2007年6月10日日曜日

「ステファノの殉教」

使徒言行録7・54~8・3



今日の礼拝は、日曜学校の子どもたちと一緒にささげています。日曜学校との合同礼拝です。



日曜学校の皆さん、おはようございます。今日も聖書のみことばを学びたいと思います。今日の個所に出てくるのは、ステファノさんです。熱心なクリスチャンでした。しかし、ひどい話が書かれています。残念なことに、ステファノさんは殺されてしまいます。大勢の人々に囲まれて、石を投げつけられて。



皆さんの中には、学校でいじめられた人がいますか。だれかをいじめたことがある人がいますか。大勢で一人を囲んで痛めつけている、そういう場面を見たことがありますか。もし見たことがあれば、そのときいじめられている子とステファノさんの姿は、よく似ていると思います。



でも、全く同じとは言い切れない、と感じるところがあります。ステファノさんには、他の人とは明らかに違う、特別なところがありました。そのことが今日の聖書のみことばの中に、はっきりと分かるように書かれています。



「人々はこれを聞いて激しく怒り、ステファノに向かって歯ぎしりした。ステファノは聖霊に満たされ、天を見つめ、神の栄光と神の右に立っておられるイエスとを見て、『天が開いて、人の子が神の右に立っておられるのが見える』と言った。人々は大声で叫びながら耳を手でふさぎ、ステファノ目がけて一斉に襲いかかり、都の外に引きずり出して石を投げ始めた。証人たちは、自分の着ている物をサウロという若者の足もとに置いた。人々が石を投げつけている間、ステファノは主に呼びかけて、『主イエスよ、わたしの霊をお受けください』と言った。それから、ひざまずいて、『主よ、この罪を彼らに負わせないでください』と大声で叫んだ。ステファノはこう言って、眠りについた。」



ここには、ステファノさんが殺される前にしたことが三つ書かれています。



第一に、ステファノさんは、天を見て、そこにおられる父なる神さまと神さまの御子であるイエスさまを見て、そのイエスさまが「立っておられるのが見える」と言いました。



第二に、ステファノさんは、石をぶつけられている間、「主に呼びかけ」ました。これはお祈りしました、という意味です。



第三に、ステファノさんは、ひざまずいて、大声で「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」と言いました。「彼ら」とは、ステファノさんに石を投げつけている人々のことです。どうか神さま、今わたしに石を投げつけているこの人々の罪を赦してあげてくださいと、神様に祈ったのです。



第一の、イエスさまが立っておられる姿をステファノは見たという点についてですが、当時の教会には、天におられるイエスさまは、父なる神さまの右側に座っておられる、という信仰がありました。その信仰をわたしたちも受け継いでいます。つまり、ステファノにとっても、イエスさまは、ふだんは“座っておられる”のです。



ところが、ステファノさんはイエスさまが天で“立っておられる”姿を見ました。これでわたしたちに分かることは、イエスさまというお方は、まさに立ったり座ったりなさる、つまり動く方であり、生きておられる方なのだ、ということです。イエスさまが「立っておられる」理由は、ステファノさんの命を御自身の手で受け取ってくださるためではないでしょうか。



ステファノさんが殺される前にしたことの第二と第三の点に共通している要素は、祈りです。ステファノさんは、殺される前に、神さまにお祈りしたのです。自分に向かって石を投げつける人々の罪が赦されるように、祈ったのです。



私が、ステファノさんは他の人とはだいぶ違う、わたしたちともかなり違う、と感じるのは、今申し上げたような点です。わたしたちは、自分に向かって石を投げつける人々の罪を赦してくださいと祈ることができるでしょうか。



もしわたしたちが、そんなことなどできるはずがないと思っているうちは、わたしたちとステファノさんの間には、天と地ほどの差があります。でも、忘れてはならないと思うのは、ステファノさんはわたしたちと同じ“人間”である、ということです。



今でもはっきりと覚えていることがあります。私が生まれて初めて、今日の聖書の個所に出てくるステファノさんの話を日曜学校で学んだのは、小学生のときでした。そのときの分級の先生は、私のお母さんでした。私は、自分の母からステファノさんのことを学んだのです。



私が通っていた教会の牧師さんの話は、何度聞いても全く理解できませんでした。しかし、母の話は、よく分かりました。そして、私は、母の語るステファノさんの話を聞きながら、ものすごくびっくりしたことを覚えています。そのびっくりしている顔を「よく覚えている」と、母のほうもいまだに言います。



しかし、この話のどのあたりの部分にびっくりしたのかまでは、覚えていません。人がむごたらしい方法で殺される場面にびっくりしたのかもしれません。しかし、どうもそれだけでもないようです。はっきり覚えているわけではありませんが、自分に向かって石を投げつける人々の罪を赦してくださいと祈りながら死んでいった人がいた、という事実に、びっくりした。そういう気もするのです。



もう少しだけ私の話をするのを許してください。母が説教してくれたからかもしれません、その話を聞いて以来、ステファノさんのことが、とにかくずっと、私の心と頭から離れなくなってしまいました。自分に石を投げつける人々の罪を赦してくださいと祈りながら死んだ人がいる、ということを忘れることができなくなりました。



教会の牧師という仕事をやりたい、と願うようになったときにも、このステファノさんのイメージが私の心にありました。そのことをずっと前ですが、ひとまえで話したこともあります。このステファノのようでありたい、と願ったのです。



ステファノさんは、牧師ではありませんが、伝道者です。クリスチャンは、イエスさまと同じように生き、イエスさまと同じように死ぬのです。そのことをステファノは、自分の身をもって示しました。御自身を十字架にかけた人々の罪の赦しを、十字架の上で祈られたあのイエスさまと同じように、ステファノもまた、死の間際に、自分を殺そうとしている人々の罪の赦しを祈ったのです。



大人の皆さんにお勧めしたいことがあります。子どもたちには、牧師の説教を聞かせるよりも、自分で説教するほうがよい、ということです。牧師の話は、すぐに忘れてしまいます(たぶん)。しかし、自分の母親や父親から聞く説教は忘れることができません。その子は将来、牧師になるかもしれません。



日曜学校のみんなにお願いしたいことがあります。それは、私がふだん絶対に言わないことです。しかし、今日は言わせてください。



伝道者になること、また教会の牧師になるということを、真剣に考えてみてください。なぜ私がふだんこのようなことを絶対言わないのかといいますと、(「この仕事はとても大変だから」ではなく)伝道者の仕事、また牧師の仕事は、人から勧められてするものではなく、神さまと相談して自分で決めてするものだからです。



伝道者・牧師の仕事は、イエスさまがお教えになった「敵を愛しなさい。迫害する者のために祈りなさい」という御言葉を、まず自分自身が真剣に受けとめ、信じつつ、それを多くの人々に宣べ伝える仕事です。



敵を愛するだなんて、そんなことは人間には絶対にできっこないと、多くの人々は言います。教会に長年通っている人々までが、そう言います。たしかに、考えれば考えるほど、できっこない。



しかし、ステファノさんには、できました。



イエスさまは“神の御子”であり、“御子なる神”です。



しかし、ステファノさんは、“人間”です。



わたしたちと同じ、人間です!



「敵を愛すること」は、人間にできること、可能なことなのです!



“しなければならないこと”なのです!



(2007年6月10日、松戸小金原教会主日礼拝)