ルカによる福音書19・11~27
今日の個所に記されていますのは、ふたたびイエスさまのたとえ話です。「ムナのたとえ」と名づけられています。
ただし、これよりも、内容はほとんど似ているマタイによる福音書25章の「タラントンのたとえ」のほうが有名でしょう。両者を比較しながら読むというのも面白い試みであると思います。しかし、今日はそのようなことを行う余裕がありません。
しかし、両者の比較について一点だけ触れておきます。すぐ分かることは、ルカによる福音書の「ムナのたとえ」のほうが、マタイによる福音書の「タラントンのたとえ」よりも恐ろしい、ということです。恐怖の要素が強調されている、ということです。
「イエスは言われた。『ある立派な家柄の人が、王の位を受けて帰るために、遠い国へ旅立つことになった。そこで彼は、十人の僕を呼んで十ムナの金を渡し、「わたしが帰って来るまで、これで商売をしなさい」と言った。しかし、国民は彼を憎んでいたので、後から使者を送り、「我々はこの人を王にいただきたくない」と言わせた。』」
最初に申し上げておきたいことは、イエスさまのこのたとえ話には、歴史的に実在する何らかのモデルがあると考えられている、ということです。
イエスさまのたとえ話のすべてに当てはまることかどうかは、分かりません。しかし、たとえ話の中には、明らかに何らかの実在する具体的なモデルがあって、当時の人々の耳で聞けばそれが何のことなのか、だれのことなのかが、すぐに分かるようなお話があった。これはその一つであると考えられているのです。
ある解説によりますと、「ある立派な家柄の人」は、当時のユダヤの支配者ヘロデ大王の息子アルケラオのことであると言われています。その場合、この人が王の位を受けて帰るために旅立つ「遠い国」とは、ローマのことです。アルケラオは、父ヘロデ大王と同様、非常に過酷な弾圧政策をもってユダヤの国を支配し、ユダヤ人たちから嫌われた人でした。
この点から確認しておきたいことがあります。それは、「ある立派な家柄の人」は神さまのことでもイエスさまのことでもないということです。このたとえ話を読みながらわたしたちが想像力を働かせる内容は、神さまの姿ではなく、むしろ、国民を弾圧し、国民から嫌われた、悪い王の姿である、ということです。
イエスさまがなぜ、そのような悪い王の姿を思い起こさせるような話をしておられるのか、その理由は何なのかは、はっきりしたことは言えません。しかし、重要なヒントは、11節の、イエスさまがこのたとえを話された理由です。「エルサレムに近づいておられ、それに、人々が神の国はすぐにも現れるものと思っていたからである」。
この一文から伝わってくることは、イエスさまがこのたとえをお話しになった理由は、「エルサレムに近づいておられる」からであるということです。それは同時にイエスさまが十字架に架けられて死ぬ日が近づいているということを意味するわけです。
ところが、そのようなイエスさま御自身の側の張り詰めた緊張感の傍らで、イエスさまの弟子たちを含む多くの人々は、「神の国はすぐにも現れるものと思っていた」、つまり、イエスさまのエルサレム入城によって、新しい時代の幕が開ける。まさに今こそ、神の国が始まるのである、という何とも能天気で楽観的な雰囲気が漂っていたからである。それがこのたとえを話された理由である、ということです。
つまり、このたとえ話は、そのような楽観的な雰囲気を戒め、「少しは緊張しなさい」と周囲の人々に警告を発し、警戒を促すために語られたものであると読むことが可能である、ということです。最初に触れました、このたとえ話の中では恐怖の要素が強調されているという点も、この辺の事情を反映しているからであると思われます。
このたとえ話の内容は単純です。旅行に出かけた主人が十人の僕たちに一ムナずつ自分の財産を渡して管理させました。ある僕は「一ムナで十ムナをもうけた」ところ、帰ってきた主人からほめられ、十の町の支配権を与えられました。他の僕は、「一ムナで五ムナを稼いだ」ところ、主人からほめられ、五つの町の支配権を与えられました。しかし、別の僕は、その一ムナを布に包んでしまっておき、増やすことも減らすこともしないで、そのまま主人に返したところ、主人から叱られ、持っているものまで取り上げられました。
しかし、繰り返しますが、この「主人」は、神さまでも、イエスさまでもありません。また、この十人の僕たちに預けられた一ムナは、マタイ25章のタラントンのたとえの場合のように「神の恵みの賜物」を連想してよいのか。神さまから与えられた賜物は、大切にしまいこんで事実上結局無駄にすることよりも、積極的に活用しましょう、というような一般的な教訓を読み取ってよいものなのか、といいますと、そういうふうに読むことはできない、ということです。
そういうことではない。むしろ、今日の個所の「一ムナ」は、わたしたちが日常生活の中でさんざん苦しめられている会社の仕事や、われわれの社会的な義務や責任というようなものを思い起こさせる何かである、ということです。重苦しさが付きまとう何かです。
主人から預かった一ムナを布にくるんでしまっておいた僕が叱られ、また「わたしが・・・厳しい人間だと知っていたのか。ではなぜ、わたしの金を銀行に預けなかったのか。そうしておけば・・・利息付きでそれを受け取れたのに」と言われていることも、これを神と人間との関係、あるいは神の御子イエス・キリストとわたしたちの関係などを指し示しているものである、と読むべきではない、ということです。
神さまは、御自分がわたしたち人間にお授けになった賜物から得た結果を返せとお命じになり、結果を出せなかった人々からは銀行からの利息で補いなさい、というようなことを強く望むほどに人間から厳しく取り立てる、そのようなお方ではない、ということです。
また、27節に記されている、「わたしが王になるのを望まなかったあの敵どもを・・・打ち殺せ」というこの点も、神と人間の関係、あるいは、イエス・キリストとわたしたちの関係を表わしているものではない、ということです。このあたりは、どうかご安心いただきたいと願う点です。
しかし、わたしは、ここで話を終わるわけには行きません。この次に必ず起こってくる問題が残っているからです。それは、それではなぜイエスさまは、エルサレムが近づいてきたこのときに、このような、国民に圧政を強いる悪い王のことや、毎日の厳しい仕事のことを連想させるような、なんともいえない重苦しさをまとった、まるで恐怖心を煽っておられるかのようなたとえをお話しになったのか、という問題です。
別の言い方をしますと、このたとえ話の中で最も注目すべき言葉はどの点かという問題です。それをわたしは17節の主人の言葉の中に見ます。「良い僕だ。よくやった。お前はごく小さな事に忠実だったから、十の町の支配権を授けよう」。この「ごく小さな事に忠実だった」という点です。
間違いなく言えることは、これは、かつて共に学びました「ごく小さな事に忠実な者は、大きな事にも忠実である」(ルカ16・10)を思い起こさせる言葉である、ということです。
ルカ16・10の文脈は、わたしたちの多くが理解に苦しむ「不正な管理人」のたとえ話です。しかし、次第に分かってくることは、今日の個所とルカ16章の「不正な管理人」のたとえ話の間には内容的なつながりがある、ということです。
「不正な管理人」のたとえが教えていることは、あくまでも「この世の子ら」の“賢いふるまい”であること、「光の子ら」が真似をすべきところは不正そのものではなく、賢く生きることに関する部分だけであるとわたしは申し上げました。これと同じような読み方が、今日の個所にも当てはまると思います。
今日の個所の「主人」は、神さまでもイエスさまでもないからです。また、登場する僕たちと主人との関係は、神さまと人間、イエスさまとわたしたちの関係を、直接的に示すものではないからです。
しかし、です。ここで明らかなことは、一ムナを十ムナに増やした良い僕についてこの主人が語った「お前はごく小さな事に忠実だった」という点についてだけは、わたしたちが自分自身と神様との関係にかかわる事柄として真剣に学ぶべきところである、ということです。なぜなら、「ごく小さな事に忠実な者は、大きな事にも忠実」だからです。小さな仕事や事柄を軽んじる人に、大きな仕事や事柄を任せることはできないからです。
今、わたしたちが考えている問題は、それではなぜ、イエスさまは、このたとえ話を、エルサレムに近づかれたときにお話しになったのか、ということです。それを、わたしは、以下のように理解したいと思っています。
それは、この場面でイエスさまが「ごく小さな事」として考えておられるのは、イエスさま御自身が、まさにエルサレムで、ゴルゴタの丘の上で、十字架にかかって死んでくださること、そのことではないか、ということです。
イエスさまの十字架を「ごく小さな事」などと言うのは、全くとんでもないことであり、許されないことであるというふうに思われるかもしれません。わたし自身もそう思います。
しかし、そのように、イエスさま御自身が言われた、というふうに理解することは可能かもしれないのです。わたしたちのこととして考えてみても、自分がしていること、これからすることを「大きな事である」というでしょうか。なんとなく傲慢や不遜のにおいがしてきます。
もし今、自分のしていることは、他の人がしていることや、この世界の中に起こっていることよりも「大きい」と感じているときは危険です。頭を冷やしてみる必要があります。冷静なときのわたしたちは、「わたしのしていることは、取るに足りません」と言うのではないでしょうか。
イエスさまの場合は、なおさらです。イエスさまという方を、御自身のみわざを「ごく小さな事」と表現されるほどに謙遜なお方である、と考えることは、間違っているでしょうか。
しかし、その場合、「大きな事」とは何でしょうか。それが「神の国」です。そのように読むことが可能です。なぜなら、このたとえは、「神の国はすぐにも現れる」と思っている人々に対する戒めとして語られたものだからです。
神の国の実現という「大きな事」のために、イエスさまの十字架という「小さな事」に忠実でなければならない。そのようにイエスさま御自身が自覚されていた、ということは、ありうることです。
わたしたち自身がイエスさまの死を「小さな事」であると考えることは、通常ありません。しかし、イエスさまを信じない人々は、どうでしょうか。
あるいは、神がお造りになった全世界と全人類の大きさと比べて、ひとりのイエスさまの死の大きさは、どうでしょうか。冷静に考えてみて、どちらが大きいでしょうか。イエスさまの死でしょうか。それとも、全世界と全人類のほうでしょうか。
イエスさま御自身が、後者であるとお考えになったのです。この世界が神の世界となり、地上に神の国が打ち立てられる。そのことのほうが、御自身の命よりも、はるかに大きいと、イエスさま御自身が、お考えになったのです。
しかし、神の国の実現のためには、どうしても通らなければならない道がある。それが、イエスさま御自身の死です。エルサレムにおける十字架上の死です。
ですから、「小事に忠実な者は大事にも忠実である」とは、十字架の死において父なる神に従順であられたイエスさまだけが、神の国の王として、全人類と全世界を支配なさる方となる、という意味で理解することができるのです。
まさにこの意味で、イエスさまは、エルサレムを前にして、能天気に浮かれている場合ではないと、周りの人々を戒められたのだと思います。
もうちょっと緊張しなさい。わたしは、これから死ぬのだからと。
(2006年5月28日、松戸小金原教会主日礼拝)