2006年6月25日日曜日

「救い主の権威」

ルカによる福音書20・1~8



今日の個所に記されていますのは、エルサレムの町に到着されたイエスさまがさっそく巻き込まれた論争の様子です。



「ある日、イエスが神殿の境内で民衆に教え、福音を告げ知らせておられると、祭司長や律法学者たちが、長老たちと一緒に近づいて来て、言った。『我々に言いなさい。何の権威でこのようなことをしているのか。その権威を与えたのはだれか。』」



イエスさまは、エルサレム神殿の境内に入られました。そして、そこでなさったことは、「民衆に教えること」、そして「福音を告げ知らせること」でした。



この「民衆に教えること」とは、第一義的に「教育」のことです。聖書には何が書かれているかを解説し、教育することです。



また「福音を告げ知らせること」とは、第一義的に「福音の伝道ないし宣教」のことであると表現できるように思います。



つまり、この個所には、イエスさまがエルサレム神殿で行われたのは「伝道」と「教育」という二つのことであった、と書いてあると、読むことができます。



しかし、これら二つのことは、全く異なるものであるとか、別々のものであると考える必要はありません。お互いはほとんど重なり合っているし、ほとんど同じことである、と言ってよいものです。



そして、この場合の「福音」とは、(旧約)聖書において預言され、約束された神の国が今やまさに近づいていること、そして、その神の国の王であるメシア=キリストは、わたしイエスである、ということです。



そして、わたしイエスこそがキリストであるということを、イエスさまは、エルサレム神殿の境内でお語りになりました。



そこはユダヤ教の総本山です。その場所で、そのようなことを、はっきりとお語りになる。ということは、イエスさまは、まさに御自身の死を覚悟しておられた、ということを意味するのです。



案の定、というべきでしょう。そのイエスさまの前にさっそく現れたのが、ユダヤ教の祭司長、律法学者、長老でした。



この三つのグループに属する人々のことは、これからも繰り返し出てきますので、ぜひ覚えておいていただきたいと思います。



いずれも、「七十人議会」と呼ばれる七十人の議員と一人ないし二人の議長から構成されるユダヤ最高法院(サンヘドリン)の議員です。



この「最高法院」で行われた裁判において、イエスさまを死刑する判決が下されました。つまり、今日の個所に出てくるこの祭司長、律法学者、長老たちが、イエスさまを死刑にする判決を下したのです。



この人々は、そういう人々である、と覚えていただきたいと思います。



彼らがイエスさまに問いかけてきたことは、二つです。



第一の問いは、「イエスよ、あなたは何の権威でこのようなことをしているのか」ということです。「このようなこと」とは、もちろん、エルサレム神殿の境内で、民衆に教えること、そして福音を告げ知らせることです。



第二の問いは、「その権威を与えたのはだれか」ということです。



この二つの問いも、ほとんど重なり合うことですので、一緒に扱っても、それほど混乱はしないでしょう。



彼らが言おうとしていることは、要するに、エルサレム神殿のような場所で教えるからには、それなりの権威を持っていて然るべきであるが、イエスよ、あなたはそれを持っているのか、いや、持っていないのではないか、ということです。



そして、やや気になることは、そのように言っている彼ら自身は、常日頃からエルサレム神殿で教えていた人々であるということです。



つまり、この人々は、自分自身はここで教える権威を持っている、と信じて疑わない人々であった、ということです。



それが意味していることは明らかです。非常に単純明快な話です。



彼らは、イエスさまのことを、自分たちよりも“格下”であると考えている、ということです。言うまでもなく、自分たちのほうが上、イエスさまは下です。見くだし、馬鹿にし、軽んじている、ということです。



彼らのプライドの根拠は、おそらく、一生懸命に勉強して学者になり、祭司長になり、長老になった、ということでしょう。ある種の立身出世物語があります。



祭司長であれ、律法学者であれ、長老であれ、誰でもなれるというようなものではありません。それなりの努力が必要です。



苦しい努力の日々を乗り越えてきた結果として、その地位と名誉を得た。そのこと自体は別に悪いことではありません。尊重されて然るべきことであると思われます。



たとえば、使徒パウロも、キリスト教に改宗する前は、ファリサイ派の律法学者でした。



このパウロが、三度の伝道旅行の後、エルサレム神殿にいたとき、ユダヤ人たちの謀略によって逮捕されました。



そして最高法院へと連れて行かれることになったとき、パウロが「ここで話をさせてくれ」と頼み、神殿にいた参拝客に向かって弁明をしたということが、使徒言行録21・37以下に記されています。



その弁明の中でパウロが語っている言葉が、とても印象的です。



「わたしは、キリキア州のタルソスで生まれたユダヤ人です。そして、この都で育ち、ガマリエルのもとで先祖の律法について厳しい教育を受け、今日の皆さんと同じように、熱心に神に仕えていました」(使徒言行録22・3)。



わたしが申し上げたいことは、今日の個所でイエスさまに「あなたは、何の権威で、このようなことをしているのか」と問うてきた祭司長、律法学者、長老の心の中にあったのは、このパウロの言葉の中にあるのと同じようなものであったに違いない、ということです。



パウロが引き合いに出している「ガマリエル」という教師は、当時の最高法院の中での最高権威者であったと思われます。



たとえば、もしイエスさまが、その「ガマリエル教室」に在学し、最高の成績を修めた新進気鋭の律法学者である、ということでもあれば、エルサレム神殿の境内で教えようと、だれからも文句をつけられることがなかったかもしれません。



つまり、彼らが問うている「権威」とはそのようなもののことであると思われるのです。ところが、イエスさまは、その意味での「権威」を持っていないと彼らは判断しました。それはある意味で事実であった、と言わなければならないでしょう。



なるほど、イエスさまは、パウロやほかの律法学者と同じような意味で、律法学校に入学して学んだことはなく、ガマリエルの弟子でもなかったからです。イエスさまは、約30才になられるまで、大工である父親の仕事を手伝っておられたからです。



つまり、ごく分かりやすくいえば、イエスさまご自身は、神学校も出ておられないし、教師試験も受けておられないし、按手礼も受けておられない、ということです。



イエスさまがそのような生い立ちを持っている、ということを、この最高法院の議員たちは、よく知っていました。だからこそ、彼らは、あなたは何の権威で教えているのか、その権威をだれが与えたのか、あなたにその資格はないのではないか、と批判しているのです。



「イエスはお答えになった。『では、わたしも一つ尋ねるから、それに答えなさい。ヨハネの洗礼は、天からのものだったか、それとも、人からのものだったか。』彼らは相談した。『「天からのものだ」と言えば、「では、なぜヨハネを信じなかったのか」と言うだろう。「人からのものだ」と言えば、民衆はこぞって我々を石で殺すだろう。ヨハネを預言者だと信じ込んでいるのだから。』そこで彼らは、『どこからか、分からない』と答えた。」



このイエスさまのお答えを読みながらわたしなどが感じますことは、これはイエスさまというお方がいかに“機転の利く”お方であったかを物語るものである、ということです。機転とは、「物事に応じて、とっさに心が働くこと」(広辞苑)のことです。



ここで気づかされることの第一は、イエスさまは、この人々が仕掛けてきた論争に巻き込まれることを、明らかに、避けておられる、ということです。



売られた喧嘩は買う、とばかりに、むきになって受けて立つ、というやり方は採られず、むしろ、軽く受け流しておられるように見えます。



そして実際に採られている方法は“逆質問”です。質問されていることには直接答えず、質問に対して質問をもって答える、という方法です。



これは、わたしたちの生き方の上でも、大いに参考になることです。この人々は、初めから悪意ないし殺意をもって、イエスさまに質問してきているのです。はっきり言えば、そんな人々のことを、まともに相手をする必要はないのです。



ここで気づかされることの第二は、イエスさまがなさっている逆質問の内容は、相手が答えることができないように考え抜かれているものである、ということです。実際、彼らは、答えに窮してしまいました。



イエスさまの質問は、「ヨハネの洗礼は、天からのものであったか、それとも人からのものであったか」というものでした。このヨハネとは、言うまでもなく、イエスさま御自身にも洗礼を授けたことで知られる、「最後の預言者」と呼ばれるバプテスマのヨハネのことです。



このヨハネも、実をいいますと、先ほど紹介いたしました使徒パウロのように律法学校に学び、ガマリエル教授のもとで学問的に徹底的な訓練を受けて、学者になった、というような意味での「権威」を持っている人ではありませんでした。



ヨハネの人物像については、マタイ福音書の以下の記述が参考になります。「ヨハネは、らくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べ物としていた」(マタイ3・4)。



ただし、わたしが申し上げたいことは、ヨハネがそういう格好をしていたことが「権威のなさ」を物語っている、というようなことではありません。



ただ、たしかに言えることは、ヨハネの人となりはエルサレム神殿の住人たち、すなわち、最高法院の議員たちとは、見た目も含めて、何から何まで、相当違っていたし、かけはなれていた、ということです。



しかし、エルサレムの彼らにとって、ヨハネの存在が脅威であったのは、彼らがどんなにがんばって勉強し、学問的に聖書研究を究めようとしても決して手に入れることができない何かを、ヨハネは持っていた、ということです。



それは何かといいますと、要するに、人々からの信望であり、信頼です。



多くの人々が、ヨハネを「預言者」であると信じていました。いやそれどころか、多くの人々は、ヨハネこそが来るべきメシア(=キリスト)ではないかと考えていたのです。



しかし、それはヨハネが学問を究めた人だったからではありません。



ヨハネの偉大さは、自分自身は来るべきメシアではなく、むしろメシアのための道備えをするために来た者であると語りつつ、メシアの前にへりくだる姿勢をとり続けたこと、そして、多くの人々に自分の罪の悔い改めを勧め、洗礼を授け、救いに導いたことにあります。



すなわち、ヨハネの権威とは、多くの人々を真の救い主イエス・キリストにある救いへと導く権威であり、それは、とりもなおさず、父なる神御自身から与えられた、上からの権威であった、ということです。



そしてまた、同時に大切なことは、ヨハネがそのような存在であることを多くの人々が認めていた、ということです。



ヨハネの権威は、律法学者や祭司長たちの権威とは、明らかに異なるものでした。



すなわち、ヨハネの権威は神が与えたものであると同時に、多くの人々がヨハネを尊敬し、信望していたという意味で、多くの人々から認められていたものである、ということです。



この意味で、ヨハネの権威は「神からのもの」でもあり、また同時に「人からのもの」でもあった、ということです。



それに対し、律法学者や祭司長たちの権威とは、何でしょうか。エルサレム神殿で教えることができるようになった。その意味での学問的な、あるいは制度的な権威というものならば、持っていたかもしれません。



しかし、です。彼らの権威においては決定的に欠けていた要素があったと言わなければならないでしょう。



それは何かといいますと、一言で言って、彼らは、ヨハネと同じような意味で、多くの人々から尊敬されることはなく、信望されることもなかった、ということです。



それは、どこに原因があったのでしょうか。今日はそのことにまで踏み込んでお話しする時間が無くなりました。



しかし、一つだけ触れておきたいのは、今日の最初の話に戻ることですが、要するに、彼らは、イエスさまに対して、自分よりも格下であると見て、見くだし、馬鹿にし、軽んじるという態度をとる。



この不遜さ、自分は偉いと思い込んでいる傲慢さが、人から嫌われる原因である、ということに、気づいていないようである、ということです。



宗教者の権威、また救い主の権威は、真に謙遜であること、そして真に人を助けることができることにある、というべきです。



傲慢な人、他人を見くだす人、ひとを神の救いに導くことに関心のない人、自分の地位や名声だけに関心がある人に、神学者や教師を語る資格は、ありません。
 
「すると、イエスは言われた。『それなら、何の権威でこのようなことをするのか、わたしも言うまい。』」



彼らが「分からない」と答えをはぐらかしたので、イエスさまのほうも、何もお答えになりませんでした。最初からお答えになるつもりがなかったのです。



こんな人々を、まともに相手にする必要はないのです。



意味のない、不毛な論争は、避けるべきです。



(2006年6月25日、松戸小金原教会主日礼拝)