2022年12月25日日曜日

キリストの降誕(2022年12月25日 降誕節礼拝)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13)

もろびとこぞりて
奏楽・長井志保乃さん 字幕・富栄徳さん

「キリストの降誕」 

ルカによる福音書2章1~12節

関口 康 

 「いと高きところには栄光、神にあれ。地には平和、御心に適う人にあれ。」 

 (2022年12月25日 降誕節礼拝)

2022年12月24日土曜日

クリスマスの意味(2022年12月24日 イヴ礼拝)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13)


「クリスマスの意味」

マタイによる福音書2章1~12節

関口 康

「家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して御子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた」

クリスマスおめでとうございます。クリスマスはわたしたちの救い主イエス・キリストのご降誕をお祝いする日です。

イエスさまがお生まれになった場所はユダヤのベツレヘムです。ベツレヘムは現在のイスラエル国の首都エルサレムから8キロ南に下ったところにあります。

イエスさまがお生まれになった年号は正確には分かりません。ぴったり「2022年前」ではないとされます。現在の歴史家は「紀元前7年から4年までの間」と推定しています。

今夜の聖書の箇所に登場するのは、東の国の占星術の学者たちです。その国はおそらくバビロニア(現在のイラク南部)です。

その人たちが、聖書を調べた結果としてではなく、自分たち自身が取り組んできた「占星術」という方法で、ユダヤのどこかに救い主がお生まれになるに違いないと確信し、バビロニアからエルサレムまで、そしてイエスさまがお生まれになったベツレヘムまで砂漠の中を旅してきた、というのが今夜の聖書の箇所の物語です。

バビロニアからエルサレムまでは1600キロ。1600キロは青森市から山口県下関市まで。新幹線でも大変、ラクダならもっと大変な旅です。

占星術の学者たちは、イエスさまに黄金、乳香、没薬を贈りました。「黄金」は王への贈り物(詩編72編15節)、「乳香」は古代世界で香水にするか、燃やして良い香りを得るためかに用いられました。「没薬」は、亡くなった人に塗る薬。

今夜の聖書の箇所の物語で分かるのは、イエスさまを最初に拝みに来た東の国の学者たちは、聖書を一生懸命勉強してきたわけではなく、聖書の神さまを信じていたわけでもなく、むしろそういうこととは全く無関係に生きて来た人たちだった、ということです。

しかし、それでも片道1600キロの砂漠の旅に出かけようとこの人たちが考えたのは、実際に現地に行ってみなければ事実かどうか分かるわけがないことを、実際に行ってみて自分の目で確かめなければならないと考えた、勇気と冒険心を持つ人たちだったからです。

わたしたちの人生も、途中、何度となく大きな壁にぶつかることがあります。この先、私は、私たちは、どうなるか分からなくて不安になります。

そのときわたしたちに必要なのは、勇気と冒険心です。イエスさまを訪ねてやってきたバビロニアの学者たちの勇気と冒険心からわたしたちが学べることは多いです。

これから何か大きな壁にぶつかったとき、今夜の聖書の箇所を思い出してください。そして、何度も聖書を読んでみてください。

教会は、そのようにして生きて来た人々の集まりです。初めから信仰を持っていたから教会に来たのではなく、悩んで苦しんで教会にたどり着いたのです。

(2022年12月24日 クリスマスイヴ音楽礼拝)

2022年12月11日日曜日

信仰と忍耐(2022年12月11日 聖日礼拝)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13)

讃美歌21 231番 久しく待ちにし
奏楽・長井志保乃さん 字幕・富栄徳さん


「信仰と忍耐」
ルカによる福音書1章5~25節

関口 康

「彼はエリヤの霊と力で主に先立って行き、父の心を子に向けさせ、逆らう者に正しい人の分別を持たせて、準備のできた民を主のために用意する」

今日は待降節第3主日です。4本のロウソクすべてが点るのがクリスマス礼拝、というのがだいたい例年の流れですが、今年のクリスマス礼拝は来週ではなく再来週です。そういう年もあります。

今日の朗読箇所はルカによる福音書1章5節から25節です。ここに描かれているのは洗礼者ヨハネの誕生が天使ガブリエルによって予告されたときのことです。

洗礼者ヨハネは、多くの人に洗礼を授けた人です。洗礼そのものに重いとか軽いとかの差はないと言わなくてはなりません。しかし、ヨハネが世界と教会の歴史において果たした役割という観点からいえば、イエス・キリストに洗礼を授けた人であることは特筆すべきです。

しかも、ヨハネの役割は、多くの人々をイエス・キリストへの信仰へと導く道備えをすることにありました。その意味でイエス・キリストの先駆者としての働きがヨハネに与えられました。

新約聖書に4つある「福音書」の中で特にルカによる福音書は、まずヨハネの誕生を詳しく描いたうえでイエス・キリストの誕生を詳しく描くことによって2人の関係の深さを強調しています。

洗礼者ヨハネとイエス・キリストの共通点は同じ時代に生きたことです。「ユダヤの王ヘロデの時代」(5節a)です。マタイによる福音書も「ヘロデ王の時代」(2章1節)と記しています。

このヘロデは「ヘロデ大王」です。ユダヤ人でしたが、ローマ皇帝(ユリウス・カエサルの後継者の初代皇帝アウグストゥス)と友好関係になることで、パレスチナ全土の支配者になりました。

ヘロデの治世は紀元前37年から紀元4年までの41年間です。エルサレム神殿の改築に取り組んだ人ですが、猜疑心の強さから多くの人を殺害したことでも知られる悪名高い王です。

「アビヤ組の祭司にザカリアという人がいた。その妻はアロン家の娘の一人で、名をエリサベトといった」(5節b)。このザカリア(ヘブライ語でゼカリヤ)とエリサベトがヨハネの両親です。

エリサベトが「アロン家の娘の一人」であるという説明は祭司の家庭で生まれ育った人であることを意味します。ユダヤ教の律法と伝統によれば、祭司である男性は必ず祭司家庭出身の女性と結婚しなければならなかったわけではありません。

しかし、この夫婦は「二人とも神の前に正しい人で、主の掟と定めをすべて守り、非の打ちどころがなかった」(6節)と言われるほど、当時のユダヤ教の考え方に照らして理想的な夫婦とされました。

「祭司」がどのような働きを担う人たちだったのかが、8節以下に記されています。それは要するにエルサレム神殿の礼拝祭儀にかかわる様々な働きです。ただし「祭司」と「祭司長」は区別されます。

「祭司長」はエルサレムに住まなくてはならず、日常的に神殿で働いていました。しかし「祭司」は、どこに住んでもいいし、ふだんは別の職業に就いていても構いませんでした。

「祭司」は24組に分けられ、年2回、1週間、安息日から安息日まで、エルサレム神殿で奉仕しました。奉仕の内容はくじで決めました。特に人気があった仕事が「主の聖所で香をたくこと」(9節)でした。なぜ人気があったのかといえば「祭司」の人数が非常に多かったためで、人生で1度以上この奉仕当番がめぐって来ることはありえなかったからです。ザカリアはその当たりくじを引きました。

しかし、ザカリアと妻エリサベトは心に重荷を負っていました。理由は、子どもが与えられないことでした。あくまで当時の話ですが、子どもがいないというだけで中傷誹謗を受けました。子どもが多く生まれること、特に男子が生まれることが神の特別な祝福とみなされました。反対に、子どもがいないことは神の罰だと考えられました。そういう社会の中で、この夫婦は苦しい立場に置かれていました。

ところが、そのザカリアとエリサベトの身に大きな出来事が起こりました。ザカリアが当たりくじを引いてエルサレム神殿で香をたいていた最中に、神秘的な体験をしました。

主の天使ガブリエルがザカリアに「恐れることはない。ザカリア、あなたの願いは聞き入れられた。あなたの妻エリサベトは男の子を産む。その子をヨハネと名付けなさい。その子はあなたにとって喜びとなり、楽しみとなる。多くの人もその誕生を喜ぶ」(13節)と言いました。

日本語訳を読むだけでは分からないことですが、「喜び」と訳されているギリシア語は特別な意味を持っている、と解説されていました。世界の終末において世界と人類が完成するとき、神と我々人間が共に分かち合う喜びです。ヨハネの誕生にそれほどの大きな意味があると天使が教えてくれました。

天使が続けます。「彼は主の御前に偉大な人になり、ぶどう酒や強い酒を飲まず、既に母の胎にいるときから聖霊に満たされていて、イスラエルの多くの子らをその神である主のもとに立ち帰らせる」(15~16節)。当時のユダヤ教で「ぶどう酒と強い酒」はイスラエルが神から離れていることの象徴でした。それを絶対に(ウー・メー)飲まないことは、神の前で強い誓いを立てることを表しました。

そして、「彼はエリヤの霊と力で主に先立って行き、父の心を子に決めさせ、逆らう者に正しい人の分別を持たせて、準備のできた民を主のために用意する」(17節)と主の天使ガブリエルは言いました。

この「エリヤ」は、紀元前9世紀の北イスラエル王国で活躍した預言者です。なぜ「エリヤ」の名が出てくるのかと言えば、エリヤは真の神に背を向けて邪神バアルを神とする道へと走ったユダヤ人を真の信仰へと戻した預言者だからです(列王記上18章参照)。

エリヤの働きの特質は、民の進む方向を180度、正反対の方向へと向けかえることでした。それが「悔い改め」すなわち「回心」の意味です。このエリヤの働きをこれから生まれるヨハネが体現すると、父ザカリアに天使ガブリエルが告げました。

驚くべき知らせに、ザカリアは戸惑い、疑う思いさえ抱き、自分も妻ももう老人なので今さら子どもが生まれることはありえないと考え、そのようにガブリエルに言ったところ、ヨハネが生まれるまで口をきけなくされてしまいました。

妻エリサベトは自分が身ごもったとき、「主は今こそ、こうして、わたしに目を留め、人々の間からわたしの恥を取り去ってくださいました」(24節)と言いました。

「よい知らせ」(19節)の意味は「福音」です。これはローマ皇帝を賛美するために用いられた言葉でした。それが全く異なる意味で用いられています。真の神はローマ皇帝ではなくイエス・キリストであり、イエス・キリストの道備えをするのが洗礼者ヨハネです。

そのことを主の天使ガブリエルが告げました。ローマ皇帝とヘロデ大王の二重支配のもとで苦境に陥り、忍耐している人々に真の解放、真の救いをもたらすことを、神が天使を通して約束してくださいました。

だれもがみなこの夫婦のようになれるわけではないかもしれません。彼らは子どもが与えられないことで中傷誹謗を受け、苦しみました。その彼らに神が報いてくださいました。

苦しみを忍び、信仰をもって歩む人々を、主は決してお見捨てになりません。そう信じて生きようではありませんか。

(2022年12月11日 聖日礼拝)

2022年12月4日日曜日

主の恵みの福音(2022年12月4日 聖日礼拝)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13)
讃美歌21 231番 久しく待ちにし
奏楽・長井志保乃さん 字幕・富栄徳さん

礼拝開始のチャイムはここをクリックするとお聴きになれます


「主の恵みの福音」

ルカによる福音書4章14~30節

関口 康

「そこでイエスは、『この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した』と話し始められた」

今日の箇所に記されているのはイエスさまの宣教活動初期に起こった出来事です。「イエスは〝霊〟の力に満ちてガリラヤに帰られた」(14節a)とあります。このように言われる場合の「ガリラヤ」は広い意味です。パレスチナの北部一帯を指していると言えますし、「ガリラヤ」という言葉には「周辺」すなわち「地方」を意味すると説明されます。

ですから「その評判が周りの地方一帯に広まった」(14節b)とあるのは、ガリラヤという名前の町があって、そこから近隣地域へ広まったという意味ではありません。「イエスはお育ちになったナザレに来て」(16節)も、ガリラヤという町からナザレという村へ移動されたという意味ではありません。ガリラヤ地方の中にナザレという村があり、そこへ行かれました。

「イエスは諸会堂で教え、皆から尊敬を受けられた」(15節)とあるのも、ガリラヤ地方にユダヤ教の会堂(シナゴーグ)がいくつかあり、それらを巡回されて聖書の教えをお語りになることにおいて、みんなから尊敬される存在であられたということです。

しかし、それではなぜ、イエスさまがガリラヤ地方を最初の伝道拠点になさったのか、その理由は何でしょうか。考えられる理由が2つあります。

ひとつは、「周辺」や「地方」や「田舎」と言える地域から伝道することで、首都エルサレムや他の大都市のようなところで起こるのとは異なる、人と社会をめぐる様々な問題があるので、その問題にイエスさまが取り組もうとされたのではないかということです。あえてタイトルをつければ、イエスさまが「田舎伝道」に意義を見出された可能性です。

しかし、もうひとつ考えられる理由があります。ガリラヤ地方がイエスさまが幼少期を過ごされた故郷だったからです。つまり「郷里伝道」です。自分の親、兄弟、親戚、子どもの頃からの友人たち、同じ方言を使う人たち。その人たちに伝道したいとイエスさまが願われた可能性です。

どちらの可能性も否定できません。しかし、今日開いているルカによる福音書を読む限りにおいては、どちらかというと後者「郷里伝道」をイエスさまが願われた可能性が前面に出ています。たとえば、16節に「イエスはお育ちになったナザレに来て、いつものとおり安息日に会堂に入り、聖書を朗読しようとしてお立ちになった」とあります。「お育ちになったナザレ」という言葉でナザレがイエスさまの故郷であることが強調されています。

「いつものとおり」は「慣例に従って」とも訳せる言葉ですが、このときの状況を鑑みると、イエスさまが物心つく頃から家族と共に通ったシナゴーグの昔ながらのあり方を踏襲してというニュアンスを読み取れます。イエスさまは宣教活動を開始されたのが30歳。30年程度では教会はやり方を変えません。50年でも100年でも、同じ讃美歌を歌い、同じ聖書を読み、同じ順序の礼拝を行います。

ナザレの会堂でイエスさまが聖書朗読のためにお立ちになり、「預言者イザヤの巻物が渡され」、お開きになりました(17節)。当時の会堂(シナゴーグ)の礼拝は、信仰告白(シェマー)、祈り、律法と預言者の各朗読、そして説教もしくは自由なお話で構成されていました。

すべてのユダヤ人男性は、律法の一部の朗読後、預言者の一部を朗読する権利がありました。律法の朗読は連続的な箇所が朗読されましたが、預言者は朗読者が自分で朗読箇所を選ぶならわしでした。つまり、このときイエスさまが開かれたイザヤ書は、ご自身がお選びになった箇所だということです。

そして、その箇所をイエスさまがご自身で声を出して朗読されました。「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである」。

ただし、これがイザヤ書のどこかを探すのは難しいです。ひとつの箇所ではなく、いくつかの箇所をお読みになったからです。イザヤ書61章1節、58章6節、61章2節です。そしてイエスさまは巻物を巻いて係の人に返し、席に座られました。臨場感がある描写です。

イエスさまご自身が意図的にこのようにお読みになったのか、それともルカが要約しているのかは、どちらの可能性もあります。しかし、イエスさまが強調しようとされた核心部分が何であるかは明白です。それは「貧しい人に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれた」という点です。

「貧しい」の他に「捕らわれている人」、「目の見えない人」「圧迫されている人」についても語られています。しかし、それらの人々も「貧しさ」と無関係とは言い切れませんし、「解放」と「視力」と「自由」を手に入れるのはその人々です。それは「心の貧しさ」(マタイ5章3節)でも物質的・金銭的な貧しさでもあります。「貧しさ」の中で傷つき、苦しみ、絶望している人々が解放され、自由を与えられることが「救い」であり、それが「主の恵みの年」を告げることだとイザヤ書が記しています。

この「主の恵みの年」は旧約聖書レビ記25章に規定された「ヨベルの年」を指します。ユダヤ人が奴隷の地エジプトから解放されたことを記念する50年ごとのお祝いの年。「7年×7=49年」の翌年。

そして、イエスさまは「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき実現した」と言われました。すると、そこにいた人々はイエスさまのことを「ほめ」、イエスさまの言葉に「驚き」ました。しかし、彼らの反応はそれだけでした。それ以上は何もしませんでしたし、それどころか、「この人はヨセフの子ではないか」と言い出しました。

この反応はイエスさまに対する疑問や反発です。大工の子ではないか、聖書の専門家ではないではないか。そんな人が「この聖書の言葉が今日実現した」とか言っている。実現できる力をお前ごときが持っているはずがない。お前のことは赤ん坊の頃から知っている、幼馴染み、同郷のよしみだと思っていたのに、我々に上から目線で指図するのはやめてくれと身構え始めている様子がうかがえます。

そのことをお察しになったイエスさまがおっしゃった言葉が「預言者は、自分の故郷では歓迎されないものだ」(24節)です。「自分の故郷」で神のみことばを語る人が嫉妬や嘲笑を受けやすい立場に置かれるのは昔も今も変わりません。横並びの関係だと思っていた相手に前に立たれると困るのです。

今日の箇所から学べることは「伝道の難しさ」かもしれません。イエスさまにとっても「郷里伝道」は難しいことでした。故郷の人々に殺されそうになりました。最も近い関係の相手にこそ、最も伝道が難しい。それはわたしたちも繰り返し体験してきたことです。

何が伝道の障害なのかをよく考えなくてはなりません。わたしたち自身の心が伝道を妨害している可能性があります。みことばを語る人に対する嫉妬ややっかみのような感情が心の中に渦巻いていると、素直に聞くことができないかもしれません。

しかし、「だれが語るか」よりも、「何が語られ、何を信じるか」が大事です。聖書の御言葉がおのずから働くその力を信じることが大事です。わたしたちはだれから算数を学んだでしょうか。小学校時代の先生の名前を思い出せなくても、算数ができればそれでいいのです。それと同じです。

(2022年12月4日 聖日礼拝)