使徒言行録7・44~53
今日の個所で、ステファノの説教は終わります。ここでもステファノは、旧約聖書の話をしています。この個所の登場人物の中で大事な名前は、ダビデとソロモンです。
「わたしたちの先祖には、荒れ野に証しの幕屋がありました。これは、見たままの形に造るようにとモーセに言われた方のお命じになったとおりのものでした。この幕屋は、それを受け継いだ先祖たちが、ヨシュアに導かれ、目の前から神が追い払ってくださった異邦人の土地を占領するとき、運び込んだもので、ダビデの時代までそこにありました。ダビデは神の御心に適い、ヤコブの家のために神の住まいが欲しいと願っていましたが、神のために家を建てたのはソロモンでした」。
ダビデとソロモンは親子です。どちらも神の民イスラエルが一つの国家を形成していた時代の王になった人々です。ダビデの前に、サウルという初代の王がいました。しかし、サウルは、神御自身によって王座から退けられました。そのため、ダビデが二代目の王となり、ダビデの子ソロモンが三代目の王となりました。
とくにダビデ王は、非常に尊敬された人です。とても熱心な信仰者であり、かつ政治的に有力・有能な指導者でした。長生きした人でもあります。戦争にもめっぽう強く、戦利品などをたくさん持ち帰ってくることができたので、ダビデ王時代のイスラエルは非常に豊かでした。
ダビデが歴史的に果たした役割は何かということを考えるときには、今申し上げましたことの中で、二つの点がとくに重要です。第一は、ダビデはとても熱心な信仰者であったという点です。第二は、ダビデ王の時代のイスラエルは非常に豊かであった、つまり当時のイスラエルは、比較的、経済的に潤沢な時代であった、という点です。
信仰的に熱心であり、かつ経済的に潤沢である。それらを維持するにふさわしい政治的な力も与えられている。もしそれがわたしたちの場合であればどうだろうかと考えてみてください。そういうときに、人はどんなことを考えるのだろうかということを考えてみていただきたいのです。
ダビデがしようとしたことは、要するに、神殿を建てることでした。それは、神さまを礼拝する場所であり、まさに礼拝堂です。小さな建物ではありません。巨大な建物です。そういうものをダビデは造ろうとしました。
信仰と財産の両方が備わっているというのは、悪いことではありません。むしろ、非常に良いことです。新しい礼拝堂建設というようなことは、信仰と財産の両方が兼備されているときにしか考えることができませんし、逆に言えば、その両方が備わっているならば、そのときこそ新しい礼拝堂建設のチャンスである、ということも言えるでしょう。ダビデの時代のイスラエルは、まさにそのような時代だったのです。
しかし、です。ダビデは、新しい神殿の建設を非常に強く熱望し、それを建てる準備のためには全力を尽くしました。ところが、ダビデ自身はその神殿を見ることができませんでした。それどころか、ダビデが生きている間には、神殿工事が始まることもありませんでした。神殿工事が始まったのは、ダビデの子ソロモンの時代でした。そうなることを、ダビデ自身が望んだのです。ダビデは何を考えていたのでしょうか。そのことがはっきり分かるのは、旧約聖書・歴代誌上の以下の記事です。
「ダビデは、『わが子ソロモンは、主のために壮大な神殿を築き、その名声と光輝を万国に行き渡らせるためにはまだ若くて弱い。わたしが準備しなければならない』と言って、死ぬ前に多くの準備をした。ダビデはその子ソロモンを呼び、イスラエルの神、主のために神殿を築くことを命じて、ソロモンに言った。『わたしの子よ、わたしはわたしの神、主の御名のために神殿を築く志を抱いていた。ところが主の言葉がわたしに臨んで、こう告げた。「あなたは多くの血を流し、大きな戦争を繰り返した。わたしの前で多くの血を大地に流したからには、あなたがわたしの名のために神殿を築くことは許されない。見よ、あなたに子が生まれる。その子は安らぎの人である。わたしは周囲のすべての敵からその子を守って、安らぎを与える。それゆえ、その子の名はソロモンと呼ばれる。・・・この子がわたしの名のために神殿を築く。この子はわたしの子となり、わたしはその父となる」』」(歴代誌上22・5~10)。
これで分かるように、ダビデは、非常に冷静に、自分の息子ソロモンには、まだ十分な実力が無い、ということを見抜いています。ダビデは親バカではなかったということが、よく分かります。
神殿建設の準備はこのわたしがする。しかし、このわたしは、あまりにも多くの戦争を体験し、その中で他人の血を流しすぎた。そういう(けがれた)人間が(きよい)神殿を建てることはふさわしくないという声を神御自身から聞いたと信じた。これが、ダビデには神殿建設に着工することも、神殿の完成した姿を見ることもできなかった理由です。
ダビデにとって、神殿を造りたいという願いは、彼自身が抱いた夢なのですから、当然のことながら、彼自身の手で、夢をかたちに変えたいと願ったに違いないでしょう。
しかし、実際には手を引きました。わたしの夢をわたし自身が実現する、ということについてはこれを封印し、わたしは計画と準備だけを行い、計画の遂行と実現は次の世代の人々に託した。こういう冷静で慎重で謙虚な判断をくだすことができたのはダビデの信仰深さゆえであると考えることは、決して間違ってはいないと思います。
ここで思い起こしていただきたいのは、このステファノの説教を学び始める前に、そもそもステファノという人が教会の表舞台に登場するきっかけとなった出来事は何だったかについて、私がお話しした内容です。
それは、教会の中にある一つの大きなトラブルが起こった、ということでした。それを適切に処理するために、使徒たちが考えたことは、新しく七人の教会役員を選挙し、その人々に新しい問題の解決を担ってもらうことにした、ということでした。これを別の角度から見ると、使徒たち(旧役員たち)は、教会の中に新しい問題が起こったときに、悪い意味でそれらすべてを自分たちだけで抱え込んでしまわなかった、ということでもあるのだ、と私は申し上げました。
新しい問題に対して新しい教会役員たちで対応するということ、従来の教会役員たちが自らの限界を正直に打ち明けつつ、他の人々の助けと協力を要請するということは決して間違った態度ではないし、恥ずかしいことでもありません。
さて、今申し上げたことと、先ほどから申し上げておりますダビデの態度との間には、明らかに共通点がある、ということを、わたし自身は感ぜざるをえません。重要な共通点は、何もかも自分で抱え込んでしまわないという点です。わたしがすべてをやってしまうというような態度をとらない、そのような決断を行わない、ということです。
ちょっと言いたいことがあるのです。日本キリスト改革派教会だけではなく日本の多くの教会で、数年前から新会堂建設ラッシュです。そのこと自体が悪いと言いたいわけではありません。
しかし、です。ちょっとだけ言いたいことは、その仕事は本当に今しなければならないことなのですかと疑問に感じる例もないわけではない、という点です。まさか、会堂建築は自分の手柄であるなどと考える牧師はいないでしょう。ぜひそう信じたいですが、それはともかく。
いずれにせよ、わたしは、何人かの牧師たちに対しては、その仕事は本当に、今しなければならないものですか、次にその教会に来る牧師、あるいは次の次、場合によっては次の次の次くらいの牧師がすればよい仕事かもしれませんよ、それは先生、あなたのすべき仕事ではないと思いますよ、と言いたい気持ちを、抑えきれずにいるのです。
つまらぬ名誉心、目に見える結果を急いで焦る気持ち、そして「このわたしがやらねばならぬ」という抱え込み。はっきり言えば、その種のことはすべて、教会の私物化に通じます。教会は神さまのものであり、救い主イエス・キリストの体です。だれか個人が私物化した時点で、その教会は“教会”ではありません。
お金も人も少ないときに無理して造った建物が小さいものになることは当たり前です。しかし、あなたの次の牧師の時代には、その教会は大きく成長し、栄えるかもしれないではありませんか。そのような場合には、前任者の時代に造られた小さな建物が教会の成長を著しく阻害する、非常に迷惑な存在になる、ということがありうるのです。
われわれ教会の者たちは、本当はもちろん自分自身がやり遂げたかった神殿建設の仕事を息子ソロモンに委ねたダビデや、教会の中に起こってきた新しい問題に対して、新しい役員を選んで対応しようとした使徒たちの姿勢に、多くのことを学ぶべきです。
ステファノの説教の内容からは、かなり脱線しました。しかし、重要な点には、触れたつもりです。そして、ステファノがこの説教で語ろうとしていることも、突き詰めていくと、先ほどからわたしが申し上げているようなことと深い次元で共通している事柄である、ということが分かっていただけるはずです。
なぜなら、ステファノが語っているのは、“エルサレム神殿の住人たち”、すなわち当時のユダヤ教団の指導者たちに対する痛烈なまでの批判だからです。
神殿という建物の中に、「神」が住んでおられるわけではない。神は「天」におられる!あなたがた神殿の住人たちは、まさか「神」ではないし、神を語る資格も無い。そのように、ステファノは語ろうとしているのです。
「けれども、いと高き方は人の手で造ったようなものにはお住みになりません。これは、預言者も言っているとおりです。主は言われる。『天はわたしの王座、地はわたしの足台。お前たちは、わたしにどんな家を建ててくれると言うのか。わたしの憩う場所はどこにあるのか。これらはすべて、わたしの手が造ったものではないか。』かたくなで、心と耳に割礼を受けていない人たち、あなたがたは、いつも聖霊に逆らっています。あなたがたの先祖が逆らったように、あなたがたもそうしているのです。いったい、あなたがたの先祖が迫害しなかった預言者が、一人でもいたでしょうか。彼らは、正しい方が来られることを預言した人々を殺しました。そして今や、あなたがたがその方を裏切る者、殺す者となった。天使たちを通して律法を受けた者なのに、それを守りませんでした。」
大きな建物の住人が、偉いわけではありません。建物の大きな教会が、立派なわけではありません。それは目の錯覚にすぎません。建物の大きさに幻惑されてはなりません。
大切なことは、建物の大きさではありません。ステファノが旧約聖書の御言葉を通して訴えているのは、信仰の大切さです。アブラハムの信仰的な決断や、ヨセフの神さまとの深く永続的な信頼関係の意味を思いめぐらすことが、大切です。モーセの召命と荒れ野の四十年の試練の中で鍛えられたのも、信仰でした。
信仰をもって立つ人は、どのような脅迫にも動じることがありません。
ステファノは、信仰において生き、そして信仰において、まさに死んだのです。
(2007年6月3日、松戸小金原教会主日礼拝)