ルカによる福音書8・40〜56
関口 康
今日の個所に描き出されておりますイエスさまのお姿は、一言で言うならば、たいへん忙しそうです。
「イエスが帰って来られると、群集は喜んで迎えた。イエスを待っていたからである。」
イエスさまは、休むひまがありません。旅先から帰ってこられた途端、たくさんの人々に囲まれてしまいました。そして、ただちに、次の仕事が飛び込んできました。
「そこへ、ヤイロという人が来た。この人は会堂長であった。彼はイエスの足もとにひれ伏して、自分の家に来てくださるようにと願った。十二歳ぐらいの一人娘がいたが、死にかけていたのである。」
非常に重い仕事です。会堂長ヤイロの娘は、そのとき十二歳だったというのです。
ルカが記している、会堂長がイエスさまに願った内容は「自分の家に来てくださるように」ということだけです。
しかし、マルコは、こう書いています。「わたしの幼い娘が死にそうです。どうか、おいでになって手を置いてやってください。そうすれば、娘は助かり、生きるでしょう。」
もちろん、そういうことだと思います。十二歳で終わってよい人生などあるはずがないと、親ならば、そう考えるに決まっています。
どんな結果になろうとも、です。最後までもがき、助けを求めるでしょう。
イエスさまに来ていただきたい。娘の上に手を置いていただきたい。そうすれば、娘は助かり、生きる。そのことを、ヤイロは信じたのです。
その願いを聞いたイエスさまは、どうされたか。うれしいことに、ただちに腰を上げてくださいました。「旅行で疲れているので明日にしてください」とは言われませんでした。
もちろん、そうでしょう。人の死には「待ったなし」という面があります。
ところが、です。大急ぎでヤイロの家に向かおうとされている、そのイエスさまの行く手を阻むかのような事件が起こりました。
「イエスがそこに行かれる途中、群集が周りに押し寄せてきた。ときに、十二年このかた出血が止まらず、医者に全財産を使い果たしたが、だれからも治してもらえない女がいた。この女が近寄って来て、後ろからイエスの服の房に触れると、直ちに出血が止まった。イエスは、『わたしに触れたのはだれか』と言われた。人々は皆、自分ではないと答えたので、ペトロが、『先生、群集があなたを取り巻いて、押し合っているのです』と言った。しかし、イエスは、『だれかがわたしに触れた。わたしから力が出て行ったのを感じたのだ』と言われた。」
一つの仕事の途中に、全く違う別の仕事が入ってきた、という感じです。
「仕事」と呼んでしまうと、少し冷たく響いてしまうかもしれません。仕事だから仕方ない、という意味が生じてしまうかもしれません。
わたしは、決して、そういうことを申し上げたいわけではありません。しかし、一つの点だけ、ちょっと気になること、気にしておくべきことがあるのではないか、と感じています。
それは、ごく分かりやすく言うなら、イエスさまも人間であられる、ということです。
わたしたちの信仰告白によりますと、イエスさまは、まことの神ご自身でもあられますが、まことの人間、わたしたちと同じこの肉体を持つ人間として、この地上の世界に来てくださった方です。
イエスさまもまた、わたしたちと同じ人間性というものを持っておられます。
わたしたちと同じ、この肉体を持っておられます。
わたしたちと同じ、この空間と時間の枠組みの中で生きる、という地上的な制約の中に立っておられます。
そういうお方なのですから、ある意味でわたしたちと全く同じ、と考えてよい点もあるわけです。
今、この聖書の個所を読みながら、イエスさまとわたしたちとが全く同じだ、と考えてよい点があるとしたら、それは、ここです。全く違う二つの仕事を、全く同時に行うことはできない、ということです。
一人の女性が、イエスさまの服に触りました。
この人も、大きな苦しみを抱えて生きてきた人です。
なんとかしてこの苦しみから逃れたいと願ってきた人です。
イエスさまなら何とかしてくださる、と信じて、その手をイエスさまの服へと、伸ばしたのです。
もしかしたら、です。あまりよくない仮定の話かもしれません。しかし、もしかしたら、イエスさまは、どさくさに紛れてご自分の服に触った人のことを、無視することもおできになったかもしれません。
わたしは忙しい。しかも、今、わたしが向かっている行き先には、死を目前にしている小さな子どもがいる。通りがかりの人の求めにかまっている時間はない。
こういうふうに、これこそまさしく冷たい態度をとって、足ばやに先に進んでいくことも、おできになったかもしれません。
しかし、です。これは、やはり、あまりよくない仮定の話です。
イエスさまには、それがおできになりませんでした。立ち止まられ、振り返られました。そして、ご自分の服に触った人の姿を、一生懸命に探しはじめられたのです。
「女は隠しきれないと知って、震えながら進み出てひれ伏し、触れた理由とたちまちいやされた次第とを皆の前で話した。イエスは言われた。『娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。』」
「女は隠しきれないと知って、震えながら進み出てひれ伏し」と書かれています。なぜ隠そうとしたのでしょうか。なぜ震えているのでしょうか。なぜひれ伏すのでしょうか。
彼女は、何か悪いことをしたでしょうか。助けを求めただけです。イエスさまに助けていただきたかっただけです。
イエスさまがあまりにお忙しそうにしておられるので、自分のような者などにかかずらわっていただくのは申し訳ない、とでも考えたのでしょうか。
もしそういう理由であるとしたら、イエスさまは「それは違うよ」とおっしゃるのではないでしょうか。
イエスさまが、いつ、助けを求めてきた人を助けなかったでしょうか。「求めよ、さらば与えられん」は、イエスさまご自身の御言葉です。有言実行、ではないのでしょうか。
「今は忙しいので、今度にしてね」と、イエスさまは、言われません。イエスさまは、今、助けを求めている人を、今、助けてくださる、そういうお方なのです。
「イエスがまだ話しておられるときに、会堂長の家から人が来て言った。『お嬢さんは亡くなりました。この上、先生を煩わすことはありません。』」
もしかしたら、いえ、おそらく間違いなく、会堂長ヤイロは、イエスさまの到着が遅いことに、不満を感じたことでしょう。
十二歳の自分の娘が、今、亡くなった。もう危ない、ということは、イエスさまには、お知らせしたはずだ。
そしてイエスさまは、旅先から帰ってこられたばかりであったにもかかわらず、ただちに腰を上げてくださり、まっすぐにわが家に駆けつけてくださろうとした。
しかし、それにもかかわらず、あろうことか、イエスさまは寄り道された。途中で一件、別の仕事をお済ませになった。
そのせいで、とは言えないかもしれないけれども、イエスさまの到着が遅れ、娘の死の瞬間に間に合わなかった。
こういうときの遺族が、なんともいえない複雑な気持ちになる、ということは、わたしたちにも想像できるところではないかと思います。
もちろん、そうです。たしかに、イエスさまは、ある意味で寄り道されました。ヤイロの家に、わき目もふらず、まっすぐに行かれたわけではありませんでした。
しかし、どうでしょうか。わたしたちは、ここで何を、どう考えるべきでしょうか。
「十二年間も出血の止まらない」、「多くの医者にかかって、ひどく苦しめられ、全財産を使い果たしても何の役にも立たず、ますます悪くなるだけであった」この一人の女性が、いわば最後の望み、最後の賭けとしてイエスさまに、いえ、イエスさまの服に伸ばした手を振り払ってでも、イエスさまは、ヤイロの家に、まっすぐに行くべきだったでしょうか。
ここでぜひ考えてみたいこと、考えてみていただきたいことは、人の不幸というものは、単純に比較することはできないものである、ということです。
「わたしの苦しみは、あなたの苦しみよりも大きい」と、苦しむ人ならば、だれでも、そう思います。しかし、じつは、みんな、そう思っているのです。
そして、残念ながら、というべきでしょうか、イエスさまは、まことの神ご自身であられると同時に、まことの人間でもあられます。この地上の時間と空間の枠組みの中で活動された、歴史上の一人物でもあられるのです。
その意味で、です。イエスさまは、一度に同時に、別の場所にいる別の人をいやす、ということは、なさいませんでした。冷たいと思われようとも、どう思われようとも、一人一人に対して、一つ一つのわざを、順を追ってなさるほかはありませんでした。
しかし、です。イエスさまは、ヤイロに言われました。
「イエスは、これを聞いて会堂長に言われた。『恐れることはない。ただ信じなさい。そうすれば、娘は救われる。』」
こう語られたあとイエスさまは、そのお言葉どおり、現実に、ヤイロの娘を死の向こう側から呼び返してくださいました。
イエスさまは、一度に同時に、別の場所にいる別の人をいやすことは、なさらなかったかもしれません。
しかし、一人の人をいやされたのち、イエスさまは、すでに亡くなった人を、もう一度呼び返される、という大いなるみわざをもって、ヤイロの家族を慰めてくださったのです。
先ほど、冒頭で、人の死には「待ったなし」という面がある、と申しました。
しかし、イエスさまは、違います。
ヤイロの娘の死に「待った」をかけてくださった!
すでに亡くなっているヤイロの娘を、もう一度、呼び戻してくださった!
このような離れわざをもって、イエスさまは、ヤイロとヤイロの家族とを心から愛してくださったのです。
「恐れることはない。ただ信じなさい。」
イエスさまは、今も、わたしたちに、こう語りかけてくださっています。
(2005年6月12日、松戸小金原教会主日礼拝)