2010年2月28日日曜日

希望なき人々のように嘆き悲しむな


テサロニケの信徒への手紙一4・13~14

「兄弟たち、既に眠りについた人たちについては、希望を持たないほかの人々のように嘆き悲しまないために、ぜひ次のことを知っておいてほしい。イエスが死んで復活されたと、わたしたちは信じています。神は同じように、イエスを信じて眠りについた人たちをも、イエスと一緒に導き出してくださいます。」

この個所にパウロが書いていることを一言でいいますと「人間は死んだらどうなるのか」ということです。わたしたちの死後の定めは何なのかということです。

そのことについてパウロが述べていることは、彼自身の信仰に基づく見解です。「信仰に過ぎない」という言い方も成り立つかもしれませんが、パウロにとって信仰とは彼自身の命そのものでしたので、パウロの全存在をかけた確信として述べていると言うほうがよいでしょう。

イエス・キリストは、十字架につけられて三日目に復活されました。そのイエス・キリストと同じように、神はイエスを信じて眠りについた人々をも復活させてくださるのです。そして、この場合の復活とは文字通りの「復活」です。地上の世界に再び戻ってくることです。

わたしたちは死んでも、どこかに消えてなくなるわけではありません。このわたしの存在が別のだれかの存在へと置き換えられるわけでもありません。このわたしは、このわたしとして地上に再び戻ってくるのです。

そのことが、我々にとっては二千年前に起こったイエス・キリストの復活と本質的に同一かつ同等の出来事として起こるのです。これがパウロの信仰であり、代々のキリスト教会の信仰なのです。

「人間は死んだらどうなるのか」という問いは、教会に通っているような人たちだけではなく、誰でも必ず抱くものです。その意味でこれは普遍的な問いであると言えます。小さな子どもであるうちに考え始め、大人になってからも考え続ける問いです。来る日も来る日も寝ても覚めてもそのことを悩み続けているというようなことは無いと思いますが、何らかのきっかけがあるとまた考え始めてしまう、そのような問いであると思います。

この問いに対する教会の答えは、今日の個所に書かれているパウロの言葉に尽きるのです。しかし私は、パウロの答えは質問者の意図にかなうものではないだろうと思っています。「わたしたちは死んだらどうなるか」という質問に対して「わたしたちは復活するのだ」と答えているわけですが、質問者が本当に聞きたいことはそのような答えではないはずだからです。

質問者が聞きたいことは、いわゆる「あの世」はどうなっているのかということでしょう。質問の前提にあるのは、死んだ人はもう二度と戻ってこない、決して戻ってこないという確信です。だからこそ「あちらの」世界の様子はどうなっているのかということばかりに関心があるのです。

しかし、パウロはその問いにきちんと答えていませんし、彼には答える気がありません。パウロはその意味での「あの世」の存在を否定しているわけではありませんが、そのようなことには実は全く関心を持っていません。パウロはこちらの世界に再び戻ってくることができる日が来るということしか考えていません。百歩譲って「あちらの世界」などというものがあるとしても、そこに行きっ放しなどということは考えもしない。早く帰ってくること、地上の人生を再獲得すること、そのことだけがパウロの願いであり、信仰でもあったのです。

そもそも「死後の定め」とは何でしょうか。誰かが、そこに行って見たことがあるのでしょうか。いわゆる「臨死体験」についての書物を、私は全く読んだことがありません。申し訳ありませんが、そういうことに全く関心がありません。

牧師がこういうことを言うと驚かれてしまうかもしれませんが、そもそも私は死後の定めとか死後の世界というようなものに全く興味がありません。そのようなものはどこにも存在しませんと言いたいわけではないのですが、関心を持つことができないのです。はっきり言って、どうでもいい。この点で私はパウロと同じであると信じています。

もちろん人は必ず死にます。私は牧師として何人もの方を看取ってきました。死の生々しい現実を知っています。そのような者ですので、死をオブラートで包んだり美辞麗句で飾ったりするつもりは全くありません。しかし、私は希望を捨てているわけではありません。キリスト教的な意味での希望の根拠とは何でしょうか。それは「復活」であるとパウロは述べているのです。それは、わたしたちが「イエス・キリストと同じように」復活することなのです。それ以外の意味はありえないのです。

聖書には、復活されたときのイエスさまの体がどういうものであったかが記されています。わきには槍で突かれた跡が残っていた。手足には十字架上にはりつけにされたときの釘の跡が残っていた。つまり、十字架にかけられたときのままの恥辱に満ちた姿で、イエスさまは復活されたのです。

この点も、わたしたちも同じなのです。ただし、この話をしはじめると嫌われることが多いので、ちょっと話しにくくなります。多くの人は、やはり、復活のときは前よりも美しくなりたいようです。しかし、私はそのようには信じていません。もし今私が死んだら、復活するときには太った関口牧師として復活するのだと信じています。先月の半ばからダイエットを再開しましたが、少し痩せたときに私が死んだら、復活するときは少し痩せた関口牧師として復活するのだと信じています。

何もわざわざそのような信じ方をしなくても、もう少し都合のよい信じ方をしてもよいのかもしれません。しかし、私は、自分にとっての最後の最後の姿のままで復活させていただけると信じることができるときに、深い意義と慰めを感じるのです。

なぜなら、そのように信じるとき、わたしたちは、自分自身の最後の最後の姿を本当の意味で受け入れることができるようになります。もしわたしたちが復活させていただけるときに、人生の最後の最後の姿とは別様のものへとに置き換えられてしまうのだとしたら、神御自身によって私の人生の最後の姿を否定されるのと同じであると私は思います。私は人生の中でどのようなことに悩んできたのかを否定されてしまう。あの苦しみぬいた日々を否定されてしまう。わたしがわたしであり、わたし以外の何ものでもなかったということの証しをすべて否定されてしまう。そのような気がしてならないのです。

聖書が教える復活とは、とても単純な話です。とにかく、このわたしが再び戻ってくるということ、ただそれだけです。しかしその内容は、考えれば考えるほど愉快な話なのです。

パウロはこのことを「希望を持たないほかの人々のように嘆き悲しまないために」書いたと言っています。このように言うことでパウロは異教徒を侮蔑しているわけではありません。しかし「希望をもたない人々」とは「“復活の”希望を持たない人々」のことを指しています。それは「復活など絶対にありえない」ということに揺るがぬ確信を持ってしまっている人々です。

しかし、わたしたちの死後の定めがどうなるかは、まだ誰にも分かりません。誰にも分からないことについて「復活しない」ということのほうに確信を持つくらいなら、「復活する」ということのほうに確信を持ってもよいではありませんか。どちらに確信を持つことができるかで、わたしたちの生き方が変わってくるのです。少なくとも「死後の世界」などということに関心を持つ必要が無くなります。そして、復活を信じることが、わたしたちの悲しみや寂しさを和らげ、心の傷をいやし、真に慰める力になるのです。

(2010年2月28日、松戸小金原教会主日夕拝)