2005年8月21日日曜日

マルタとマリア

ルカによる福音書10・38~42


「一行が歩いて行くうち、イエスはある村にお入りになった。すると、マルタという女が、イエスを迎え入れた。彼女にはマリアという姉妹がいた。」


イエスさまが「ある村」にお入りになりました。その村にはマルタとマリアという姉妹がいました。


村の名前は記されていません。しかし、おそらくベタニア村ではないかと思われます。ヨハネによる福音書11・1に「マリアとその姉妹マルタの村、ベタニア」(ヨハネ11・1)と書かれています。この姉妹には、ラザロという名の弟もいました。


ベタニア村はエルサレムのすぐ近くです。イエスさまが伝道の最初の拠点をそこに置かれたガリラヤ地方からは、歩けば、遠いところです。その意味で、イエスさまたちは旅の途中であった、と語ることができると思います。


また、イエスさまはマルタとマリアのことをよく知っておられたようです。少なくとも初対面ではなかったようです。このことについてもヨハネによる福音書が参考になります。「イエスは、マルタとその姉妹とラザロを愛しておられた」(ヨハネ11・5)と記されています。


とはいえ、マルタとマリアにとって、イエスさまが自分たちの家に来てくださったことが一大事件であったことは、間違いありません。


わたしたちだって、そうでしょう。自分の家に大切なお客さまが来られるというのは、いずれにせよ一大事件です。部屋を片付けて、とか、お土産も買いに行かなきゃ、とか、お茶やお菓子や食事を準備して、など。けっこうたいへんです。


ところが、です。


自分の家に、大切なお客さまとして、イエスさまが来てくださった、というこの一大事が起こったときに、なんということでしょうか、この二人の姉妹の対応が、ほとんど百八十度といってよいほどに、全く違っていた、というのが、今日の個所のポイントです。


最初に紹介されるのは、妹マリアの側の対応です。


「マリアは主の足もとに座って、その話に聞き入っていた。」


ある牧師が説教で、「妹マリアには座り癖がありました」と説明されたことが、いまだに忘れられません。いくらなんでも、それはないよなーと、マリアに同情しました。


マリアは、イエスさまのお語りになる御言葉に、耳を傾けていた。ただそれだけです。おそらく、マリアは、そのようにすることこそが、イエスさまに対して歓迎の意を表わす、最もふさわしい態度である、と考えたのです。


あるいは、もう一つ、思い当たることがあります。マリアは、とにかく、御言葉に飢え乾いていたのではないでしょうか。これは、もちろん、想像にすぎません。


おそらく彼女たちは、毎週の安息日には、近くの会堂に出かけて、祭司や律法学者たちから、聖書の御言葉を学んでいたに違いありません。


しかし、どこか腑に落ちないところがある、と感じていた。


そんなときに、です。イエスさまが自分の家に来てくださったのです。真実の御言葉、納得の行く御言葉を携えて。


そのような絶好の機会は、もう二度と訪れないかもしれないわけです。


そこで、マリアは、イエスさま御自身がお語りになる御言葉を、少しも漏らさず聞いておきたい、と願ったのではないでしょうか。


ところが、です。マリアが示したこの態度に、大いに不満を抱いた人がいました。姉のマルタです。


「マルタは、いろいろのもてなしのためせわしく立ち働いていたが、そばに近寄って言った。『主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください。』」


マルタがしていた「いろいろのもてなし」は、食事の準備であったと考えることができます。「もてなし」という言葉には食事の準備という意味がある、と解説されていました。


ともかく、マルタは、非常にバタバタしていました。そして、だんだん腹が立ってきました。


何に腹を立てたのかと言いますと、いちばん腹が立ったことが、妹マリアが自分のことを手伝ってくれない、ということに、でした。


そして、次に腹を立てたのは、間違いなく、イエスさまに対して、です。


マルタは、不満のはけ口を、イエスさまに向けています。


「主よ、何ともお思いになりませんか」と語っているときの彼女の本心は、「イエスさまは、このわたしの忙しくしている姿をご覧になっても、何ともお思いになっておられないようですね」ということでしょう。


「手伝ってくれるようにおっしゃってください」とは、間違いなく、「イエスさまは何もおっしゃってくださらない」という不満の裏返しです。


マルタは、明らかに、イエスさまに腹を立てているのです。


これは、よく分かる話です。マルタの言い分は、十分に理解できます。実際、こういうことで不満を感じる人が、家庭にも、教会にも、どの時代にも、いるのだと思います。


そして、この種の不満は、ある意味で、十分に語られ、また十分に聞かれなければならないものであると、わたしは思います。


今の時代に「炊事は女性の仕事です」などと言いますと、本当に、激しく叱られます。叱られて当然です。そのような役割分担の考え方は、全く時代遅れになっています。


とは言いましても、現実的には、それを男がするか女がするかはともかく、また炊事だけに限ったことではありませんが、そのような役割分担が厳然と存在するということ自体は、否定できないことでしょう。


炊事にせよ、何にせよ、「だれかがしなければならないこと」というのがあるのです。それをだれかがしなければ、現実に物事は回っていかないのです。


その意味で、マルタは、妹マリアが自分の仕事を全く手伝ってくれない分、仕方なく、損な役回りを引き受けざるをえなかったのです。


そういうふうに、わたしたちは、マルタの立場を、よく理解する必要があるでしょう。


たとえば、です。「マルタは、イエスさまの御言葉には全く興味がなかったのです」などというような読み方をしてしまうことは、マルタに対して失礼ですし、またそれは非常に大きな誤解なのだと思います。


そんなことはないのです。マルタだって、マリアのように、イエスさまの御言葉を聞きたかったに違いありません。


でも、イエスさまのおもてなしも、しなくてならない。マリアのほうは、さっさと台所から出て行って、イエスさまの前に座り込んでしまった。だから、仕方なく、自分がしなくてならなくなった。


それなのに、イエスさままで、わたしのことを無視しておられる。さびしい。悔しい。


そういう気持ちをマルタが持っていたに違いない、と理解することが大切です。


「主はお答えになった。『マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。』」


このお答えの中で、まず注目していただきたいのは、「マルタ、マルタ」と二回続けて、マルタの名前を呼んでおられるところです。


これは、イエスさまのマルタに対する愛情表現である、と言われています。マルタの心をなだめ、落ち着かせるために、二度、名前を呼ばれたのです。


ここではっきり申し上げることができるのは、このときイエスさまは、マルタを叱っておられるわけでも、責めておられるわけでも、裁いておられるわけでもない、ということです。


しかしまた、マルタの今の心の中にあるものを、イエスさまは、見抜いておられます。あなたは多くのことに思い悩み、心を乱していると。イライラしないで、落ち着きなさいと、イエスさまは、言っておられるのです。


「『しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。』」


これは、もしかしたら、マルタにとっては大きなショックを感じる言葉だったかもしれません。


「必要なことはただ一つ」とある「ただ一つ」とは、この前に出てくる、マルタが思い悩んでいた「多くのこと」との対比で理解しうる言葉です。必要なことは、たくさんではなく一つである、という意味が、たしかに含まれている、ということです。


ということは、マルタがバタバタ忙しくしてきたことは全く不必要なことだったのだ、と言われた、というふうに、マルタが感じたかもしれません。


イエスさまから不必要だと言われてしまうようなことのために、バタバタし、イライラし、大切なお客さまであるイエスさまにまで文句を言わなくてはならないほどに追い詰められたわたしは、今まで一体、何をしてきたのだろうかと、ショックを受けてしまったかもしれません。


しかし、ここは、どうか冷静に・・・と、マルタにお願いしたくなる場面です。


「必要なことはただ一つだけである」と言われているイエスさまの御言葉の真意を理解する必要があるでしょう。


最初にはっきり申し上げたいことは、先ほども申し上げましたとおり、イエスさまは、マルタのことを叱ったり、責めたり、裁いておられるわけではない、ということです。


第二は、イエスさまが「必要なことはただ一つだけ」と語っておられる意図は、必要な「一つ」のほうを選んだマリアをほめた上で、その返す刀で、不必要な「多くのこと」に悩まされていたマルタを切り捨てておられる、というような単純な話ではない、ということです。


第三に申し上げたいことは、イエスさまが語っておられる「必要なことはただ一つだけである」という御言葉は、マルタ自身もよく分かっていたはずのことを、イエスさまが、マルタ自身に確認しておられることである、ということです。


それは、イエスさまがマルタとマリアの家をお訪ねになった目的は何なのか、ということです。


このときのイエスさまのお気持ちは、わたしがこのようにあなたがたの家に来た目的は、ご飯を食べさせてもらうためではありませんよ、あなたがたに御言葉を伝えるためですよ、ということではなかったでしょうか。


マルタよ、そのことは、あなたもよく分かっているはずですよ、ということではなかったでしょうか。


ですから、「必要なこと」とは、イエスさまが、彼女たちに願っておられたことです。


わたしの言葉を聞きなさい、ということです。


マリアは、今、それをしているのだから、それを取り上げてはなりません、ということです。


話は、ここで終わっています。ですから、この先の話は、ただの想像です。


その家にイエスさまがおられる間は、マルタも、お話を聞くことができます。


イエスさまは、マルタに「早く、今していることを済ませて、わたしの話を聞きに来なさい」とおっしゃりたかったのではないでしょうか。


(2005年8月21日、松戸小金原教会主日礼拝)