使徒言行録1・12~26
今日の個所に描かれていることを一言で言うならば、人事(じんじ)です。新しい使徒の選挙です。そのような選挙をなぜ行わねばならなくなったかについて、その理由となる暗い出来事も、同時に記されています。
当たり前のことですが、教会の中にも人事があります。人事とは、ひとのこと、「人間の事柄、もしくは個人にかかわる事柄」(human or personnel affairs)です。
教会は「神の事柄」だけを扱っているところではありません。「人間の事柄」をも扱っているのです。
「使徒たちは、『オリーブ畑』と呼ばれる山からエルサレムに戻って来た。この山はエルサレムに近く、安息日にも歩くことが許される距離の所にある。」
使徒たちは「エルサレムに戻って来た」と書かれていますが、それまではエルサレムに近いところにいた、ということも明らかにされています。エルサレムから遠く離れた場所にまで逃げてしまっていたわけではない、と言いたいのでしょう。
とはいえ、彼らは、近くではありますが、山の中にいました。彼らは山の中に「隠れていた」と、はっきり言うほうがよいでしょう。主イエス・キリストが十字架にかけられて「殺された」(使徒2・23、3・15など)後、弟子たちは、身の危険を感じ、恐怖を抱きながら、山の中に隠れていたのです。
しかし、彼らはエルサレムに戻って来ました。ですから、これは、単なる場所の移動を言っているのではありません。彼らの心の中に大きな心境の変化が起こったのです。大きな決断があり、また新しい勇気を与えられたのです。だから、彼らは戻って来た。戻って来ることができたのです。
その変化のきっかけであると考えられるのが、先週学んだ個所の出来事です。それは、復活されたイエス・キリストが天に上げられ、そのとき以来イエスさまが地上においては「不在」となられた、まさにその場面で起こりました。
それは、イエスさまが上がっていかれる天を見つめていた弟子たちに対して、二人の人が現れて言った言葉が、なんとも厳しいものだったという出来事です。
「ガリラヤの人たち、なぜ天を見上げて立っているのか」とは、あなたがたが見るべきところは違うでしょう、と言わんばかりです。
あなたがたが見るべきところは、上ではなく、前である。天国ではなく、地上の現実である。永遠の世界ではなく、あなたの目の前に山積みされているさまざまな問題である。目を向ける方向を間違っているのではないですかと、厳しく指摘されたのです。
このような指摘は、わたしたちの人生においても非常に大事なことであると私は信じています。とくに永遠の世界であるとか天国というような言葉や事柄に関わる場合、それはいずれにせよ、宗教の課題です。教会の説教の課題である、と言ってもよいでしょう。
多くの宗教は、天国を見上げなさい、永遠の世界に憧れなさい、というように教えてきたはずです。ところが、です。イエスさまの弟子たちが、天使を通して聞いた神さまの言葉は、それとは違うものだったというわけです。「おい、こら、おまえたち、天国など見ている場合ではないよ」と言われてしまった。そのような言葉で神さまから強く叱られたのだ、と考えることができるのです。
彼らがエルサレムに戻る決心をするまでには相当重い決断や勇気が必要だったと思われます。彼らの背中を押した強い力の源が神の御言葉であったことは、間違いありません。
「彼らは都に入ると、泊まっていた家の上の部屋に上がった。それは、ペトロ、ヨハネ、ヤコブ、アンデレ、フィリポ、トマス、バルトロマイ、マタイ、アルファイの子ヤコブ、熱心党のシモン、ヤコブの子ユダであった。彼らは皆、婦人たちやイエスの母マリア、またイエスの兄弟たちと心を合わせて熱心に祈っていた。そのころ、ペトロは兄弟たちの中に立って言った。百二十人ほどの人々が一つになっていた。」
ここを読んで、なんとなくほっとする気持ちを味わいました。どこにそのようなことを感じたかと言いますと、イエスさまご自身がお選びになった十二人の使徒たちのうちの、イスカリオテのユダ以外の十一人全員がそこにいた、という点です。
みんなが揃っている、というのは、やはり、気持ちがよいものです。彼らの場合、全員ではありませんでしたが。
イエスさまの死、また復活後の昇天、「不在」の事実。弟子たちとしては、逃げ出したくなったとしてもおかしくない状況であった、と言えるでしょう。
しかし、彼らは逃げ出しませんでした。彼らとイエス・キリストとの関係は、鉄と磁石のようにぴったりくっついて離れない関係であった。彼らは、イエス・キリストのもとから離れませんでしたし、離れることができませんでした。イエス・キリストにおける神の愛から離れることができなかったのです。
また、使徒職に就いている人々以外の多くの弟子たちも、集まってきました。「百二十人」を、百二十人しか残っていなかったと考えるのか、百二十人もいたと考えるのかは分かれるところかもしれません。
イエスさまのもとには「五千人」(ルカ9・10以下)以上いたこともあるのです。その意味では、百二十人「しか」でしょう。
しかし、百二十人を、わたしたちは小さな集まりと呼ぶことはできません。イエス・キリストを主と信じる教会、キリスト教会の歴史は、この「百二十人」の集まりからスタートしたのです。
ところが、残念なこともありました。イエス・キリストがお選びになった使徒は十二人であったにもかかわらず、そこには十一人しかいなかった!
この場面では大きな声で「しか」と言うべきです。
「『兄弟たち、イエスを捕らえた者たちの手引きをしたあのユダについては、聖霊がダビデの口を通して預言しています。この聖書の言葉は、実現しなければならなかったのです。ユダはわたしたちの仲間の一人であり、同じ任務を割り当てられていました。ところで、このユダは不正を働いて得た報酬で土地を買ったのですが、その地面にまっさかさまに落ちて、体が真ん中から裂け、はらわたがみな出てしまいました。このことはエルサレムに住むすべての人に知れ渡り、その土地は彼らの言葉で「アケルダマ」、つまり、「血の土地」と呼ばれるようになりました。詩編にはこう書いてあります。「その住まいは荒れ果てよ、そこに住む者はいなくなれ。」また、「その務めは、ほかの人が引き受けるがよい。」そこで、主イエスがわたしたちと共に生活されていた間、つまり、ヨハネの洗礼のときから始まって、わたしたちを離れて天に上げられた日まで、いつも一緒にいた者の中からだれか一人が、わたしたちに加わって、主の復活の証人となるべきです。』」
イエス・キリスト御自身がお選びになった十二使徒の一人であったイスカリオテのユダが、なぜその場にいなかったのかということについては、今日の個所以外に詳しい説明が出てくるのは、マタイによる福音書27・3~10です。読むとつらくなるような個所ですが、とにかく読んでみたいと思います。
「そのころ、イエスを裏切ったユダは、イエスに有罪の判決が下ったのを知って後悔し、銀貨三十枚を祭司長たちや長老たちに返そうとして、『わたしは罪のない人の血を売り渡し、罪を犯しました』と言った。しかし彼らは、『我々の知ったことではない。お前の問題だ』と言った。そこで、ユダは銀貨を神殿に投げ込んで立ち去り、首をつって死んだ。」
この個所は、読んでも全くほっとしません。安心できません。つらくなるばかりです。
それでも、ユダが自分の裏切りによってイエスさまに有罪判決が下ったので「後悔した」と書かれている点には少し心が動きます。しかし、そこで彼が考えたこと、行動に移そうとしたことは、いただけません。
「銀貨三十枚を祭司長たちや長老たちに返そうとした」というのは、どうでしょうか。返せば済む、とでも思ったのでしょうか。そのような考え方にこそ問題があるのではないでしょうか。
そもそも、ユダの問題は何でしょうか。お金を受け取ったことが悪かった。お金を受け取らなければよかった、というようなことでしょうか。お金を受け取りさえしなければ、何をしてもよいのでしょうか。そんなことはないはずです。
ユダの問題は、イエスさまを裏切ったことでしょう。イエスさまご自身によって使徒として選ばれて以来、共に愛し合う交わりの関係の中に置かれてきたのです。その愛をユダは裏切ったのです。イエスさまがユダを心から愛しておられた、その気持ちをユダは踏みにじったのです。
だから、はっきり言えば、お金を返そうとしたなどというのは、どうでもよいことです。情状酌量の材料にはなりません。それはいわば、万引きした子どもが「返せばいいんだろ」とか「金を払えばいいんだよね」と言って開き直っているようなものです。
そもそもユダが犯した罪は何なのでしょうか。ユダの裏切りによって傷ついているのは、だれでしょうか。イエスさまではないのでしょうか。そのことにユダは気づかないのです。人の愛や親切を全く理解できないのです。人の心の中をおもんぱかることができる想像力が、根本的に欠落しているのです。
聖書の中に、イスカリオテのユダに対する同情的な見方は、どこを探しても見当たりません。私自身の中にもユダに対する同情は、ありません。
このユダといつも比較されるのは、使徒ペトロです。ペトロは三度、イエスさまのことを「知らない」と言ってしまった後、鶏の鳴く声を聞いて、イエスさまの言われた言葉を思い出して後悔し、激しく泣いたのです。
ユダと違って、ペトロは、イエスさまの心の中にあるものを深く読み取ることができたのです。イエスさまは、このわたしペトロを、心から愛してくださっている、ということに気づくことができたのです。
わたしたちも弱い人間です。しかし、ユダの道に進むことはできません。イエスさまを裏切る罪を犯してしまったとき、立ち返る道は、ペトロの道であるべきです。
「そこで人々は、バルサバと呼ばれ、ユストともいうヨセフと、マティアの二人を立てて、次のように祈った。『すべての人の心をご存じである主よ、この二人のうちのどちらをお選びになったかを、お示しください。ユダが自分の行くべき所に行くために離れてしまった、使徒としてのこの任務を継がせるためです。』二人のことでくじを引くと、マティアに当たったので、この人が十二人の使徒の仲間に加えられることになった。」
人事のクライマックスは、選挙です。ユダが欠けた穴をだれかが埋めなくてはならなくなりました。
イエスさま御自身が、使徒職の定員を12名とお定めになったのです。それはイスラエル十二部族の数と一致していると言われます。そのため、欠員1名の補充選挙が行われることになったのです。
選挙の方法は、二人の候補者を立てた上での、くじびきでした。なぜそのような方法を用いたのかについての説明はありません。
考えられることは、くじびきは、旧約聖書の時代からイスラエルで広く用いられていた方法であるということです。
また、もう一つ考えられることは、とくに小さな団体の場合、多数決などを行って無理やり勝ち負けの白黒をはっきりつけてしまいますと、団体そのものが分裂・崩壊してしまう場合がある、ということです。もしかしたら、そのような配慮もあったのではないか、というあたりのことです。
「くじびきだからでたらめである」というわけではありません。くじびきも立派な選挙の方法です。
選挙の結果、マティアが新しい使徒に就くことになりました。これで十二人体制の使徒職が復活しました。
教会の人的土台がすえられたのです!
(2007年2月11日、松戸小金原教会主日礼拝)