2007年2月18日日曜日

「聖霊が語らせるままに」

使徒言行録2・1~21



「五旬節の日が来て、一同が一つになって集まっていると、」



五旬節の日に集まっていた「一同」が、新しく加わったマティアを含む十二使徒だけを指しているのか、それとも、十二人以外の人々もいたのか、たとえば、1・15にあるように「百二十人ほどの人々」も合わせての「一同」なのかということは、この文章だけでは分かりません。



分からないことは、問うても仕方ないことかもしれません。しかし、です。この「一同」がどちらの意味であるのかという問題は、ここに描かれている情景をわたしたちが自分の心の中でイメージしてみるときに重要な点ではないかと思うのです。



私が強く関心を抱く問題は、今日の箇所に描かれている「聖霊が降る」という出来事が起こったのは、十二使徒に対してだけなのか、それとも、もっと大勢の人々に対しても、それは起こったのか、つまり、少なくとも最初のキリスト者の百二十人ほどの人々にも、聖霊は降ったのか、ということです。



私はなぜ、この点に引っかかるのでしょうか。その理由は、おそらく皆様には理解していただけることです。



この「一同」に聖霊が降った結果として、その人々は「霊が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした」と言われています。彼らが話し出したことは何でしょうか。それは明らかに、神の御言葉です。キリスト教信仰を宣べ伝える言葉、すなわち、信仰の言葉、伝道の言葉です。



それは説教であり、奨励であり、信仰告白であり、証しです。ただのおしゃべりをしていたわけではありません。おしゃべりが悪いと言いたいわけではありません。おしゃべりは良いものです。しかし、この場面でこの人々が語っていたことは単なるおしゃべりではなかったし、悪い意味での無駄話ではありませんでした。それは神の言葉であり、信仰の言葉、伝道の言葉であった、と考えるべきです。



その場合に、です。この「一同」は、果たして十二使徒だけなのか、それとも、少なくとも百二十人くらいの規模のキリスト者の集まりを想定することができるのかが、やはり大きな問題になる、と思います。



なぜなら、十二使徒は、いわば特別な人々だからです。最初のキリスト者の百二十人の団体の代表者です。選び抜かれた少数者、特選の人々です。



どうしてこれが問題になるのでしょうか。次のことを、考えてみていただきたいのです。もしこのとき聖霊が降ったのが十二使徒だけであった、と考えなければならないのだとしたら、そのとき同時に必然的に、聖霊降臨の結果として起こった「神の御言葉を語ること」(この仕事!)は、十二使徒というきわめて限定的な特別な人々だけの仕事になった、とみなされることになるのです。



しかし、ここで、わたしたちは、もう一つの可能性を考えてもよいはずです。それは、もちろん、言うまでもなく「神の御言葉を語ること」、人々にキリスト教信仰を宣べ伝える言葉を語ること、すなわち、説教なり、奨励なり、証しなりを語ることは少なくとも最初にいたと言われる百二十人ほどのキリスト者の群れ全体の仕事になった、と考えてもよいのではないか、という可能性です。



はたして、聖霊は、ごくわずかな教師や役員だけに注がれ、その人々だけが伝道の働きをするのでしょうか。それとも、聖霊は教会全体に注がれ、伝道の仕事もまた、教会全体の仕事なのでしょうか。



たとえば、教会の伝道活動は、牧師と教会役員だけがすることで、あとのみんなは見ているだけ、聞いているだけ、ということで良いのでしょうか。それではまずいのではないでしょうか。



皆さんにぜひ考えていただきたいことは、聖霊が注がれた「一同」とは誰のことなのか、です。どちらとも取れる、答えのない問いであるだけに、その結論は、わたしたち自身に委ねられている、と考えることもできるでしょう。



「一同」の意味如何によって、このあたりの考え方や姿勢を、わたしたち自身が、徹底的かつ根本的に変えなければならなくなるかもしれないのです。



「突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。」



聖霊とは何かという問いに対しては、「聖霊論」(Pneumatology: Doctrine of the Holy Spirit)と呼ばれる一つのまとまった教理体系があり、研究も続けられています。しかし、私自身は、聖霊とは何かという問題について多くの皆様にとってお腹にきちんとおさまるような言葉で答えようとするためには、今なお難しい問題があり、高い壁があると感じています。



しかし、何はともあれ、はっきりしていることは、聖霊とは、わたしたち人間の存在の外側から内側へと入り込んでくる何かである、ということです。



それはちょうど、かわいたスポンジに水がしみこみ、浸透していくように、あるいは、わたしたちが口から食べたり飲んだりして、お腹の中で消化されて、血となり肉となっていく食べ物飲み物のように、人間の中に外から入ってくるもの、浸透してくるもの、そのようなものとして、聖書は聖霊を描いています。聖霊について、聖書は「注がれる」とか「宿る」という表現を用いて、その動きや様子を描いています。



そして、今日の個所において聖霊は、「激しい風が吹いて来るような(天から聞こえる)音」を伴うものとして、また「炎のような舌」というイメージを伴うものとして描かれています。これらの点も重要です。



「風」と聖霊の関係について考える際には、ヨハネによる福音書に記されている、以下の主イエス御自身の御言葉を見ておく必要があります。



「風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである」(ヨハネ3・8)。



ここで主イエスが語っておられるのは、聖霊は風のようなものである、ということです。そして、その意味は、風は思いのままに吹く、つまり、それは自由に吹くということです。どこにでも存在するし、動き回り、あらゆるものにかかわり、あらゆるものを動かすものである、ということです。今流行している言葉でいえばユビキタスです。どこにでも存在する(偏在)、という意味です。



聖霊は風のようなものである、という場合に、とくに大切な点は、それが自由である、ということです。固定されていない、特定の人々や物に限定されない、枠にはまらない、はめることができない、拘束することができないものである、ということです。



聖霊は、拘束することができない風のようなものであるとしたら、どうなるか、です。ここで、最初の問いに戻ります。聖霊が注がれた「一同」とは、十二人の使徒たちだけのことですか、それとも、少なくとも百二十人と言われる最初のキリスト者たちの群れ全体のことですか。この問いに、答えを与えることができるようになると思います。



そして、もう一つ描かれている聖霊のイメージは「炎のような舌」です。炎は燃える。舌が燃えているのです。これは明らかに比喩です。



そして、何の比喩かも、明らかです。熱く言葉を語ることです。神の御言葉を語ること、信仰の言葉、伝道の言葉を、熱く語ることです。冷めていない、白々しくない。変に批判的だったり、斜めに見たり、クールであったりしない。



乱れ狂うほどに熱狂する必要はないかもしれません。事柄を冷静に判断できる穏やかな心を持つことは、重要です。しかし、そこにわたしたちの体重がかかっているかどうか、わたしたちの存在をそこに賭けているかどうかは、問われるかもしれません。



趣味の場合でも、わたしたちは結構、のめりこみます。熱中し、魅了されます。寝ても冷めても、そのことを考えている、というほどに心を奪われます。



それにいわば似たようなこととして、あるいは、もしかしたらそれ以上のこととして、聖霊が「炎のような舌」というイメージを伴ってわたしたち人間の内部に注がれるときに起こることは神の言葉を熱く語ることであり、救い主を信じる信仰に熱中し、魅了されることであり、教会生活、信仰生活ということを寝ても冷めても考えている、というほどに心を奪われることです。このように、考えることができます。



そして、これは単なる理論的な説明や理屈ではなく、わたしたち自身が実際に体験してきたことです。そうではないでしょうか。



先日、日本キリスト改革派教会の尊敬すべき引退教師の葬儀に参列いたしました。司式をされた牧師も、喪主のおくさまも、口を揃えて、「先生には趣味がなかった。毎週日曜日の説教とその準備のために、ひたすら力を注いでいた。引退された後も、教会で行われる礼拝や諸集会だけを楽しみにしていた。そこに出席することだけを喜んでいた」と言われました。



そのことを、とくにおくさまは、大いに愛情を込めてではありますが、やや非難めいたニュアンスもこめておられました。もっと趣味を持つべきだと口やかましく言ったことがあるとか、家族を旅行に連れて行ってほしいと思っていた頃があると。



その話を、私は、耳が痛い話として聞きました。しかしまた、私は、そのとき同時に、亡くなられた先生のお気持ちが、よく分かったのです。



趣味などなくてもよい、と申したいわけではありません。趣味は持ってもよいし、持つべきです。しかし、私は同時に確信します。牧師の仕事、伝道の仕事は、趣味にも代えがたいほどに面白いことであり、夢中になれること、魅了されることなのです!



そして、だからこそ、熱く語ることができます。「炎のような舌」を持つことができます。聖霊がわたしたち人間の中に注がれた結果として起こることは、そのようなことなのだ、ということを申し上げたいのです。



今から二千年前に、最初のキリスト者たちのもとで起こった出来事は、ただの昔話ではありません。奇妙キテレツな不思議な話でもないと考えるべきです。



突然のきっかけから、ひとが夢中になって神の御言葉を語り始める。信仰の言葉、伝道の言葉を語り始める。その言葉に心を打たれた人々が、洗礼を受け、教会の一員になり、主の日ごとに礼拝をささげ、神を賛美するようになる。そのようなことが起こったのです。



「さて、エルサレムには天下のあらゆる国から帰って来た、信心深いユダヤ人が住んでいたが、この物音に大勢の人が集まって来た。そして、だれもかれも、自分の故郷の言葉で使徒たちが話をしているのを聞いて、あっけにとられてしまった。人々は驚き怪しんで言った。『話をしているこの人たちは、皆ガリラヤの人ではないか。どうしてわたしたちは、めいめいが生まれた故郷の言葉を聞くのだろうか。わたしたちの中には、パルティア、メディア、エラムからの者がおり、また、メソポタミヤ、ユダヤ、カパドキア、ポントス、アジア、フリギア、パンフィリア、エジプト、キレネに接するリビア地方などに住む者もいれば、ユダヤ教への改宗者もおり、クレタ、アラビアから来た者もいるのに、彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは。』人々は皆驚き、とまどい、『いったい、これはどういうことなのか』と互いに言った。しかし、『あの人たちは、新しいぶどう酒に酔っているのだ』と言って、あざける者もいた。すると、ペトロは十一人と共に立って、声を張り上げ、話し始めた。『ユダヤの方々、またエルサレムに住むすべての人たち、知っていただきたいことがあります。わたしの言葉に耳を傾けてください。今は朝の九時ですから、この人たちは、あなたがたが考えているように、酒に酔っているのではありません。そうではなく、これこそ預言者ヨエルを通して言われていたことなのです。「神は言われる。終わりの時に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたたちの息子と嫁は預言し、若者は幻を見、老人は夢を見る。わたしの僕やはしためにも、そのときには、わたしの霊を注ぐ。すると、彼らは預言する。上では、天に不思議な業を、下では、地に徴を示そう。血と火と立ち込める煙が、それだ。主の偉大な輝かしい日が来る前に、太陽は暗くなり、月は血のように赤くなる。主の名を呼び求める者は皆、救われる。」』」



聖霊の注ぎにおいて起こったもう一つの重要な出来事は、ガリラヤ生まれの人々が外国の言葉で語り始めたことです。このことを、使徒言行録は、奇跡的な出来事として描いています。



この描き方は、もちろん間違っているわけではありません。間違っていると私が考えているわけでもありません。ただ、しかしまた、それは、いつまでも同じではない、と語ることはできると思います。



と言いますのは、わたしたちの場合には、外国の言葉を勉強することができます。聖書も、信仰の書物も、説教の言葉も、外国語に翻訳することができるし、しなければなりません。そもそも、わたしたち日本人にとっては、キリスト教の書物も言葉も、すべて外国語からの翻訳です。実際問題として、翻訳という手続きなしには、伝道という仕事は全く成り立たないのです。



しかし、それだけでもありません。聞き覚えのある言葉、心に深く馴染む言葉、まさに「自分の故郷の言葉で」(このわたしの言葉で!)神の御言葉が語られている、ということに気づいた人々が、初めて、キリスト教の正しい信仰を告白することができたのです。



この点は、わたしたちも同じではないでしょうか。残念ながら、わたしたちの頭の上を通り抜けていくような言葉がある、と言わざるをえません。私の説教が、皆さんにとってそのようなものでないことを、ただ祈るばかりです。



「今聴いているこの言葉は、“このわたしの言葉”である」と感じていただけるほどに、皆さんにとって身近な言葉が語られるとき、一つの奇跡が起こるのです。



そのとき、“かつてのわたし”ならば、考えもしなかったようなことを考え始め、実行に移しはじめる。



それが、聖霊降臨の出来事なのです。



(2007年2月18日、松戸小金原教会主日礼拝)