2021年11月21日日曜日

信仰を受け継ぐ(2021年11月21日 主日礼拝)

収穫感謝礼拝(2021年11月21日)
讃美歌21 358番 小羊をばほめたたえよ! 奏楽・長井志保乃さん 字幕・富栄徳さん

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「信仰を受け継ぐ」

サムエル記上16章5b~13節

関口 康

「サムエルは油の入った角を取り出し、兄弟たちの中で彼(ダビデ)に油を注いだ。その日以来、主の霊が激しくダビデに降るようになった。サムエルは立ってラマに帰った。」

先週の説教の冒頭で申し上げたことを繰り返します。いま私が毎週の聖書箇所を決めるために用いている日本キリスト教団聖書日課『日毎の糧』で、クリスマスの前に旧約聖書を取り上げることになっていることには意味があります。

イエス・キリストのご降誕をお祝いするのがクリスマスです。イエス・キリストのご降誕には旧約聖書に示された神の約束が実現したという意味があります。その意味を明らかにするために、クリスマスの前に旧約聖書を学ぶことが大事です。

信仰の父アブラハムから始まるイスラエルの歴史の中で待ち望まれたキリストが本当に来てくださったと、十字架にかかって死に、三日目に復活されたナザレ人イエスと初めて出会った人々が信じました。イエス・キリストは苗字と名前ではありません。「旧約聖書に約束されたキリストがこのイエスである。このイエスこそあのキリストである」という関係をあらわす言葉です。

「イエス」は固有名詞です。「キリスト」はいわば肩書きであり、職務です。「キリストという仕事」があるという意味になります。そのことを具体的にあらわすために、イエスとキリストの間に中黒(・)ではなく、等号(=)を書く人がいます。新約聖書の中にも「イエス・キリスト」という語順だけでなく、「キリスト・イエス」と逆になっている箇所があります(ローマの信徒への手紙1章1節、テサロニケの信徒への手紙一2章14節、テトスへの手紙1章4節など)。

しかし、日本語の旧約聖書のどこを開いても「キリスト」は出てこないではないかと思われる方がおられるかもしれません。それは日本語の聖書だからです。「キリスト」はギリシア語ですが、旧約聖書はヘブライ語で書かれました。ヘブライ語の「メシア」(マーシアハ)のギリシア語訳が「キリスト」(クリストゥス)です。メシアは旧約聖書に登場します。「旧約聖書にはキリストは出てこない」という説明は間違いです。しっかり登場しています。

しかも旧約聖書に「メシア」はたくさん出てきます。たとえば、今日開いている聖書の箇所にまさに出てきます。旧約聖書の「メシア」の意味は「油を注がれる者」という意味です。この意味の「メシア」が「キリスト」です。言い方を換えれば、旧約聖書に「油を注がれる者」と記されている箇所のすべてを「キリスト」と訳しても間違いではないということです。

今日の箇所はサムエル記上16章です。何人かの人が登場しますが、この中で特に重要な人物はサムエル、サウル、ダビデ、エッサイの4人です。サムエルは預言者です。サウルはイスラエル王国の初代国王です。ダビデは第2代国王です。エッサイはダビデの父親であり、羊飼いです。

この4人の中に3人「キリスト」がいます。サムエルもサウルもダビデも「キリスト」です。それは、この3人は「油を注がれた者」(メシア)であるという意味です。この3人だけが「油を注がれる者」(メシア)であるという意味ではありません。旧約の時代には、預言者、王、祭司の3つの職務に就く人々の頭に油が注がれました。それらすべての人が「キリスト」です。

今日の箇所に記されているのは、預言者サムエルがイスラエル王国の初代国王のサウルに油を注いだけれども、サウルが職務を継続するのが不可能になったために、サウルを退け、サウルの代わりに新しい王としてダビデを選び、ダビデの頭に油を注いだ場面です。

最初に申し上げたとおり、イスラエル民族の歴史はアブラハムから始まりましたが、最初は遊牧民の一家族にすぎませんでした。しかし、神の約束の通り、空の星の数ほど、大地の砂粒の数ほど、数えきれない多くの子孫を与えられ、ついにひとつの国家を作ることになりました。

それで、預言者サムエルが王国としてのイスラエルを率いる初代国王になるサウルの頭に油を注ぎましたが、サムエルはイスラエルが王国になることに否定的でした。そのことがサムエル記上8章にはっきり記されています。ぜひじっくり読んでみていただきたいです。

サムエルはなぜイスラエルが王国になることに対して否定的だったかといえば、イスラエルは本来的に信仰共同体であるべきであるという認識をサムエルが持っていたからです。信仰共同体の勢力が増したからといって国家になり、政治の共同体になってしまうと、「神」を信じる信仰が、いつの間にか、強いリーダーシップと権力を持つ「人間」への信頼や期待に置き換えられ、それによって共同体の内実が変質してしまうからです。

教会も同じです。教会に集まる人々は、神への信仰を求めて集まります。しかし、教会の勢力が拡大してくると、強いリーダーシップや権力を持つ人が、おのずから登場する面があるのと、そのようなリーダーをみんなが要求しはじめる面もあり、教会の内実が変質します。神に従っているのか、強いリーダーに従っているのかが分からなくなってしまうのです。

しかし、イスラエルの人々の中から強いリーダーを求める声が強くなり、それに逆らうことができなくなったので、サムエルは王を選ぶことにし、初代の王としてサウルに油を注ぎました。サウルは最初の頃は良かったのですが、高齢になって晩節を汚す言動を繰り返すようになったので、サムエルがサウルに代わる2代目の王を探すことになりました。

それで、サムエルは羊飼いだったエッサイの子どもたちの中からダビデを選び、その頭に油を注ぎました。サウルは自分が職務から退けられ、自分の代わりにダビデが新しい王になることを知ったとき、嫉妬にかられて怒り、ダビデを殺そうとします。しかし、ダビデは、自分がサウルから殺されそうになったときも、その後も一貫してサウルに対する敬意を持ち続けました。

なぜダビデが自分のことを殺そうとまでする先代の王サウルに対して敬意を持ち続けることができたのかといえば、その理由がまさに「サウルは油を注がれた人だから」ということでした。そのことがはっきり記されているのがサムエル記上26章です。「主が油を注がれた方に、わたしが手をかけることを主は決してお許しにならない」(11節)とダビデが語っています。

ダビデはサウルの人間性やリーダーシップを尊敬したのではありません。その面には失望し、軽蔑すらしていたでしょう。しかし、ダビデは最後までサウルを尊敬しました。それがダビデにできたのは、サウルが「油を注がれた者」であること、つまり、神がなされた行為に対する畏れと信仰を最後まで重んじたからです。

教会も同じです。これからも教会の歴史は続いていくでしょう。それはいま生きている私たちの信仰を、次の世代の人々が受け継いでくれることを意味します。しかしそれは、今の私たちを尊敬してほしいと次の世代の人々に要求することとは違います。「私たち」でなく「神」を信じてほしいと願うだけです。その点が不明であれば次の世代の人々の中に不信感が生まれます。

(2021年11月21日 主日礼拝)