2016年3月27日日曜日

千葉若葉教会イースター礼拝

今日(2016年3月27日日曜日)は日本バプテスト連盟千葉若葉キリスト教会(若葉区千城台東)のイースター礼拝に出席させていただきました。永田泰三副牧師の明快な説教に励まされました。午後の祝会も楽しかったです。ありがとうございました!



2016年3月24日木曜日

転籍のお知らせ

親愛なる各位

本日、正式な通知が届きましたので、謹んでご報告申し上げます。

このたび私こと関口康は、2016年3月22日付けで「日本基督教団」への転入が承認され、同教団の正教師となりました。

任地はキリスト教主義の高等学校で、宗教科の常勤講師になります。来週3月29日(火)に同校で行われる辞令交付の後、改めてご報告いたします。

同校は「日本基督教団関係学校」であるため、教団教規第128条1項に基づき、教団の「教務教師」として登録させていただきます。

ご心配とお祈りをいただきました皆さまに、心から感謝いたします。

これからもどうかよろしくお願いいたします。

2016年3月24日

関口 康

これからもどうかよろしくお願いいたします。関口 康

2016年3月20日日曜日

鎌ヶ谷教会の主日礼拝に出席しました

今日(2016年3月20日日曜日)は、日本基督教団鎌ヶ谷教会(千葉県鎌ケ谷市)の主日礼拝に出席させていただきました。車で30分(12キロ)。柏木英雄牧師の丁寧で力強い説教に励まされました。鎌ヶ谷教会の皆さま、ありがとうございました。


苦い「教会の」思い出

私のネットつながりは、最古層は幼稚園時代から今日に至るまでのどこかで接点があった方々を含むワイドレンジな関係者と、面識ない方々とで構成されているので、過去の記憶が共有されている可能性があって、書きづらい。でも書きたいことがある。たしか中学生か高校生だった頃の「教会での」出来事だ。

初めて教会に来た男の子がいた。時系列や舞台設定の記憶があやしいが、教会主催の中学生か高校生の修養会のような場所だったかもしれない。私は生後まもなくから通っていた常連組。他にも何人かいたし、若い副牧師もたぶんいた。円座だったかも。説教か、読んだ聖書の感想を述べ合うことが求められた。

その問いかけに、その日初めて教会に来たその男の子が口を開いた。何か言えと求められたから応えたのだろうが、教会が初めてで、聖書を読むのも初めてのようだったから、発言すること自体にけっこう勇気が必要だっただろう。教会慣れしすぎていた私(当時中学生か高校生)のほうがよほど口が重かった。

「えーと、聖書とかよく分かんないですけど、さっき読んだ箇所に『父』とか『子』とか出てくるのを読んで、おれ父親とあんまりうまく行ってなくて悩んでるところがあるんで、ちょっと気になりました」みたいなことを、その子がたしか言った。私の記憶が書き換えられていなければ、そういう内容だった。

そのときの私(当時中学生か高校生)の内心の反応は「あちゃー」というようなものだった。「それ聖書の読み方間違ってるよ、聖書のその箇所の『父』と『子』の関係というのは、人間の親子関係のことなんか関係なくて『父なる神』と『子なるイエス・キリスト』の関係のことを意味しているのだから」と。

でも、そのとき私はたしか黙っていた。黙ったまま心の中で「あちゃー」と言っているだけだった。そうしたら、他の子だったか若い副牧師だったかが、私が内心で考えたのとほぼ同じことを口に出して説明しはじめた。「その聖書の箇所のそれは、あなたが考えたそういう意味ではなくて、どうでこうで」と。

そうしたら、その自分の親との関係がうまく行ってなくて悩んでいるということをみんなの前で打ち明けた男の子が不機嫌になった。座っていた椅子を蹴飛ばして部屋を出て行くというような行動まではとらなかったが、そこから先は、だれから何を聞かれても、何を言われても、何も応えなくなってしまった。

私がかれこれ40年近くこの記憶を抱え続け、忘れられずにいるのは、そのとき感じた強い衝撃と、反省ゆえだと思う。内心で「あちゃー」と言ってしまったこと。そして、その子が聖書の言葉から自分なりに連想して自分の父親との関係という深刻な問題を告白したことを、ぞんざいに扱ってしまったことを。

「教会に来てください、教会に来てください、教会に来てください、教会に来てください」と、教会の人たちは百万回くらい言う。だけど、勇気を出して行ってみて、「何か言え」と言われて勇気を出して何か言ったら「それは違う。それはこうでああで」と指南だけされる。そんな教会にだれが二度と行くか。

自分が逆の立場なら「うるせーよ」の一言しかないだろう。何が「間違ったこと」なのかの判断自体が難しいことでもあるが、教会に初めて来た人に「間違ったこと」を教会の中で言わせたくないなら、初めから「何か言え」と求めなければいい。質問しておいて応えが返ってくると文句つけるのはどうなのか。

50歳で50年の教会生活を続け、半分の25年を牧師生活に費やした私だが、教会というものがますます謎に思えてきたし、伝道というのがいまだに分からない。こう書くからと言って「信仰」を失ったわけでも「召命感」を失ったわけでもない。悩むことをやめることが最悪だよなと感じているだけである。

2016年3月13日日曜日

失敗を恐れるな(千葉若葉教会)

日本バプテスト連盟千葉・若葉キリスト教会(2016年3月13日、千葉市若葉区千城台東)
マタイによる福音書25・14~30

「『天の国はまた次のようにたとえられる。ある人が旅行に出かけるとき、僕たちを呼んで、自分の財産を預けた。それぞれの力に応じて、一人には五タラントン、一人には二タラントン、もう一人には一タラントンを預けて旅に出かけた。」

今日お話ししますのは、マタイによる福音書25章14節から30節までの「タラントンのたとえ」の箇所です。この箇所を選ばせていただいたのは、やや個人的ではありますが、理由があります。

1ヶ月以上前になりましたが、2月はじめに4日間、来月から勤務となる高校で新年度の宗教科新教員研修をしていただきました。そのとき現在の宗教科の先生の授業を見学させていただく時間がありました。その授業の中で取り上げられていたのが「タラントンのたとえ」の箇所でした。

それで、言い方は雑で申し訳ないのですが、単純に面白いなと思ったのです。先生たちが教会ではなく学校という場所で高校生に「タラントン」とは何か、これをきみたちは持っているのか、持っているとしたらそれをどうやって使うのかということを一生懸命教えておられました。その先生たちのお姿に感動しました。私も来年からあんなふうに聖書を高校生に教えることができたらいいな、でも大変そうだな、とも思いました。

そして、それと同時に私自身も「タラントンのたとえ」が伝えようとしている聖書のメッセージは何なのかを改めて考えるきっかけになりました。それで、今日はぜひこの箇所の説教をさせていただきたいと願った次第です。

しかしまたこの箇所は、学校はともかく、教会ではあまりにも有名な箇所です。みなさんも、この箇所の説教を何度も聴いてこられたでしょう。それで、みなさまにあらかじめお願いしておきます。この箇所の説教をするチャンスをもう一度与えてください。2回に分けてお話しします。考えなければならないことがたくさんあります。今日は「続きは次回に」という終わり方をさせていただきます。そのことをどうかお許しください。

ここから中身に入っていきます。最初に申し上げなければならないことは、「タラントンのたとえ」は、イエス・キリストが御自身の説教の中でこのようなたとえ話をお用いになったことを、マタイが紹介しているものだということです。本当にこういうことをイエスさまがおっしゃったのか、マタイが後から考えてイエスさまがこういうことをおっしゃったことにしたのかは分かりません。そうかもしれないし、そうでないかもしれません。それ以上のことは言えません。

次に「天の国はまた次のようにたとえられる」(14節)に書かれているとおり、たとえられているのは「天国」であるという点が重要です。天国天国と言うけれど、だれも行ったことがないし見たことがない。天国に行って帰って来た人がいれば、天国の写真を撮って来てくれたり、音を録音してきてくれたりできるもしれませんが、それは無理だという場合、天国とはどんなところなのか教えてくれと問われたときに、それは「こういうふうなところ」だと、たとえを用いて説明することです。

さて、たとえの中身に入っていきます。最初に「ある人が旅行に出かけるとき、僕たちを呼んで、自分の財産を預けた」(14節)と書かれています。この「ある人」(アンスローポス)は、すぐ後の18節で「主人」(キュリオス)と呼び替えられています。その人には複数の「僕」がいました。この「僕」(ドゥーロス)は「主人」(キュリオス)の対義語です。重要なことは、この「僕」は、わたしたちが「奴隷」という言葉を聞くとだいたいすぐに思い浮かべることになる存在とは区別して考える必要があるということです。

わたしたちの多くが「奴隷」という言葉でイメージする可能性があるのは、24章45節の「使用人」(オイケテース)のほうだと思います。これは「僕」(ドゥーロス)とは異なる言葉です。「使用人」と訳されているオイケテースは「家」を意味するオイコスという言葉が含まれます。家の中で主人の妻や子どもとは区別され、家の仕事をするために低賃金で雇われた「使用人」という意味での「奴隷」がオイケテースです。

しかし、今日の箇所に出てくる「僕」(ドゥーロス)は、ただちに今申し上げた意味での「奴隷」を意味しません。「僕」の中に「奴隷」は含まれていますが、イコールではありません。「僕」は「主人」の対義語であるだけです。これは全体の理解の中で重要な点だと思います。

なぜ重要かと言いますと、この主人が旅行に出かけるとき僕たちを呼んで、一人には5タラントン、一人には2タラントン、一人には1タラントンを預けたことが書かれているからです。今申し上げたことの中に3つ、重要なキーワードがあります。「旅行」、「預けた」、「タラントン」です。

第一のキーワードは「旅行」(アポデメオー)です。主人は旅行に出かけただけです。必ず帰ってきます。二度と帰ってこない旅行はまずいです。片道切符の旅行には行かないでください。必ず帰ってくるのが「旅行」です。これで分かるのは、この主人が僕たちに「タラントン」なるものを預けたのは、あくまでも一時的なことだということです。僕の視点からいえば、一時的に預けられたものは、いつか必ず返さなければならない性格のものです。

第二のキーワードは「預けた」(パラディドーミ)です。この意味はもうお分かりでしょう。「与えられた」のではないということです。彼らは「タラントン」を主人からもらったのではありません。その意味では「タラントン」は彼らのものではありません。私物化してはなりません。主人の旅行中に預かったという意味は、管理を任されたということです。勝手に使ってよいわけではないのです。

そして第三のキーワードは「タラントン」です。これは、よく知られているとおり、当時のお金の単位です。しかも、かなり高額です。「1タラントンは約1億円だと覚えてください」と、先日の教員研修のときの授業で教えていただきました。とても分かりやすい説明でしたので、よく覚えています。

つまり、この箇所に登場する3人の僕が主人から預かった「タラントン」は、今の日本で言えば、一人は5億円、一人は2億円、一人は1億円であると考えることができます。とんでもない金額です。いくら主人がお金持ちだからといって、「はい、あなたは5億円。あなたは2億円、あなたは1億円」とキャッシュでポンと渡して「どうぞご自由に」と言うなどという状況は通常考えられないわけです。

この主人がどこに、どれくらいの年数、旅行に行っていたのかは分かりませんが、3人の僕に5億円と2億円と1億円を預けたとしたら合計8億円。主人自身も2億円くらいはもって旅行してきたかもしれません。それで全部で10億円。

しかし重要なことは、主人が彼らに自分の財産を「預けた」のは、プレゼントしたという意味ではないということです。それは主人から僕への贈り物ではありません。主人から僕への「贈り物」は、あとで出てきます。しかし「タラントン」は贈り物ではありません。管理を任せただけです。しかも、非常に高額です。

そのことを考え合わせますと「僕」(ドゥーロス)と「使用人」(オイケテース)の区別の問題の答えが見えてきます。「使用人」という意味での「奴隷」に5億円、2億円、1億円を手渡して「自由に使っていいよ」とプレゼントする「主人」がいるだろうかと考えてみれば、通常ありえないと考えざるをえないわけです。

そういう意味ではありえません。彼らは「主人」の対義語として「僕」と呼ばれているだけです。会社でいえば、上司と部下の関係、あるいは社長と社員の関係であると考えるほうが近いです。言い方を換えれば、この主人が僕たちに「タラントン」を預けたことには初めから目的があったということです。

それは要するに事業展開です。お金を預けたということの意味は、仕事を任せたということです。それは、たとえていえば、5億円の事業、2億円の事業、1億円の事業です。ただし、その事業内容はお前たちが決めろという話です。内容まで指図はしない。その意味では自由に使え。しかし、私物化していいわけではないし、ばくちに使っていいわけでもない。とにかくうまくやってくれ。お前たちに期待しているよと、部下を信頼して仕事を任せてくれた上司の話であると考えるほうが近いです。

膨大な資本金を預けられたその瞬間から、自分はこれを用いて何をすべきかを自分で考えて、すぐ動きはじめ、あらゆる手を尽くして働く。そのことを主人は僕たちに初めから期待していたと考えるべきです。誰かの指示がなければ自分では何の判断もできず、何の働きもできない僕では困るのです。そうであるかどうか、僕の判断力を主人が試そうとしていると考えることができるかもしれません。

そのような主人の思いを察し、適確に理解し、その期待に応えるべく努力し、成果をおさめることができたのは、5タラントン預けられた僕と、2タラントン預けられた僕でした。それは資本金5億円の事業の責任者と、資本金2億円の事業の責任者の2人だと考えることができます。

インターネットで調べたら、今の日本では、資本金5億円以上か、あるいは200億円以上の負債をもつ、どちらかの条件を満たす株式会社のことを「大会社」と呼ぶそうです。そのように日本の法律の「会社法」で定義されているそうです。2億円の会社や1億円の会社はどうでしょうか。会社勤めをしたことがない私には正確な知識はありませんが、決して小さい会社であるとは言えないと思います。

いま申し上げたいのは今日開いていただいた聖書の箇所の「タラントンのたとえ」でわたしたちが思い描くべきイメージの問題だけです。3人の僕は、たとえていえば、資本金5億円の会社の社長と、資本金2億円の会社の社長と、資本金1億円の会社の社長。そして、彼らにお金を預けた主人は3つの会社を統合するグループの会長のような存在です。

事業に成功した前二者の社長はグループの会長からごほうびをいただきました。21節と23節に同じ言葉で「主人と一緒に喜んでくれ」とあるのは「祝宴に出席してください」という招待の言葉です。この「祝宴への招待」が先ほど申し上げた、主人から僕への「贈り物」の中身です。「タラントン」は贈り物ではありません。祝宴で食べたり飲んだりできる「喜び」が、彼らへの贈り物です。

そして、この「祝宴」(このように新共同訳聖書に訳されていませんが)こそが「天国」です。天国という祝宴には、どのような人が招かれるのか、どのような人は招かれないのかということが、このたとえ話のテーマです。

祝宴に招いてもらえなかった人がいます。3人目の僕です。彼は主人の怒りを買い、外の暗闇に追い出されてしまいます。彼は殺されたわけではありません。祝宴に招待してもらえなかっただけです。ひとりぼっちで、外の暗闇で、自分のどこが悪かったのかを反省しろ、と言われているのです。

彼のどこが悪かったのでしょうか。この続きは次回にお話しします。

一点だけ申し上げておきます。

彼は失敗を恐れた。そのことを主人は厳しく責めているのです。

(2016年3月13日、日本バプテスト連盟千葉・若葉キリスト教会主日礼拝)

2016年3月10日木曜日

アルバイトの前に「サンダーバード ARE GO」を観る


今日(2016年3月10日木曜日)も昼からアルバイト。その前に先週土曜(3月5日)放送分の「サンダーバード ARE GO」の「第13話 重力の井戸」の録画にやっとありつく。期待を裏切らない面白さと迫力に大興奮。トレーシー兄弟大活躍。

いちおう書いておきますね、私がなぜサンダーバードなのか。観るたびに、いまの私の最大関心事は「オンラインコミュニケーションによるチームワークの可能性」だと気づかされます。我々がすでにかなり実現していることをどこまで広げうるか。おもちゃをトイザらスに買いに行くような関心はありません。

そしてサンダーバードから学びうる「オンラインコミュニケーションによるチームワークの可能性」のもう一つの側面は、もしそれに失敗すると人助けはおろか自分も死ぬということです。ずさんや横柄が命取りになります。「空気」は読まなくていいので「字」や「表情」や「状況」をしっかり読まなくては。

まもなくアルバイトに出かけるので録画を見直す時間はないので、うろ覚えで書くことをお許しいただきたいのですが、「5分しかない!」と叫ぶ兄弟に「5分あればいろいろできる!」と強く制して、あらゆる可能性を考え手段を講じることを最後まで諦めないトレーシー兄弟のやりとりが心に残っています。

2016年3月9日水曜日

日本基督教団教師転入試験「教憲教規および諸規則・宗教法人法」追試レポート

(以下は日本基督教団教師転入試験「教憲教規および諸規則・宗教法人法」追試レポートとして私が回答した内容です。提出期限が2016年3月9日でした)

設問1の回答

「教憲教規および諸規則」に定められている会議制について「論じて」くださいという設問で、どれほど深遠な回答をすれば設問者各位の意に沿うのかは図りかねるところがありますが、千字程度とのご指定がありましたので、その範囲内で回答させていただきます。「なぜ教団が会議制をとっているのか」の理由を「明確に」書けばよろしいのでしょうか。

教会は「イエス・キリストの体」です。また三位一体論的にいえば、父なる神が、御子イエス・キリストにおいて、聖霊を通して、人間に信仰という恵みを与えてくださり、その恵みによって選ばれた人々の群れとしての「教会」は、地上において神の御心を実現していくための器として用いられる存在です。

そうであるかぎり、教会は一個人で存在することはありえず、必ず信仰者の群れとして存在します。その場合の教会とは、各個教会でもあり、かつ一全体としての「教団」の意味を含みます。その群れの意志決定は、神の御言葉としての聖書(ノルマ・ノルマンス)の啓示に基づき、かつ聖霊の導きによる教会会議の決議を経て定められた諸信仰告白(ノルマ・ノルマータ)に基づきつつ、多数決ないしそれぞれの群れが定めた意思決定のルールに則って行われます。

その教会会議の意志決定を、教会は「神の御心」と信じます。そのため、厳粛な姿勢で、祈りをもってその意志決定の場に臨み、父なる神が御子イエス・キリストにおいて、聖霊を通して、信じる人の心に表してくださる御心が何であるかを探りつつ、熟慮のうえ決議に参加しなくてはなりません。

各個教会の中で、役員会等の会議を経ないで個人で決めたことを「神の御心」と考えることは、我々キリスト者には不可能です。なぜなら、聖霊なる神は特定の個人だけにお働きになる方ではなく、イエス・キリストにおいて父なる神を信じるすべての人に働いてくださるからです。

教会において、ある特定の人の意見だけを重んじ、他の人の意見を重んじないことは、聖霊の導きに反します。ある人の意見と他の人の意見とが異なり、ぶつかり合っているときは、神の御言葉である聖書を開き、学びつつ、信仰による一致を祈り求めていかなくてはなりません。

また、教区や教団の中で、単独の教会だけが主張していることが、他の多くの教会が主張していることとどれほど食い違っていようと、その単独の教会の規模が大きいとか歴史や伝統が古いからとかいう理由だけで、それをもって「神の御心」と考えることも、我々キリスト者には不可能です。

教団や教区の中には、大きな群れもあれば小さな群れもあります。それぞれの群れはそれぞれ異なる状況の中で福音宣教の使命に懸命に携わっているのですから、小さな群れだからといってその意見が軽視されるようなことがあってはなりません。だからこそ、教団や教区にそれぞれの最高議決機関としての「総会」を設けて、互いに祈り合いつつ、教団や教区の「総会」において示される神の御心を問うことが重要です。

設問2の回答

設問2に関しても設問の意図を図りかねるところがありますが、要するに「明確に」書くことが求められているのでしょうか。千字程度で、とのご指示の範囲内で書かせていただきます。

どのあたりを議論の出発点にすべきかにもよりますが、そもそも規則を変更することは、教会を含むあらゆる団体にとって重大な事態であることを意味するのは確実ですので、そうしなければならない明確な理由や原因がないかぎり、規則の変更自体を行うべきではありません。

しかしまた、規則そのものは聖書(ノルマ・ノルマンス)でも信仰告白(ノルマ・ノルマータ)でもないため、軽々な変更は慎まなくてはならないとしても、変更不可能であるとはいえません。状況に応じて変更することが可能であり、また必要でもあります。

とはいえ、前記のとおり、規則変更は教会を含むすべての団体にとっての重大な事態を意味しますので、各個教会の規則変更の場合は、最高議決機関である教会総会を開いて、祈りと熟慮をもって協議を重ねたうえで、その規則変更によって教会員の中に躓く人が起こらないよう、細心の注意を払いつつ、信仰による一致をもった変更を行わなくてはなりません。

そのためには、たとえ教会総会が各個教会の最高議決機関であるとはいえ、教会全体に対する事前の告知や全体協議なしに、牧師や一部の役員だけで相談して、いきなり教会総会の場に提案を行い、多数派工作や強行採決などで強引に規則変更を行うようなことは断じて許されません。

宗教法人規則は「少なくとも二ヶ月前」の教会会議の公告を定めていますが、その公示の日に、あるいは教会会議の場で変更案を初めて見たという教会員がいるようでは遅きに失した感があるのを否定できません。もっと前から、せめて一年以上前から教会全体に対して規則変更の内容と理由と意義について丁寧に説明し、周知徹底するよう牧師と役員は配慮しなくてはなりません。

とりわけ各個教会の宗教法人規則の重要な目的は、教会の境内地や建物等の不動産等、教会が所有する物理的財産の管理運営に関することを、国の法律との関係の中で扱うことにあります。それは教会の霊的財産である聖書や信仰告白や説教や牧会などの面と比較しても決して軽んじることはできない重要な事柄であることは確実です。

教会の物理的財産の管理という面において教会がルーズであれば、教会員や関係者、さらには周辺地域の人々まで教会に対して失望し、躓くことになり、その地域での伝道の継続がきわめて困難になるでしょう。きわめて悪質ではありますが、教会の財産の名義を牧師の個人名義に勝手に変更し、牧師個人の借金の抵当にしていたというような事例まであります。そのようなことが断じて起こらないように、宗教法人規則についても厳重に取り扱うことが重要です。

従って、各個教会の宗教法人規則の変更手続きは、以下のような手続きを要します。

(1)規則変更を提案する者は、教会全体に対してできるだけ早期に規則変更の趣旨説明を行い、複数回の勉強会等を開催して、その趣旨の周知徹底を図る。

(2)少なくとも二ヶ月前に、教会総会の公示を行う。その時点においては変更案の詳細が明示されていることが望ましい。具体的には、現行規則と変更案を併記し、容易に比較検討することができる形の提案がなされるべきである。

(3)教会総会において多数の議決を得た変更後の規則は、宗教法人規則の場合は所轄庁による認証が必要ですので、その手続きをすみやかに行います。

2016年3月6日日曜日

横須賀小川町教会の主日礼拝に出席しました

今日(2016年3月6日日曜日)は、日本基督教団横須賀小川町教会(神奈川県横須賀市)の主日礼拝に初めて出席させていただきました。自動車で100分(100キロ)。寺田信一牧師の祈りと説教の迫力に竹森満佐一先生の姿を思わず彷彿しました。


2016年3月5日土曜日

今日の「NTJ新約聖書注解シンポジウム」への感想と、それとは無関係なことを

NTJ新約聖書注解シンポジウム(2016年3月5日、日本聖書神学校)
今日(2016年3月5日土曜日)は「NTJ新約聖書注解シンポジウム」に出席しました。会場は日本聖書神学校(東京都新宿区)。辻学教授の見事なリードと、浅野淳博、伊東寿泰、須藤伊知郎、中野実各教授の講演でシンポジウムは盛り上がりました。

まだ整理は全くできませんが、今日の「NTJ新約聖書注解シンポジウム」に出席させていただいた感想は、面白かったの一言です。パネリストの皆さまありがとうございました。ただ、改めて考えさせられたことがありました。それは別に今日のパネリストの先生がたや企画そのものへの批判ではありません。

どのパネリストの方がとか特定する意図はないし、そんなことは覚えていないしどうでもいいことですが、聖書学者の方々がまるでサブリミナルのようにご自身の話に織り込みながらおっしゃる「教義」ないし「教義学」という言葉がほとんどネガティヴな意味合いで言われているのが分かるたび胸が痛みました。

話をよく聞けば「聖書の教義的ないし教義学的読み方」に対する批判であることが分かるので、その批判自体は私も賛成しているので、問題はないのです。でも、「そういう聖書の読み方」と「教義学」そのものは区別する必要があるので、一緒くただと感じる発言が聞こえるたびに心理的拒絶が起こりました。

もちろんもちろん、教義学は聖書を根拠にしますが、聖書だけが根拠であるわけではありません。教義学者は聖書「も」読みますが、聖書以外のもの「も」読みます。聖書の教義的読み方が常に必ず聖書の逐語霊感的な読み方とは限りません。聖書の保守的読み方が常に必ず聖書の教義的読み方とは限りません。

単純な言い方をお許しいただけば、「教義」と「教義学」と「教義学者」がまるで誤読の権化のように言われている気がするのは、きっと私の心理的な過剰防衛に違いないと自分に言い聞かせてやり過ごしてきた(今日だけの話ではなくこれまでずっと)のですが、その思いが今日またちょっと出てきたかなと。

でも、まだ本当に全く整理できていないので、うかつなことは書くべきではないかもしれません。私の耳がそうとう歪んでいて、聖書学者の方々の中には教義・教義学・教義学者に対する批判や軽蔑など少しもないのに、そういうものがまるであるかのように、勝手に感じ取ってしまっているのかもしれません。

繰り返しになりますが、今日のシンポジウムは面白かったの一言です。いま書いていることはパネラーや企画への批判ではありません。私が言いたいのは「聖書の教義的ないし教義学的読み方」と「教義学」は区別される必要があるということだけです。その区別をしてもらわないと、教義学は誤読の権化です。

いま書いていることは私が来月から「教会」ではなく「学校」で教える者にならせていただこうとしていることと関係があると思っています。「信仰を必ずしも前提としない教義学」なるものを教えるすべはないかと模索しているところです。そういうのはありうると思えるので、なんとか学校で教えたいです。

実際のありさまは字に書くほど単純ではないとは思いますが、もし仮に「教義学は教会の学。聖書学は学校の学」というような単純な二分法で教義学をとらえられてしまうとしたら(どなたかがそういうとらえ方をしているようだと勘ぐる意味ではありません)、教義学は「学校」から排斥されざるをえません。

しかし、その「信仰を必ずしも前提としない教義学」なるものの内容については、私自身はいまだ一文字も書けていない状態ですので、「具体的な構想を述べよ」と問われても、何もお応えできません。どうしたらいいものかと、ただ毎日考えています。「それは可能である」という確信を持っているだけです。