2007年3月4日日曜日

「ひたすら心を一つにして」

使徒言行録2・43~47



この個所に描かれていますのは、最初の教会の活動の様子、つまり、二千年前の教会の活動の様子です。たいへん興味深い内容です。今日は42節に挙げられている、最初の教会において熱心に取り組まれていた四つの要素について、お話ししていきたいと思います。



「彼らは、使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった。」



「熱心であった」を「固くとどまった」と訳している解説者もいます。どちらにしても、意図はご理解いただけると思います。



第一に挙げられているのは「使徒の教え」に熱心であった、ないし、固くとどまったという点です。これは、どういうことでしょうか。



使徒とは、イエス・キリスト御自身がお選びになった、あの十二人のことです。イエス・キリスト御自身から直接学んだ弟子たちです。イエス・キリストとまさに寝起きを共にし、苦楽を共にすることにおいて、彼らは、イエス・キリストの生涯と十字架上の死と復活の証人になった人々です。



ですから、その意味では、「使徒の教え」とは、彼らの師であり、救い主であられるイエス・キリスト御自身の教えそのものであると言ってもよいでしょう。



しかし、それを「使徒の教え」と呼ぶことにも意味があります。イエス・キリストにはいろいろな意味での敵がいた、という事実が関係してきます。



だれかが何かを語り、それを他の人々が聞く場合、それを好意的に受けとめ、理解し、解釈してくれる人もいれば、全く正反対に、悪意をもって受けとめ、語っている人の意図とは全く異なる別様の意味で理解し、解釈し、それをまた、悪意をもって他の人々に伝えるというようなこともあります。イエス・キリスト御自身がお語りになった御言葉についても同じようなことが行われた、と言いうるのです。



その場合に問題は解釈です。イエス・キリストの御言葉を最も正しく解釈しうる人々はだれなのかが問題になったわけです。だからこそ、それを「使徒の教え」と呼ぶわけです。



つまり、それは、イエス・キリストの教えを最も正しく解釈しうる使徒の教えであり、かつ、使徒の解釈を通してのイエス・キリスト御自身の教えである、ということです。



第二に挙げられているのは、「相互の交わり」に熱心であった、ないし、固くとどまった、という点です。



相互の交わりとは、わたしたちがよく知っている言葉で言えばコミュニケーションです。お互いに意思疎通をはかることであり、会話や物品のやりとりなどを通して仲良くすること、支え合うこと、助け合うことです。その場合に大切なことは「お互いに・・・し合うこと」です。「相互関係または相互性」です。



そこにあるのは、行ったり来たりの往復運動です。一方的なものではありません。ある人が別の人に呼びつけられ、話を一方的に聞かされたり、強制的に押し付けられたりする、というようなことの正反対です。



それが最初の教会の中で行われていた「相互の交わり」の様子であると言ってよいものです。コミュニケーションという言葉から連想される人間関係は、上下関係、垂直の関係であるというよりも、平等の関係、水平の関係です。



実を言いますと、このコミュニケーションの様子をより詳しく具体的に紹介しているのが43節から47節までの記事であると、理解することができます。なぜそのようにいえるのかと言いますと、43節から47節までの間には、コミュニケーションという点にかかわる表現が、何度も繰り返されているからです。



「すべての人に恐れが生じた。使徒たちによって多くの不思議な業としるしが行われていたのである。信者たちは皆一つになって、すべての物を共有にし、財産や持ち物を売り、おのおのの必要に応じて、皆がそれを分け合った。そして、毎日ひたすら心を一つにして神殿に参り、家ごとに集まってパンを裂き、喜びと真心をもって一緒に食事をし、神を賛美していたので」



この中で注目していただきたいのは、この中に出てくる「皆一つになって」(44節)、「共有にし」(44節)、「おのおのの」(45節)、「分け合った」(45節)、「心を一つにして」(46節)、「一緒に」(46節)、「仲間」(47節)などの表現です。



この中に言い表されている人間同士のコミュニケーション的な相互関係の特質は、上下の関係、垂直の関係ではなく、平等の関係、水平の関係であることは、明らかです。



しかも、その関係は、信徒同士の関係であったのはもちろんのこと、いわば特別な立場にあったと言いうる使徒たちとそれ以外の人々との関係も、コミュニケーションという点からいえば、同じであった、と考えるべきです。



使徒の教えに固くとどまることは、大切です。教える者たちの権威を重んじることは、重要です。しかし、そのことと、使徒を別格扱いし、悪い意味でまつりあげることとを、混同してはなりません。使徒と信徒の関係、あるいは、教える者たちと学ぶ人々との関係は、コミュニケーションという点からいえば、平等の関係、水平の関係にあるのです。



この点で、第一に重要なことは、教える者たちは人間である、ということです。彼らは、神御自身ではないし、キリストでもない。ただの人間である、ということが忘れられてはなりません。



そして、第二に重要なことは、教会が「使徒の教え」を重んじることと、「相互の交わり(コミュニケーション)」を重んじることの両者は、矛盾しないどころか、非常に深く互いに関係しあっている、ということです。



どういうことか。コミュニケーションとは、ある人が語った言葉が、他の人の心の中の深いところにまで届けられるために必要不可欠な行為であるということです。どんな偉い人の言葉でも、一方的に押し付けられた、ということであれば、人の心は複雑ですから、それを拒絶する、ということが起こりうるのです。



残念ながら、というべきでしょうか、礼拝の説教は、やや一方的です。説教者が語り、みんながそれを黙って聴く。そのようなスタイルがとられます。



しかしそれでも、みんなは礼拝の最初から最後まで黙らされているのかというと、そういうことではありません。わたしたちの場合は、みんなで賛美歌をうたい、罪の告白をし、信仰告白をし、主の祈りを唱えるという仕方でしっかり応答しています。そこに相互関係があります。コミュニケーションがとられているのです。



ただし、礼拝の説教そのものに対する質疑応答のようなことは、礼拝の中では通常行われません。今ここで、皆さんの中のどなたかが手を挙げて質問する、というようなことは、してきませんでしたし、しないほうがよいと思います。ここは、そのようなことをする場ではないからです。



しかし、たとえば、わたしたちが水曜日に行っている「水曜礼拝」や、またシモンの会(男子会)や婦人会(女性の会)や青年会などでの聖書の学びの場では、大いに質疑応答がなされてよいし、なされるべきであると思います。



昨今、家庭や社会におけるコミュニケーションの重要性が繰り返し指摘されています。おくさんやご主人の顔が見えていますか。子どもたちの顔が見えていますか。学校の先生たちは、生徒たちの顔が見えていますか。そのように問いかけられています。



教会の中でもコミュニケーションが重要です。コミュニケーションが不足しているような教会は、「教会」ではないのです。そのようにさえ、申し上げることができます。



第三に挙げられているのは、「パンを裂くこと」です。これの解釈は難しいと感じます。教会の中で「パンを裂くこと」の意味としては、二つのことが考えられるからです。



一つは聖餐式のことです。もう一つはいわゆる愛餐会のことです。このどちらの意味で理解されるべきかに、悩みがあります。



悩みの種は、46節です。ここに「家ごとに集まってパンを裂き」に続けて、「喜びと真心をもって一緒に食事をし」とあることです。この場合に生じる悩みとは、「パンを裂き」と「一緒に食事をし」が同じ一つのことなのか、それとも別々のことなのかという問題です。どちらともとれるではありませんか。



このような場合に私が採る方法は、どちらか一方ではなく両方を採るということです。つまり、最初の教会は聖餐式と愛餐会との両方を重んじたのである、と理解する、ということです。



そして、その上でさらに強調して申し上げたいことは、歴史的な教会は、聖餐式だけを重んじてきたわけではないのであるということです。「一緒に食事をすること」、すなわち、いわゆる愛餐会も、十分な意味で重んじてきたのです。



私の尊敬する改革派神学者は、「聖餐式のパンだけでは足りない」と言いました。共感を覚えます。パンをたくさん食べたいのではありません。聖餐式だけで事足れりとするある一定の立場に対して、明確に反対したいからです。



今日、この後、聖餐式を行います。ですから、今私がお話ししていることに、聖餐式を軽んじる意図は、微塵もありません。聖餐式は重要です。しかし、私が申し上げたいことは聖餐式のパンだけが真のパンではない、ということです。言い方を換えますと、日曜日の礼拝の中で食べるパンだけが真のパンではないということです。礼拝後に食べるパンも、そしてまた毎日わたしたちが食べているパンも、わたしたちにとっては、十分な意味での真のパンである、ということです。



聖餐式のパンだけが真のパンなのであり、わたしたちが日常食べているのは偽物のパンである、というようなことは、ありえないことです。それどころか、むしろ、事の真相は逆であって、わたしたちはむしろ、聖餐式の中でいつも食べているのと同じパンを食べることにこそ意味を見いだすのです。



そしてまた、さらに突っ込んで言えば、イエス・キリストは、最後の晩餐のときにだけ、弟子たちにパンを分けてくださったわけではないということも、重要です。御自身の生涯にわたって、また弟子たちと過ごす日常の生活の中で、一緒に食事をしてくださり、パンを分けてくださいました。イエス・キリストの恵み、父なる神の愛、聖霊の交わりは日曜日の礼拝の場所でだけ与えられる、というようなものではありません。毎日の生活の中で、それぞれの家庭や職場、あらゆる場所において、与えられるものなのです。



この点を強調することと、主の日の礼拝を重んじることを強調することは、決して矛盾しません。



今年の松戸小金原教会の目標聖句として掲げました「主を喜び祝うことこそ、あなたたちの力の源である」(ネヘミヤ記8・10)に加えて掲げた今年の標語は、「主の日の礼拝を楽しみ、日々生き生きと過ごそう」です。



この際はっきり申し上げておきたいことは、この短い文章の中の「主の日」と「日々」との両方に等しい強調がある、ということです。どちらか一方だけが大切である、ということはありません。



それは、先ほどご説明いたしましたコミュニケーション的な考え方に反します。主の日が大切であり、礼拝が大切であり、説教を黙って聴くことが大切であり、聖餐式が大切である、ということのほうだけを一方的に強調するのは教職者中心主義の道です。



そのような一方的な考え方ではなく、主の日だけではなくて週日も大切であり、礼拝の最中だけではなくて礼拝の前後も大切であり、説教を黙って聴くことだけではなくて質疑応答も大切であり、聖餐式だけではなくて愛餐会も大切であり、またそれぞれの家庭で囲まれる食卓も大切であると。



そのように考えていくこと、つまり、両者を等しく重んじつつ、両者の相互関係を丁寧に考えていくことが、教会の交わりにこそふさわしいコミュニケーション的な考え方なのです。



第四に挙げられているのは「祈り」です。祈りも十分な意味でコミュニケーションです。神とのコミュニケーションであり、かつ同時に人とのコミュニケーションでもあります。



以上、四つの点についてお話ししてきました。これらのことが、最初の教会の中で重んじられていたことです。これらのことを重んじた結果が、続きに書かれています。



「民衆全体から好意を寄せられた。こうして、主は救われる人々を日々仲間に加え一つにされたのである。」



要するに、教会の中での人間関係は、素晴らしいものである、ということが、それまでは教会の外から眺めていたような人々にも理解され、受け入れられ、このわたしもぜひ、あの教会の交わりの中に加わりたい、と願う人々が起こされた、ということです!



しかもそれは、人々が憧れを抱くような人間関係、ただし、自分とは遠いと感じられる、そこに参加することが憚られるような人間関係ではなくて、親しみを覚え、参加の意欲を与えられ、そこに加わることがこのわたしの人生においては決定的に重要なことであると確信することができるような、人間関係です。



そのような教会の交わりが、わたしたちの人生の中に、姿を現しているでしょうか。今通っている皆さんの教会が、そのような教会でありえているでしょうか。



「仲間に加わりたい」と願われるような教会でしょうか。



そのことを自問自答してみる必要があると思います。



(2007年3月4日、松戸小金原教会主日礼拝)