紙6章1~10節

関口 康

「兄弟たち、万一だれかが不注意にも何かの罪に陥ったなら、霊に導かれて生きているあなたがたは、そういう人を柔和な心で正しい道に立ち帰らせなさい。あなた自身も誘惑されないように、自分に気を付けなさい。」

今日の聖書箇所は、使徒パウロのガラテヤの信徒への手紙6章1節から10節です。この箇所を理解するために大事な点は、パウロが書いていることはすべて教会の内部のことであるということです。一般論ではありません。この箇所は教会の中で読まれ、教会の中で出会う様々な出来事と結びつけて理解されるとき初めて、意味が分かるようになります。

ご承知のとおり私は4年半前の2019年4月から明治学院中学校東村山高等学校(東京都東村山市)で聖書科非常勤講師をしています。学校の授業で繰り返し言ってきたのは「学校は教会ではない。学校は学校である。教会は教会である」ということです。私の授業に出席した生徒は覚えているでしょう。

私がそれを言うのは「なぜ自分はクリスチャンでもないのに聖書を読まされて、期末試験を受けさせられて成績まで付けられるのか」と思っている生徒がいるからです。説明する必要があります。

しかし、だからといって私は、教会と学校とで、人が変わったように変貌するわけではありません。そのようなことはできませんし、したくありません。それでも学校の授業が成り立っているということは、教会と学校の間で通じ合う点があることを意味していると、私なりに理解しています。

さて、今日はいつもと少し趣の違う話をさせていただきます。昭島教会を含む日本キリスト教団は歴史的にいえば、プロテスタント教会の系譜を受け継いでいます。プロテスタント教会のはじまりが16世紀のドイツの宗教改革者マルティン・ルターの名前と結びつくことは確実ですが、スイスの宗教改革者ジャン・カルヴァンの存在も忘れることができません。

そこで今日はルターとカルヴァンが今日の箇所、特に6章1節と2節について何を書いているかをご紹介したいと思い、準備してきました。両方とも日本語版があり、多くの人に読まれてきました。

パウロは2000年前の人です。ルターとカルヴァンの時代は500年前です。パウロと比べて1500年分はわたしたちに近い感覚の持ち主たちです。本を読んで理解可能な要素があると思います。

今から14年前の2009年に「カルヴァン生誕500年記念集会」が日本で行われました。開催委員会の書記は私でした。会場は東京神学大学(東京都三鷹市)を借りました。参加者約200人。カルヴァン生誕500年祭は世界中で行われました。その後、今から6年前の2017年に「宗教改革500年記念集会」が、これも世界中で行われました。ルターが1517年10月31日にドイツ・ヴィッテンベルク城教会に95か条の提題を貼りだしたときから数えて500年を記念したものです。

ルターのほうから紹介します。今日の私たちのテキストであるガラテヤ書6章1節についての解説文だけで、日本語版で9ページ分も割かれていました。どういう内容かといえば、ルターの論争相手だった当時のローマ・カトリック教会の人たちが、このガラテヤ6章1節の言葉を用いて、教会の中で大事なのは「柔和な心」なのだから、ルターが問題にしているような教会の教義上の小さな問題に振り回されて教会の一致と平和を乱すべきではないなどと説教しているが、それは断じて違う、という趣旨のことを日本語版で9ページ分も書いています。よほど腹に据えかねる事件があったのではないでしょうか。ルターの立場からすれば、今日の箇所の「柔和な心」は、読み方次第で諸刃の剣になる、ということです。真理を語り、正義を貫こうとする人々の口封じの一手になりえます。

しかし、そのルターが、次のガラテヤ6章2節について書いている言葉は重くて深くて温かいです。「愛するということは、詭弁家たちが想像するように、他の人のためによいことを願うことではない。他の人の重荷を負う、すなわち、あなたにとって大変な、できれば負いたくないものを負うということである。それだから、キリスト者はがっちりした肩と力強い骨を持って、兄弟たちの肉、すなわち弱さを負うことができるようであるべきである」(『ルター著作集 第二集』第12巻「ガラテヤ大講解下」徳善義和訳、1986年、400頁)。

ルターが述べているキリスト者が持つべき「がっちりとした肩と力強い骨」は、もちろん比喩です。心の問題であり、信仰の問題です。

カルヴァンは何を書いているかを、次にご紹介します。だれが言い出したか、ルターは豪放磊落な人だったのに対し、カルヴァンは学者肌で神経質で厳しい人だったというような評価があるようですが、今日はぜひそのピリピリした評価を吹き払えるようなカルヴァンの良い面をご紹介したいです。

ガラテヤ6章1節についてカルヴァンは、人の心の中の「野心」の問題から書き起こしています。ただし、これもルターと同様、あくまでも教会の内部の話です。人に野心がある。外見上は熱心のように装いながら、実は傲慢で、他人を軽蔑したり侮辱したりしている。他人の欠点を見つけると、それを材料にいつでもその人を抗議できると考え、ますます追い打ちをかける。野心があるゆえ相手を非難することに熱心だからそういうことになると、カルヴァンは書いています。

しかし、カルヴァンはこのことを、自分自身を棚に上げて言っていません。それが大事です。教会の中で起こる問題を扱っていることは明らかですし、カルヴァン自身も当事者のひとり、ないし代表者として、自分の胸に手を当てながら書いている文章だと思います。

そして、とても素敵な言葉がありました。「酢の中には油も混ぜておかねばならない」(『カルヴァン新約聖書註解』第10巻「ガラテヤ書・エペソ書」森井真訳、新教出版社、1962年、135頁)。

私はいま毎日自分で食事を作っているので、この意味が分かりました。ここで「酢」の意味は、人の過ちを非難する辛辣な言葉です。酢は生のままで飲むと焼け付いたように喉がしびれます。しかし、「酢」に「油」を混ぜると美味しいドレッシングになります。酢に卵黄と塩を加えて泡立てながら油を少しずつ加えると、美味しいマヨネーズになります。いろいろ混ぜると酢は人に優しくなり、肉も野菜も美味しくなります。カルヴァンが書いている意味は、きつい言葉は控えるべきだ、ということです。

そしてカルヴァンは、この箇所の解説で「キリスト教的な𠮟責の目的」は、「倒れたものを引き立て、建て直すことであり、すなわち、まったく回復させることである」(同上書、同上頁)と書いています。

6章2節についてカルヴァンは、「パウロは我々の弱さや悪徳を『重荷』と呼んでいる」と解説したうえで、次のように書いています。「他人の重荷を背負うことをパウロが命じているのは、むしろ我々が自分の荷をおろすためである。それは、柔和で友情に満ちた正し合い(日本語版「矯正」)によって初めてなしうることである」(同上書、137頁)。

わたしたちの教会が「自分の荷をおろせる」教会であるかどうかは、わたしたちに任されています。人の重荷を背負う務めが教会にあると言えますし、それが教会の存在理由であるとも言えます。野心も、外見上の熱心も、傲慢も、わたしたちにこびりついた性質のようなものなので、努力や手術で取り除くことはできません。しかし、そのわたしたちの性質こそがイエス・キリストを十字架につけたのだと十字架を見上げて心を落ち着けることが大事です。最後に申し上げたのは、私の言葉です。

(2023年7月16日 聖日礼拝)

2023年7月9日日曜日

生命を重んじる(2023年7月9日)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13)

旧讃美歌 532番 ひとたびはしにしみも



「生命を重んじる」

使徒言行録20章7~12節

関口 康

「人々は生き返った青年を連れ帰り、大いに慰められた。」

今日の聖書箇所について私が最初に申し上げたいのは、あくまで私個人の感想です。それは、この箇所の物語は、使徒言行録の中でだけでなく、新約聖書全体の中でだけでもなく、旧約聖書を含む聖書全体の中で見ても、違和感がある箇所だ、ということです。

今申し上げた点については、あとで再び取り上げます。その前に、もう少し大きな視野から、使徒言行録という書物を読む人が必ず引っかかる、ひとつの大きな問題を取り上げます。

それは、たとえば今日の箇所の7節に「わたしたち」という表現が出てきますが、これです。この「わたしたち」とは誰のことなのかが必ず問題になります。

もう少し詳しく申し上げますと、わたしたちが使徒言行録の最初の1章から最後の28章までを前から順々に読んでいきますと、最初のほうには出て来ない「わたしたち」を主語とする文章が16章10節から突然出てきます。「パウロがこの幻を見たとき、わたしたちはすぐにマケドニアへ向けて出発することにした。マケドニア人に福音を告げ知らせるために、神がわたしたちを召されているのだと、確信するに至ったからである」(16章10節)。

その後も、すべての文章が必ずそうであるわけではありませんが、かなり頻繁に「わたしたち」を主語とする文章が出てきます。共通しているのは、パウロを団長とする伝道旅行団のメンバーを指していると思われる点です。しかし、だからといって、使徒言行録の著者がパウロではないことは明白ですので、団長パウロが自分を含めた団員全員を指して「わたしたち」と書いているわけではありません。

使徒言行録の著者は、ルカによる福音書の著者ルカです。使徒言行録1章1節に「テオフィロさま、わたしは先に第一巻を著して」とあります。また、ルカによる福音書1章3節にも「敬愛するテオフィオさま、わたしもすべての事を初めから詳しく調べていますので、順序正しく書いてあなたに献呈するのがよいと思いました」と記されていて、ルカによる福音書と使徒言行録が同一の著者によって記された2巻本の書物だったことを明らかにしています。

しかし、いま申し上げたことと、だからといって使徒言行録16章10節から出てくる「わたしたち」の中に、必ずルカが含まれていると考えることができるかどうかは別問題です。

パウロ団長率いる伝道旅行団の行き先を挙げていきますと、マケドニア、アカイア、エフェソ、ミレトス、そしていったんエルサレムに戻ります。そのあいだは繰り返し「わたしたち」を主語とする文章が出てきます。しかし、その後パウロが逮捕されて捕虜としてローマに連行されます。そのパウロが逮捕され尋問を受けている場面では「わたしたち」文はストップしますが、ローマに連行される最中と到着してからの部分で、再び「わたしたち」文が出てくると言った次第です。

それでは、それらすべての「わたしたち」文が出てくる箇所のすべての場面に必ずルカが同行していたと考えなければならないかというと、そうとは言えません。すべての箇所にルカが同行していたと考える論理的可能性が全くないわけではありませんが、そのように考えると矛盾する箇所がいくつも出てきます。

いまここで詳細な議論を説明することはできませんので、現時点で最良の結論を申し上げます。使徒言行録16章10節以降の「わたしたち」は、読者を物語の中に引き込むための文章表現上の工夫ないし技巧です。ドイツの新約聖書学者エルンスト・ヘンヒェン(Prof. Dr. Ernst Haenchen [1894–1975] )がそのように主張したと、私は別の資料で読みました。私もその線で納得します。

さて今日の箇所の内容です。ここに書かれているのは要するに、使徒パウロの説教が長すぎて、「ひどく眠気を催し、眠りこけて三階から下に落ちてしまった」青年エウティコが死んだので、パウロは説教をいったんやめて、エウティコのもとに駆けつけて抱きかかえましたが、そのときエウティコが息を吹き返したので「騒ぐな。まだ生きている」とパウロがそこにいた人々を制し、そのパウロがまた元の位置に戻り、さらに夜明けまで説教を続けてから出発したという物語です。

最後の12節に「人々は生き返った青年を連れて帰り、大いに慰められた」と記されているので、物語自体はハッピーエンドであると言えば言えなくありません。しかし、このとき何が起こったのかを、それこそ「わたしたち」がこの物語の中に引き込まれて、パウロが延々と説教を続けて、死ぬほど眠くて、実際に死んでしまった人がいるほど人々を退屈させている場所に、わたしたち自身が居合わせていることを想像してみたとき、パウロがとった態度や言動に問題が全く無いと思えるかどうかを、ぜひ皆さんに考えてみていただきたいと私は思いました。

最大限にパウロの立場を擁護する方向で考えるとすれば、礼拝説教は最も大切なことであり、いかなる理由でも中断されるべきではないが、死者が出たのでいわばやむを得なく短時間の中断を余儀なくされたものの、エウティコがなんとか息を吹き返したので、その場にいた他のだれかにエウティコを任せたうえで、礼拝説教を続行したパウロは、神の言葉の説教者としての責任を果たすことにどこまでも忠実だったのだ、というふうに理解することも不可能ではないでしょう。

しかし、本当にそういう理解で大丈夫だろうかと私はどうしても気になります。パウロは説教者であるのと同時に牧会者でもあったはずです。一度は生命活動を停止した人が息を吹き返したからと言って、まるでそれはすでに終わったことであるかのように、そこにいた人に「騒ぐな」(黙れ)と一喝までして、エウティコを人任せにして、礼拝説教を続行するというのは、牧会者としてどうなのだろうと、疑問を抱く人がいてもおかしくないと、私には思えてなりません。

12節の「人々は大いに慰められた」というのも、一度は死んだエウティコを奇跡的によみがえらせたパウロの力に慰められた、という意味で書かれてはいません。あくまでも、エウティコが息を吹き返したことを神に感謝し、慰めを受け、喜んでいるだけです。

最初に申し上げた、この箇所に対して私が覚える「違和感」は、まさに今申し上げている点についてです。私にはこの箇所を書いているときの著者の心の中に、パウロがとった態度や言動に対する厳しい批判が含まれているように感じられます。著者ルカがこのときの事態について自分の意見を交えず、事実のみをたんたんと記していることが、かえって気になります。このときのパウロを皆さんはどう思いますかと、すべての読者に問いかけていると考えることが可能です。

今日の説教題を「生命を重んじる」としたのも、この点にかかわります。ひとりの人がわたしたちの目の前で突然亡くなった、緊急事態が発生した。それでも、なにがなんでも、礼拝と説教を続行することが、わたしたちのなすべきことかどうかは、わたしたち自身がよく考えるべきことです。私もいま「わたしたち」という言葉を繰り返して、みなさんを巻き込もうとしています。

「教会にとっていちばん大切なこと/ものは何なのか」を根本的に考え直す必要すら感じます。杓子定規は禁物です。柔軟で臨機応変な姿勢と対応が、わたしたちに求められています。

(2023年7月9日 聖日礼拝)

2023年7月2日日曜日

さらに開かれた教会へ(2023年7月2日)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13)

讃美歌21 405番 すべての人に



「さらに開かれた教会へ」

使徒言行録11章1~18節

関口 康

「こうして、主イエス・キリストを信じるようになったわたしたちに与えてくださったのと同じ賜物を、神が彼らにもお与えになったのなら、わたしのような者が、神がそうなさるのをどうして妨げることができたでしょうか。」

今日の聖書の箇所に記されているのは、イエス・キリストの十字架と復活、そして聖霊降臨の出来事を経て人類の歴史における最初のキリスト教会が誕生した紀元(=西暦)30年代からそれほど後に起こったことではないと思われます。10年から20年後くらいでしょう。

最初のキリスト教会の最初のリーダーになったのは、使徒ペトロです。教会ですからペトロを「初代牧師」と呼んでも大きな問題はないはずです。そして、最初の教会が置かれた出発の地はエルサレムでした。しかも最初のキリスト教会がユダヤ人中心の集まりだったことは確実です。ペトロや他の使徒、そしてイエス・キリストの死後に使徒になったパウロも、ユダヤ人でした。

だからといってユダヤ人でない人は、教会の仲間に加わることができなかったのかと言えば、決してそうではありません。「ユダヤ人でない人」のことを聖書は「異邦人」と呼びます。ただし、それは単なる民族や人種の問題ではなく、信仰の問題です。「異邦人」は、いわばもともと異教徒だった人です。その意味での「異邦人」に対して、キリスト教会は最初から開かれていましたし、今も開かれ続けています。

なぜそう言えるのかといえば、イエス・キリストが異邦人に対して開かれた姿勢を終始一貫、示されたからです。最初のキリスト教会も、歴史における教会も、さらに現代の教会も、それはわたしたちのことですが、その全員がイエス・キリストの弟子なのですから、イエス・キリストが示されたのと同じ、どんな人にも開かれた姿勢を持つ必要があります。

しかし、それは単純な話ではありません。哲学用語で「所与(しょよ)」という言葉があります。定義や説明は難しいですが、強く意識したり努力したりしなくても容易に得ることができる自明(=当たり前)の前提として、すでにあらかじめ先に与えられている事柄を指して言います。

たとえば、もしわたしたちが「教会はだれに対しても開かれた姿勢を持っている団体である」と言えば、「そんなことはない」と必ず反発されるでしょう。実態に即していないし、そうでない現実の中で苦しんだり戦ったりした経験を持つ人たちからすれば、虚偽でしかありません。いま申し上げたことを「所与」という言葉を用いて言い直せば、「どんな人に対しても開かれた姿勢を持つことは、教会にとっては必ずしも所与とは言えない」となります。

「所与」でないとしたら何なのかといえば「教会とはだれに対しても開かれた姿勢を持つべき団体である」ということです。つまり、そのことに対して強い意識や努力が必要であるということです。放っておいてもそうであるとか、自動的にそうであるというわけではありません。

事実は逆です。放っておくと教会はあっと言う間に閉鎖的になります。新しい考え方や新しいやり方を外部から持ち込まれることを嫌います。従来の方式を学び、なじみ、受け入れ、従ってくれる相手は歓迎しますが、そうでない相手は問答無用で拒絶します。

今申し上げているのは、教会がだれに対しても開かれた姿勢を持つことは「所与」ではなく、強い意識と努力が必要であると申し上げたことの意味を説明しているだけです。「そうだ、そうだ、そのとおり。教会は閉鎖的な団体だ」とシュプレヒコールがあがるとしたら、私は悲しいです。

現実の教会は、最初から今日に至るまでその努力を積み重ねてきました。何もしなかったとは言われたくありません。今ある教会の現実は、キリスト教史二千年の努力の結晶です。それでもなお、教会に閉鎖性ゆえの葛藤や対立があるとしたら、わたしたちの努力がまだ足りていないと言う他はありません。

「それはいくら努力しても無理なのだ」とあきらめて、放り投げて、新しい要素が加わることを拒否し、守りの姿勢に終始しようとするのは「もはや教会ではない」と言わざるをえません。

私はいま、今日の聖書の箇所の話をしようとしています。要するに何が書かれているかといえば、最初はユダヤ人中心だったキリスト教会でしたが、その後次第に異邦人が洗礼を受けて教会の仲間に加わり、その数が多くなった頃に、教会の中でユダヤ人キリスト者と異邦人キリスト者が険悪な関係になり、対立し始めたという歴史的な事情と関係しています。

ユダヤ人と異邦人の決定的な違いは、生まれてすぐに割礼を受けたかどうかという外見で判断できるところがあります。割礼そのものは男性だけにかかわるわけですが、男性の性器の包皮を切り取る行為です。それをユダヤ人は、まさに「所与」として与えられていますが、異邦人ではそうではありません。

異邦人は割礼を受けることができないかというと、当時も今も変わりなく不可能ではなく可能です。しかし、成人になってからの割礼は、麻酔技術が発達している現代社会でならともかく、古代社会でそれをするとなると死ぬほどの苦しみを伴うことだったことは想像に難くありません。異邦人があえて割礼を受けようとすることは無かったと思います。

ところが、西暦1世紀の教会の中で、ユダヤ人キリスト者と異邦人キリスト者が対立したときユダヤ人キリスト者の側が持ち出した論点が、要するに、我々はモーセの律法に基づく「割礼」を受けている、由緒正しい信仰の持ち主である、ということでした。それはつまり我々ユダヤ人キリスト者のほうが優位にあり、割礼を受けていない異邦人キリスト者は、我々と比べれば下位または劣位にある、ということでした。

そして、そのような考えを持っていたユダヤ人キリスト者が、ペトロがしたことを見たときに腹を立てました。ペトロがしたことは3節に書かれています。「あなたは割礼を受けていない者たちのところへ行き、一緒に食事をした」。しかし、ペトロは事の次第を順序正しく説明して、理解を得ようと努力しました。

そしてペトロは結論的に言いました。「こうして、主イエス・キリストを信じるようになったわたしたちに与えてくださったのと同じ賜物を、神が彼らにもお与えになったのなら、わたしのような者が、神がそうなさるのをどうして妨げることができたでしょうか。」

この箇所がわたしたちに教えていることは、最初のキリスト教会が気づいたことは、わざわざ痛い目をしてまで異邦人たちが割礼を受ける必要は無いし、仮に割礼を受けたからと言って他の異邦人キリスト者より優れた信仰の持ち主とみなされて、より上位にいるユダヤ人キリスト者の仲間入りができるというような変化が起こるわけでもないということです。そもそも、ユダヤ人キリスト者が異邦人キリスト者よりも上位にいるかどうかも考え方次第の面がありますが、神の目から見れば大差ありません。

そもそも、あの人よりも私のほうが上だと競ったり争ったりすること自体が「もはや教会ではない」ということです。その結論にペトロもパウロも到達しました。

わたしたちも、「さらに開かれた教会」を目指すなら、この種の競争をやめることが最優先です。

とにかくみんな仲良くしましょう。幼稚なほど単純ですが、それがいちばん大事です。

(2023年7月2日 聖日礼拝)

2023年6月18日日曜日

主は必ず来てくださる(2023年6月18日)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13)


讃美歌21 343番 聖霊よ、降りて

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「主は必ず来てくださる」

ルカによる福音書8章40~56節

関口 康

「イエスは言われた。『娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。』」

今日の朗読箇所は長いです。しかし、途中を省略しないで、すべて読むことに意義があります。

なぜなら、この箇所には2つの異なる出来事が記されていますが、もしそれを「第一の出来事」と「第二の出来事」と呼ぶとしたら、第一の出来事が起こっている最中に横から割り込んで来る仕方で第二の出来事が起こり、それによって第一の出来事が中断されますが、その中断の意味を考えることが求められているのが今日の箇所であると考えることができるからです。別の言い方をすれば、その中断は起こらなければならなかった、ということです。

出だしから抽象的な言い方をしてしまったかもしれません。もっと分かりやすく言い直します。

たとえていえば、教会に長年通い、教会役員にもなり、名実ともに信徒の代表者であることが認められているほどの方に、12歳という今で言えば小学6年生の年齢なのに重い病気で瀕死の状態の子どもさんがおられたので、一刻も早くそのお子さんのところに行ってください、来てくださいと、教会役員からも、その子どもさんのご家族からも緊急連絡が入ったので、イエスさまがすぐに行動を起こされ、その家に向かっておられる最中だった、と考えてみていただきたいです。

しかし、イエスさまがかけつけておられる最中に、見知らぬ女性がイエスさまに近づいて来ました。その女性はイエスさまが急いでおられることは理解していたので、邪魔をしてはいけないと遠慮する気持ちを持っていました。しかし、その女性は12年も病気に苦しみ、あらゆる手を尽くしても治らず、生きる望みを失っていましたが、イエスさまが自分の近くをお通りになったのでとにかく手を伸ばし、イエスさまの服に触ろうとして、そのときイエスさまが着ておられたと思われるユダヤ人特有の服装、それは羊毛でできたマント(ヒマティオン)だったと考えられますが、そのマントについていた、糸を巻いて作られた2つの房(タッセル)のうちのひとつをつかんだとき、イエスさまが立ち止まられて「わたしに触れたのはだれか」と探し始められた、という話です。

しかしそのとき、イエスさまには先約がありました。イエスさまのお仕事は客商売ではありませんので「上客」という言い方は当てはまりませんが、教会生活が長く、多大な貢献を果たし、教会内外で多くの人から絶大な信頼を獲得していた方のご家族が危篤であるという一刻の猶予もない状況の中で、まるでイエスさまが寄り道をされているかのように見えることをなさっているのを快く思わなかった人が、そのとき少なからずいたであろうことは、想像するに難くありません。

次のような問い方をすれば、そのときの状況をさらにリアルにご理解いただけるかもしれません。まるでイエスさまは、教会生活が長い信徒のわたしたちは後回しにしてもよいかのようにお考えで、わたしたちなどのことよりも、初めて出会う人とか、通りがかりの人とか、ふだんは教会に来ようともしない人とかばかりに夢中になられ、そういう人たちを優先する方でしょうか、それはわたしたちへの侮辱ではないでしょうかと疑問を抱いた人がいるのではないか、ということです。

このたび私はたいへん興味深い解説を読みました。それは、今日の箇所の46節に、「しかし、イエスは『だれかがわたしに触れた。わたしから力が出て行ったのを感じたのだ』と言われた」とありますが、この「わたしから力が出て行った」というイエスさまのお言葉には、もうひとつの翻訳の可能性がある、という解説です。それは「その力はわたしから出たものだ」という訳です。

私はこのイエスさまの言葉の意味を理解できていませんでした。通りがかりの女性がイエスさまの服に触ったら「わたしから力が出て行った」というのであれば、まるで風船に穴が開いて空気が抜けるようにイエスさまが脱力なさったのだろうかと想像していました。それだとまるでイエスさまが迷惑な通行人がいたものだと認識なさり、しかし私に助けを求めている人がいるようだから仕方ないとでもお考えであるかのようで、腑に落ちたことがありませんでした。

しかし、そういう意味ではないかもしれないと分かりました。「わたしから力が出て行った」のではなく、「その力はわたしから出たものだ」とイエスさまがおっしゃったとしたら、話は変わります。

たしかに、たまたますれ違っただけの人には違いないし、イエスさまには大切な先約があり、急いで駆けつけておられる最中であったことは間違いないけれども、それでもなお、今このとき、この瞬間に、12年もの間、病気に苦しんできた女性に神の力が働き、その人の病気がいやされるというみわざが起こったのだ、その神の力とみわざはこのわたしから出たものであると、イエスさまがその女性のいやしと救いの保証人になってくださった話に変わります。風船から空気が抜けた話ではありません。今このとき、この人を助け、救うことが神の御心であると、イエスさまが公に宣言なさったのです。

しかしその出来事は、最初に申し上げたことを繰り返せば「第二の出来事」であり、「第一の出来事」が起こっている最中にそれを中断する形で割り込んできたものであることに変わりはありません。

教会役員のような存在だったと、先ほど説明しました。ヤイロという男性は「会堂長」(ルーシュ・ハーケセット)と呼ばれるユダヤ教のシナゴーグ(会堂)の管理責任者でした。それは、安息日ごとに行われる礼拝に必要なあらゆる準備の責任者でした。名誉ある職責だったことは間違いありません。

その男性に「12歳ぐらい」の「一人娘」がいて「死にかけていた」(42節)と記されています。その家にイエスさまが駆けつけている最中に「第二の出来事」が起こり、そのために時間も削られ、会堂長ヤイロの危篤の娘さんが息を引き取る時刻までに、イエスさまは間に合いませんでした。

それで、会堂長ヤイロの家から人が来て「お嬢さんは亡くなりました。この上、先生を煩わすことはありません」とイエスさまに伝えに来ました。丁重な物言いですが、「もう来てくださらなくて結構だ」と訪問を断っているようでもあります。ヤイロの中ではもはやイエスさまの存在は不要になっていたし、憎しみや怒りの対象になっていた可能性すらあります。

よく似た話が、ヨハネによる福音書11章に出てきます。弟ラザロの臨終の瞬間に間に合わなかったイエスさまに対してあからさまに腹を立てて非難する姉マルタと妹マリアの物語です。姉マルタも妹マリアも同じ言葉で「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」(ヨハネ11章21節、11章32節)と、イエスさまに抗議しています。まるで「わたしたちの弟が死んだのはあなたのせいです」と言わんばかりです。会堂長ヤイロもイエスさまに、マルタとマリアと同じような感情を抱いたのではないでしょうか。

しかし、イエスさまは、ご自分が遅れたとは全く考えておられません。イエスさまにとっては、事柄は終わっていませんし、始まってもいません。人は死んだらすべて終わりだというお考えが、そもそもありません。イエスさまがヤイロの家に到着なさり、「娘よ、起きなさい」(アラム語「タリタ・クム」)と呼びかけられたとき、その子は起き上がりました。

主は必ず来てくださいます。必ず助けてくださいます。イエスさまは、12年も病気で苦しんでいた女性も、12歳の少女も、どちらも助けてくださいました(両者の「12年」という年数は関係していると思われます)。優先順位を争うのは、イエスさまに求めすぎです。後回しにされたと腹を立てないでください。主は救いの約束を必ず果たしてくださいます。

(2023年6月18日 聖日礼拝)

2023年6月11日日曜日

喜びと真心をもって(2023年6月11日)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13)


讃美歌第2編 26番 ちいさなかごに



「喜びと真心をもって」

使徒言行録2章43~47節

関口 康

「こうして、主は救われる人を日々仲間に加え一つにされたのである」

今日の聖書箇所は、先週の箇所の続きです。先週の箇所には、最初のペンテコステ礼拝で使徒ペトロが行った説教に多くの反応があり、その日に3千人ほどがキリスト教会の仲間に加わったことが記されていました。

もっとも、統計学的な見地から考えれば、最初のキリスト者人口は1千人ほどだっただろうというのが、今年1月8日の説教でご紹介した米国の宗教社会学者ロドニー・スターク教授(故人)の見解です(R. スターク『キリスト教とローマ帝国』新教出版社、2014年)。聖書の言葉を疑うような言い方はしたくありませんが、ひとつの参考意見です。

そして、今日の箇所に記されているのは最初のキリスト教会がどのような活動をしていたかについての比較的詳しい情報です。しかし、今日の箇所だけでなく4章32節以下にも同様の記事がありますので、両方を合わせて情報を整理することが肝要です。以下、箇条書きで整理します。

(1)最初のキリスト教会の人々は一人として持ち物を自分のものだと言う者は無く、すべてを共有していました(4章32節)。

(2)最初のキリスト教会の人々は、心も思いも一つにしていました(2章44節、4章32節)。

(3)最初のキリスト教会の中には自分の財産や持ち物、たとえば自分の土地や家や畑を売却して、教会に献金する人々までいました(2章45節、4章34節、4章37節)。

(4)その自分の不動産を売却した収益金は、教会の中の使徒職にある人々に預けられました(4章35節、4章37節)。

(5)使徒に預けられた献金は、教会内で必要に応じて分配されました(2章45節、4章35節)。

(6)その結果、最初のキリスト教会の中には貧しい人が一人もいませんでした(4章34節)。

(7)しかし、教会の仲間に加わった人々にとって、自分の不動産を売却することは義務ではありませんでした(5章4節)。

(8)さらに教会の中には、実際はすべてでなく一部だけ献金しながら、あたかも全財産を献げたかのように虚偽申告して自分の虚栄心を満たそうとする人々までいました(5章1節以下のアナニアとサフィラの例)。

(9)最初のキリスト教会の人々は、毎日エルサレム神殿の境内地で集会を開いて祈り、さらに家ごとに集まって「喜びと真心をもって」食事をしていました(2章46節)。

(10)そのような最初のキリスト教会の人々の様子を見ていた人々は、彼らに好意を寄せていました(2章47節)。

最初のキリスト教会の人々がこのようなことをしていた動機を想像するのは難しくありません。長い歴史と豊かな伝統を有するユダヤ人社会の中で、それまではだれも信じていなかった教えを受け入れ、新しい信仰共同体としての歩みを始めたばかりの人々は、爪弾きされる存在でした。仕事にありつくことすら、ままなりませんでした。その中で、とにかく互いに助け合って難局を乗り越えて行こうではないかという一心で、共に歩んでいたに違いありません。

しかし、その彼らにも、必ずしも賛成も同意もしてくれない家族や友人がいたでしょう。自分の不動産を売り払ってまで守るべき信仰なのかと周囲の人から問い詰められたに違いありません。けれども、物は考えようです。そもそも私有財産とは何なのかと根本から問い直すときがわたしたちにもあっていいでしょう。新しい信仰共同体に属する者たち同士が、金品を共有し合うほどまでに互いに助け合うことで、難局を乗り越えようとすることがあってもいいでしょう。

現代社会の只中でこのような話をしますと、たちまち非難の的になることは分かっています。しかし、大人も子どもたちも貧困にあえいでいるのに税金ばかり重くなっていく国の中に生きているわたしたちです。自分の子どもたちの教育費に苦しむ家庭も少なくありません。お金を何に使うかは各自に任されています。損得勘定だけで語ることはできません。

それと、これは比較的一般常識として広く知られていることですが、使徒言行録2章や4章に描かれた最初のキリスト教会の実践内容を指して「原始共産制」という名で呼ぶ人々がいます。現代の共産主義の方々にとって、どこまでが共通していて、どこからは違うのかをどのように理解しておられるかは私には分かりません。しかし、はっきりしているのは、最初のキリスト教会のあり方は、どこからどう見ても資本主義の原理とは正反対であるということです。

しかしまた、誤解を避ける必要を、いま私は感じています。最初のキリスト教会の実践内容において、私有財産の放棄そのものが目的でも義務でもなかったことは強調しなくてはなりません。比較対象として挙げうるのは、最初のキリスト教会が活動を始めたのと同じ時代のユダヤ教内部に存在した「クムラン教団」と呼ばれた人々です。彼らは私有財産を拒否しました。結婚することも許されませんでした。ルールを破った人は罰を受けました。

しかし、最初のキリスト教会のあり方は、クムラン教団とは全く正反対でした。イエスさまは独身でしたし、パウロも単身で伝道旅行に出かけました。しかし、ペトロは結婚していましたし、パウロも結婚を奨励こそすれ禁じたことはありません。とはいえ、キリスト教会も長い歴史の中で変質してきた面があることも否定できません。教会が反省すべき点は多々あります。

とにかくはっきりしているのは、教会の活動も奉仕も、最初から今日に至るまで「義務」ではないという点です。義務でないなら何なのかを説明するのは難しいですが、今日の箇所の「喜びと真心をもって」(46節)の意味を考えることによってヒントを得られるように私には思えます。

聖書における「喜び」とは「義務」の反対です。「楽しむこと」や「遊ぶこと」と同義語です。教会は会社でも学校でもありません。外部のルールを持ち込まれても困るだけです。まして国家権力のようなものとは完全に違います。ただ楽しみ、ただ遊ぶために教会は存在します。

「真心」の意味は単純(シンプル)であることです。正直であること、作為も技巧もないこと、作り笑いや下心や二枚舌がないことです。容赦なくずけずけ言えばいいのではありません。大切なのは「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣く」(ローマの信徒への手紙12章15節)ことです。相手の言葉と思いを肯定し、共感することです。相手の言葉や表情の裏側を常に詮索してしまう傾向を持っていると自覚しておられる方は、「裏を取ること」をやめて、相手の発する言葉どおりにまっすぐ受け止めて信頼することです。

教会はそういうところです。たとえば、教会員になるために戸籍や住民票など「証拠書類」の提出を求める教会を、私は寡聞にして知りません。愚者だと言われれば愚者かもしれませんし、最もだまされやすいタイプかもしれません。しかし、互いにそれができるようになれば、教会は最も安心できる場所になります。他のどこでも得られない喜びと安心を得ることができます。

(2023年6月11日 聖日礼拝)

2023年6月4日日曜日

悔い改めと赦し(2023年6月4日)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13)


讃美歌21 494番 ガリラヤの風

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「悔い改めと赦し」

使徒言行録2章37~42節

関口 康

「すると、ペトロは彼らに言った。「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。』」

先週私は体調不良で大切なペンテコステ礼拝を欠席し、秋場治憲先生にすべての責任をお委ねしました。ご心配をおかけし、申し訳ありません。私はもう大丈夫ですので、ご安心ください。

キリスト教会の伝統的な理解としては、わたしたちの救い主イエス・キリストは、もともと神であられましたが、母マリアの胎から人間としての肉体を受け取ることによって人間になられた方です。その人間としての肉体を受け取ることを「受肉(じゅにく)」と言います。

しかし、キリストは人間になられたからといって神であられることを放棄されたわけではなく、神のまま人間になられました(フィリピ2章6節以下の趣旨は「神性の放棄」ではありません)。そしてキリストは十字架と復活を経て、今は天の父なる神の右に座しておられますが、人間性をお棄てになったわけではなく、今もなお十字架の釘痕(くぎあと)が残ったままの肉体をお持ちであると教会は信じています。不思議な話ですが、これこそ代々(よよ)の教会の信仰告白です。

それに対して、聖霊降臨(せいれいこうりん)の出来事は、順序が逆です。もともと人間以外の何ものでもないわたしたちの中に父・子・聖霊なる三位一体の神が宿ってくださるという出来事です。わたしたち人間の体と心の中に神であられる聖霊が降臨するとは、そのような意味です。

昨年11月6日の昭島教会創立70周年記念礼拝で、井上とも子先生がお話しくださいました。井上先生が力強く語ってくださったのは、わたしたちが毎週礼拝の中で告白している使徒信条の「われは聖なる公同の教会を信ず」の意味でした。わたしたちは父なる神を信じ、かつ神の御子イエス・キリストを信じるのと等しい重さで「教会を信じる」のであると教えてくださいました。私もそのとおりだと思いました。

教会は人間の集まりであると言えば、そのとおりです。「教会を信じる」と言われると、それは人間を神とすることではないか、それは神への冒瀆ではないかと警戒心を抱かれる方がおられるかもしれません。しかし、聖霊降臨の意味は、わたしたち人間の体と心に聖霊なる神が宿ることですから、矛盾はありません。教会は「神」ではありませんが、神の御心を体現する存在です。

ただし、教会は多くの人によって構成されています。イエス・キリストはただおひとりです。しかし、教会は二千年前から今日に至るまでのすべてのキリスト者によって構成されています。今は天の御国におられる雲のように多くの信仰の先達と地上に残るわたしたちが一緒に集まって会議を開いたり、くじを引いたり、じゃんけんしたりすることはできませんが、教会の意志決定はいわばそのような形で行われます。いま地上にいる者たちだけの多数決で決められることは、ひとつもありません。聖なる公同の教会が簡単に人の手に落ちることはありません。聖霊なる神を宿すすべてのキリスト者が教会の過去・現在・未来においてひとつとなり、神の御心をたずね求めつつ、共に生きて行きます。教会の伝統を重んじるとは、そのようなことです。

今日の聖書箇所に記されているのは、最初のペンテコステ礼拝でなされた使徒ペトロの説教を聴いた人々の反応と、それに対するペトロの答えです。

ペトロはそこに集まった多くの人々に二度、「あなたがたがイエスを十字架につけて殺した」と言いました。「あなたがたは律法を知らない者たちの手を借りて、(イエスを)十字架につけて殺してしまったのです」(23節)、「あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです」(36節)とあるとおりです。

ペトロの説教に人々は激しく動揺しました。わたしたちがメシアを殺してしまったというのが事実であれば神の裁きを免れないと恐れたに違いありません。人々はペトロとほかの使徒たちに「兄弟たち、わたしたちはどうしたらよいのですか」と言いました。

神の言葉の説教を聴いた人々が「それでは、わたしたちはどうしたらよいのですか」と説教者に問い返す例が新約聖書の中にいくつかあります。たとえば、ルカによる福音書3章7節以下において、洗礼者ヨハネに対して群衆が「それでは、わたしたちはどうしたらよいのですか」と、三度も繰り返し問うています(ルカ3章10節、12節、14節)。また、言葉づかいは少し違いますが、使徒言行録16章で、使徒パウロがフィリピの牢で出会った看守がパウロとシラスに対して「先生方、救われるためにはどうすべきでしょうか」(使徒16章30節)と問うています。

その使徒言行録16章におけるパウロの答えは「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます」(使徒16章31節)でした。今日の箇所のペトロの答えは「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます」(38節)です。

ペトロの答えとパウロの答えは、趣旨が同じとも言えますし、違うとも言えます。自分の罪を悔い改めて罪を赦していただくことと、イエス・キリストを信じて救われることは別々に扱おうと思えばできなくありませんし、そうしたい気持ちがわたしたちに起こらないとも限りません。なぜなら、自分の罪を悔い改めるためには、その前に自分が罪人であることを認め、自分の罪を真摯に直視しなければなりませんので、そこに心の痛みが生じるからです。

心の痛みを避けたい人は悔い改めることができません。もし可能なら、自分の罪を認めることも直視することもせずに、悔い改めないまま、ありのままの私のままでイエス・キリストの愛と恵みのうちに受け入れられて救われるほうがありがたいに決まっています。

ここで語られている「悔い改め」(メタノイア)とは、罪から目を背け、間違った方向から向きを変え、新しい方向に進むことを意味しています。イエス・キリストも洗礼者ヨハネも、人々に「悔い改め」を迫りました(マタイ3章2節、4章17節)。その教えをペトロが受け継ぎました。パウロは受け継がなかったでしょうか。パウロは「悔い改めを求めない信仰と救い」を教えたでしょうか。私はそのように考えることはできません。パウロもイエス・キリストの弟子です。

「悔い改めなさい。洗礼を受けてください。罪を赦していただきなさい」というペトロの言葉は、今のわたしたちにも語りかけられています。すでに洗礼を受けている方々が二度目の洗礼を受ける必要はありません。自分の罪を認めて直視する痛みを避けず、自分の行動を変更する勇気をもって生きるとき、イエス・キリストの愛と恵みが、わたしたちの心に深く沁みます。

(2023年6月4日 聖日礼拝)