2008年10月30日木曜日

ブログ小説を始めました

ブログ小説を始めることにしました。タイトルは「復活のひかり」です。



小説 「復活のひかり」(URL移転しました)



(新URL) http://novel.reformed.jp/



(旧URL) http://geocities.yahoo.co.jp/gl/reformed_jp/



ナニ、これでも私、岡山朝日高校の伝統ある「文学部」の部長を務めたこともあるのです。学園祭で販売する同人誌『朝日文学』に短編の小説を書きました。部員がほとんどいなかったので、バスケ部とか陸上部の人たちに原稿を書いてもらいました(この人たちがまた、なかなか文才あるんだ)。部費は全く無かったので岡山市内のスポーツ用品店やらを駆けずり回って「大々的に宣伝させていただきますので!」と、広告料を集める仕事もしました。オタクと言うなかれ、そのとき身に付けたことが今でも非常に役立っています。



2008年10月26日日曜日

人生は礼拝のために、礼拝は人生のために


フィリピの信徒への手紙2・14~18

「何事も、不平や理屈を言わずに行いなさい。そうすれば、とがめられるところのない清い者となり、よこしまな曲がった時代の中で、非のうちどころのない神の子として、世にあって星のように輝き、命の言葉をしっかり保つでしょう。こうしてわたしは、自分が走ったことが無駄でなく、労苦したことも無駄ではなかったと、キリストの日に誇ることができるでしょう。更に、信仰に基づいてあなたがたがいけにえを献げ、礼拝を行う際に、たとえわたしの血が注がれるとしても、わたしは喜びます。あなたがた一同と共に喜びます。同様に、あなたがたも喜びなさい。わたしと一緒に喜びなさい。」

今日の礼拝は宗教改革記念礼拝として行っています。1517年10月31日、ドイツの宗教改革者マルティン・ルターが当時のローマ・カトリック教会を批判する九十五カ条の提題をヴィッテンベルクの聖堂の扉に張りつけたその日から、宗教改革運動が始まりました。その故事にちなんで、改革派教会を含むすべてのプロテスタント教会が毎年10月31日を「宗教改革記念日」として重んじてきました。また10月31日に近い日曜日に「宗教改革記念礼拝」を行ってきました。この説教の中で多く触れることはできませんが、とにかく今日は記念すべき大切な礼拝なのだということを覚えていただきたく願っております。

さて、今日もフィリピの信徒への手紙を学んで行きます。今日の個所の最初に「何事も、不平や理屈を言わずに行いなさい」とあります。これは直接的にはフィリピの教会の人々に言われていることですが、同時にすべてのキリスト者に言われていることでもあります。確認しておきたいことは「何事も」の内容です。意味は、イエス・キリストを信じる人々が教会の中でまたは教会を通して行うすべてのことです。これは明らかに「教会の奉仕」について語られていることです。重要な点は、これは「教会」を抜きにして言われていることではないということです。

わたしたちは、教会の奉仕をする際に不平や理屈を言ってはなりません。しかし、このように言いますと、日本の戦前・戦中の軍隊調の教育を思い起こす方がおられるかもしれません。上司の前で不平や理屈を言えば暴力をもって制裁される。どんなに理不尽なことであっても、おかみの命令に無条件で従わなくてはならない。パウロはそのような意味で言っているのでしょうか。まさか、決してそういう意味ではありません。

そういう意味ではないことの根拠を示しておきます。それはここでパウロが用いている「不平」という言葉には旧約聖書的背景があるという点です。出エジプト記の出来事です。イスラエルの民が、奴隷状態に置かれていたエジプトの地から指導者モーセと共に脱出し、約束の地カナンを目指して砂漠の旅を始めました。彼らがエジプトから逃げ出すことは、彼ら自身が願っていたことでした。ところが旅の途中、彼らは繰り返し「不平」を言いました。まともな食べ物がない、水がない、こんなにつらい思いをするくらいならエジプトにとどまっていたほうがましだった、など。そのような不平を彼らは直接的にはモーセに向かって言いました。しかし、彼らが不平を吐きだした本当の相手は、神御自身でした。

この意味での「不平」をあなたがたは言うべきではないと、パウロはフィリピの教会の人々に言っていると考えることができます。なぜならパウロが用いている「不平」を意味するギリシア語は、出エジプト記に用いられている「不平」を意味するヘブライ語の翻訳だからです。教会の奉仕において問題になる「不平」は、本質的に言えばこの意味です。つまり、神に対する不平です。

神はわたしたちを罪と悪の支配のもとから救い出してくださいました。神はわたしたちの救い主です。わたしたちは、神に救われた者として教会に集められています。救われた者たちは、その救いの事実を喜ぶべきであり、感謝すべきです。しかし、肯定的な思いを抱くことができるのはおそらく最初だけです。そのうち不平を言いだします。教会もまた人間の集まりであった。ここにも人間の醜さや過ちがあふれている。神に救われたことを喜びたい、感謝したいと願ってはいる。しかし、教会の現実を知れば知るほど、ちっとも喜ぶことができず、感謝することができない。「神さま、私はあなたの救いを求めて教会に来ましたが、教会がわたしを躓かせます。どうして私はこんな嫌な目に遭わねばならないのですか」。これこそが、パウロが言うところの「不平」の内容です。

パウロは、教会の中のそのような問題を知らずに、あるいは知っていても目をふさいで、「何事も、不平や理屈を言わずに行いなさい」と書いているのではありません。彼はそのようなことは百も承知です。すべての事情を知り抜いています。

それどころか!パウロの目から見ると、教会の現実は、不平を言いたくなるようなことばかりでした。あれこれ理屈をつけて教会から逃げ出したがっている人々がいることも、分かっていました。しかし、だからこそ、です。パウロが勧めていることは、そのような教会の現実を、勇気をもって引き受けなさいということです。不平や理屈は、言いだせばきりがありません。その言葉をあなたのその口の中に飲み込んでしまいなさいということです。教会の中の人間に対する不平や理屈ではなく、このわたしを救ってくださった神への感謝と喜びを語りなさいということです。そのようにして教会の奉仕に熱心に取り組みなさいということです。

ここで16世紀の宗教改革者たちのことを考えることができそうです。彼らもまた、教会の現実に苦しんだ人々でした。当時のローマ・カトリック教会の現実が、彼らにとってはあまりにも耐えがたいものでした。しかし、宗教改革者たちは、ルターにせよカルヴァンにせよ、当時の教会の現実を憂い、批判し、攻撃することで終わるものではありませんでした。そもそも彼らは、教会の大掃除をしようとしただけであって、ローマ・カトリック教会にとって代わる新しい教会を作るつもりはありませんでした。それが彼らの偉大さでもあったのです。

不満があるから辞める、飛びだすで物事の決着をつけることは、いとも簡単なことです。しかしそれでは問題は何一つ解決できません。問題はある。だからこそ、その問題状況の中に踏みとどまって改革し続けること。その努力を惜しまない人々だけが、新しい時代を切り開いていくことができるのです。

「そうすれば」と続く次の文章に「とがめられるところのない清い者となり、よこしまな曲がった時代の中で、非のうちどころのない神の子として、世にあって星のように輝き、命の言葉をしっかり保つでしょう」とあります。このことも個人的な事柄としてとらえてしまうとパウロの意図が分からなくなります。「とがめられるところのない清い者」になることが求められているのは教会です。「非のうちどころのない神の子として、世にあって星のように輝き、命の言葉をしっかりと保つ」ことを求められているのも教会です。

一人一人の心の中に不平や理屈があることは、ある意味で仕方がないことです。しかし、そのような思いが心の中にあることと、それを口に出して言うことは別のことです。何でもかんでも言いたい放題をぶちまけて周りの人々を不愉快にし、教会の中に争いや分裂の原因を作りだすようなことがあってはならない。これこそがパウロの意図です。

もちろんこのようなことは今ここで私が口を酸っぱくして力説しなければならないようなことではないでしょう。わたしたちが体験的によく知っていることです。わたしたちが教会に来ると幸せを感じると言うとき、それが何を意味しているのかを考えてみればすぐに分かることです。それはやはり、教会のみんながいつも変らぬ笑顔で迎えてくれるとか、優しく温かく受け入れてくれると感じることでしょう。しかめっ面をした恐ろしい人々が、このわたしを睨みつける。そのような場所で幸せを感じるという人はいないでしょう。

「世にあって星のように輝き、命の言葉をしっかり保つ」ことを求められているのは、教会です。教会の輝きは建物の輝きではありません。建物をぴかぴかに磨くことも大事でしょう。しかし、教会の輝きとはここに集まっている人間の輝きであり、わたしたち一人一人の笑顔の輝きです。罪の暗黒から救い出され、絶望の淵から救い出され、神への感謝と喜びに満たされた、このわたしの輝きです。

パウロの願いは、フィリピの教会がそのような輝きをもつ教会として立ち続け、保たれ続けることに他なりません。「こうしてわたしは、自分が走ったことが無駄でなく、労苦したことも無駄ではなかったと、キリストの日に誇ることができるでしょう」とあります。フィリピ教会がそのような教会であり続けることができるとき、パウロの人生に「誇り」が与えられるというのです。生きていて良かった、伝道者になって良かった、教会のために苦労して良かったと、感謝と喜びの生活を生涯送り続けることができるということです。

教会には、実に面白い(?)面があります。雰囲気がおかしくなるときがないわけではありません。しかし、良い雰囲気を再び取り戻すこともできます。その秘訣ないし鍵は、礼拝です。教会活動の中心は間違いなく礼拝です。そして礼拝の中心は神の御言葉です。聖書朗読であり、説教であり、神への賛美です。わたしたちが教会の中であるいは教会を通して行うすべての奉仕は礼拝という軸、また礼拝の中心である聖書朗読と説教と神賛美という軸の周りをぐるぐる回っているのです。

それが意味することは明らかです。もし教会の雰囲気がたとえどんなにおかしくなったとしても、すべての教会の奉仕の中心である礼拝へと、また礼拝の中心である神の御言葉へと教会のみんなが集中することができるならば、良い雰囲気を再び取り戻すことができ、明るく輝く教会を取り戻すことができるのだということです。わたしたちは、教会の中で争いや対立が起こるときには、教会のど真ん中に、聖書をどんと開くのです。そして聖書の周りにみんなで集まり、神の御言葉に聞くという仕方で、問題解決の道を探っていくのです。そういうことができるのが教会なのです。

宗教改革者たちが熱心に取り組んだのも「宗教の改革」というような抽象的な何かではなく、実は「礼拝の改革」でした。彼らは説教を改革し、礼拝音楽を改革し、礼拝式順を改革し、教会規程を改革しました。それが世界の歴史を動かす力になったのです。

17節にパウロが書いていることは一つの重大な決意です。ただし、用いられている表現には、明らかに象徴的な意味が込められています。「信仰に基づいてあなたがたがいけにえを献げ、礼拝を行う際に、たとえわたしの血が注がれるとしても、わたしは喜びます」とは、どういうことでしょうか。考えられるのは次のことです。

「あなたがた」とは教会です。教会が「信仰に基づいていけにえを献げる」とはユダヤ教的な意味での動物犠牲を献げることではありません。それは「自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げること」(ローマ12・1)、すなわち、わたしたち一人一人が神を礼拝することです。ユダヤ教の場合は、彼らの安息日である土曜日に、神殿または会堂に動物犠牲を携えていきます。わたしたちの教会の場合は、キリスト教安息日である日曜日に、わたしたち自身が自分の体をたずさえて出席するのです。

その礼拝にパウロの「血」が注がれるとは、どういうことでしょうか。彼は礼拝の中で殺されるのでしょうか。もう少し肯定的に言いなおすことができるでしょう。その意味は、パウロは神を礼拝するために生きているということです。このわたしの命は、またわたしの流す血は、礼拝において神の前に注がれるためにあるということです。それがわたしの人生の目標であり、その目標がまさに達成できるのだから、神の前に自分の命がいけにえとして献げられることを、わたしは喜ぶと、パウロは語っているのです。

パウロの人生は教会と礼拝のために献げられました。しかしまた彼は各地の教会の礼拝が健全かつ活発に行われていることを見聞きするたびに、人生の喜びを感じとりました。彼の人生は礼拝のために、また礼拝は彼の人生のためにありました。

わたしたちもまた、このパウロと同じ思い、同じ信仰を与えられたいものです。

(2008年10月26日、松戸小金原教会主日礼拝)


特別伝道集会が終わりました

去る10月19日(日)松戸小金原教会の特別伝道集会が無事終了しました。テーマ「死と葬儀~あなたを独りで死なせない~」、講師は関口康でした。当日の説教(テキスト版、PDF版、PDF音声)をいつものように私設ブログ「今週の説教」にアップしておきました。また、当日配布した松戸小金原教会『葬儀の手引き』(第二版試案)や、事前に配布した特別伝道集会チラシもダウンロードできるようにしておきました。全国の諸教会でこの時期行われているすべての特別伝道集会が祝福されますようにお祈りいたします。



2008年10月19日日曜日

死と葬儀 ~あなたを独りで死なせない~


詩編23編

「主は羊飼い、
わたしには何も欠けることがない。
主はわたしを青草の原に休ませ
憩いの水のほとりに伴い
魂を生き返らせてくださる。
主は御名にふさわしく
わたしを正しい道に導かれる。
死の陰の谷を行くときも
わたしは災いを恐れない。
あなたがわたしと共にいてくださる。
あなたの鞭、あなたの杖、
それがわたしを力づける。

わたしを苦しめる者を前にしても
あなたはわたしに食卓を整えてくださる。
わたしの頭に香油を注ぎ
わたしの杯を溢れさせてくださる。
命のある限り
恵みと慈しみはいつもわたしを追う。
主の家にわたしは帰り
生涯、そこにとどまるであろう。」

本日は松戸小金原教会の特別伝道集会です。多くの方々にお集まりいただき心から感謝いたします。テーマは「死と葬儀」です。副題に「あなたを独りで死なせない」とつけました。このテーマを取り上げるかどうかを私はずいぶん悩みました。勇気が必要でした。しかし教会の皆さんは快く了解してくださいました。今こそ、このテーマについてみんなで考えることが大切であることを理解してくださいました。教会の皆さんのお支えをいただき、本当にうれしく思いました。

あらかじめ申し上げておきたいことがあります。それは、私はこのテーマを興味本位のような気持ちで取り上げたわけではないということです。冗談まじりにおもしろおかしく話せるようなことではありません。まさに真剣そのものです。

そしてこのテーマは、言うまでもなく、わたしたち全員にとって絶対に避けて通ることができないテーマであることは事実です。とくに今大きな苦しみの中にある人々自身が、このわたしはどうしたら希望をもって生きることができるのかを考えていくうえで避けて通ることができません。あるいはそのような方が身内におられる方々にとっては、どうしたらその方を慰め、励ますことができるのかを考えていくうえで避けて通ることができません。なぜなら、死と葬儀の問題は、それを真剣に考えて行くことが、わたしたちの人生のあり方そのものを考えて行くことを、そのまま意味しているからです。

しかし、この礼拝において私に許されている時間はごく限られたものです。「死と葬儀」というあまりにも大きすぎるテーマについて25分や30分くらいの時間で語れることは、ほんのわずかなことです。今申し上げているような前置き的な話をしているうちにも時間はどんどん過ぎ去って行きます。補いとして今日の午後予定している講演会で教会の葬儀についての具体的な話をさせていただきます。ぜひご出席いただきたいと願っています。

しかし間違いなく言えることは、先ほど申し上げましたとおり、死と葬儀の問題を真剣に考えて行くことはこのわたしがどうしたら希望をもって生きて行くことができるのかという問題にそのまま直結しているということです。重要な問題はわたしたちの死に方ではなく、生き方であるということです。逆説的かもしれませんが、私が願っていることは、死と葬儀の問題をこのようにして教会で、ここに集まっているみんなと一緒に考えることによって、わたしたちは、良い意味でこの問題を忘れて(!)しまおうではないかということでもあります。

ここから先はほんの少しだけ冗談がまじるのですが、確かに言えることは、わたしたちは、自分の葬儀を自分自身で行うことは不可能であるということです。この点だけは絶対的な真理であると言いきれます。わたしたちは自分自身の葬儀だけは誰かにまたはどこかに完全に委ねてしまわなければなりません。しかしまた、その点にこそ大きな不安があるのかもしれません。誰かにあるいはどこかに委ねてしまえと言われますと、どんなふうにされてしまうのか、想像するだけで恐ろしいと感じる人々もおられるだろうと思います。しかしこのこと――自分の葬儀は自分自身では決して行うことができないということ――だけは、わたしたちがどんなにもがこうが、あがこうが、どうすることもできない、全く動かしがたい事実なのです。

だからこそ、です。ここから先が私の申し上げたい点です。それは、わたしたちがまさに今生きている間に真剣に考えなければならないことは、このわたしの死を、そしてこのわたしの葬儀を、安心して委ねることができる、その意味で信頼することができる相手を見つけることなのだということです。

この特別伝道集会のためにこの地域に配布させていただいたチラシに「もしかしたら、教会が、あなたのお役に立てるかもしれません」と書かせていただきました。この文章を書いたのは私です。「もしかしたら」とか「かもしれません」というような、なんだか遠慮がちで弱々しい言葉をあえて用いました。押しつけがましい言い方はしたくありませんでした。「あなたの葬儀をぜひ教会で行わせてください」というような意味にとられては困るとも思いました。私が書いたことは、そういう意味ではないのです。

ならば、どういう意味なのか。私が考えているのは、次のようなことです。死と葬儀の問題には、自分独りでいくら考えても、自分で解決しようとしても、決して解決できない側面が必ずありますということです。どんなに一生懸命になって自分の遺書を書いても、それを何度も書き直しても、それによって、わたしたちの心が穏やかになることも、納得することもありえません。虚しい思いが募るばかりです。

また、わたしたちの家族の誰かが、このわたしのために葬式の準備を始めたとします。そのことを嬉しいと思うとか安心するということがありうるでしょうか。私は牧師ですが、私の家族が、私の生きている間に、私の葬儀の準備を始めたとしたら、私はやっぱり嫌だと思うでしょう。いつ死んでくれるのかと、待たれているような気がするだけです。準備などしないでほしいです。

たしか今から10年くらい前のことだと記憶していますが、岡山県にある実家に帰省したとき、両親から「お墓を買うかどうか迷っている」と言われて複雑な気持ちになりました。そういうことは考えないでほしいと思いましたし、そのように言いました。どうでもいいことだとは思いませんでしたが、お父さん、お母さん、それはお二人自身が悩むことではないはずだと言いました。死ぬことの準備とか、死んだあとの準備なんかするヒマがあるのなら、生きることに集中してほしいと、そのようなことまで口走った記憶があります。その種のことは自分自身で解決しなければならないような問題ではないはずだという確信が、私の中にあったからです。

死の問題はともかく、自分の葬儀の問題あるいは自分のお墓の問題について、どうしてわたしたち自身が悩まなければならないのでしょうか。私には未だに全く理解できません。あなたはまだ若いからだと言われてしまうかもしれませんが、私の関心はとにかく生きることだけです。死んだあとのことは、どうにでもして、という気持ちです。そこから先はどんなに手を伸ばしても、自分の思い通りにしようとしても、決して届かない、どうにもならない部分だからです。

しかし、それは私にとっては、あきらめではありません。私には先ほど申し上げた意味での信頼できる仲間がいるからです。「ここから先はお願いします」とすべてを委ねることができる、そうです、「教会」があるからです!

ここで私の両親の名誉のためにつけくわえておきますと、先ほどご紹介した墓の話は、実際にはちょっと考えてみたという程度のことでした。困り果てているとか夜も眠れないほど悩んでいるというほどのことではありませんでした。私の両親も教会のメンバーです。神を信頼し、神にすべてを委ねることを知っているキリスト者です。

今日、私が皆さんにお勧めしたいことは、まさに今申し上げた点にかかわっています。自分自身ではもはやどうすることもできないこと、すなわち、自分の死と葬儀に関することについて一切を委ねることができる「教会」を、皆さんの生涯をかけて捜し求めていただきたいということです。そのことが皆さんの心に本当に大きな安心をもたらしますし、良い意味でこの問題を忘れる(!)ことができる根拠にもなります。

実際問題として、教会が死と葬儀の問題を扱うときには、わたしたちの家族のだれかがこそこそと、あるいは大っぴらに、このわたしの葬儀の準備をするようなこととは全く別次元で扱うことができます。教会はこの件について「扱い慣れている」というような言い方はあまり適切なものではないかもしれません。しかし、いずれにせよ教会は多くの人々の死をみとり、遺族に対する慰めを語り、傷ついた人々に立ち直っていただくための努力を何年も何十年も、いや何百年も何千年も続けてきた経験とスキルをもっているのです。

何度も言うようですが、死と葬儀の問題は、自分独りで悩んでも、抱えこんでも決して解決しません。また、家族や友人たちが悩んだり、考えたりすることでもないと思います。はっきり申しますと、それは「教会」の仕事です。あるいは、もう少し広く言えば「宗教」の仕事です。

考えてもみてください。実際の葬儀の場面に立ち会ったことがある人なら誰でも知っていることですが、家族や友人たちは、その場面でたしかに一生懸命に立ち働いてはいますが、本当のところを言えば、他の誰よりも傷つき悲しみ、今にも倒れそうな思いでいるのです。人前に出られるような精神状態ではないのです。しかし責任があるから、誰かがやらねばならないから、無理やり立っているのです。

そして、です。あまりこのようなことを言うべきではないかもしれませんが、親しい人の葬儀の場面においてはこのわたし、司式をする牧師自身もまた、本当のところを言えば泣いていたい場面なのです。教会員の方々の中に「わたしの葬儀はぜひ関口先生にお願いしたいです」とおっしゃる方がおられるのですが答えに困ります。心の中で悲鳴があがります。「あなたほど大切な人の葬儀を、私にしろと言うのですか。誰よりも泣いていたいのは私なのに」と。正直勘弁してもらいたいです。しかし、牧師がそのようなことを言ってはいけません。葬儀がすべて終わってから泣くことにします。牧師もまた無理やり立っているのです。

この点から言えば、わたしたちの死と葬儀の問題は、最終的に言えば「教会に委ねる」ということだけでは不十分かもしれません。教会は人間だからです。牧師はもちろん人間です。だからこそ、私が最終的に申し上げたいことは、あなたの死と葬儀を、「教会」でも「牧師」でもなく、「神」に委ねてくださいということです。生きているときも、死ぬときも、いつもあなたと共にいてくださる「神」を信じてくださいということです。

最初にお読みしました聖書のみことばは詩編23編です。今から三千年前のイスラエル王ダビデの詩として知られてきたものです。「主」とは神です。主なる神が「羊飼い」であり、ダビデは「羊」です。「神」という信頼できる羊飼いに守られている「羊」は「何も欠けることがない」。「死の陰の谷」を行くときも「災いを恐れない」。「あなた(神)が、わたしと共にいてくださる」からであると告白されています。このダビデの信仰をわたしたちのものとすることができるなら、死を恐れない力を手に入れることができるのです。

今日教会に初めて来てくださった方々にお伝えしたいことは、まさにこの点です。

神を信じてください。神があなたを独りで死なせることはありません!

安心してすべてを神に委ねてください!大丈夫ですから!

(2008年10月19日、松戸小金原教会主日礼拝)

2008年10月12日日曜日

わたしはどうしたら救われるのか


フィリピの信徒への手紙2・12~13

「だから、わたしの愛する人たち、いつも従順であったように、わたしが共にいるときだけでなく、いない今はなおさら従順でいて、恐れおののきつつ自分の救いを達成するように努めなさい。あなたがたの内に働いて、御心のままに望ませ、行わせておられるのは神であるからです。」

パウロがフィリピの教会の人々に求めていることは「従順であること」、または「謙遜であること」です。今申し上げている「従順であること」と「謙遜であること」は原語的には同じ意味です。しかし日本語としては少しニュアンスの違うものがあるかもしれません。

「従順であること」の中で最も重要な要素は、従うことです。誰かあるいは何かに従うことです。従う相手が必要です。考えるべきことは、神に従うこと、キリストに従うこと、そして教会とその教えに従うことです。

しかし、「謙遜であること」においては、相手の存在が絶対的に必要であるわけではありません。誰かあるいは何かと比較して、その相手よりも自分を下に置くということだけが謙遜の意味ではありません。誰もいなくても、比較すべき対象がなくても自分をいちばん下に置くことが謙遜です。目上の人の前ではへりくだるが目下の人の前では自分を大きく見せようとする。このような使い分けは、「謙遜」のあり方としてはあまりよろしいものではありません。

パウロはどちらの意味で語っているでしょうか。おそらく両方の意味があります。従順であることと謙遜であること、すなわち、従う相手がいて初めて成り立つもの(従順)と相手がいなくても成り立つもの(謙遜)とは、一応の区別はしなければならないだろうとは思いますが、だからといって互いに矛盾しあうものではありません。

前回の個所でパウロは、わたしたちキリスト者の人生の模範はイエス・キリスト御自身であるということが分かるように書いていました。「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました」(2・6~7)。

この、神から人へと降りていく下向きの矢印のうちにキリストの歩まれた道が描き出されています。このキリストの謙遜の模範に従って生きることが、わたしたちに求められています。わたしたちはこのキリストと同じように謙遜でなければなりません。そのことをパウロは強く訴えていました。

そして今日の個所にパウロが書いていることはその続きです。「わたしの愛する人たち、いつも従順であったように、わたしが共にいるときだけでなく、いない今はなおさら従順でいなさい」と言われています。そして、そのことによってあなたがたは「恐れおののきつつ自分の救いを達成するように努めなさい」と続いています。

このようにパウロが書いていることの中に、私はいろんな意味を読み取ります。パウロの目から見ると、フィリピのキリスト者たちは、パウロが共にいるときは「いつも従順」でした。この場合の「従順」のなかには、ただ単なる謙遜というだけではなく、つまり、先ほどから申し上げている意味での相手がいなくても成り立つ生き方ということだけではなく、やはり、彼らと共にいる教師であるパウロとその教師が語る教えとに対する従順な姿勢という点が含まれていると思われます。

だからこそパウロは「わたしが共にいるときだけでなく、いない今はなおさら」という点を付け加えているのです。ここでパウロが求めている「従順」には、このわたしパウロへの従順という点が含まれているのです。

しかしまた、ここで同時に考えなければならないことは、パウロは、いかなる意味でも個人的に活動していたわけではないということです。パウロの背後には、常に「教会」がありました。パウロは教会によって任職された教師であり、また教会によって海外に派遣された宣教師でした。これは使徒言行録の学びの中で何度も確認してきた点です。パウロの活動の中には個人プレーの要素はないのです。

そのため、もしパウロが彼の手紙の中で「わたしに従いなさい」と書いたり実際にそのように語ったりすることがあったとしても、その意味は「俺様について来い」というようなものではありえず、常に必ず「わたしを教師として任職し、またわたしを派遣している“教会”に従いなさい」という意味が込められていると読むべきです。この点は、決して誤解されるべきではありません。

しかしまた、そこにもう一点、どうしても付け加えなければならないこともあります。それは、このフィリピの信徒への手紙における、いわば隠れたテーマでもあります。

それは、パウロに言わせると、教会によって任職された教師、あるいは、教会によって派遣された宣教師の中にもいろんな人々がいるという点です。「キリストを宣べ伝えるのに、ねたみと争いの念にかられてする者もいれば、善意でする者もいる」(1・15)と書かれていたとおりです。要するに、教会によって任職された同じ教師の中にも“従うべき教師”と“従ってはならない教師”とがいるということです。教師と名の付く人であれば誰でも従うべきである、という話にはならないのだということです。

もっとも、パウロが取り上げている問題を、狭い意味の「教師」だけの事柄に限定してしまってよいかどうかは微妙です。キリストを宣べ伝えることは教師たちだけの仕事ではなく、すべてのキリスト者の仕事だからです。しかし、このように言うことによって教師の責任を免除してよいわけではありません。キリストを宣べ伝えることをだれよりも先に教師が率先して行うのです。そして、教師の模範に従ってすべてのキリスト者がキリストを宣べ伝えるのです。この順序があることを否定できません。もしそうでないとしたら、教師が存在する意味がありません。

パウロの求める「従順」の中に、他の教師ではなく「このわたし」(パウロ自身)に従いなさいという点が含まれているということをどうしても無視することができません。それは今申し上げた事実があるからです。ある見方をすれば、パウロには自信過剰なところがあると見えるかもしれません。しかし、間違った教えを語る教師、間違った生き方を示す教師がいる。その人々にあなたがたが惑わされるようなことが決してあってはならないのだと、パウロは願っているのです。これは、彼の自信過剰によることではなく、責任感の強さによると考えるべきです。

以上、ここまでお話ししてきたことは、主に、パウロがフィリピの教会の人々に求めている日本語で言うところの「従順」の要素に関することでした。従順とは、神に従うこと、キリストに従うこと、そして教会に従うことです。さらに加えるなら、教会によって任職された教師に従うことを意味していると言わなければなりません。

それならば、(少し余談的なことですが)、教師である者は誰にまたは何に従順でなければならないのでしょうか。教師は誰の言うことも聞く必要がないというのでは、あまりにも不公平ですし、それこそ傲慢の道を突き進んでいくことになるでしょう。もちろん教師にも教師が必要です。教師の間違いをはっきりと指摘し、悔い改めさせることができるのは他の教師です。先輩か同僚の教師が該当するでしょう。そのように、教師同士がお互いを良い意味で監視しあい、譴責しあう仕組みをもつことができるのも“教会”の務めなのです。

しかし、です。私は今日、ここで話を終わりにしてはならないと考えています。パウロの語っていることは、日本語としての「従順」の要素だけではなく、明らかに「謙遜」の要素も含まれているからです。

そのことは今日の個所が前回の個所からの続きであるという単純な事実を確認するときに明らかになることです。わたしたちはイエス・キリストの謙遜の模範に従うべきである。わたしたちは謙遜に生きるべきである。このことについてはもちろん、イエス・キリストという相手があって、その相手に従順であるべきだと説明でも、間違いとは言えません。

しかし、ややこだわりたいのは、日本語の「謙遜」のニュアンスです。問題は、だれかとの比較ではない。「あの人より下だ」とか「あの人よりは上だ」という話にしてはならない。そういうことを考えている時点で、そこにはすでに十分に、傲慢の要素が紛れ込んでいるでしょう。むしろ、そのような比較を一切抜きにした姿勢をとること、つまり、誰がどうあれとにかく自分自身をいちばん下に置くときには他の誰との比較も問題にならなくなること(「いちばん下」なのですから!)、これが「謙遜」において重要な点なのです。

そして、です。これから申し上げることが今日最も強調したいと願っている点なのですが、それは、今日の個所にパウロが書いていることを、わたしたちは、今申し上げた意味での「謙遜」に到達することこそが実は「自分の救いを達成すること」に他ならない、と読むことができるのではないだろうかということです。

もう少し端的に言いなおします。要するにパウロが言っていることは、「自分をだれよりもいちばん下に置くことが、わたしたちの救いである」ということです。

さらに別の言い方もできるでしょう。他のだれかとの比較や競争、すなわち「ねたみと争いの念」(1・15)、あるいは「利己心や虚栄心」(2・3)のようなものからすっかり解放されたところに立つことができるときこそ初めてわたしたちは、心の底から「救われた」という確信をもつことができる。

逆に言えば、教会という場所の中でも、依然として「私はこの人より上だ」とか「私はあの人のことが羨ましくて妬ましくて仕方がない」というような思いや感情に支配されたままであっては「救われた」という確信をもつことができない。

このようなことをパウロが考え、そのように書いているのではないかと私には思われてならないのです。「従順でいること」によって「自分の救いを達成するように努める」とはどのような意味であるかを考えて行くと、このような結論に至らざるをえないのです。

今申し上げたことは、おそらく皆さんには、理屈の上だけではなく、体験的に理解していただけることではないでしょうか。少なくとも私には、非常にリアルな事柄として理解できます。現実の教会においては教師たち同士の比較や競争心、そしてそこから生まれる「ねたみや争い」は絶えることがないからです。惨めなほどに、恥ずかしいほどに、そうです。何が悲しくて、教会に来てまでそれほど競争し合うのか。あなたは何のために教師になり、牧師になったのかと問いたくなります。

教会員同士のことは、あまり言いたくありません。私は松戸小金原教会の中にその種の争いや分裂がないことを本当に喜んでいます。しかしこの種のことで悩んだり苦しんだりしている他の教会の人々の声を聞くたびに、悲しくなります。

13節は重要です。「あなたがたの内に働いて、御心のままに望ませ、行わせておられるのは神であるからです」。私の読み方は、次のとおりです。

「あなたがた」とは教会のことです。つまり「教会の内に働いておられるのは神である」ということです。「御心」とは神の御心のことです。つまり「教会とは神の御心を(地上で)行うものである」ということです。二つの点を合わせて言えば、「教会とは地上で神の御心を行う存在であり、神御自身のみわざそのものである」ということです。

そのとおり、教会の中でのわたしたち一人一人の働きは、神がお用いになるものです。わたしの働きは、神に徴用された働きなのです。個人プレーではありませんし、わたしの名誉や業績の中にカウントしてよいものでもありません。その種の競争心によっていつも追い立てられている状態から神によって救い出されること(解放されること)が、あなたの救いです。またそれこそが、教会として本来の(教会らしい)あり方なのです。

(2008年10月12日、松戸小金原教会主日礼拝)

2008年10月8日水曜日

緒形拳さん

緒形拳さん死去の一報に驚きました。私にとっては思い出深い俳優です。岡山の県立高校に通っていた頃、親の目を盗んで見た(というほどでもない)映画が、緒形さん主演の「北斎漫画」でした。若き日の(失礼)田中裕子さんや樋口可南子さんの美しさに心底魅了されました。あの映画を見た日、私の心に小さからぬ何かの疼きが始まったように思います。緒形さんがうらやましかった。「男」を教えてくれた人でした。(切ない)青春の一ページとして書き残しておきます。



今年は「ファン・ルーラー生誕百年」です

「忙しい」という言葉をできれば口にしたくないのですが、そうであると言わざるをえない状況が(あいかわらず)続いております。今年は「ファン・ルーラー生誕百年」として過ごしておりますが、その中でのファン・ルーラー研究会としての小さな働きを紹介できる運びになりました。



(1)日本基督教団改革長老教会協議会の季刊『教会』誌の最新号(第69号、2008年秋号)より、牧田吉和先生の訳によるファン・ルーラーの論文「キリスト論的視点と聖霊論的視点の構造的差違」の連載が始まりました。



この論文は、ドイツの説教学者ルードルフ・ボーレン先生の主著『説教学』の「第4章 聖霊」において大々的に取り上げられたことによってファン・ルーラーの名を世界的に知らしめたものです。「キリスト論的視点」と「聖霊論的視点」の区別は、厳密な組織神学的方法論において整理されたものとしてはファン・ルーラー自身が「発見者の喜び」をもって見出したものであり、現代神学に一種のコペルニクス的転回をもたらしたものであると評してよいものです。もちろん、ファン・ルーラーに反対する人々はまさにこの点(そのような区別ができるのかという点)に異論を唱えることが多いのですが、それはともかく、この論文におけるファン・ルーラーの主張を無視して現代神学について語ることは、今や不可能というべきです。そのような非常に重要な論文の全訳がこのたび公開されはじめたことを心から喜ぶと共に、多くの反応を期待しています。ご労力くださっている牧田吉和先生に、格別の感謝を申し上げます。



(2)今月10月1日発行の神戸改革派神学校紀要『改革派神学』の最新号(第35号、神戸改革派神学校創立60周年特別記念号)に、拙論「説教・教会形成・政治参加、そして神学――A. A. ファン・ルーラーの『教会的実践』の軌跡――」が掲載されました。



この論文は、昨年9月10日のファン・ルーラー研究会第5回神学セミナー(於日本基督教団頌栄教会)で私が行った研究発表「伝道と教会形成、そして神学」に大幅な加筆修正を施してまとめ直したものです。私のものはともかく、『改革派神学』最新号には優れた論文が多く掲載されています。組織神学関連では、市川康則校長の「エミール・ブルンナーの弁証的、宣教的神学」と、石原知弘先生の「オランダ改革派神学における敬虔の意義」は、必読の論文です。一冊1,800円です。どなたもぜひお買い求めくださいますよう、お願いいたします。



今年の前半は心身ともに疲れや弱りを覚えていましたが、このところかなり元気を回復しております。牧田先生からは「集中力を高めよ」と叱咤激励をいただきました。本当にそのとおりと、ありがたいお言葉に感謝しています。



2008年10月5日日曜日

人生の模範はイエス・キリスト


フィリピの信徒への手紙2・1~11

「そこで、あなたがたに幾らかでも、キリストによる励まし、愛の慰め、“霊”による交わり、それに慈しみや憐れみの心があるなら、同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにして、わたしの喜びを満たしてください。何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。互いにこのことを心がけなさい。それはキリスト・イエスにもみられるものです。キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、すべての舌が、『イエス・キリストは主である』と公に宣べて、父である神をたたえるのです。」

パウロが言おうとしていることは、はっきりしています。私なりの言葉で言い換えますと、次のようになります。

教会に集まるわたしたちは、自分のことしか関心がないような人間であってはならない。教会のみんなが心を合わせて一つにならねばならない。そのために重要なことは、わたしたちがみな、謙遜な人間になることである。

わたしたちに謙遜の模範を示してくださったのが、イエス・キリストである。キリストはわたしたちの人生の模範であり、謙遜の模範である。キリストが示してくださった謙遜の模範に従って生きることは、教会の一致のために重要である。

今私が申し上げたことの中に、今日の個所に限ってパウロが書いていない字があります。それは「教会」という二文字です。しかしここで考えなければならないことは、そもそもこの手紙そのものが、フィリピという町の「教会」に宛てて書かれたものであるということです。この点は繰り返し申し上げてきました。この手紙の中に「あなたがた」という字を見つけたら、それは直接的にはフィリピの教会の人々のことです。加えて当時「教会」に属していたすべての人々のことです。これは「教会に宛てられた手紙」であるという点を無視して読み進めることは不可能なのです。

また、ここで付け加えておきたいもう一つのことがあります。それは、これまでの個所にパウロが書いていることから分かることです。教会は、キリスト者の集まりです。同じ信仰をもって集まっている人々の団体です。しかし、その教会の中にはいろんな考え方や立場の人がいるということです。

パウロが書いていたことは、キリストを宣べ伝えるのに「ねたみと争いの念にかられてする者」もいれば「善意でする者」もいるということでした。「愛の動機」からキリストを宣べ伝える人もいるが、「不純な動機」からする人もいる。「だが、それがなんであろう」とも書かれていました。「とにかく、キリストが告げ知らされているのですから、わたしはそれを喜んでいます」と。

しかし、パウロが喜んでいることと、教会の中にいろんな考え方や立場の人がいて分裂や不一致に陥ることは、区別して考えなければならない面があります。てんでばらばら、好き勝手に、各自言いたい放題のことを言って、誰が傷つこうが嫌な思いをしようが関係ないというような状態を放置しておくことが良いことなのかと考えてみれば、いくらなんでもそれは違うだろうと誰でも感じるでしょう。てんでばらばらのままであるよりも一致しているほうが良いに決まっているではありませんか!けんかするよりも仲良くするほうが良いに決まっているではありませんか!

実際、パウロの言葉をじっくり読みますと、不純な動機からキリストを宣べ伝える人がいることをパウロは「喜んでいる」と書いていますが、しかし、喜びと同時に「苦しみ」も感じていたに違いないことが分かります。パウロはなにもへらへら笑っていたわけではありません。他のだれよりも彼自身が深く傷つき、苦しみを感じていました。しかしこの苦しみは「神の恵み」として与えられたものである、そうなのである、そうなのであると、一生懸命、自分自身に言い聞かせていた面があったに違いないのです。

だからこそパウロは、今日の個所においては教会の一致の必要性を力説しているのです。「あなたがたに幾らかでも、キリストによる励まし、愛の慰め、“霊”による交わり、それに慈しみや憐れみの心があるなら」と書いています。「幾らかでも」というのは、ちょっと遠慮しすぎです。しかし原文を見ますと、「幾らかでも」(ティス)という字は「キリストによる励まし」の前にも「愛の慰め」の前にも「“霊”による交わり」の前にも「慈しみや憐れみの心」の前にもついています。繰り返されている字には強調があります。「幾らかでも(ほんのちょっとでも!)」という点をパウロは強調しているのです。逆に、そのようなものを全く持っていないならば話は別である。その場合は、あなたがたはもはや「教会」ではない。そのようなニュアンスを読み取ることもできるのです。

しかし、そのようなものをあなたがたが「幾らかでも」(ほんのちょっとでも!)持っているならば、「同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにして、わたしの喜びを満たしてください」とあります。「同じ思い」や「同じ愛」と言う場合の「同じ」の意味は、教会に集まっている人々の中での共通性です。わたしパウロと同じ、ということも含んでいるかもしれませんが、それだけではありません。強く勧められていることは、教会内部の一致です。ばらばらでないこと。けんかをしないこと。一致し、協力して伝道に励むことです。それがパウロの喜びにもなると言われているのです。

「幾らかでも」(ほんのちょっとでも!)という点が強調されていることの意図は、よく考えてみる必要があるように思われます。これはまた、あからさまに言うところの教会の現実はいろんな考えや立場の人の集まりであるということに関係してくるでしょう。別の言い方をすれば、教会の中の温度差の問題であると言ってもよいでしょう。

教会のなかには、非常に熱心な人もいるし、少し温度が低い人もいます。願いとしては熱心でありたいのだけれども、今の事情がそれを許さないという人もいます。今のところ熱心である人が、今のところ熱心でない人を裁くこともありえます。ついこのあいだまでは、あるいは何年か前までは熱心であった人が今ではすっかり冷めてしまっているという場合もあります。

そのような事情のすべてをパウロはよく分かっているのです。だからこそ「幾らかでも」と言っているのです。パウロにとっては、伝道の動機が純粋であるか不純であるかは関係ないと書いているのと同様、熱心であるか冷めているかも、実はあまり関係ないことなのです。ほんのちょっとでもあるならば、十分なのです。熱い気持ちが多いか少ないかは、あまり関係ない。少ないことが教会の一致を乱してよい理由にはならないし、多いからと言って少ない人を裁いてもよい理由にもならないのです。

しかしまた、この教会内の温度差というべき問題についてパウロは(これはあくまでも私自身の一つの読み方として申し上げることですが)、今日の個所に限っては、どちらかというと、温度を上げるほうではなく、少し下げるほうのことを勧めているように感じられます。

「何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって」とパウロは書いています。「互いに相手を自分よりも優れた者と考え、めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい」とも書いています。ここでわたしたちが考えてよさそうなことは、パウロが書いていることは、信仰の熱心さに伴いやすい傲慢さに対する戒めであるということです。

このわたしは熱心である。一生懸命がんばっている。誰にも文句を言われることはないくらいに、よくやっている。この思いには、大きな落とし穴もあるのです。他の人がしていることが小さく見えます。自分よりも熱心でない人の存在に苛立ちを覚えます。わたしがこんなにがんばっているのに、誰もついてきてくれないし、理解してくれないと寂しさや孤独感を覚えたりもします。その人々の思いは、理解できないものではありませんが、しかし、一つの大きな落とし穴に通じる道でもあるのです。

もちろんそれは、傲慢の道です。熱心な人を熱心でない人が裁くことは、良くないことです。足を引っ張るようなことはすべきではありません。これもあからさますぎる言い方かもしれませんが、現実の教会は全員が同じ思い、同じ温度で一致協力することができている場合は少ないと言わねばなりません。熱心な人々が熱心でない人々を含む教会全体を支えているという場合が少なくありません。しかし、だからといって、熱心な人が熱心でない人を裁くことは、教会においては決して許されるべきことではありません。そのようなことを許すのは、はっきり言って「教会」ではないのです。教会ではない別の何かです。「わたしはこんなにがんばっている。がんばっていないあなたがたは、間違っている」と言った瞬間に、その人は、このわたしは、教会を破壊する言葉を語っているのです。

教会を破壊する傲慢の道に進んで行かないために、パウロが勧めていることは、イエス・キリストの模範に従うことです。「それはキリスト・イエスにもみられるものです」とある「それ」が指しているのは「へりくだって」です。謙遜であることです。つまり、「イエス・キリストの模範」とは最初に申し上げましたとおり「謙遜の模範」であるということです。わたしたち人間が謙遜に生きるための模範をイエス・キリストが示してくださったのです。

謙遜とは、傲慢の反対です。矢印の方向が正反対です。「傲慢」とは下から上へとのぼる道であり、「謙遜」とは上から下へとくだる道です。先ほど私が、温度を上げる方ではなく少し下げる方のことをパウロが勧めていると申し上げたのは、この点にかかっています。熱心であること、一生懸命にがんばることは、悪いことではありませんし、誰かから文句を言われたり裁かれたりしなければならないことでもありません。しかし、熱心であることの落とし穴は、他人を裁きはじめることです。他人の存在が小さく見えはじめ、他人のしていることが取るに足りないものに思えることです。知らず知らず、利己心や虚栄心が混ざりはじめることです。相手よりも自分のほうが優れていると考えはじめることです。

イエス・キリストはそうではなかった、ということを、パウロは読者に訴えています。キリストは「神の身分」であられたのに、そのことに「固執」なさらず、「かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました」。ここでパウロが描いているのは、キリストがたどった道です。キリストは、人間になられた神であると言っています。神である方が神であることにとどまらずに人間になられたのだと言っているのです。それが上から下へとくだって来る道です。傲慢が示す矢印とは正反対を向いた謙遜の道です。

パウロはそこまでは書いていないことながらこの文脈から読み取ってよさそうなことは、ねたみや争いの念にかられて伝道する人々、自分の利益を求めて教会に集まる人々、利己心や虚栄心を満たすことばかり考え、わたしはあの人よりも優れた人間であると競争心を燃やす人々は、キリストがたどった道とは正反対の道、つまり、「何とかして自分自身が神になろうとする道」を進んでいるのではないかという、一つの冷静な問いかけです。

わたしたちが教会の中で何か傷つくことがあるとしたら、ほとんどの場合、今日の説教で申し上げたようなことに関係しているのではないかと、私は考えております。イエス・キリストの模範、謙遜の模範に従うのが「教会」です。松戸小金原教会は「謙遜な教会」であり続けたいと願っています。

(2008年10月5日、松戸小金原教会主日礼拝)