2006年6月4日日曜日

聖霊の執り成し


ローマの信徒への手紙8・26~30

今日はペンテコステの礼拝を共にささげております。二千年前の五旬祭(ペンテコステ)の当日、イエス・キリストの弟子たちに聖霊が降りました。聖霊の力に満たされた彼らは、主イエス・キリストへの信仰に基づく新しい教会を立て上げました。そのことが最初のペンテコステの日に起こりました。だからわたしたちは教会の誕生日としてこの日をお祝いするのです。

しかし、わたしたちにとってなかなか難しいと感じることは、「聖霊」とは何かということを理解するのが難しい、ということではないかと思います。そこで今日は、聖霊とは何かということをお話ししたいと願っております。

「聖霊」について記している聖書の個所はたくさんありますが、とくに今日開いていただきました個所は、たいへん有名であり、また聖霊の本質を理解する上で非常に重要です。

「同様に、“霊”も弱いわたしたちを助けてくださいます」。

ここに出てくる“霊”が、聖霊です。すぐに気づいていただけるでありましょうことは、新共同訳聖書では、「聖霊」を意味する“霊”を主語とする文章の述語において、「助けてくださいます」とか「執り成してくださるからです」というふうに、いわゆる敬語表現が使われている、ということです。

これはもちろん正しい訳です。なぜこのように訳されているかを考えることが、聖霊の本質を理解するための第一歩です。

聖書の中で敬語表現が用いられているときの対象は、多くの場合、神さまです。ここでも同じです。聖霊は神さまなのです。“霊”と書いてあるところは、神と読み替えても構わないところです。だからこその敬語表現です。聖霊は、端的に神さまなのです。

しかし、です。“霊”を神と読み替えてもよいと申しましたが、その場合に同時に考えておく必要があることがあります。それは、神は“霊”「でもある」、ということです。

なぜ、そのように言わなければならないのかといいますと、わたしたちは、父なる神を“神”と信じ、また神の御子イエス・キリストも“神”と信じているからです。神は、聖霊としてのお姿だけではなく、御子イエス・キリストとしてのお姿においても、御自身を現されたのです。

そして、とくに問題にしなければならないことは、イエス・キリストの本質は霊というよりも肉にあるという点です。人間になられた神、肉をまとった神であられるキリストの存在においては、“肉”の面が明らかに強調されています。

ところが、聖霊には、肉体がありません。わたしたちの目には見えない存在なのです。

ただし、です。わたしは今、「聖霊なる神には、御自身がまとう肉がありません」と申し上げたばかりですが、そのすぐあとに、「しかし、ある意味で、聖霊は、そのような肉を、持っておられます」と言わなければなりません。

それは何なのかと言いますと、聖霊がまとう肉とは、わたしたち人間の肉体である、ということです。しかも、それは、このわたしの肉体です。関口康の肉体であり、またここにおられるすべての方々の肉体です。全世界の、イエス・キリストを信じる信仰者たちの肉体です。

このわたし、わたしたちの中に、聖霊が入り込んでくださるのです。聖霊がわたしたちの肉体をまとってくださるのです。そして、聖霊がわたしたちの心に働きかけてくださり、まさに「弱いわたしたちを助けてくださる」のです。

ですから、聖霊なる神の活動の場は、わたしたちの体の中です。しかし、聖霊はわたしたちの中という狭いところに閉じこもっておられるわけではありません。なぜなら、聖霊は、わたしたち自身を用いてくださるからです。

ですから、わたしたちの活動範囲が聖霊なる神の活動範囲です。もし皆さんの中に国際的に活躍している方がおられるならば、聖霊なる神御自身も国際的に活躍しておられるのです。もし宇宙空間に出かける人がおられるならば、聖霊なる神も宇宙空間にお出かけになるのです。

聖霊なる神御自身には、肉体がありません。いわばその代わりに、聖霊は、わたしたちの肉体の中で、わたしたちの肉体と共に、わたしたちの肉体を用いてお働きになるのです。これが、聖霊を理解するために、非常に重要な点です。

「わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、“霊”自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです。」

先ほど申し上げましたとおり、聖霊は、わたしたち人間の肉体の中でお働きになります。しかし、そこで必ず問題になることは、わたしたちの中に聖霊がおられるときに、わたしたち自身の心は、どこにあるのか、ということです。

それは、はっきりしています。聖霊とわたしたちの心とは、共存しているのです。聖霊がわたしたちの中に注ぎこまれるとき、わたしたちの心が外に飛び出してしまうわけではありません。そうなればよいのに、と思う方がおられるかもしれませんが、そういうふうには、決してなりません。

なぜなら、もしわたしたちの心がすっかり聖霊に置き換えられてしまうならば、それは同時に、わたしたち自身が神様になってしまったことを意味するからです。しかし、わたしたちは神にはなりません。なる必要がありません。

罪深いわたしたちの心が、聖霊なる神と共に、このわたしの肉体の中で存在し続ける。そこで起こることは、深い悩みと葛藤です。神の御心と、わたしの思いとの対立であり、闘いです。

この個所で使徒パウロは「わたしたちはどう祈るべきかを知りません」と書いています。これは、でたらめとまでは言いませんが、そんなことがあるはずはないだろうと、思わず言い返したくなるような言葉です。

なぜなら、パウロは宗教の専門家です。牧師であり、伝道者であり、神学者です。そういう人が、なぜ「わたしたちはどう祈るべきかを知りません」でしょうか。知らないわけがないではありませんか。

しかし、今わたしが申し上げていることは、事柄の一つの側面にすぎません。もう一つの側面から見れば、なるほど、パウロの言うとおり、パウロを含むわたしたち、すべての者たちは、「どう祈るべきかを知らない」人間です。

なぜなら、祈りとは、神さまとお話しすることです。しかし、わたしたちは、神さまが何語を話しておられるかを知っているでしょうか。どういう言葉を語れば、それが神様に聞いていただけるものになるのか。どのような内容で祈れば神様に喜んでいただけるのか。

そういうことを知っている、という人がいるでしょうか。いないのだと思います。わたしたちは、ただ教えられるままに祈っているだけです。

しかし、です。どう祈るべきかを知らないわたしたちのために、聖霊が言葉に表せないうめきをもって執り成してくださる、とパウロは書いています。このうめきは、どこから聞こえてくるのでしょうか。

これもはっきりしています。わたしたちの肉体の中からです。うめき声は、わたしたちの、おそらく口から、あるいは喉から出てくるものです。しかし、それは、わたし自身のうめき声であると言ってよいものなのです。

結論から先に言えば、両者を区別することはできません。このわたしの肉体のなかでの聖霊なる神とわたしたち人間の心の関係は、どこまでが聖霊であり、どこまでが心であるというふうに、きっちりと分け目をつけることができないのです。

それほどまでに、両者は深くかかわっているし、重なり合っているし、混ざり合っている。それが、聖霊のお姿なのです。

「人の心を見抜く方は、“霊”の思いが何であるかを知っておられます。“霊”は、神の御心に従って、聖なる者たちのために執り成してくださるからです。神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています」。

「人の心を見抜く方」とは父なる神のことです。ですから、この文章は、父なる神は「人の心を見抜くこと」と「聖霊の思いが何かということ」の両方を知っておられる、という意味で理解することができます。

つまり、わたしたち人間の心と聖霊は、神の側からは区別することができるということです。しかし、わたしたち自身は、両者を区別することはできません。

ところが問題は、その聖霊が、わたしたち人間の肉体の中に注ぎ込まれたときに起こります。わたしたち人間の肉体、また、わたしたち人間の心は、あまりにも罪深く、父なる神の御心とも、聖霊なる神の思いとも異なるように、動いてしまう。御心に反して生きてしまうからです。だからこそ、葛藤が起こるし、悩みが起こるのです。

しかし、どうでしょうか。わたしたちは、神になることはできませんが、それは、深い慰めでもあるはずです。

わたしたちを助けてくださる方が、おられる、ということです。

すべてがわたしたちの自己責任ではない、ということです。

わたしたちの思いを越えて働く、万事を益としてくださる、神の御計画がある、ということです。

わたしたちは、時々死ぬほど苦しい試練を受けることがありますが、そのこともまた、深い次元においては、神のご計画であり、わたしたち神の子らを訓練するための道である、ということを信じてよい、ということです。

わたしたちは、神になることはできません。ならなくてよいのです。助けてくださる方がおられるということで、十分満足してよいのです。

「宗教に頼るのは負け犬だ」とか、そういう言葉に動揺することは、一切ありません。

余計なことを言うようですが、そういうことを言う人に限って、奥さんに甘えたり、世間に甘えたり、自分自身を甘やかしながら、だらしなく生きているのです。

聖霊がわたしたちの中に注がれ、宿ってくださるとき、わたしたちは、自分自身の中で、祈りにおいて神と一対一で向き合い、神から答えをいただきながら、責任をもって生きていくようになります。

それが、わたしたちキリスト者の責任の取り方です。そのような奥義を、わたしたちは、持っているのです。

最後にまとめておきたいことは、聖霊がこのわたしの中におられる、ということは、神がわたしと共に生きておられる、ということだ、ということです。

神は、遠くにはおられません。今ここに、わたしの中に、そして、わたしの人生と共に、神がおられるのです。

ですから、わたしたちが祈るとき、遠くにおられる方に大声で呼びかける必要はありません。

そうではなく、まるで自分の胸に語りかけ、まるで自分自身を言い聞かせるように、自分に向かって祈ってよいのです。

(2006年6月4日、松戸小金原教会主日礼拝)