2015年8月31日月曜日

ふだんはゆるい関係でもいいのだ

ファンタ白桃はおいしかったです

今の日本で「思想統制」は不可能(インポッシブル)だと私は考えていますが、強引にそういうことをしたがっているのは、70年前以前の帝国時代の日本の「体験」や「記憶」や「郷愁」を持っている人々かもしれませんし、その人々の「美談」を子守歌のように聞かされて育った一部の人々かもしれません。

しかしそれは、そのような「過去の日本の断末魔の叫び」をその人々の口から聞いているだけだ(已むのを待つ心境で)と私は考えています。「ネット以前」に世界はもう戻りません。ラジオが始まって以来「ラジオ以前」に、テレビが始まって以来「テレビ以前」に世界がもはや戻りえなかったのと同じです。

世界をもし「ネット以前」に戻そうとすれば本格的な暴動が起こるでしょう。その暴動はどんなミサイルでも鎮圧できないものです。これは脅しのような意味で言っているのではなく、人間の性質を考えて予想しているだけです。ネット「が」、あるいはネット「で」つながっていれば、思想は統制できません。

今の争いは、もしかしたら「ネットをめぐる戦い」だと考えることができるものかもしれないと、私自身は今のところ考えているくらいです。

今日も朝からしきりと考えていたことですが、私個人のことを言わせていただけば、今日の状況にたどり着くまでにいくつかの段階があったことを、はっきり覚えています。

私がパソコン通信を始めたのは1996年の夏、「インターネット」を始めたのは1998年の秋です。1999年から2009年までの10年間は「顔の見えない方々」とのメール(ないしメーリングリスト)のやりとりや、「名前を知らない方々」とのSNSや掲示板のやりとりだけでした。

その「陰鬱な10年間」を経て、「顔が見える」facebookを始めたのは2009年でした。しかし、そのときはまだ、それ以前の「陰鬱な10年間」を引きずる形をとっていました。やりとりする内容も、最大限で「神学議論」のようなことでした。

状況が大きく変わり始めたのが2011年3月11日でした。私個人のことを言わせていただけば、その日を境に、急激に(私の古巣の)日本基督教団の牧師先生や信徒の方々からの「友達リクエスト」が増えました。

しかも、私の出身校の東京神学大学を卒業した牧師たち「よりもむしろ」関西学院大学や同志社大学の神学部、日本聖書神学校、農村伝道神学校、東京聖書学校をご卒業の先生たちやCコースの先生たちからの「友達リクエスト」が、急激に増えました。

震災が我々の「敵意」の壁に変化を起こしたという言い方はまずいでしょうか。「とんでもないこと」が突然起こったときに最も重要なことは「正しい情報を知る経路が確保され続けていること」だという認識が急激に広まったと思います。「正しい情報経路」の確保のためには出身神学校の違いもクソもない。

ただ、その「確保」はどのように行われるべきかといえば、ふだんから、24時間・365日、「キリスト教」と「政治」の関係を学術的・実践的に問い続けるというような、毎度「論文執筆」の思いで「ふぇいすぶっくとうこう」をしなければならない、というような強面(コワモテ)の方法ではない。

そんなのではなくて、ふだんは、「ジョジョ立ちツーショット」とか「こんなパフェ食べちゃいました」とか「今日の自作料理!」とかで、ゆる~くつながっている。

だけど、すわ震災、すわ違憲法案、というときには、「ふだんはゆる~い関係」の者たちの顔色変わって、国際救助隊(サンダーバード、ア、ゴー!)にモードチェンジする。そういうのがいいなあと、私は考えてきましたし、すでに実はかなり実現しているのではないかと思っています。

2015年8月12日水曜日

フィリピの信徒への手紙の学び 14

松戸小金原教会の祈祷会は毎週水曜日午前10時30分より12時までです

PDF版はここをクリックしてください

4・8~9

関口 康

「終わりに」と書いてパウロは今度こそ手紙を締めくくろうとしています。それでもまだ終わらないのですが。しかし、どんな文章でもだいたい最後に書くのは全体のまとめであり、結論です。

「すべて」の真実なこと、気高いこと、正しいこと、清いこと、愛すべきこと、名誉なことを心に留めなさいとパウロは書いています。そして「徳や称賛に値すること」もそうであると言っています。

日本語の聖書を読むだけでは分からないことですが、ここでパウロが列記しているのは、ユダヤ的美徳(ヘブライズム)というよりギリシア的美徳(ヘレニズム)であると言われます。聖書と教会と全く無関係なものではありえません。しかし、聖書と教会の伝統というより、その外にあるものです。

それらのこと「すべて」を心に留めなさいと、パウロはフィリピ教会の人々に勧めています。この「心に留める」とは、それらを重んじることを意味しています。記憶することや、聞き置くこと以上です。軽蔑したり、泥を塗ったりせず、むしろ尊重し、敬意を払うことを考えるべきです。

そのため、パウロの趣旨をくみとりながら言い直せば、「教会のみなさん、あなたがたは聖書と教会の伝統に属さない、むしろそれらの外にあるすべてのことやものを軽んじたり無視したりすることは間違っている。そういうものをきちんと重んじなさい」というようなことになります。

このように言うことにおいてパウロは教会の人に不信仰や堕落を奨励しているわけではありません。そうではなく、次のような言い方ができると私は考えます。パウロは「たえず伝道的な姿勢を教会に求めている」ということです。それは、聖書と教会の外にある善きものを重んじることによって聖書と教会の「外」にいる人々を「内」へと招き入れることです。

もし教会の者たちが、教会の内側でしか決して通用しえない専門用語や価値観ばかりをただ語って自分たちで自分たちを満足させているだけであるようなら、伝道は全く不可能です。伝道とは端的に、教会の外側にいる人々に語りかけることだからです。

と言いますと、それは街頭演説をすることかとか、見知らぬ家に戸別訪問することかという反応が返ってくることがありますが、そういう話ではありません。もっと根本的な姿勢の問題です。

教会の外に出て行き、「あなたがたの生き方も考え方もすべて間違っています。教会に来ればあなたがいかに間違っているかが分かります。教会はすべて正しいです」という口上で臨むことで、うまく伝道が進んでいくならともかく、おそらく多くの人々は、ただ反発を感じるだけでしょう。「そのようなけんか腰で教会の外の人々の生き方も考え方も全否定する人々には、もう近づきたくありません。さようなら」と多くの人が心に誓うでしょう。

パウロがフィリピ教会の人々に勧めているのは、いま書いたようなあり方の反対であると言えます。パウロ自身も伝道者としての歩みの中で失敗や挫折を繰り返してきました。けんか腰の態度や相手を傷つけるやり方もしました。しかし、それでは(あるいは「それだけ」では)伝道が進まない。福音が前進しない。そのことにも気づかされてきたに違いありません。

しかし、難しい問題を含んでいることも、私にはよく分かります。「朱に交われば赤くなる。ミイラ取りはミイラになる。不信仰な人々の異教的なやり方に近づきすぎると、我々の確信が鈍り、教会の進むべき方向を間違ってしまう。守るべきものを守りぬくために頑丈な砦が必要である。そのようなものがないかぎり、我々はあっという間にすべてを失ってしまう」。

そのとおりかもしれません。全く間違っているとも言い切れません。私は自分が弱い信仰の持ち主であることを強く自覚しています。だからこそ、どちらかといえば、この弱い信仰をしっかり守ってくれる頑丈な砦があればよいのに、という強い憧れを持つほうの人間です。

しかし、もしそのような頑丈な砦が手に入り、その中だけで生きて行けるようになり、砦の外側に一歩も出ないで済むようになってしまえるとしたら、私はどのような人間になるだろうかということに不安を抱く面もあります。

ヨーロッパはかつて「キリスト教国」としての存在を何世紀も維持していました。パウロが立っていた現実は、「キリスト教国における教会とその伝道」よりも、今の日本のキリスト者が置かれている「全く異教的な国と社会における教会とその伝道」の状況のほうに近いものです。

しかし、そうであるからこそ、パウロは、教会の外側にある「すべてのもの」を心に留めなさいと勧めています。たとえキリスト者がその国や社会の少数派であるとしても、だからといって教会の中で自己完結し、その中に引きこもってしまうようであってはならないという勧めでもあるでしょう。

あるいは、教会の外なる世界ないし社会との接点を持ち続けなければならないという命令でもあるでしょう。自分たちの要塞の中にあるものだけが真実であり、気高く、正しく、清いものであり、愛すべきものであり、名誉なものであり、それ以外のすべてはそのようなものではありえないというような絶対的で排他的で独善的な確信を持つことを慎むべきであるという戒めでもあるでしょう。

もし我々がそのような確信を持ってしまうならば、なるほどたしかに我々の存在は、外から見ればとんでもなく鼻もちならない存在に映るでしょう。我々がそのような要塞に立てこもってしまえば、自分たち自身はこの上ない安心を得て満足できるかもしれませんが、外側から見ると我々の存在は、どこかしら自信のない、ひ弱な人間のように映るでしょう。

教会の外側の社会ないし世界の中にある「すべて」の善きものを心に留め、大切にすべきであるという教えには、パウロ自身がそのことにこの個所で触れているわけではありませんが、重要な根拠があります。それは「神は全世界を創造された方である」という信仰です。

神は教会だけを創造されたのではなく、世界を創造されました。信者だけを創造されたのではなく、いまだ信仰に至っていない人々を創造されました。信者は神によって創造されたが、未信者は悪魔によって創造されたわけではありません。それは異端の教えです。創造者なる神への信仰はわたしたちが教会の外側にある「すべて」に目を向けるべき明確な根拠を提供しています。

パウロは次のように続けています。「わたしから学んだこと、受けたこと、わたしについて聞いたこと、見たことを実行しなさい。そうすれば、平和の神はあなたがたと共におられます」。ここで勧められているのは「教えられたことを実行すること」です。理解できても行動に移せないことの反対です。自分の要塞の中に立てこもり、外側には一歩も出ることができないことの反対です。

大切なことは、言われているとおりに実際にやってみることです。自分の砦の外に出て行くとき、まるで丸腰で戦場に出ていくかのような不安や恐怖心を感じるかもしれません。しかし、そのとき、あなたを神が守ってくださいます。そのことをわたしたちは確信し、安心すべきです。「平和の神」とは「わたしたちを平安で満たしてくださる神」また「安心させていただける神」です。

もちろんパウロとは逆の視点から考えることも必要でしょう。せっかく異教的なものを捨てて振り切って教会の中に飛び込んだのに、教会の内側も外側と大差ないと言われるのは、がっかりだ。もしそうなら、なにも無理して教会に通う必要などないではないか、と思われてしまうかもしれません。バランスを重んじる必要はあります。教会とこの世を一緒くたにすべきではありません。

(2015年8月12日、松戸小金原教会祈祷会)

2015年8月7日金曜日

Windowsを「まだ」使っている理由は「PCが自作機だから」です

ウィルス感染を調べるために弐号機から遠隔操作で壱号機のフルスキャン実行中
お世話になっておいて言うのは申し訳ないことですが、マイクロソフト社やWindowsが好きで使っているわけではなくて、仕事や私用に使う私物のデスクトップ2機がいずれも「自作機」なので、インストールできるOSとしてリナックス(ubuntuなど)かWindowsしか選択肢がないのです。

リナックス(ubuntuなど)にしたい気持ちも山々あるのですが、周辺機器との接続に必要なドライバー類が揃い切っていないようで、やれ、プリンターがつながらない、無線LANがつながらないという感じになって、だんだん面倒になるので、結局はWindowsに落ち着いてしまうという具合です。

Windowsは「Vista」で買ったのをちまちまバージョンアップして現在「10」です。なのでパソコンが壊れてOSの再インストールとなったときは元に戻って「Vista」→「7」→「10」とバージョンを上げていくしかありません。

ちなみに私は「自作マニア」ではありません、悪しからず。

パソコンを自作するようになったのは、壊れたパーツだけ自分で取り替えられることにメリットを感じたからです。電源ボックスだけとか、ファンだけとか交換できます。病院と医者が嫌いなので、近所の薬局で買える範囲内の売薬を試してみて「これが一番安くて効きそうだ」とか言っている様子に近いです。

2015年8月6日木曜日

見限るのでなく、ぜひ支援してほしい

弐号機を冷ましています
「伝道不振の原因は牧師の説教がまずいからだ」と言われれば、ぐうの音も出ない。しかし、たとえばの話、神道政治連盟国会議員懇談会(303名)にキリスト者として知られる議員が多く見つかる国だ。「何を言っても無駄」という気分に苛まれながら牧師たちは説教している。見限るのでなく、ぜひ支援してほしい。

      議員数   神道政治連盟所属議員
衆議院  475人   223人(47%)
参議院  242人    80人(33%)