2006年8月25日金曜日

ファン・ルーラーのソフィスト批判

以下は、20世紀のオランダ改革派教会の牧師・神学者、アーノルト・A. ファン・ルーラー[1908-1970]の言葉です。



(原文)
Zij is theologie en geen theosofie. Dit 'logische' is wel te onderscheiden van het 'sofische'. Het 'logische' is nuchter en diep. Het 'sofische' is wel diepzinnig, maar altijd ook enigermate zwoel.
(A. A. van Ruler, Theologisch werk deel 1, p. 40.)



(試訳)
「それは神学(テオロヒー)であって、神智学(テオソフィー)ではない。“ロゴス的なもの”(論理性)は“ソフィア的なもの”(知性)から区別される。“論理性”は非陶酔的であり、かつ深い。“知性”もまた深遠ではある。しかしそれは、いつもどこかしら鬱陶しいものである。」
(ファン・ルーラー『神学著作集』第一巻、40ページ)



わたしがとくに度肝を抜かれたのは、最後の言葉です。'sofische' is...altijd ook enigermate zwoel.「ソフィア的なものは、どこかしらウザい」(!)。



けだし名言、と思いました。



ファン・ルーラーがいかに「神学的ソフィスト(詭弁家)たち」の存在を唾棄すべきものと考えていたかを垣間見る思いです。



われわれは、ソフィストの集まりにならないよう、お互いに自戒したいものです。



神学は「教会の学」であり、われわれが仕えるべきは「教会」です。この点でファン・ルーラーは、カール・バルトと完全に一致しています。



上記の名言が記されているのと同じ論文の中で、ファン・ルーラーは次のように書いています。



(原文)
Het (=presbyteriaal-synodale systeem) verhindert de vakmatige theologie, te overheersen in de regering en zo in het leven van de kerk. De theologie van de dienaren van het Woord wordt in evenwicht gehouden en binnen haar grenzen gewezen door de (pneumatische) menselijkheid van de ouderlingen en de diakenen. Dit evenwicht van theologische reflectie en praktijk van de vroomheid is een typisch moment in het werk van de Heilige Geest.
(A. A. van Ruler, ibid., p. 10.)



(試訳)
「長老主義は、“専門家の神学”(vakmatige theologie)というものが教会政治を支配し、それゆえまた、そういうものが教会生活〔または「教会の生命」〕を支配してしまうことを阻止するのである。“御言葉に仕える者たちの神学”(theologie van de dienaren van het Woord)は、長老と執事の(霊的)人間性によってバランスが保たれ、節度を守るのである。神学的考察と信仰的実践〔または「敬虔の修練」〕とのこのバランスこそが、聖霊のみわざの特徴なのである。」
(同上書、10ページ)



わたしは、つい最近まで、「教会の牧師の仕事」と「研究や翻訳などの仕事」は両立できない(時間的にも、肉体的にも、技術的にも)と感じていました。



そして、だからこそ、「神学の専門家」は必要であるし、われわれ牧師たちと彼らは分業すべきであると考えていました。



しかし、わたしは、上記のファン・ルーラーの言葉に接して、考えを変えることにしました。そして、今では以下のように確信しています。



(Q1)「神学の専門家」は、教会に仕えなくてよいか。



答えはノーです。



(Q2)(少なくとも毎日曜日に)教会に通わない「神学の専門家」などが、存在しえてよいか。



答えはノーです。



(Q3)教会の何らかの役職(教師、長老、執事、神学教師など)に就いていないため、教会の仕事において“忙しくない”ような「神学の専門家」などは、ありうるか。



答えはノーです。



(Q4)「教会的実践(イザコザ含む)に煩わされることなく、神学研究だけに没頭していてもよい人」は、存在しうるか。



答えはノーです。



(Q5)「教会的職務遂行」と「神学研究」の分業は可能か。



答えはノーです!



2006年8月20日日曜日

「わたしの言葉は滅びない」

ルカによる福音書21・20~33



「『エルサレムが軍隊に囲まれるのを見たら、その滅亡が近づいたことを悟りなさい。そのとき、ユダヤにいる人々は山に逃げなさい。都の中にいる人々は、そこから立ち退きなさい。田舎にいる人々は都に入ってはならない。書かれていることがことごとく実現する報復の日だからである。それらの日には、身重の女と乳飲み子を持つ女は不幸だ。この地には大きな苦しみがあり、この民には神の怒りが下るからである。人々は剣の刃に倒れ、捕虜となってあらゆる国に連れて行かれる。異邦人の時代が完了するまで、エルサレムは異邦人に踏み荒らされる。』」



ここでイエスさまは、とても恐ろしいことをお話しになっています。エルサレムの滅亡が起こる、という話です。



そこには、もちろん、エルサレム神殿の崩壊という点も含まれます。軍隊が押し寄せてくる。そしてエルサレムの町が全滅する。神殿も全滅する。そのようなことが現実となる。まさに大きな戦争が始まる、ということです。



実際にそれは起こりました。イエスさまの話は、空想の話でも仮定の話でもありません。西暦70年、ユダヤの国とローマ帝国との間に大きな戦争が起こり、エルサレムの町は全滅し、神殿も破壊され、ユダヤ人たちは国土を失い、世界の各地に散らされることになりました。



これに対し、今日の個所に記されているイエスさまの御言葉が語られたのは西暦30年代であると考えられます。約40年間の隔たりがあります。つまり、イエスさまは約40年前に大きな戦争の始まりを予言しておられた、と理解することができます。



しかも、重要なことは、イエスさまが予言しておられるのがこのユダヤの国は負けるという点である、ということです。



このときイエスさまは、目の前にいるユダヤ人の姿をご覧になり、また目の前のエルサレム神殿の様子をご覧になって、この国の政治と宗教は甚だしく弱体化している、ということを見抜いておられたに違いありません。この国は戦争に負ける、と見ておられるのです。



だからこそ、と言ってよいでしょう、たいへん興味深いことでもあるのは、イエスさまがここで最も強調されているのが「逃げなさい」という点であるということです。



イエスさまは、少なくともこの個所では「逃げずに闘いなさい。戦闘に参加しなさい。徹底的に抵抗しなさい」というふうには、お語りになりませんでした。むしろ逃げることをお勧めになりました。



はたしてわたしたちは、この個所をイエスさまの非暴力主義の根拠にできるでしょうか。できるかもしれません。しかし、もう一つ考えられることは、ユダヤ人に対して「それは勝ち目のない闘いである」ということを教えようとされているという意味で、負けを認めなさい、と勧めておられるようにも読めるように思われてなりません。



「書かれていることがことごとく実現する報復の日」という言葉の意味を説明するのは難しいことです。それは、これから起こる戦争は聖書の中で昔から予言されてきたことであるということでしょう。その予言が成就するという仕方で戦争が起こるというわけです。



ただし、戦争の責任を神に押しつけることはできません。人類が神の戒めに背き、罪を犯すことによって、自分の身に裁きを招いたのです。それが戦争です。自分勝手に生き、自分を傷つけ、人を怒らせ、社会を混乱させ、滅びを招くのは、すべて人間の責任です。



しかしまた、同時に考えなければならないことは、戦争には相手がある、という点です。自分のほうから仕掛けなくても、相手のほうから仕掛けられることがある、という点です。その場合は、戦争の責任はすべてこのわたしにあると、言うべきではありません。



しかし、です。問題は、戦争全体の中で、とくに戦うすべを持たない一般市民はどうすればよいか、です。なるほど、逃げるほかはないのです。



先週わたしは、イエスさまが戦争について「こういうことがまず起こるに決まっている」(21・9)とお語りになることにおいて、やや傍観者然として立っておられるように見える、と申し上げました。



しかし、そのことをわたしは、悪い意味ではなく良い意味でとらえたいと願いました。イエスさまは、戦争を始めるかどうかを決める国家元首のような立場にではなく、その人々によって始められた戦争に巻き込まれることにおいて実際の苦しみを体験するところの、無力な一般市民の立場に立っておられる、と理解してよい、と申し上げたつもりです。



この点から考えていくならば、今日の個所でイエスさまが「逃げなさい」というまさにこの点を強調しておられる意味が、よく分かるのではないでしょうか。



実際に一般市民にできることは、ただ逃げることだけです。それでよいのです。



「身重の女と乳飲み子を持つ女は不幸だ」という点も、ここにかかわると思われます。戦火の中で逃げてよいし、逃げなければならない、そのような場面にあって、最もつらい立場にあるのが、妊婦や赤ちゃん連れのお母さんです。



「不幸だ」というのは冷たい言葉のように響いてしまうかもしれませんが、イエスさまの意図は逆であると思います。可哀想であるということです。イエスさまは、真の弱者の立場に立っておられます。小さな子どもとお母さん(お父さん)のことを、本当に心から心配し、同情し、理解してくださっているのです。



「『それから、太陽と月と星に徴が現れる。地上では海がどよめき荒れ狂うので、諸国の民は、なすすべを知らず、不安に陥る。人々は、この世界に何が起こるのかとおびえ、恐ろしさのあまり気を失うだろう。天体が揺り動かされるからである。そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る。このようなことが起こり始めたら、身を起こして頭を上げなさい。あなたがたの解放の時が近いからだ。』」



イエスさまは、終末的な天変地異についても、語っておられます。太陽、月、星、海、そして天体が、どうにかなるというわけです。



それらのものは、人間の手でどうこうすることができるものではありません。人間の手で荒れ狂わしたり揺り動かしたりすることができるわけではなく、また実際に荒れ狂ったもの、揺れ動いているものを穏やかにし、静かにさせることが、人間の手ではできないものです。だからこそ、そこには人間を超えた力、神の力が働いていると信じられてきたし、わたしたちもそのように信じてよいのです。



しかしまた、だからこそ、人々はおびえもするというわけです。実際、わたしたちは、人間の手でコントロールできないものに、恐怖を感じます。「気を失う」とさえ語られています。恐怖のあまり失神する、ということです。



しかし、イエスさまが勧めておられるのは、「おびえてはならない」(21・9)ということでした。「世の終わりはすぐには来ない」(同)と言われていました。



ここで考えてみたいのは、イエスさまは、なぜ「おびえてはならない」とおっしゃっているのか、また「世の終わりはすぐには来ない」と断言しておられるのか、という点です。



その理由について、先週の個所には何も書かれていません。今日の個所にもはっきりとは書かれていません。しかし思い当たることがないわけではありません。それは、イエスさまが「世」と言われ、また「太陽、月、星、海、天体」と言われているものは、いずれにせよ、イエスさまにとっては間違いなく、父なる神の“被造物”である、という点です。



被造物の意味は「神が造られたもの」です。それは、神の作品です。しかも、きわめて傑作品です。主なる神は、この世界をお造りになったとき、「見よ、それは極めて良かった」(創世記1・31)とお語りになったのです!



それの“終わり”は「すぐには来ない」というイエスさまの御言葉の意図はどこにあるのでしょうか。その意図の一つとして思い当たることは、「神が造られたものは、そんなに簡単に壊れたり“終わったり”はしないので、信頼しなさい」ということに他なりません。この世界は神さまがお造りになったものであるゆえに、信頼してよい、ということです。



この点は、わたしたち改革派教会が長年強調してきた、“創造論”の主張でもあります。わたしたちが生きているこの世界は、神の作品であるがゆえに信頼してよいものである、ということです。



また、同じことを別の角度から言えば、この世界を終わらせるのは、自然の力でも悪魔の力でもなく、これをお造りになった神御自身の力による、ということです。神がお造りになったものだから、神が終わらせる。この世界を支配しているのは、神の力なのです。



それは、神以外の何ものかによってこの世界が無理やり終わらされることはありえない、ということでもあります。そのため、神を信じることにおいて、神がお造りになったこの世界をも信頼してよいのです。「世の終わりはすぐには来ない」。これこそが、イエスさま御自身の御言葉の前提であり、またわたしたち自身の信仰です。



現代社会に生きるわたしたちは、どうしても科学的な考え方をしてしまいます。まさにあの相対性理論に基づいて、この地球も宇宙も、すべては相対的な存在であるがゆえに、そこには必ず限界というものがあって、いつか破壊される、消滅する、というようなことを、わりと簡単に受け入れてしまうところがあります。



戦争が起こる。天変地異が起こる。ああ何もかも終わりだ。「日本は沈没する」と考えてしまう。しかも、こういう絶望感と聖書的終末論とを一緒くたにされてしまうとき、事態は非常に厄介なものになります。



わたしたちが信じていることは、その終わりは神がもたらすものである、という点です。この点が、他の人々とはおそらく決定的に異なるところです。



そしてまた同時に、わたしたちは、この世界に終わりをもたらす神御自身は、愛と憐れみに満ちた方である、と信じるのです。イエスさまが「そのとき人の子が・・・雲に乗って来る」と言われ、また「あなたがたの解放の時が近い」と言われているのは、まさにこの点にかかわります。終末とは、破壊と滅亡のときではなく、真の救い主イエス・キリストがこの地上に再び来てくださるときであり、この世界とこの人類のまさに解放(救い!)のときである、ということです。



「『それから、イエスはたとえを話された。「いちじくの木や、ほかのすべての木を見なさい。葉が出始めると、それを見て、既に夏の近づいたことがおのずと分かる。それと同じように、あなたがたは、これらのことが起こるのを見たら、神の国が近づいていると悟りなさい。」』」



このたとえにおいてイエスさまが触れておられるのは、「終末の到来」を認識するための徴(しるし)の問題です。



しかし、注目していただきたいのは、この徴は「神の国が近づいている」ということを知るための徴である、ということです。つまり、「終末の到来」とはすなわち、まさにそのまま「神の国の到来」を意味している、ということに他なりません。



神の国とはわたしたちの救いの現実です。わたしたちが救われて生きるところが神の国です。その神の国が終末において、究極的に実現し、具現化される。それが終末の意味であり、神の国の意味である。それがイエスさまの教えであり、わたしたちの信仰なのです。



「『はっきり言っておく。すべてのことが起こるまでは、この時代は決して滅びない。天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。』」



たしかにイエスさまは「天地は滅びる」ということを認めておられます。しかしそれは相対性理論ではありません。神の御心と人間の罪が、天地に終わりをもたらすのです。



そして、その只中で、救いの出来事が起こるのです。



イエス・キリストの御言葉は、決して滅びません。



その御言葉が、この世界全体に響きわたる。



それを聞いて信じるものたちは、すべて救われるのです!



(2006年8月20日、松戸小金原教会主日礼拝)



2006年8月13日日曜日

「命をかち取りなさい」

ルカによる福音書21・7~19



「そこで、彼らはイエスに尋ねた。『先生、では、そのことはいつ起こるのですか。また、そのことが起こるときには、どんな徴があるのですか。』イエスは言われた。『惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名乗る者が大勢現れ、「わたしがそれだ」とか、「時が近づいた」とか言うが、ついて行ってはならない。戦争とか暴動のことを聞いても、おびえてはならない。こういうことがまず起こるに決まっているが、世の終わりはすぐには来ないからである。そして更に、言われた。『民は民に、国は国に敵対して立ち上がる。そして、大きな地震があり、方々に飢饉や疫病が起こり、恐ろしい現象や著しい徴が天に現れる。しかし、これらのことがすべて起こる前に、人々はあなたがたに手を下して迫害し、会堂や牢に引き渡し、わたしの名のために王や総督の前に引っ張って行く。それはあなたがたにとって証しをする機会となる。だから、前もって弁明の準備をするまいと、心に決めなさい。どんな反対者でも、対抗も反論もできないような言葉と知恵を、わたしがあなたがたに授けるからである。あなたがたは親、兄弟、親族、友人にまで裏切られる。中には殺される者もいる。また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる。しかし、あなたがたの髪の毛の一本も決してなくならない。忍耐によって、あなたがたは命をかち取りなさい。』」



前回の個所でイエスさまがおっしゃられたことを、思い起こしましょう。



イエスさまは、エルサレム神殿という巨大で壮麗な建物を前に見とれていた人々に「あなたがたはこれらの物に見とれているが、一つの石も崩されずに他の石の上に残ることのない日が来る」とおっしゃいました。要するに、この建物はいつか必ず壊れますと語られたのです。



自然的な風化の話ではありません。人間の罪と愚かさがそれを破壊するという話です。つまり戦争が起こるということです。戦争によってエルサレム神殿が破壊される。神を礼拝するための建物が無くなる、ということです。



しかし、そのような話をいきなり聞かされた人々は、びっくりしたに違いありません。



そして、当然の関心として、そのような戦争はいつ起こるのか、また、それが起こるときには何かの前触れ、ないし徴候があるのか、とイエスさまに問うていることは、無理もないことです。素朴な疑問であると言えるでしょう。



イエスさまのお答えは、人々の素朴な疑問に対してダイレクトに、あるいはストレートにお答えになっているものであるとは必ずしも言えません。はぐらかしておられるわけではありません。しかし、「いつ起こるか」という問いに対しても、「その徴は何か」という問いに対しても、直接対応する答えは語られていません。



直接お答えにならないかわりに、イエスさまが強調しておられるのは、「ついて行ってはならない」「おびえてはならない」「惑わされてはならない」という点です。



戦争と聞くと、もうこれで終わりだ、お先真っ暗だと、全く絶望してしまう人々が必ず出てくるわけです。



あるいは、おびえる。善良な顔やかたちをもって、人々に近づいてくる。そこで宗教を持ち出す人々によって事態がますます混乱する。



そのような状況の中でイエスさまが人々に勧めるのは、動じない態度をとることです。



さて、ここには、わたしにとって、ちょっと気になる言葉が書かれています。その点に触れておきたいと思います。それは、イエスさまが戦争のようなことについて「起こるに決まっている」という言い方をされている点です。



わたしが感じている疑問は、なんとなく表現しづらいことなのですが、要するに、「起こるに決まっている」という言葉には、やや傍観者的な響きがある、ということです。



他人事のようだと言いたいわけではありません。危機意識は明白です。しかし、なんとなく成り行き任せ的というか、たとえば、それを止めようとする意思のようなものが表明されていないと感じます。「そういうことは起こるに決まっている」というのは、だれにも止められない、わたしにも止められない、と言っておられるかのようです。



わたしがイエスさまのこのお言葉の中に感じるのは、一種の無力感です。それは起こる。だれにも、どうすることも、できない。何かそのような響きを感じるのです。



しかし、わたしはそのようなイエスさまのお言葉が持つ響きに対して、残念だと思っているわけではありません。



むしろ、こういうことを感じます。イエスさまは、このわたしといわば同じ立場におられるということです。



昔から、戦争を始めるかどうかを決めるのは、その国の元首のような存在です。しかし、イエスさまは、その立場にはおられない、ということです。



イエスさまが立っておられるのは、国家元首の決断、あるいは独断によって開始されてしまった戦争の最中に引きずり込まれ、苦労し、傷つく国民の側です。



イエスさまは、国家の権力者がおっぱじめてしまった戦争状態の中で悲惨な目に会う人々の側に全く立ってくださるお方なのです。



他方、イエスさまは、「その徴は何か」という問いのほうには比較的きちんと答えておられます。



地震、飢饉、疫病、恐ろしい現象、そして「著しい徴」とあります。ここで数え上げられているさまざまな天変地異自体が「徴」であると考えてよいでしょう。



「徴」は、神のみわざとして理解されます。しかしまた、それらの中には、人間の側に責任がないとは言いきれないものもあるという点については、いくらか考えておく必要があるかもしれません。



たとえば、地震について人間の責任を問われても困る、と言われるかもしれませんが、常軌を逸した掘削や自然破壊が地震の原因になる場合もあるでしょう。



飢饉はどうか。これも自然災害であるといえば全くそのとおりです。しかし、旧約聖書の例(創世記のヨセフ物語)にあるように、飢饉が起こる可能性をあらかじめ見越して、豊作のときに備蓄しておくなどの政策があるかないかで大違い、という面もあります。



疫病はどうか。人間の責任は病気と戦うことです。人間の責任が全くないとは言えないでしょう。



ここでイエスさまが語っておられるのは、戦争状態の中で起こる、わたしたちキリスト者たちへの迫害についてです。



キリスト者は、戦争の時代には、迫害される。そのように語られている、と読むことが許されるでしょう。



しかし、なぜ、わたしたちが迫害されなければならないのでしょうか。理由や原因は、ここには語られておりません。



とはいえ、もちろん分かることはあります。それは、わたしたちキリスト者が戦争状態を根本的に忌み嫌い、憎む者である、という点です。イエス・キリストから示されている「愛」の教えと戦争との間には、どのように考えても、矛盾や対立がある、といわざるを得ないからです。



皆さんに対しては失礼な問いかけであると思いますが、あえて問います。戦争が大好きである、三度の飯よりも好きである、という方がおられますか。おられないと思います。わたしは教会の中で(改革派教会の中で!)そういう人に出会ったことがありません。



わたしたちは何が嫌いかといえば、戦争が何よりも嫌いです。殺し合いが嫌です。憎んだり、さげすんだりする、あの状況が嫌です。



戦争が嫌だ、ということに理由は要りません。代案も要りません。嫌なものは嫌だ、と言ってよいのです。それは無責任であると責められなければならないような言葉や態度ではありません。嫌なものは嫌です。それ以上に何を語る必要がありましょうか。



しかし、です。そういう言葉をひどく嫌がる人々がいます。一国民を兵隊にして戦地に送り出し、国のために命を捨てろと命じる人々です。そのような人々は、戦争を嫌がる人の存在を、嫌がるのです。



キリスト者は戦地に行かないとか、軍人にならないというわけではありません。行かされるし、ならされます。どんなに反対の意思を持っているとしても、その状況に引きずり込まれることがありえます。



しかし、戦争が好き、人を殺すのが好き、というキリスト者は、通常いません。



だから、迫害される。われわれを戦地に行かせ、戦いの中に巻き込みたい人々から迫害される。



そういうことが起こると、イエスさまは語っておられるのです。



ごく一般論としても、「ピンチはチャンスである」と言われます。イエスさまは、わたしたちが迫害されるときは、証しの機会になると教えておられます。



「迫害」にもいろいろあると思いますが、イエスさまが描いておられるのは、会堂や牢に引き渡された後、「王や総督の前に引っ張られていく」ということです。



引っ張っていく人々の側からすれば、キリスト者はいかにひどい考え方や生き方をしているか、ということを公衆の面前でさらしものにし、笑いものにすることが、目的なのでしょう。



しかし、そのようなことが実際になされた場合にどうなるか。ここには、やや、わたし自身の希望的観測が混じっていますが、わたしたちが信じてよいことがあります。それは次のように表現できるでしょう。



わたしたちキリスト者が公衆の面前でさらしものにされ、笑いものにされているとき、それを見ている公衆の中に、わたしたちキリスト者たちの言葉や行いは間違っていない、ということを感じとる人々が、必ずいる、ということです。



たとえば、あの殉教者ステファノが多くの人々が投げる石つぶてによって殺されたとき、その殺害現場の傍らで、人々の脱いだ服の番をしていたサウロは、その後、使徒パウロとなりました。パウロの回心とステファノの殉教との間には深く関連がある、ということを多くの人々が認めています。神の御言葉に忠実に生きた人の死は、どんな人の死より影響力が強いのです。



殉教は証しであり、殉教者は証し人です。死して多くを語る。生きている人よりも能弁に語るのです。



キリスト者は強情であるとか、頭が固いとか、協調性がないと言われることがあります。



しかし、わたしたちに言わせていただくと、いうならば、嫌なことを嫌だ、と言っているだけです。へんなものに束縛されていて自由ではない。そのような状態が嫌なのです。



しかし、キリスト者であることは親・兄弟・親族・友人から裏切られるとか、殺される場合もあるとか、すべての人から憎まれるとまで言われてしまいますと、ぞっとしますし、できればそうでありたくないと思いますし、また、とくに、まだ信仰を持っていない人にとっては、大いに躊躇する理由にもなるでしょう。



でも、どうか考えてみていただきたいのです。わたしたちは、嫌なものは嫌だと、ただ単純に言いたいだけです。自由でありたいだけです。ただそれだけなのです。



そして、わたしたちは、その自由を手にするために、命をかける価値がある、と信じているのです。



「忍耐によって命をかち取りなさい」とイエスさまがお語りになりました。これは驚くべき言葉であると、感じます。なぜ驚くべきかといいますと、イエスさまは、この文脈では明らかに、忍耐によってかち取るものは、命ではなく、むしろ死ではないか、と考えさせるようなことを語っておられるように読めるからです。



ここでイエスさまが「かち取りなさい」と命じておられる「命」は、いわゆる今わたしたちが持っている“この地上の命”とは違うものであることは、明らかです。なぜなら、それは、いわば“死を覚悟している命”ですから。



ならば、それは何か。永遠の命とか、天国で生きるための命、と言ってもよいでしょう。が、そう言うだけなら、誤解も生じるでしょう。



わたしは、この「命」の意味は“信仰”であると考えています。それはまさに信仰の命であり、信仰生活です。わたしたちは、命をかけて信仰の自由を、そして自由なる信仰をかち取るのです。



戦争はそれを奪います。戦争は、わたしたちから信仰の自由、自由なる信仰を奪います。そこに宗教家が加担することもある。そのことをイエスさまは、強く警告されています。



しかし、わたしたちは、勇気を持とうではありませんか。そして忍耐しましょう。



イエスさまが語られたのは、「忍耐によって命をかち取りなさい」ということであって、「殺し合いによって」ではありません。



(2006年8月13日、松戸小金原教会主日礼拝)