2007年2月25日日曜日

「悔い改めなさい」

使徒言行録2・22~42



今日の個所に記されていますのは、聖霊降臨と呼ばれる出来事が起こった日になされた使徒ペトロの説教です。この説教は先週学んだ部分からすでに始まっていますので、まだ続いている、というべきかもしれません。



「『イスラエルの人たち、これから話すことを聞いてください。ナザレの人イエスこそ、神から遣わされた方です。神は、イエスを通してあなたがたの間で行われた奇跡と、不思議な業と、しるしとによって、そのことをあなたがたに証明なさいました。あなたがた自身が既に知っているとおりです。このイエスを神は、お定めになった計画により、あらかじめご存じのうえで、あなたがたに引き渡されたのですが、あなたがたは律法を知らない者たちの手を借りて、十字架につけて殺してしまったのです。しかし、神はこのイエスを死の苦しみから解放して、復活させられました。イエスが死に支配されたままでおられるなどということは、ありえなかったからです。』」



結論的なことから先に申しますと、この使徒ペトロの説教は、とても大きな影響と結果をもたらしました。それは、41節に「ペトロの言葉を受け入れた人々は洗礼を受け、その日に三千人ほどが仲間に加わった」とあるとおりです。



その日までそのときまでは、彼らの「仲間」の数は、1・15にある「百二十人ほどの人々」であった、と考えてよいでしょう。ところが、です。ペトロの説教を聴いた人々の中から、洗礼を受ける人々が三千人ほどいた。その結果、「仲間」の数はどうなったか。単純に計算すると、百二十人と三千人を足した三千百二十人、ということになるではありませんか。



想像してみていただきたいのです。百二十人くらいなら、その全員が松戸小金原教会の礼拝堂に集まることができます。しかし、三千人が一度に集まることは無理です。



三千百二十人はどれくらいかをご理解いただくための参考として申し上げますと、それは、東関東中会が設立される直前の東部中会全体(つまり、現在の東関東中会と東部中会の合計)の会員総数(2004年度)と、ほぼ同じです。



そして、そこでわたしたちが意識すべきことは、旧東部中会がその規模になるまでに、60年の歳月がかかった、ということです。ところが、です。ペトロの説教は、いわば一瞬にして、百二十人を三千百二十人にしてしまった、それほどに、甚大かつ爆発的な影響と結果をもたらしたのだ、ということです。



もちろん、単純な比較はできませんし、あまり意味が無いかもしれません。事柄を感覚的にご理解いただくための参考として、申し上げているにすぎません。



とはいえ、私自身は、やはり、説教者の一人としていろいろなことを考えてしまいます。説教が人の心を動かすとは、何でしょうか。結果として、人が洗礼を受け、教会の仲間に加わるとは、何でしょうか。そこで起こっていることは、何でしょうか。



一つだけ申し上げることができるのは、最も単純な言い方をしますと、いくらなんでもそれは人の力ではないだろう、ということです。少なくとも、お話が



上手、というような次元の話ではないだろう、ということです。わたしたち自身がはっきり確信している事実は、そのようなことで人が洗礼を受けたりはしない、ということです。



それに、少し恐ろしいことを申し上げますが、今日の個所に出てくる使徒ペトロの説教は、はたして、今申し上げた意味での“上手なお話”であるかと、そういう視点と問いをもちながら読んでみますと、どうでしょう、必ずしもそうとはいえないのではないかと、私などは感じるのです。



はっきり言いますと、今日の個所のペトロの説教は、上手なお話であるとは言えません。心温まる感動的な説教、というわけでもありません。むしろ、ある意味で攻撃的な、人の罪を厳しく裁き、責める面を持った、厳しい説教、怖い説教です。



しかし、もちろん、その面だけでもありません。きちんと聴けば(読めば)、このペトロの説教は、厳しいだけの説教、怖いだけの説教ではないことも分かります。



大きく分けると、二つのことを、ペトロは強調しています。また、あらかじめ注意しておきたいことは、ペトロがこの説教を差し向けている相手は、その日エルサレムに集まっていた「イスラエルの人たち」(2・22)、すなわち、ユダヤ人たちであるということです。つまり、これは、ユダヤ人たちを相手に語っている説教である、ということです。



さて、二つの主張点とは何でしょうか。ペトロの説教における主張の第一点は、「あなたがた」ユダヤ人たちがイエス・キリストを殺したのだ、という点です。要するに、あなたがたは殺人者である、ということです。最も厳しい、断罪の言葉です。



しかも、ここで気づかなければならないことは、「あなたがた」という言葉が何度も繰り返されていることです(22節、23節、33節、36節)。



この場面でペトロは「わたしたち」という表現を安易に用いようとはしません。「わたしたち」がなぜ安易かといいますと、そのほうが言葉の調子がぐっと柔らかくなるからです。はっきり言えば、受けのよい話になるからです。厳しいことを言うと、必ず反発が返って来ます。そのときに、うまく交わすことができるのは、「わたしたち」という表現です。



しかし、ペトロは、そのように言いません。「あなたがた」がイエス・キリストを殺したのだ、と言うのです。神から遣わされたあの方を、殺したのだ、と言うのです。



「奇跡」と「不思議な業」と「しるし」と呼ばれている一つ一つの内容は、ルカによる福音書を学んだときに確認したとおりです。すべては“触れる”という行為を伴っていました。御言葉とふれあい。それがイエス・キリストの御業の大きな柱でした。どんな人にでも遠慮なく近づいてくださる。心と体をいやしてくださり、真に助けてくださる。真に役立つ、ためになる、意味のある、そのような御業を行ってくださる。イエスさまとは、そういうお方でした。真に愛すべきお方なのです。



そのイエスさまを、あなたがたが殺したのだ、とペトロは語ったのです。あなたがたの中にも、イエスさまに助けていただいた人がいるだろうと。いろいろと具体的にお世話になった人がいるだろうと。そのお方に対して、あなたがたは、なんとひどいことをしたのか、と言っているのです。



殺す、という言葉は、ものすごく厳しいわけですが、この罪を犯した人に当てはまるのは、だれでしょうか。はっきりしていることは、ペトロがこの説教の中で「あなたがた」と呼んで直接的に責めているのは、最高法院の70人の議員たち(祭司長、律法学者、長老、議員)のことではない、ということです。むしろ、考えられることは、議員たちは、その場にいなかったのではないか、ということです。



この点から分かることは、ペトロが説教の中で繰り返している「あなたがた」とは必ずしも、イエスさまを死刑にするために画策した最高法院の議員や、イエスさまをなぶりものにしたローマの兵隊や、裁判の判決をくだしたローマの総督ポンティオ・ピラトのことだけではないし、直接的にはその人々のことではない、ということです。



それならば、誰のことなのか、と言いますと、むしろ、その裁判に直接参加することができない、ある意味での傍観者としてのごく一般的な市民のことです。その人々に対して「あなたがたがイエスさまを殺したのだ」と言ったところで、わたしたちは殺してなどいない、殺人など犯していない、という反発が返って来てもおかしくないような一般市民に対して、ペトロは、そういうことを言っているのだ、と読むことができると思うわけです。



ところが、です。そのペトロの言葉を聴いた人々の内面に起こったのが、「大いに心を打たれた」(2・37)という出来事だったというのですから、驚きです。聖霊が働いてくださったとしか言いようがありません。



そこで起こった心の中の変化は、具体的に言って何だったでしょうか。たしかに、このわたしは、あの救い主イエス・キリストを殺す罪に、加担しました。イエス・キリストを愛することができず、大切にすることができず、最後まで従うことができませんでした。そのことを、素直に認め、受け入れ、悔い改めることができた。そういうことではないでしょうか。



さて、ペトロの説教における主張の第二点は、何でしょうか。それは、「あなたがた」が殺したイエス・キリストを、(父なる)神が復活させてくださった、ということです。人間が殺したイエスというお方を、神がよみがえらせてくださった、ということです。



このことは、一度死んだ存在を再びよみがえらせることができる神さまの偉大な力への強調であると、受けとめることもできるかもしれません。しかし、それだけだと、ただ、神さまの大きな力にびっくりしました、というようなことだけで話が終わってしまうわけです。もう少し深く考えてみる必要があると思います。



ペトロが強調している「あなたがたがイエスさまを殺したのだ」という言葉は、聴き方によっては、とても烈しい恨みのような感情が含まれていると感じるものかもしれません。しかし、私は次のようなことを考えます。人間が殺したイエスさまを神がよみがえらせてくださった、と説教が続く。そのとき、それを聴いている人々の心の中に生まれる思いは、救われた、というものであったに違いない、ということです。



これは、実際に自分の問題として考えてみることは難しいかもしれませんが、ぜひよく考えてみていただきたいのです。たとえば、わたしたちが何か取り返しのつかない過ちを犯す。人を殺してしまった、という体験を持つ人は、いないと思いますが、何か大きな傷をだれかに与えてしまった、という体験を持つ人は、少なくないのではないでしょうか。



たとえば、そのときに、です。このわたしがあの人に大きな傷を与えてしまった、取り返しのつかない過ちを犯してしまった、その傷を、その痛みを、その過ちを、神御自身がいやしてくださり、取り去ってくださったことを知る。



わたしの犯した罪は赦されているのかもしれない、と感じる。



父なる神さまが、救い主イエス・キリストが、わたしの犯した罪を、赦してくださっている、と信じることができる。



そのような思いを、このペトロの説教を聴いていた人々は、味わうことができたのではないでしょうか。



キリスト教の教会の復活信仰には、そのような内容があります。このわたしもまた、イエス・キリストを殺した人々の罪に加担したということに気づき、深い罪意識に目覚めた人は、イエス・キリストの復活を信じる信仰によってのみ、その罪が赦されたという確信を得ることができます。なぜなら、イエス・キリストは、生きておられるのですから!



「人々はこれを聞いて大いに心を打たれ、ペトロとほかの使徒たちに、『兄弟たち、わたしたちはどうしたらよいのですか』と言った。すると、ペトロは彼らに言った。『悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。この約束は、あなたがたにも、あなたがたの子供たちにも、遠くにいるすべての人にも、つまり、わたしたちの神である主が招いてくださる者ならだれにでも、与えられているものなのです。』」



ペトロが彼らに勧めたことは、悔い改めることと、洗礼を受けることでした。これは、二つのことというよりも、一つのことと理解すべきです。悔い改めのない(成人)洗礼は無意味です。また、悔い改めとは、父なる神と救い主イエス・キリストへの信仰に生きる道に入ることです。神に背を向けて生きていた人が、反対に方向を変えることによって、神に向き合うようになることです。



ですから、悔い改めた人は、洗礼を受けるべきです。悔い改めと洗礼は、表裏一体の関係にある、というべきです。



そして、その悔い改めと洗礼は、同時に、最初に申し上げましたとおり、教会の「仲間」に加わることとも同じです。「わたしは悔い改めました。教会で洗礼を受けました。しかし、教会の仲間には加わりません」というのは、言葉の矛盾です。



教会は、キリストの体です。神とキリストに従って生きることが悔い改めなのですから、自分の侵した罪を悔い改め、かつ洗礼を受けた人々が、キリストの体なる教会のメンバーになり、かつ教会の活動に積極的に参加することは、神さまから特別に与えられた恵みの賜物であり、特権であると同時に、義務でもあることなのです。



そして、ペトロがこの説教の最後に述べていることは悔い改め、洗礼を受け、罪を赦していただいた人々には、「賜物としての聖霊」が与えられます、ということです。



ここでまた、再び、聖霊とは何かという問いが、呼び起こされます。聖霊とは、わたしたち人間の外側から内側へと入ってくる何ものか、浸透して来る何ものか、であり、恵みの賜物として、まさに喜ばしきプレゼントとして、与えられるものです。



「賜物としての聖霊」とは、言うならば、悔い改めた人の心を、いつまでも支えてくださる神御自身です。



一度や二度反省したくらいでは、何度でも元に戻ってしまう、弱い心を持つわたしたち人間が、二度と罪の泥沼に戻っていかないように、強く支えてくださるお方。



それが「聖霊なる神」なのです。



(2007年2月25日、松戸小金原教会主日礼拝)