2015年8月12日水曜日

フィリピの信徒への手紙の学び 14

松戸小金原教会の祈祷会は毎週水曜日午前10時30分より12時までです

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4・8~9

関口 康

「終わりに」と書いてパウロは今度こそ手紙を締めくくろうとしています。それでもまだ終わらないのですが。しかし、どんな文章でもだいたい最後に書くのは全体のまとめであり、結論です。

「すべて」の真実なこと、気高いこと、正しいこと、清いこと、愛すべきこと、名誉なことを心に留めなさいとパウロは書いています。そして「徳や称賛に値すること」もそうであると言っています。

日本語の聖書を読むだけでは分からないことですが、ここでパウロが列記しているのは、ユダヤ的美徳(ヘブライズム)というよりギリシア的美徳(ヘレニズム)であると言われます。聖書と教会と全く無関係なものではありえません。しかし、聖書と教会の伝統というより、その外にあるものです。

それらのこと「すべて」を心に留めなさいと、パウロはフィリピ教会の人々に勧めています。この「心に留める」とは、それらを重んじることを意味しています。記憶することや、聞き置くこと以上です。軽蔑したり、泥を塗ったりせず、むしろ尊重し、敬意を払うことを考えるべきです。

そのため、パウロの趣旨をくみとりながら言い直せば、「教会のみなさん、あなたがたは聖書と教会の伝統に属さない、むしろそれらの外にあるすべてのことやものを軽んじたり無視したりすることは間違っている。そういうものをきちんと重んじなさい」というようなことになります。

このように言うことにおいてパウロは教会の人に不信仰や堕落を奨励しているわけではありません。そうではなく、次のような言い方ができると私は考えます。パウロは「たえず伝道的な姿勢を教会に求めている」ということです。それは、聖書と教会の外にある善きものを重んじることによって聖書と教会の「外」にいる人々を「内」へと招き入れることです。

もし教会の者たちが、教会の内側でしか決して通用しえない専門用語や価値観ばかりをただ語って自分たちで自分たちを満足させているだけであるようなら、伝道は全く不可能です。伝道とは端的に、教会の外側にいる人々に語りかけることだからです。

と言いますと、それは街頭演説をすることかとか、見知らぬ家に戸別訪問することかという反応が返ってくることがありますが、そういう話ではありません。もっと根本的な姿勢の問題です。

教会の外に出て行き、「あなたがたの生き方も考え方もすべて間違っています。教会に来ればあなたがいかに間違っているかが分かります。教会はすべて正しいです」という口上で臨むことで、うまく伝道が進んでいくならともかく、おそらく多くの人々は、ただ反発を感じるだけでしょう。「そのようなけんか腰で教会の外の人々の生き方も考え方も全否定する人々には、もう近づきたくありません。さようなら」と多くの人が心に誓うでしょう。

パウロがフィリピ教会の人々に勧めているのは、いま書いたようなあり方の反対であると言えます。パウロ自身も伝道者としての歩みの中で失敗や挫折を繰り返してきました。けんか腰の態度や相手を傷つけるやり方もしました。しかし、それでは(あるいは「それだけ」では)伝道が進まない。福音が前進しない。そのことにも気づかされてきたに違いありません。

しかし、難しい問題を含んでいることも、私にはよく分かります。「朱に交われば赤くなる。ミイラ取りはミイラになる。不信仰な人々の異教的なやり方に近づきすぎると、我々の確信が鈍り、教会の進むべき方向を間違ってしまう。守るべきものを守りぬくために頑丈な砦が必要である。そのようなものがないかぎり、我々はあっという間にすべてを失ってしまう」。

そのとおりかもしれません。全く間違っているとも言い切れません。私は自分が弱い信仰の持ち主であることを強く自覚しています。だからこそ、どちらかといえば、この弱い信仰をしっかり守ってくれる頑丈な砦があればよいのに、という強い憧れを持つほうの人間です。

しかし、もしそのような頑丈な砦が手に入り、その中だけで生きて行けるようになり、砦の外側に一歩も出ないで済むようになってしまえるとしたら、私はどのような人間になるだろうかということに不安を抱く面もあります。

ヨーロッパはかつて「キリスト教国」としての存在を何世紀も維持していました。パウロが立っていた現実は、「キリスト教国における教会とその伝道」よりも、今の日本のキリスト者が置かれている「全く異教的な国と社会における教会とその伝道」の状況のほうに近いものです。

しかし、そうであるからこそ、パウロは、教会の外側にある「すべてのもの」を心に留めなさいと勧めています。たとえキリスト者がその国や社会の少数派であるとしても、だからといって教会の中で自己完結し、その中に引きこもってしまうようであってはならないという勧めでもあるでしょう。

あるいは、教会の外なる世界ないし社会との接点を持ち続けなければならないという命令でもあるでしょう。自分たちの要塞の中にあるものだけが真実であり、気高く、正しく、清いものであり、愛すべきものであり、名誉なものであり、それ以外のすべてはそのようなものではありえないというような絶対的で排他的で独善的な確信を持つことを慎むべきであるという戒めでもあるでしょう。

もし我々がそのような確信を持ってしまうならば、なるほどたしかに我々の存在は、外から見ればとんでもなく鼻もちならない存在に映るでしょう。我々がそのような要塞に立てこもってしまえば、自分たち自身はこの上ない安心を得て満足できるかもしれませんが、外側から見ると我々の存在は、どこかしら自信のない、ひ弱な人間のように映るでしょう。

教会の外側の社会ないし世界の中にある「すべて」の善きものを心に留め、大切にすべきであるという教えには、パウロ自身がそのことにこの個所で触れているわけではありませんが、重要な根拠があります。それは「神は全世界を創造された方である」という信仰です。

神は教会だけを創造されたのではなく、世界を創造されました。信者だけを創造されたのではなく、いまだ信仰に至っていない人々を創造されました。信者は神によって創造されたが、未信者は悪魔によって創造されたわけではありません。それは異端の教えです。創造者なる神への信仰はわたしたちが教会の外側にある「すべて」に目を向けるべき明確な根拠を提供しています。

パウロは次のように続けています。「わたしから学んだこと、受けたこと、わたしについて聞いたこと、見たことを実行しなさい。そうすれば、平和の神はあなたがたと共におられます」。ここで勧められているのは「教えられたことを実行すること」です。理解できても行動に移せないことの反対です。自分の要塞の中に立てこもり、外側には一歩も出ることができないことの反対です。

大切なことは、言われているとおりに実際にやってみることです。自分の砦の外に出て行くとき、まるで丸腰で戦場に出ていくかのような不安や恐怖心を感じるかもしれません。しかし、そのとき、あなたを神が守ってくださいます。そのことをわたしたちは確信し、安心すべきです。「平和の神」とは「わたしたちを平安で満たしてくださる神」また「安心させていただける神」です。

もちろんパウロとは逆の視点から考えることも必要でしょう。せっかく異教的なものを捨てて振り切って教会の中に飛び込んだのに、教会の内側も外側と大差ないと言われるのは、がっかりだ。もしそうなら、なにも無理して教会に通う必要などないではないか、と思われてしまうかもしれません。バランスを重んじる必要はあります。教会とこの世を一緒くたにすべきではありません。

(2015年8月12日、松戸小金原教会祈祷会)