コリントの信徒への手紙一11章23~29節
関口 康
「だから、あなたがたは、このパンを食べこの杯を飲むごとに、主が来られるときまで、主の死を告げ知らせるのです。」
今日の聖書の箇所も、いつもと同じく、日本キリスト教団の聖書日課『日毎の糧』に基づいて選びました。説教題も、『日毎の糧』どおり「聖餐」とする予定でした。しかし、今のわたしたちの状況を考えて、言葉を少し伸ばして「聖餐を待ち望む」としました。
今のわたしたちの状況とは、「新型コロナウィルス感染拡大防止の観点から」多人数の集会の中で飲食をふるまうのを控えるべきであるという考えのもと、原則として毎月第1日曜の礼拝と、キリスト教の三大祝祭としてのクリスマス、イースター、ペンテコステの各礼拝とで行っている聖餐式を、今年3月から半年間も中止したままである、ということです。
その間、イースター(4月12日)もペンテコステ(5月31日)も過ごしました。両日とも聖餐式を行わなかったどころか、各自自宅礼拝でした。礼拝堂にみんなで集まっての礼拝をしませんでした。
そのような状況の中で、今日私は「聖餐を待ち望む」という題でお話しします。さっそく誤解が起こりそうなので申し上げます。今日の説教題には、半年も行えていないわたしたちの聖餐式を今すぐ再開すべきだと急かす意味はありません。そのようなことは全く考えていません。
「コロナ禍が過ぎ去るまで、忍耐して待ちましょう」と言えば、もちろんそのとおりです。それ以外に言いようがありません。しかし、いつ過ぎ去るのでしょうか。
そんなことは気にしないで、どんどんやりましょうと言うべきでしょうか。不安と恐れをもつ人々のほうが悪いでしょうか。そのようなことは、私は全く考えもしませんので、聖餐の再開を急かす意味も意図もありません。
否定的な言葉ばかり並べるのは、みなさんをがっかりさせるだけで申し訳ないです。なんとか肯定的な言葉も語りたいです。
それで申し上げたいことですが、このたび図らずも、わたしたちがもしかしたら見落としていたかもしれないけれども、考えてみれば当たり前すぎるほど当たり前の事実を、再認識できたのではないだろうか、ということです。
それは何かと言いますと、端的に「聖餐とは飲食である」ということです。だからこそ、それを行うのを今わたしたちは取りやめています。飲食でないならば、取りやめる必要はありません。
聖餐は「飲食」です。その「飲食」を教会は、イエス・キリストが弟子たちと共に行われた最後の晩餐を記念する仕方で、なんと2千年ものあいだ続けてきたと、わたしたちは信じています。
ひとつのことだけを強調して言うと、まるでなにか極端なことを言っているのではないかと思われてしまうかもしれません。しかし、事実です。教会は「飲食」の場であり、礼拝は「飲食」の時間です。教会における「飲食」の要素は、あってもなくても構わないような、どうでもよいものではありません。密接不可分の関係にあります。
いちいち箇所を挙げて説明するのは割愛しますが、西暦1世紀の教会の活動の様子が描かれているのが、新約聖書の使徒言行録です。読むと必ず分かるのは、最初のキリスト者たちは礼拝のために日曜日に集まるたびに、イエス・キリストが最後の晩餐でなさったように、パンを割いて、それをみんなで食べていたことです。そのことが繰り返し記されています。
今日の箇所に記されているのも、当時の教会で行われていた「飲食」の様子です。それについてパウロが、自分の目で見ておかしいところがあるので改めたほうがいいとか、こうすべきだとか、やや厳しい内容を含む意見を述べている箇所です。
当時の教会でどのような礼拝が行われ、そこで「飲食」が行われていたかについて、聖書の研究者が言うことには諸説あるようです。
私なりに理解しているところを申せば、今のわたしたちが「聖餐」と呼ぶ部分と「愛餐」と呼ぶ部分は、当時から分かれていました。どこが違うかといえば、飲食の量の違いであるとしか言いようがありません。ちょっと食べるか、いっぱい食べるかの違いです。しかし、それだけ言うと誤解を招くでしょう。
今日の箇所で大事なのは、パウロが「空腹の人は、家で食事を済ませなさい」(33節)と書いていることです。これは「聖餐」だけではなく「愛餐」にも当てはまることだと思われます。しかし、もしそうなら、疑問がわいてきます。だって普通、飲食の席に人を誘うときは「家で食事しないで、お腹をすかして来てくださいね」と言うではありませんか。パウロが言っているのは正反対です。
これで分かるのは、パウロが言おうとしているのは、教会に通う目的は、教会でお腹いっぱい食べるためではない、ということです。そうではなく、たとえ少量であっても、あるいは実際には家でごはんをしっかり食べて来て、お腹に入るところはもうどこにもないほどであっても、そのこととは別に、教会で「飲食」をすること自体に意味がある、ということです。
彼らがなぜ、それほどまでに「飲食」を重んじていたかといえば、それがイエス・キリストのご生涯を現していると、彼らが信じたからです。
私は今ここに、パンとぶどうジュースを持ってきました。礼拝の直前に、あそこのコンビニで買いました。残念ながら白ブドウのジュースしかありませんでした。そして、申し訳ありませんが、皆さんに分けるためではなく、私があとでひとりで食べます。
そんなものをなぜ持ってきたのかといえば、こんなふうにイエスさまがなさったのではないかと想像していただくためです。
最初に、このようにしてパンを割って「これが私の体だからね。私の命をあなたがたにあげるからね」とおっしゃったのではないでしょうか。
次に、ぶどうの杯を取り上げて「これが私の血だからね。私の命をあなたがたにあげるからね」とおっしゃったのではないでしょうか。
もちろん特に最後の晩餐に関していえば、十字架上での処刑前夜という状況だっただけに深刻な場面だったとは思います。しかしそれでもなんとなくユーモラスな雰囲気があったのではないかと想像できます。イエスさまは、笑顔だったのではないでしょうか。
しかしイエスさまは、小さなパンやわずかなぶどう液を見せつけてありがたがらせるようなことをなさったわけでは決してなく、食べるにも困っている人たちや、寂しい人たちや、世で差別されている人たちを積極的に招いて、あるいはイエスさま自ら訪問されて、共に「飲食」をすること自体でその人々を励まし助けることに、ご自身の一生をささげて取り組まれた救い主です。
イエスさまのお姿をまざまざと思い起こすための「飲食」、それが「聖餐」であり「愛餐」です。逆に言えば、そうでないような「飲食」であれば、教会で行う意味はありません。「空腹の人は家で食事を済ませなさい」とパウロが書いているとおりです。
「聖餐」の再開を待ち望みます。それがいつかは分かりません。しかし「聖餐」の再開の目的は、イエスさまのお姿をまざまざと映し出し、喜びと救いの恵みにあふれる教会本来の姿を取り戻すことです。その日を心から待ち望みます。
(2020年8月9日、日本キリスト教団昭島教会 主日礼拝)