2014年6月22日日曜日

すべての民よ、主を賛美せよ

日本キリスト改革派松戸小金原教会 礼拝堂
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ローマの信徒への手紙15・7~13

「だから、神の栄光のためにキリストがあなたがたを受け入れてくださったように、あなたがたも互いに相手を受け入れなさい。わたしは言う。キリストは神の真実を現すために、割礼ある者たちに仕える者となられたのです。それは、先祖たちに対する約束を確証されるためであり、異邦人が神をその憐れみのゆえにたたえるようになるためです。『そのため、わたしは異邦人の中であなたをたたえ、あなたの名をほめ歌おう』と書いてあるとおりです。また、『異邦人よ、主の民と共に喜べ』と言われ、更に、『すべての異邦人よ、主をたたえよ。すべての民は主を賛美せよ』と言われています。また、イザヤはこう言っています。『エッサイの根から芽が現れ、異邦人を治めるために立ち上がる。異邦人は彼に望みをかける。』希望の源である神が、信仰によって得られるあらゆる喜びと平和とであなたがたを満たし、聖霊の力によって希望に満ちあふれさせてくださるように。」

今日もお開きいただいているローマの信徒への手紙の14章1節から今日お読みしました15章13節までの間に書かれていた一連の話題は、教会の中で信仰の強い人が信仰の弱い人を受け入れなければならないし、背負わなければならないということでした。弱い人が強い人を背負うことはできません。それは物理的に不可能です。強い人が弱い人を背負うのです。その逆はありません。

しかし、先週も申し上げましたが、この強い人と弱い人の関係は完全に不動の状態で固定化されているわけではないということも忘れられてはならないことです。「私は弱い。常に弱い。永久に弱い」と言い張り続ける。自分は常に必ず永久に背負ってもらう側である。他の人を背負うことなどは永久にありえない。そのような位置に頑として座り続け、動かないということでは、困るのです。

そして、ただ困るというだけではなく、現実にはありえないことです。背負う、背負うと言っても、いろんな背負い方があります。だれかのことを気にかける。心配する。祈る。これらのことも十分な意味で背負うことです。それもしない。私は自分のことだけで精一杯である。他のだれのことも関心を持つことさえできないというようなときは、わたしたちの人生の中で実際にありうると思います。他の人の話を聞くだけでも辛い。そういうときはわたしたちの人生の中に何度となく訪れるものでもあります。しかし、一生そうでしょうか。永久にそうでしょうか。

しかし、私はこのように言いながら、「たとえばの話」というような仕方で、単なるたとえ話として引き合いに出すには問題があまりに大きすぎると思いながら、しかし、わたしたちの視野から決して失われてはならない方々のことを思い浮かべています。それは生まれつきの重い障がいをもった方々のことです。他の人を背負うことが難しい方は実際におられます。そのような方々は教会の交わりに入ることができないでしょうか。それは、ひどい話です。

そしてまた、これは3回目か4回目くらいの繰り返しの話になっていることですが、わたしたちが初めて教会に来たときのことを思い出してみてほしいわけです。初めから信仰が強かったという人はだれもいませんでした。そのことを考え合わせると分かって来ることは、わたしたちは基本的に教会に背負ってもらうために来るのであって、初めからだれかを背負うために来ることは考えにくい、ということです。

このことを私が何度も繰り返し申し上げることには理由があります。初めて教会に来られる方々や、これから教会生活・信仰生活を始めようとしておられる方々に対して、教会にはこんな負担がある、あんな負担があるというような話をすることになれば、そもそも教会生活・信仰生活を始めることができないとお考えになる方が多いだろうと思うからです。教会の中にある負担の面ばかりを強調するようなことをすれば、これから信仰生活を始めようとしている人たちの行く手をさえぎることになると思うからです。

それは当然のことではないでしょうか。逆の立場に立てば分かることだと思うのです。わたしたちが教会に通いはじめた頃に、やれ、教会にはこんな負担があるだ、あんな負担があるだということを初めから言われて、それでも、教会に通い続けます、洗礼を受けます、信仰を持ちます、と思えたでしょうか。無理だったと思うのです。

私もまだ若いほうですので、まだまだ背負ってもらいたいと思っているところがあります。しかし牧師の仕事をしている者でもありますので、背負ってもらう側というよりは、なるべくなら背負う側にいなければならないわけで、両方の立場の人たちの気持ちが分かるつもりです。被害者意識のような意味で言うのではありませんが、板挟みの状態にあることを自覚しています。

しかし、とにかくはっきりしていることは、初めて教会に来る人が、教会の中の何かを、あるいはだれかを背負いに来るということは、ほとんど考えにくいことだということです。そのようなことのために教会に来る人は、ほとんどいません。

わたしたち自身を含む、すべての人が、背負ってもらうために教会に来たのです。そのことを忘れないようにしましょう。そしてまた、だれもが教会に受け入れられたのです。わたしたちの存在は、教会にとって、最初は違和感があったと思います。違和感がある存在が、神の憐れみによって教会へと受け入れられたのです。

そもそも聖書など読んだことがない。お祈りなどしたことないし、賛美歌など歌ったことがない。使徒信条とか主の祈りとか十戒とか言われても「何それ」と思うだけ。ハイデルベルク信仰問答とかジュネーヴ詩編歌とか言われても宇宙の話でも聞いているかのような気分。改革派教会とか言われると何か恐ろしい団体であるかのように感じる。大勢の人が集まるような場所が苦手だったという人もおられたと思う。実際のわたしたちは、そのあたりから出発しているはずです。もうお忘れになったでしょうか。

すべては教会に来てから学んだことです。教会の中で知ったことです。その学ぶことも、知ることも、教会の中に受け入れられて初めて起こることです。もちろん教会に受け入れられるときに準備のための勉強会があります。しかし、勉強会の趣旨は、十分学んでいただき、十分知っていただいた人だけを教会は受け入れます、ということではありません。なぜなら、それは不可能なことなのです。たとえば、聖書は教会の外に立っていくら読んでも決して理解できない書物です。なぜなら、聖書は教会の内部のことについて書かれた書物だからです。

賛美歌も、祈りも、同じです。教会の内部の言葉で歌い、祈ります。教会の中に加えられなければ決して理解できません。ですから、すべてがよく分かった人だけを教会は受け入れます、ということをいくら言っても、無理なことなのです。聖書も、賛美歌も、祈りも、教会の中に入らなければ理解できないものだからです。

そして、そのような仕方で、実際にはほとんど何も知らない、何もできない、何も持っていない人を受け入れること、背負うことが、神がわたしたち教会に委ねられたわざとしての「伝道」ということの具体的な内容です。そのことを教会が嫌がったり面倒くさがったりするのであれば、伝道なんて進んでいくわけがありません。

わたしたち自身がもともと面倒くさい人だったのです。何も知らない、何もできない状態で教会の門をくぐったのです。もうお忘れになったでしょうか。

わたしたちでいえば、初めから日本キリスト改革派教会のことがよく分かっている人だけに教会に来てもらいたいなどと言いはじめたら、その教会は伝道をする気がないのと同じです。それは伝道ではありません。他の教会の信徒の方に転入していただくというだけのことです。

しかし、だからといって、わたしたちは、背負え、背負えと言われても悲鳴をあげるばかりでこれ以上背負うことはできないと感じている。そのことも、私はよく分かっているつもりです。

今日開いていただいている個所の最初にパウロが書いていることは、次のことです。「だから、神の栄光のためにキリストがあなたがたを受け入れてくださったように、あなたがたも互いに相手を受け入れなさい」(7節)ということです。

私は、この御言葉を、わたしたちが抱えている悩みの解決の糸口になると思いながら読みました。ここに書いてあることは、14章の初めからの繰り返しでもあります。しかし、違いもあります。それは「あなたがたも互いに相手を受け入れなさい」と書かれているところです。

14章の最初に書かれていたのは「信仰の弱い人を受け入れなさい」でした。15章の最初に書かれていたのは、「わたしたち強い者は、強くない者の弱さを担うべきである」でした。どちらも「教会」は、(信仰の)強い者の立場に位置づけられています。そのことが明らかに前提されています。

ですから、わたしたちは悲鳴を上げたくなります。「教会に長年通っているわたしたちも弱いですよ」と言いたくなります。「牧師も長老も執事も、みんな弱い人間ですよ」と言いたくなります。「受け入れてもらい、背負ってもらいたいのは、こちらのほうですよ」と言いたくなります。

じつは、その気持ちをパウロはよく分かっているのです。だからこそ、「あなたがたも互いに相手を受け入れなさい」と書いているのです。

ここで重要な言葉は「互いに」です。これは、原文でも強調されている言葉だと言ってよいものです。文字どおりの相互関係です。現実の教会においては、一方は常に受け入れる側であり続け、他方は常に受け入れられる側であり続けるという状態が固定されているということはありえないのです。

これから私が言うことを耳で聞くと屁理屈を言っているように聞こえてしまうかもしれませんが、よく聞いてください。「互いに相手を受け入れる」とは言い換えれば「互いに相手に受け入れられ合う」ということです。

教会においては、全員が「受け入れられている」のです。わたしたちを本当に受け入れてくださっているのは、イエス・キリストおひとりだけです。面倒くさいわたしたちを我慢して受け入れてくださっているのはイエスさまおひとりだけです。そのことを忘れないようにしましょう。

そして、そのようにして互いに受け入れ合う、あるいは「互いに相手に受け入れられ合う」ことによって立つ教会の目的は、「すべての民が主を賛美すること」にあります。

「割礼ある者たち」とはユダヤ人で、ユダヤ人以外の人を「異邦人」と呼ぶ。パウロの時代の教会が直面した課題は「ユダヤ人キリスト者」と「異邦人キリスト者」との仲違いでした。生まれたときから聖書を学んできたユダヤ人と、そうでない異邦人との仲違いは、今の時代のわたしたちの教会の中でも似たようなことが起こりうるのです。

しかし、わたしたちは互いに相手を受け入れなければなりません。いえ、互いに相手に受け入れられ合おうではありませんか。それが、それだけが、わたしたちの今の苦境を乗り越える道です。

(2014年6月22日、松戸小金原教会主日礼拝)