2006年6月11日日曜日

「主がお入用なのです」

ルカによる福音書19・28~36



今日は、日曜学校の子どもたちがいちばん前に座っています。日曜学校の花の日行事として、今年の新年礼拝のときに行ったのと同じ方法で、子どもを中心にした礼拝を行っています。



礼拝後は、日曜学校の催しやバザーを行います。今日は楽しく過ごしましょう!



今日の聖書は、イエスさまが続けてこられた、エルサレムへの旅が、まもなく終わろうとしている、という場面です。ついに終点が見えてきました。



そのときに、です。イエスさまは、エルサレムにお入りになるためにちょっと面白い格好をなさいました。なんと、子ろばの背中にお乗りになったのです。



なぜ「面白い」のでしょうか。どうしても気になるのは、イエスさまはなぜ、大きな馬にお乗りにならなかったのか、ということです。



大きな馬のほうが、格好いいではありませんか。なぜ「子ろば」なのでしょうか。



当時は今のような自動車がありません。大きな馬に乗るということは、大きな自動車に乗るのと同じです。またエルサレムはユダヤの国の首都です。今の日本の東京のようなところです。大都会です。たくさん人がいます。



その中で目立つためには、小さな車よりも、大きな車のほうがいい。格好いいし、立派に見えるではありませんか。



ところが、イエスさまは、そのような格好をなさらなかったのです。大きな馬ではなく、小さなろばに乗って、エルサレムの町に入っていかれたのです。



おそらく、町の人々はそれを見て笑ったと思います。「なんだい、あんなちっちゃいのに乗っちゃって」と。



そうです、イエスさまは、まさに人から笑われるような格好を、わざとなさったのです。みんなから笑われる、または、みんなを笑わせる、そのような格好です。



なぜイエスさまは、そのような格好をなさったのでしょうか。それには理由があります。旧約聖書の中に、救い主がエルサレムに来られるときには、子ろばに乗ってこられる、ということが預言されていたからです(ゼカリヤ9・9)。



もちろん、イエスさまは、この旧約聖書の預言を知っておられたのだと思います。ですから、聖書に書いてあるとおりに、なさったのです。しかし、イエスさまがなさったことには、もちろん、ちゃんと意味があります。



救い主がエルサレム入城の際にろばに乗るというのは、「謙遜」(ゼカリヤ9・9)と「柔和」(マタイ21・5)のしるしなのです。「謙遜」とは、威張らない、ということです。「柔和」とは、優しい、ということです。



その反対のことを考えると、さらにその意味がよく分かるでしょう。



当時、王様などのエライ人が馬に乗るとしたら、それは戦争のために使う軍馬でした。体が大きくて、足が速くて、見るからに立派な馬でした。



それは、「謙遜」と「柔和」の反対です。自分の力を相手に見せつけて威張るため、自分はエライ人間だということを見せつけるために、乗るものでした。イエスさまは、そんなものには、お乗りにならなかったのです。



誤解がありませんように。わたしは今、大きな車に乗っている人たちに向かって嫌味や皮肉を言おうとしているのではありません。大きな自動車に乗ること自体は、一向に構わないと思いますし、そういう話をするつもりは全くありません。



ただ、しかし、一点だけ、やはり、どうしても言っておかなければならないことがあると感じています。それは、乗り物の大きさや家の大きさ、また、その人が持っている物の大きさが、その人の「人間の大きさ」を決めるのではない、ということです。それは全く関係ないことです。



これは、今、子どもである皆さんには、ぜひ覚えておいてほしいことです。



皆さんは、これから大きくなったら、ぜひ偉い人になってください。わたしは、そのように願っています。でも、それは、乗り物や家が大きい人になってくださいという意味ではありません。乗り物や家の大きさがその人の「人間の大きさ」を決めるわけではありません。このことを、どうか忘れないでほしいのです。



イエスさまは、もちろん旧約聖書のみことばに従って、ろばにお乗りになったのですが、同時にそのことをイエスさまは、わざとなさったのです。



なぜ「わざと」かと言いますと、乗り物の大きさが「人間の大きさ」を決める、と思い込んでいる人々に、それは違います、ということを、お教えになるためでした。そういう考え方や物の見方は間違っている、ということを、お示しになるためだったのです。



ところでイエスさまは、そのろばをどのようにして手に入れられたのでしょうか。そのことが、次のように書かれています。



「イエスはこのように話してから、先に立って進み、エルサレムに上って行かれた。そして、『オリーブ畑』と呼ばれる山のふもとにあるベトファゲとベタニアに近づいたとき、二人の弟子を使いに出そうとして、言われた。『向こうの村へ行きなさい。そこに入ると、まだだれも乗ったことのない子ろばのつないであるのが見つかる。それをほどいて、引いて来なさい。もし、だれかが、「なぜほどくのか」と尋ねたら、「主がお入用なのです」と言いなさい。』」



最初に言っておきたいことは、イエスさまがエルサレムに来られたのは、何もこのときが初めてのことではない、ということです。



イエスさまは、幼い頃は、両親と共に毎年エルサレムに行かれていたということは聖書に記されていますし(ルカ2・41)、成人されてからも、たびたび行かれたことでしょう。



そのことから分かるのは、イエスさまがエルサレムまでの旅路の途上で、ここにはろばがつながれているとか、あそこにはザアカイの家がある、というようなことを知っておられたとしても、なんら不思議なことでも、おかしいことでもない、ということです。



ですから、ここでイエスさまがろばの居場所をずばり言い当てた、というようなことは、あまり驚くようなことではありません。おそらく知っておられたのです。



そのことよりももっと驚かなければならないのは、イエスさまが二人の弟子にお命じになったことは、ろばをつないでいる紐を、持ち主の断りなしに、ほどきなさい、ということだった、という点です。



そして、それにびっくりした持ち主が、大急ぎで走ってきて、「何するんだい、泥棒め!」と飛びかかってきたら、そのとき初めて「主がお入用なのです」と説明して持ち主の許可を取りなさい、ということです。



これも誤解しないでいただきたいところです。イエスさまは、弟子たちに泥棒を働かせようと唆されたのではありません。



持ち主が飛びかかってくることまでは、すべて想定内です。持ち主が飛びかかって来ても、力ずくで奪い取るならば、それは泥棒です。しかし、イエスさまは、ろばの紐をほどけば、必ず持ち主が飛んでくる、ということをよくご存じでした。



つまり、イエスさまは、持ち主が飛んでくることを、初めから予想されていたのだ、ということです。



ですから、イエスさまの命令の真意は、泥棒をすることではなく、そのろばの持ち主に対して「主がお入用なのです」と説明して許可を取りなさい、という点にある、ということです。そのように考えることができます。



言い換えれば、このときイエスさまは、「主がお入用なのです」という言葉で使うことを許可されたろばにお乗りになるということを、初めから計画されていた、ということです。



なぜこのようなことをなさったのでしょうか。考えられることは、一つです。



注目したいのは、「主」という字です。「主」とは、救い主のことであり、また「神の国」の王さまのことです。まことの神の御子、わたしたちの救い主、イエス・キリストのことです。ですから、「主がお入用なのです」とは、この「主」なるイエスさまが、このろばを必要としている、ということです。



それを町の人にお願いする、ということは、これこそが、まさに、大きな馬ではなく、小さなろばに乗る王さまがおいでになったことを人に知らせる、ということです。



きっとその噂は、あっという間に町中に広まるでしょう。広まってもよいのです。むしろ、広めたい。だからこそ、そのために、イエスさまは、町の人を驚かせるようなことをなさったのです。



持ち主に断りなしに、ろばの紐をほどく。後ろからどんなに追いかけられても、ろばをかかえて走って逃げて来なさい、と命令なさったわけではないのです。



イエスさまの真意は、持ち主を驚かせ、町中を驚かせるため。ただそれだけであると思います。



今のこのご時勢の中で、教会でバザーを開いても、だれも驚いてくれないかもしれません。でも、大いにやりましょう。「へえ、教会でも、あんなことやるんだ」と驚いてもらえるようなことを、いろいろと、どんどん、やりましょう。楽しいことをやりましょう。



そして、教会が多くの人々に伝えたいと願っていることは、イエスさまの御言葉であり、イエスさまの生きざまです。



真に偉い人とはだれでしょうか。乗り物や家の大きさは、関係ありません。真に偉い人とは、わたしたちの救い主イエス・キリストのように、自分の命をささげて、ひとを助け、ひとを救うことができる人です。



(2006年6月11日、松戸小金原教会主日礼拝)