2016年3月5日土曜日

今日の「NTJ新約聖書注解シンポジウム」への感想と、それとは無関係なことを

NTJ新約聖書注解シンポジウム(2016年3月5日、日本聖書神学校)
今日(2016年3月5日土曜日)は「NTJ新約聖書注解シンポジウム」に出席しました。会場は日本聖書神学校(東京都新宿区)。辻学教授の見事なリードと、浅野淳博、伊東寿泰、須藤伊知郎、中野実各教授の講演でシンポジウムは盛り上がりました。

まだ整理は全くできませんが、今日の「NTJ新約聖書注解シンポジウム」に出席させていただいた感想は、面白かったの一言です。パネリストの皆さまありがとうございました。ただ、改めて考えさせられたことがありました。それは別に今日のパネリストの先生がたや企画そのものへの批判ではありません。

どのパネリストの方がとか特定する意図はないし、そんなことは覚えていないしどうでもいいことですが、聖書学者の方々がまるでサブリミナルのようにご自身の話に織り込みながらおっしゃる「教義」ないし「教義学」という言葉がほとんどネガティヴな意味合いで言われているのが分かるたび胸が痛みました。

話をよく聞けば「聖書の教義的ないし教義学的読み方」に対する批判であることが分かるので、その批判自体は私も賛成しているので、問題はないのです。でも、「そういう聖書の読み方」と「教義学」そのものは区別する必要があるので、一緒くただと感じる発言が聞こえるたびに心理的拒絶が起こりました。

もちろんもちろん、教義学は聖書を根拠にしますが、聖書だけが根拠であるわけではありません。教義学者は聖書「も」読みますが、聖書以外のもの「も」読みます。聖書の教義的読み方が常に必ず聖書の逐語霊感的な読み方とは限りません。聖書の保守的読み方が常に必ず聖書の教義的読み方とは限りません。

単純な言い方をお許しいただけば、「教義」と「教義学」と「教義学者」がまるで誤読の権化のように言われている気がするのは、きっと私の心理的な過剰防衛に違いないと自分に言い聞かせてやり過ごしてきた(今日だけの話ではなくこれまでずっと)のですが、その思いが今日またちょっと出てきたかなと。

でも、まだ本当に全く整理できていないので、うかつなことは書くべきではないかもしれません。私の耳がそうとう歪んでいて、聖書学者の方々の中には教義・教義学・教義学者に対する批判や軽蔑など少しもないのに、そういうものがまるであるかのように、勝手に感じ取ってしまっているのかもしれません。

繰り返しになりますが、今日のシンポジウムは面白かったの一言です。いま書いていることはパネラーや企画への批判ではありません。私が言いたいのは「聖書の教義的ないし教義学的読み方」と「教義学」は区別される必要があるということだけです。その区別をしてもらわないと、教義学は誤読の権化です。

いま書いていることは私が来月から「教会」ではなく「学校」で教える者にならせていただこうとしていることと関係があると思っています。「信仰を必ずしも前提としない教義学」なるものを教えるすべはないかと模索しているところです。そういうのはありうると思えるので、なんとか学校で教えたいです。

実際のありさまは字に書くほど単純ではないとは思いますが、もし仮に「教義学は教会の学。聖書学は学校の学」というような単純な二分法で教義学をとらえられてしまうとしたら(どなたかがそういうとらえ方をしているようだと勘ぐる意味ではありません)、教義学は「学校」から排斥されざるをえません。

しかし、その「信仰を必ずしも前提としない教義学」なるものの内容については、私自身はいまだ一文字も書けていない状態ですので、「具体的な構想を述べよ」と問われても、何もお応えできません。どうしたらいいものかと、ただ毎日考えています。「それは可能である」という確信を持っているだけです。