2012年8月9日木曜日

マックス・ヴェーバーはやっぱり迷惑だ

だいぶ前にブログに書いたことを繰り返しますが、マックス・ヴェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』はやっぱり迷惑です。

ルター、カルヴァン、改革派神学、ウェストミンスター信仰告白の「禁欲的な」倫理思想が、ヴェーバーの文脈からいえば19世紀頃の(とりわけアメリカの)資本主義の道備えを、皮肉かつ逆説的な仕方でおこなっ(てしまっ)た。

仮に百歩譲ってそのようなことが歴史的世界の中のどこか一部にあったことがあるかもしれないとしても、そのような世界の大海の一滴のようなエピソードを、あたかも普遍的な事実であるかのように引き伸ばして語ることは、明らかに誇張だし、デフォルメだし、虚構のたぐいです。

まして、ルターもカルヴァンも、改革派神学の一冊も、ウェストミンスター信仰告白の一ページすら開いたこともないような人たちから、高校の社会科の教科書や大学受験予備校のテキストにたったの四行か五行くらいで書いているようなことを検証することもなく鵜呑みにしたままに、「カルヴァンからピューリタンの方向に行くと、あの資本主義国アメリカみたいになるんぜ。だからあの連中には気をつけなよ」というような「あのね、それザックリし過ぎだよ!!」と大声をあげたくなるような話がまことしやかに語られるのを散見する日には、もうただひたすら笑いと怒りが交錯する悶絶状態に陥ることさえ、まあ無いとは言いがたい。

マックス・ヴェーバーは迷惑です。心底そう思っています。

彼の理論を社会学や政治学の方面から批判し、脱構築していく議論は、ぼくなりにいろいろ読んできたつもりです。しかし、これは日本国内だけのことですが、神学・教義学の方面からの正面からのヴェーバー批判は、寡聞にして知りません。

ぼく自身はアメリカという国に行ったことがないし、あまり興味もないので、本当にどうなのかはよく分からないし、「ヴェーバーの言ったことはほとんど正しい」と言いうる現実があるのかもしれないので、偉そうなことは言えません。

ただ、繰り返しますが、「カルヴァンからピューリタンの方向に行くと、(論理的・必然的・運命的に)あの資本主義国アメリカみたいになるんだぜ」ってことはない。それはカルヴァンと改革派神学に対する中傷誹謗のたぐいだし、曲解としか言いようがない。

「本当にそうかどうか、ぼくと一緒にテキストを読んでみませんか」と言いたくなります。