日本キリスト改革派松戸小金原教会 礼拝堂 |
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ローマの信徒への手紙15・1~6
「わたしたち強い者は、強くない者の弱さを担うべきであり、自分の満足を求めるべきではありません。おのおの善を行って隣人を喜ばせ、互いの向上に努めるべきです。キリストも御自分の満足はお求めになりませんでした。『あなたをそしる者のそしりが、わたしにふりかかった』と書いてあるとおりです。かつて書かれた事柄は、すべてわたしたちを教え導くためのものです。それでわたしたちは、聖書から忍耐と慰めを学んで希望を持ち続けることができるのです。忍耐と慰めの源である神が、あなたがたに、キリスト・イエスに倣って互いに同じ思いを抱かせ、心を合わせ声をそろえて、わたしたちの主イエス・キリストの神であり、父である方をたたえさせてくださいますように。」
ローマの信徒への手紙の学びを先週は(ペンテコステで)中断しましたが、今日から再開します。途切れ途切れになりますと文脈が分かりにくくなっているかもしれませんので、これまでお話ししてきたことを少しずつ振り返りながら、話を前に進めていきたいと願っています。
しかし、振り返るのはずっと前からというわけにはいきません。話が長くなります。振り返るのは、直前の14章の最初です。そこに「信仰の弱い人を受け入れなさい」(1節)と書かれています。信仰の弱い人を受け入れるのは教会です。この文章の省略されている主語は教会です。教会は信仰の弱い人を受け入れなければなりません。そのことを使徒パウロがローマの教会に書き送っているのです。
なぜ教会は信仰の弱い人を受け入れなければならないのでしょうか。その理由についてはもうすでに繰り返しお話ししてきました。私が最も力を込めて申し上げてきたことは、わたしたち自身のことを思い出してみてくださいということです。
だれ一人として初めから信仰の強い人はいませんでした。そのような人がおられるならお会いしたいです。私が知らないだけでしょうか。そうかもしれません。しかし、実際にはそのような人は一人もいません。いまだかつて地上に存在したことがありません。ですから、すべての人に教会が必要です。「信仰の弱い人を受け入れる教会」がすべての人に必要です。
それで今日お読みしました個所の冒頭、ローマの信徒への手紙15・1に書かれていることは、いま申し上げたのと同じことの繰り返しのようでもありますが、実は一歩先に進んでいます。「わたしたち強い者は、強くない者の弱さを担うべきであり、自分の満足を求めるべきではありません」(1節)。
ここに来てパウロは「わたしたち強い者は」と言うのです。「強い者」とは信仰の強い者のことです。問題になっているのは信仰です。しかし、そうなりますと、わたしたちは次のことに気づかされます。
先ほど申し上げたことは、すべての人は最初から強い信仰を持っていたのではなく、弱い信仰の状態から、あるいはそもそも信仰など全く持っていない状態から出発したのだということです。しかし、それは出発点ではありますが、いつまでも同じ状態にとどまり続けているわけではないということ、その信仰は教会の中で強められていくものであるということがパウロの言葉から分かります。
パウロは「わたしたち強い者」、つまり「わたしたち信仰が強い者」と言います。信仰が弱かった者や、信仰をもっていなかった者が、教会の中で、この個所でパウロが呼びかけている「わたしたち(信仰の)強い者」の側に立つ者へと次第に変えられていくということが起こるし、起こらなければならないということが分かるのです。
「本当にそうでしょうか」ということは問うておく必要があるかもしれません。わたしたちの信仰は、教会の中で強められてきたでしょうか。最初と今と何も変わっていやしない。かえってますます弱まるばかりだとお感じになっている方は、きっとおられるでしょう。教会に責任があると言われても仕方がありません。教会に何年通っても何も変わらなかった。何も得るものはなかった、ということであれば、教会に責任があります。そうであるとしか言いようがありません。
しかし、私が今申し上げていることに、犯人探しの意図はありません。だれが悪い、だれが問題だと言いたいのではありません。パウロが書いていることもそのような意味ではありません。
同じ言葉をもう一度読みます。「わたしたち強い者は、強くない者の弱さを担うべきであり、自分の満足を求めるべきではありません」と書かれています。
「強くない者」とは裏返せば「弱い者」ということになり、これもまた「信仰の弱い者」のことです。それは、先ほどから申し上げていることからいえば、教会に初めて来られた方や、まだ信仰を持っていない方のことです。あるいは信仰生活を始めてまもない方。あるいは教会の礼拝には長年通っているけれども、聖書の中身や教会の教えになじめない、納得がいかない。従うことができない。家族や親戚、会社、地域社会などの様々なしがらみから自由になることができない。そういった方々のことだと考えることができます。
そういう方々を受け入れる側に立っているのが「わたしたち強い者」です。あるいは、受け入れるというだけではなく、「強くない者」すなわち「信仰の弱い者」のその弱さを担う側に立っているのが「わたしたち強い者」すなわち「信仰の強い者」であるということになります。
あまり図式化しすぎますと、教会の中に二重構造があるような印象を抱かせてしまうことになるかもしれません。しかし、ある意味でそうだと認めざるをえないところがあります。教会の中に信仰の強い人と弱い人がいる。強い人は受け入れる側であり、弱い人を背負う側である。弱い人は受け入れられる側であり、強い人に背負ってもらう側である。完全に切り分けてしまいますと、わたしたちがすぐに考え始めてしまうのは、私はどちら側なのだろうかということでしょう。そして、だいたいの人は、私は弱い人の側だ、というふうに考えるでしょう。そのほうが楽ですから。
しかし、パウロの言っていることは、なるほどたしかに、教会の中に二重構造があるような印象を与えてしまいかねないことではあります。しかし、内容をよく読めば、その構造は変わっていくものであるということが分かります。弱い人はいつまでも弱いままではない。強い人になっていくのだ、ということが分かります。受け入れられる側から受け入れる側に、背負われる側から背負う側へと、わたしたち一人一人の信仰が、教会の中で変わっていくのです。
そしていま私は「教会の中で変わっていく」と申し上げました。弱い者から強い者へと変えられていく。それはどのようにして起こるのでしょうか。答えは単純です。最初は弱くても、とにかく教会の中に留まり続けることによって、自分よりもっと弱い人が新しく教会に来るようになります。その様子は、学校や会社で新入生や後輩が入って来るのに似ています。その自分よりももっと弱い人を、まがりなりにも受け入れ、背負うことを始める。そしてそれを続けていくことによって、自分の信仰が鍛えられる。それが、強くなるということの意味です。わたしたちの信仰が強くなっていくための方法はそれだけだと言っても過言ではありません。
受け入れる側、背負う側に立って、実際に受け入れ、背負う。そのことを続けていくと、だんだん強くなる。鍛えられるということです。最初から、まだ弱いうちから、どんと重いものを背負える人はいません。そういうことをすると体を痛めますし、心が折れてしまいます。最初は、軽いものから背負えばいいのです。重量挙げの話をしているような感じになっていますが、まさにそのようなことを考えればよいと思います。だんだん重さが増してきます。もう無理だと思った時点で、ギブアップしても構いません。持っているバーベルを前に放り投げればいい。そうしないと、最悪、死にます。しかし、耐えられるところまでは耐えてみる。
スポーツでも勉強でも、みな同じです。練習あるいは訓練によって、人は強くなっていくのです。信仰の訓練は教会の中で行われます。それは「信仰の弱い人を受け入れ、背負う」という訓練です。逆に言えば、それをしようとしないならば、その訓練を遠ざけ、逃げるならば、わたしたちの信仰はいつまで経っても強くなりません。とても厳しいことを言っているようですが、実際パウロは厳しいことを言っているのだと思います。
だからこそ、「自分の満足を求めるべきではありません」という話につながります。これは「自分の喜びを求めるべきではない」と訳すこともできます。教会は自分の満足あるいは自分の喜びを求める場所ではないというわけです。
このようなことを正面から言われてしまいますと、わたしたちは本当に教会から逃げ出したくなってしまうのですが、しかしパウロは教会とはそういう場所だとはっきり言っています。ショックな面があります。パウロがテサロニケの信徒への手紙一5・16に書いている「いつも喜んでいなさい」というあの有名な言葉と矛盾しているではないかと言いたくなるほどです。もしかしたら本当に矛盾しているのかもしれません。しかし、理解できない話ではないと思うのです。
おそらく最も分かりやすい例は、結婚や出産だと思います。喜びの要素が最初から全くないような結婚や出産は考えにくいものです。そのようなことが成立するのは、なかなか難しいことだと思う。しかし、現実の結婚、現実の出産や子育ては、ものすごく苦しい面や大変な面を必ず持っているはずです。例外はないと思います。こんなはずではなかったと後悔したことがない人はいないでしょう。自分にはなかったと思う方は、忘れておられるだけです。
それと教会は同じだと考えることができます。「いつも喜んでいなさい」と言われていることも真理です。しかし、だからといって自分の満足、自分の喜びを求めるためだけに教会に通うわけではないし、神を信じるわけでもないということも、わたしたちにとっての真理です。教会の中で、また信仰生活の中で、ただ楽しいことだけを追い求め、自分に負担がかかること、嫌なこと、つらいことからは全部逃げ出すというのであれば、わたしたちの信仰に成長はありません。
隣人を愛するとは、隣人の重荷を背負うことでしょう。自分は背負ってもらうだけで、隣人の重荷は背負いません、背負えませんでは、愛は成立しません。その意味では、教会はわたしたちにとって、つらいところでもあるのです。それは否定できません。
そのことをパウロははっきり書いています。はっきり書かれすぎていて、読むのがつらいほどです。しかしそれをパウロはローマのキリスト者に伝えようとしています。教会にはつらい面があります。自分の満足、自分の喜びを得られない場所であり、それを得るべきでない場所でもあります。しかし、忍耐しましょう。忍耐を重ねていけば、あなたの信仰は強くなります、とパウロは言いたいのです。
その忍耐のために、パウロはイエス・キリストのお姿を思い起こします。「キリストも御自分の満足をお求めになりませんでした」(3節)。キリストの生涯は、つらいばかりの生涯でした。ほぼ苦痛、ほぼ忍耐の生涯でした。そのキリストに倣いましょう。
また、パウロは聖書の価値を思い起こします。「わたしたちは、聖書から忍耐と慰めを学んで希望を持ち続けることができるのです」(4節)。イエス・キリストのお姿が聖書に描かれています。弱い人を受け入れ、背負う苦しみから逃げ出さず、耐えるために、わたしたちは聖書を学ぶのです。
(2014年6月15日、松戸小金原教会主日礼拝)