日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13) |
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「神の民」
創世記15章1~15節
関口 康
「主は彼を外に連れ出して言われた。『天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみるがよい。』そして言われた。『あなたの子孫はこのようになる。』」
今日は「昭島教会創立69周年記念礼拝」です。今日の週報に記しましたように、1952年11月2日に日本キリスト教団昭和町伝道所として最初の礼拝を守り、今年は数えて69年になります。
昭島教会50周年誌『み足のあと』(2002年)の「年表」によると、1952年11月2日の週報が「第1号」です。そして今日の週報が「第3593号」です。それは3593回の聖日礼拝が行われたことを意味します。最初の礼拝から今日まで69年間、石川献之助先生が昭島教会の伝道と牧会を続けて来られました。途中で一度隠退されましたが、協力牧師の立場にとどまられ、その後主任牧師に復帰されました。今年からは名誉牧師になられました。
ただし、今日の礼拝を含めた3593回の礼拝の中に、昨年(2020年)4月からたびたび出された緊急事態宣言との関係で「各自自宅礼拝」として行った回が含まれています。週報についても、合併号を作成して発行部数を少なくした時期もありますが、礼拝の回数は間違っていません。
しかし、『日本基督教団年鑑』では昭島教会の設立日は「1951年4月30日」であるとされています。そのとおりであれば、今年は創立70周年です。なぜこの違いが生じたのでしょうか。これも昭島教会50周年誌に答えがあります。教団年鑑記載の「1951年4月30日」は青梅教会の久山峯四郎牧師が兼務担任教師として昭和町伝道所の設立届を提出した日です。しかし教会員はゼロでした。だれもいないところに石川先生が招聘されました。そして最初の礼拝を行ったのが69年前の「1952年11月2日」ですので、その日が創立記念日であることに十分な理由があります。
この問題には「教会とは何か」という根本的な問いが含まれています。『み足のあと』によると、昭和町に阿佐ヶ谷教会員の石黒トヨ姉と淀橋教会の本多弥蔵兄がおられ、両家が集まる家庭集会で「この地に教会が与えられるように」と祈りがささげられていました。
また在日米軍横田基地で働いていた近藤駿兄が基地内教会で洗礼を受け、昭和町で街頭子ども会を開いていたのを基地内教会のチャプレンのハプソン氏が応援して、献金を集めて木造の教会堂を八清公園に建てて、日本キリスト教団東京教区に寄贈しました。それを教会にしようと考えた東京教区伝道委員会が、久山先生に伝道所設立届を出してもらったというわけです。
それが「教会」なのかというと、そうではありません。それがわたしたちの立場だと私は理解します。建物があるから、この地に教会が与えられるようにと祈っていた人々がいたから、伝道所設立届が教団に受理されたから、だから「教会」なのか。そうではありません。69年前の今日は石川先生が専任教職として赴任された日でもありません。最初の聖日礼拝が行われた日です。この「礼拝が行われた」という生きた事実が出発点であるという理解に立つことが重要です。
しかしまた、今申し上げた理解に立って「教会」をとらえることは、わたしたちにとっては、ある意味で厳しい問いと絶えず向き合っていることも意味します。なぜなら、あえて逆の考え方をすると、もし日曜日にだれも集まらず、「礼拝」を行うことができなくなったら、それが「教会」の終わりであることを意味せざるをえないからです。
そのような日が来ることはありえないとどうして言えるでしょう。牧師である者たちのみんながみんな同じではないかもしれませんが、教会の皆さんに対して失礼な言い方に違いなくて申し訳ありませんが、土曜日を迎えるたびに「明日の礼拝に、もしだれもいなかったらどうしよう」と悩む牧師は、たぶん少なくありません。私がどう思うかは言わないでおきます。内緒です。
石川先生は69年間、その問いと向き合ってこられたはずです。私も牧師の末席を汚す者として、どれほどのプレッシャーであるかを知らずにはいません。私の言動のせいで、あの人もこの人もつまずいて礼拝に来られなくなってしまった、と悔いる思いは、私にもあります。
しかし、今申し上げたことは、言わないほうがよかったもしれないと、言ったそばから悔いています。これはやはり、教会の皆さんに対して失礼な言い方です。まるで牧師がひとりで教会を切り盛りしているかのようです。それは甚だしい誤解です。牧師ひとりでは何もできません。
今日は「昭島教会の」69歳の誕生日です。それは、教会の皆さんの汗と涙の歴史を思い起こし、それでも教会は生きていること、そして、生きた礼拝が今日まで続けられてきたし、これからも続けられていくであろうことを喜び、感謝し、お祝いする日であることを意味します。
それはまた、別の観点から言い直せば、昭島教会に連なるわたしたちひとりひとりの「信仰」の問題であると言えます。わたしたちに問われているのは、今日朗読した聖書の箇所に登場するアブラハムが神から問われた「信仰」と本質的に同じです。
アブラハムはイスラエル民族の初代族長です。アブラハムは生まれ故郷を離れ、妻サラと共に旅人になります。生まれ故郷は異教の神々が礼拝される異教の地でした。そこから飛び出して、真の神を信じる信仰を求めるために旅を出かけたとも言われます。
そのアブラハムに神さまが「あなたを大いなる国民にする」(創世記12章2節)という約束をしてくださいました。その約束の意味は、多くの子孫を与えるということでした。
しかし、その約束を示されてから何年経ってもアブラハムと妻サラとの間に子どもが与えられませんでした。神の約束を疑う思いを抱いた日が全く無かったわけではありません。その疑いの言葉が今日の箇所にも記されています。「わが神、主よ。わたしに何をくださるというのですか。わたしには子供がありません」(2節)。あの約束は嘘だったのですかと。
アブラハムに神が改めて約束してくださいました。「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみるがよい。あなたの子孫はこのようになる」(5節)。この約束をアブラハムは信じ、その信仰を神さまが「彼の義と認められた」(6節)と記されています。
アブラハムが生きていた時代は紀元前2000年頃だと考えられています。今から4000年前です。そう考えると途方も無い昔の話に思えます。しかし、そのアブラハムのことを今から2000年前の使徒パウロがローマの信徒への手紙の4章で大きく取り上げています。特に「アブラハムの子孫」の意味は、彼の血縁関係にあるユダヤ人だけでなく、「信仰を受け継ぐ者」のことであり、イエス・キリストへの信仰を持つ「わたしたち」のことだと書いています。
その線で言えば、今日のわたしたち「教会」は「アブラハムの子孫」です。わたしたちが週末を迎えるたびに「明日の礼拝にひとりもいなかったらどうしよう」と悩む思いと、アブラハムが神の約束を疑った思いは本質的に同じだということです。だとしたら、わたしたちもアブラハムのように、星の数ほど多くの人と共に礼拝をささげる日が訪れることを信じようではありませんか。先週の永眠者記念礼拝で覚えた132名の信仰の先達がたは、昭島教会の星です。もっと多くの、さらに多くの星を見上げながら、昭島教会の歴史をこれからも築いて行こうではありませんか。
(2021年11月7日 昭島教会創立69周年記念礼拝)