2012年9月5日水曜日

神学書が分からないのは貴方のアタマが悪いせいではない

昨年(2011年)8月に惜しくもお亡くなりになった翻訳者であり・翻訳論者であった山岡洋一氏からは、著書『翻訳とは何か』とメールマガジン『翻訳通信』を通してきわめて重大な示唆を得た。

山岡氏とは一度だけメールのやりとりをしていただいたものの、面識を得ることはできず、急逝の一報に接したときは愕然とする思いを禁じえなかったことを、昨日のことのように思い返す。

山岡氏からぼくは何を最も学んだか。いま「最も」と書いたばかりなので、一点に絞る。

ぼくの関心は高校を卒業して大学に入学して以来ずっと「神学」にあるわけだが、ほとんど最初から最近まで悩み続けてきたことは、神学関係の訳書は「読んでも分からない(理解不可能である)」ということだった。

それで、ご多分に洩れず(ぼくと同じ問題で悩んでいる人と何人となく出会ってきた)、「この本を理解できないのは、ぼくのアタマが悪いせいなのだ」と自分を責めてきた。わりと深刻に。しかし、山岡氏に出会い、この呪縛から解放された。

ぼくには何度読んでも理解できなかった訳書のほとんどは、山岡氏の言葉を借りれば「翻訳調」で訳されているものばかりであった。この「翻訳調」の歴史的由来が、明治政府以来の日本の国策としての「翻訳主義」にあることを、山岡氏は教えてくれた。

日本の「翻訳主義」には長所がある。なんといっても「小学校から大学までの教育をすべて自国語で行えるようになった」ことである(山岡洋一「翻訳主義と翻訳調」、翻訳通信、2010年6月号、第2期第97号、メールマガジン、1ページ)

しかし、「翻訳主義」に基づく「翻訳調」の基本は、外国語の一単語に日本語の一単語を対応させるという「一対一」の原則にあるので、そういうふうにして作られた文章(訳文)を読者が「日本語」として理解することには非常に無理があり、ほとんど不可能であるということは、なるほど明らかである。

そして、「翻訳とは執筆なのだ」という単純な事実を、ぼくは山岡氏から教えられた。日本語が上手に書けない人に、外国語の書物の「翻訳」は不可能である。神学の場合も然り。「日本語化」でないようなものは「翻訳」とは言えない。

よく考えてみれば、これほど自明なことは他に無いと思えるようなことが、ぼくには長らく分からなかった。

「1997年5月1日」(とメモしてある)に、ぼくは生まれて初めて『講談社オランダ語辞典』を、新校舎になったばかりの神戸改革派神学校(神戸市北区)の近くの小さな書店で購入し、初めにヘルマン・バーフィンクの、次にアーノルト・ファン・ルーラーのテキストを読みはじめた。

それ以来ぼくは、オランダ語のテキストと『講談社オランダ語辞典』とには首っ引きになった。とにかく必死になって、上記の意味での「一対一」のパッチワークを始めた。オランダ語の一語に対して、日本語の一語を対応させようとした。しかし、そういう方法で作り上げられた訳文は「日本語」ではなかった。

しかし、「日本語」でないような訳書は商品にはならない。というか、恥ずかしくて世に出す気にならない。だって、日本語としては支離滅裂なのだから。

だから、それをなんとかして日本語として読みやすくしようと当然試みる。ところが、それが無理なのだ。ちょっとやそっといじくるくらいで何とかなるようなシロモノではない。

結局、根本的・全面的に書き直さなくてはならない。しかし、そういうのは明らかに二度手間だし、加えて、最初に成立した「支離滅裂のパッチワーク」が一種の後遺症のような作用を及ぼし、真に果たすべき「日本語化」の妨げになるケースがあることを、実際に体験した。

そのような数々の(と言っても、翻訳に関してはシロウトなので、質量とも大したことはない)経験の中で自覚された課題が、いくつかあった。それを山岡氏がはっきりと教えてくれたのだ。

第一は、神学書もまた「翻訳調」(一対一(いったいいち)対応を原則とする支離滅裂のパッチワーク)からの脱却をはからなければならない。

第二は、「翻訳調こそが翻訳だ」という凝り固まった翻訳論に立脚する旧来の日本の(日本的な)神学的潮流からの脱却「をも」はからなければならない。

第三は、神学書の翻訳は「日本語化」が必要であり、単純に「日本語」でなければならない。

古来の日本語の中には欧米のキリスト教伝統に対立する要素が含まれているので、「神学の単純な日本語化」なることは不可能であるという理屈は、ある意味で分かる。しかし、ぼくが考えていることは「日本的神学」だの「日本主義神学」だのを目指せ、というようなことではない。もっと、ずっと手前の話である。

翻訳された神学書を手にとって読む人たちを、「この本を理解できないのは、ぼくのアタマが悪いせいなのだ」というような思いにさせたくない。事情は実は逆なのに。

貴方が「この本を理解できない」のは、訳者が悪いに決まっている。悪いのは、日本の国策としての「翻訳主義」に基づく「翻訳調」から一歩も身動きがとれなくなっている、日本の神学的アカデミシャンたちである。

ぼくがブログ「関口康日記」を始めたきっかけも、いま書いていることに大いに関係している。「日本語化」のためには日本語を磨く必要がある。自分の考えや思いを、顔の見えない人たちに、自分の書く「字」だけで、どうやって伝えるのかを、徹底的に考え抜く必要がある。

そのために、ぼくはブログを始めたのだ。それが「日本語化としての翻訳」の質を高めるものになると信じることができたからに他ならない。

ブログに書いていることも、Facebookに書いていることも、9割はジョークで、神学からも翻訳からも程遠いことばかりである。ま、でも、それはぼくが決めたやり方なのだから、だれに文句を言いたいわけでもない。

ただ、回り道しすぎている感は否めない。ぼくの時間に、それほど猶予はない。