2005年8月7日日曜日

善いサマリア人

ルカによる福音書10・25~37


今日の個所に記されているのは、イエス・キリスト御自身が語られた、有名なたとえ話の一つです。


イエスさまは、このたとえ話を通して、わたしたちに、何を教えようとしておられるのでしょうか。そのことを考えながら読んで行きたいと思います。


ルカは、まず、イエスさまがこのたとえ話を語られた状況はどのようなものであったかを明らかにすることから始めています。


「すると、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスを試そうとして言った。『先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。』」


「ある律法の専門家」とは、いわゆる律法学者のことです。聖書のみことばを研究する、ユダヤ教の神学者のことです。


その人がイエスさまに、試験問題を出しました。「試す」とは、試験することです。その問題は、永遠の命を受け継ぐ方法は何か、というものでした。


ところが、です。イエスさまは彼の質問にお答えにならず、逆にイエスさまのほうから質問し返されました。質問するのは、あなたではなく、わたしであると、言われたいかのようです。


「イエスが、『律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか』と言われると、彼は『「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい」とあります。』イエスは言われた。『正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる。』しかし、彼は自分を正当化しようとして、『では、わたしの隣人とはだれですか』と言った。」


なぜ、彼は「自分を正当化」しなければならなかったのでしょうか。この点をどう理解するかが、今日のポイントです。


それは、次のように説明できると思われます。


この律法学者がイエスさまの問いかけに応じて引き合いに出した二つの戒めは、聖書にはそう書いてある、と言っているだけです。


しかし、この二つの戒め自体は、彼自身にとっては、永遠の命を受け継ぐ方法ではなかったのです。


そうではなくて、むしろ、彼自身の答えは、この二つの戒めのうちの一つ、すなわち、「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」という戒めのほうだけを選ぶことだったのです。


「神を愛しなさい」という戒めは、言うならば、宗教的熱心が問われることです。これに対して、「隣人を愛しなさい」という戒めは、一種の博愛主義が問われることです。


律法学者は、この二つの戒めは必ずしも両立するものではない、と考えていたのです。答えは、どちらか一つなのだと。


そして、彼自身は、律法の専門家、宗教の専門家、ユダヤ教の神学者として、「神を愛しなさい」という戒めこそが、永遠の命を受け継ぐ方法である、という答えを持っていたのです。これは、ある意味で、当然のことと言えるでしょう。


ところが、です。イエスさまの答えは、この律法学者自身が期待したものとは、大きく異なっていたのです。だからこそ、彼は「自分を正当化」しなくてはならなくなりました。


イエスさまの答えは、「あなたの隣人を愛しなさい」という戒めのほうも、守らなくてはならない、ということであった。それで、律法学者は困ってしまったのです。


「神を愛すること」と「隣人を愛すること」、すなわち、宗教的熱心と博愛主義とは必ずしも両立するものではないと、この律法学者が考えていたに違いない、という点につきましては、さらに説明が必要でしょう。


しかし、その説明は、このたとえ話をご説明させていただく中で、することができると思いますので、今は触れないでおきます。


「イエスはお答えになった。『ある人がエルサレムからエリコへ下って行く途中、追いはぎに襲われた。追いはぎはその人の服をはぎ取り、殴りつけ、半殺しにしたまま立ち去った。ある祭司がたまたまその道を下って来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。同じように、レビ人もその場所にやって来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。』」


このたとえ話の中に出てくる「ある人」が置かれていた状況は、「エルサレムからエリコへ下って行く途中」でした。


この人がエルサレムで何をしていたのかということについては、何も語られていません。ただ一つ、思い当たることは、やはり、エルサレムには神殿があり、そこで行われていた礼拝に出席していた人ではないか、ということです。


そして、その後、当然、自分の家に帰ろうとしていた。ところが、その帰り道で、追いはぎに遭ってしまった、ということではないか、ということです。


彼は、半殺しの目にあい、自分の力では動くことができない状態で、道端に放置されてしまいました。


ところが、です。そこで登場するのが「ある祭司」です。宗教の専門家です。その祭司が、彼を見つけましたが、道の向こう側を通って行ってしまったのです。


この祭司についても、「その道を下って来た」とあります。つまり、それは、エルサレムからエリコに向かう下り道です。これで分かることは、この祭司も、たしかにエルサレムにいた、ということです。


この祭司も、エルサレム神殿で行われていた礼拝に参加していたのではないでしょうか。ただし、祭司の場合は、礼拝を司る側として、聖職者として、宗教の専門家として、です。


そのような人が、なぜ、目の前にいる、半殺しにされて、道端に放置されている人を、見殺しにしたのでしょうか。「道の向こう側」を通って行ったのでしょうか。


彼の気持ちを見抜くためのヒントは、やはり、この祭司が「エルサレムからの下り道」を歩いていた、という点にあると思われます。


祭司の仕事は、神殿での奉仕です。宗教の仕事です。彼は、自分のなすべき仕事は十分果たした、と感じていた。心も、体も、ぐったりと疲れていたのではないでしょうか。


そういうときに、です。この祭司は、自分にはもはや、通りがかりに出会った、たしかに困っているようだが、全く見知らぬ赤の他人を、助け起こすことができるだけの、気力も体力も残っていない、と感じたのではないでしょうか。


だから、道の向こう側を通って行った。つまり、ここでイエスさまが問題にされていることは、宗教の専門家である祭司が行うべき仕事の“質”というよりも、むしろ“量”であると思われます。


たとえ祭司であっても、です。一人の生身の人間であり、彼のこなしうる仕事の量には、限界がある。だからこそ、彼は、自分の限界を越えたわざを避けて通ろうとした。それで、半殺しの目にあっている人を、見殺しにしてしまったのではないでしょうか。


祭司の次に通りかかった「レビ人」も、道の向こう側を通って行ってしまいました。


レビ人の仕事は、神殿において祭司の仕事を助けることです。ですから、彼らについても、祭司と同じことを考えることができると思われます。


レビ人たちも、自分の仕事に疲れていたのではないでしょうか。だから、通りがかりに出会った、困っている人を助けるだけの、気力も体力も残っていなかった。


これは、わたしたちにとって、とてもよく分かる話であると思います。


ここでこそ、先ほど触れました問題を思い起こしていただくのがふさわしいと思います。


それは、イエスさまに試験問題を出した律法の専門家が、「神を愛しなさい」という戒めと「隣人を愛しなさい」という戒めの二つを引き合いに出した。しかし、最も大事な戒めはどちらか一つであって、両方ではない、と考えていたのではないか、という問題です。


彼が「自分を正当化」しようとしたことの理由を、イエスさまは、はっきりと見抜いておられたに違いありません。


今、あなたが考えていることは、まさに、今、わたしが語っているたとえ話に出てくるこの祭司やレビ人と同じではないか、ということです。


宗教の専門家たちは、「神を愛すること」、すなわち、宗教の事柄が大切であると考える。そのことは、もちろん、そのとおりである。


しかし、だからと言って、そのあなたがたが「隣人を愛すること」を軽んじてよいかというと、そんなことはありえない。


気力や体力の限界など、言い訳にならない。


そのことを、イエスさまは、教えておられるのです。


「『ところが、旅をしていたあるサマリア人は、そばに来ると、その人を見て憐れに思い、近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。そして、翌日になると、デナリオン銀貨二枚を取り出し、宿屋の主人に渡して言った。「この人を介抱してください。費用がもっとかかったら、帰りがけに払います。」さて、あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。』律法の専門家は言った。『その人を助けた人です。』そこで、イエスは言われた。『行って、あなたも同じようにしなさい。』」


「サマリア人」とは、当時のユダヤ人たちが忌み嫌っていた民族の名前です。ですから、イエスさまの意図は、「たとえサマリア人であっても」ということです。


あなたがたが最も嫌っているサマリア人であっても、もしこういうふうに、通りがかりに出会った、困っている人を助けることができる人がいるならば、です。


道の向こう側を通って行こうとするあなたがたよりも、はるかに優れているではないか。そのように、イエスさまは、おっしゃりたいのです。


実際、たとえば、このたとえ話は、わたし自身にとっても、たいへん耳が痛い、いえ、耳だけではなく、頭も、お腹も、痛くなるような話です。


毎週日曜日の夜、わたしは、いくらか不機嫌な顔をしています。そのことを、わたしの家族は、よく知っております。はた迷惑で申し訳ないと思いながらも、家族の前で不機嫌な顔をしているわたしがいます。


気力と体力の限界を痛感させられます。


日曜日は、牧師が最も不機嫌でありうる日でもあるのです。


しかし、だからといって、その牧師が、たとえ日曜日の夜であっても、です。


家族や友人たち、また助けを求めてくる人々のことを拒んでもよい、と言いうる理由は、ありません。


もちろん、これは、牧師だけの話ではないでしょう。


皆さんの中にも教会と仕事、また教会と家庭の両立、というような問題に悩んでいる方々がおられるはずです。実際、教会が皆さんの家庭にたいへんなご負担をおかけしているのではないかと、心苦しく思うことが、しばしばあります。


しかし、です。わたしたちは、「神を愛すること」と「隣人を愛すること」とを両立させなければなりません。そのように、イエスさまが命じておられるからです。


そうなると、わたしたちには、他の人々よりも、二倍の気力、二倍の体力、二倍の時間が必要である、という話になるかもしれません。


眠るひまもない。休むひまもない。真面目に考えると、死んでしまいそうだ、とお感じになる方もおられるでしょう。


しかし、ここでぜひ、みなさまに御理解いただきたいことがあります。それは、イエスさまのこのたとえ話は、明らかに、ここに出てくる律法学者への反論として語られているものである、ということです。


文脈から切り離して、このたとえ話を読んではならない、ということです。


律法学者が自分を正当化するために「神を愛すること」は「隣人を愛すること」よりも重要である、と語ったのと同じように、偏った考え方をする人々を戒めるために、このたとえ話は、語られているのです。


「神は大好きだが、人間は嫌いである」とか「教会の奉仕には誠実で熱心だが、家庭や社会では、ぶっきらぼうである」というようなことでは、やはり、困るのです。


神学者は神学だけやっておればよい、ということはありません。牧師は聖書の勉強だけをし、説教だけをしておればよい、というわけには行かないのです。


わたしたちは、神と人間の両方を、同時に、等しい重さをもって、重んじなければならないのです。


そして、両方を重んじることは、わたしたちにとって可能なことです。イエスさまは、次のように言われていました。


「わたしの名のためにこの子供を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れるものは、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである」(ルカ9・48)。


「この子供」も、隣人の一人です。「この子供を受け入れる」とは隣人を愛することです。イエス・キリストの名のために隣人を愛することは、イエス・キリストを愛することであり、イエス・キリストの父なる神を愛することです。


この点から言えば、「隣人を愛すること」こそが「神を愛すること」である、ということになります。


今、目の前にいる、今、助けを求めている人を、今、助けること。


そのことを、神は喜んでくださる。よきサマリア人がしていることは、それである。


わたしたちも、このサマリア人のように、隣人を愛さなければならない。


そのことを、イエスさまは、教えておられるのです。


(2005年8月7日、松戸小金原教会主日礼拝)