ルカによる福音書9・18~27
今日、これからわたしたちが学びます最初の段落に記されておりますのは、わたしたちの救い主イエス・キリストとその弟子たちとの間で実際に交わされた、一つの会話です。
「イエスがひとりで祈っておられたとき、弟子たちは共にいた。」
これは少し不思議に思われる言葉です。イエスさまは「ひとりで」祈っておられました。しかし、その場には、「弟子たちが共にいた」とも記されています。
少し不思議に思われることがあります。それは、そのとき祈っておられたのはイエスさまだけであった、という意味だろうか、という点です。
ただひとり、イエスさまだけが祈っておられたのであって、弟子たちは祈っていなかった、という意味でしょうか。
もしわたしたちがここに書いてあることを文字どおり受けとるならば、そういうことになるでしょう。つまり、弟子たちは、祈っておられるイエスさまと共にいながら、しかし、彼ら自身は祈っていなかった、というふうに読めます。
弟子たちは、イエスさまがひとりで何事か熱心に祈っておられる姿を、少し距離を置いたところから見守っていた、という様子を、想像することができるかもしれません。それ以上のことは、言えません。
「そこでイエスは、『群集は、わたしのことを何者だと言っているか』とお尋ねになった。弟子たちは答えた。『「洗礼者ヨハネだ」と言っています。ほかに、「エリヤだ」と言う人も、「だれか昔の預言者が生き返ったのだ」と言う人もいます。』イエスが言われた。『それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。』ペトロが答えた。『神からのメシアです。』」
イエス・キリストとは何者か。どういうお方であるのか。この重要な問いを、ここではイエスさま御自身が、弟子たちに問うておられます。
当時からすでに、いろんな答えがあったことが分かります。「洗礼者ヨハネだ」と言う人がおり、また「エリヤだ」と言う人がおり、「だれか昔の預言者が生き返ったのだ」と言う人がいました。
「洗礼者ヨハネ」とは、イエスさまに洗礼を授けた、あのヨハネです。「エリヤ」とは、旧約聖書・列王記上17章以降に登場する、偉大なる預言者です。「だれか昔の預言者」が、だれのことかは分かりません。
もちろん、ヨハネも、エリヤも、このときには、いません。すでに亡くなっている人、神のみもとに召されている人が、生き返ったのだ、それがイエスという人だと、町の人々が、うわさしていたのです。
このことについては、先週学びました個所にも記されていました。領主ヘロデがイエスさまについてのうわさを、全く同じように聞いていました(ルカ9:7〜8)。
つまり、領主ヘロデが聞いていたのと全く同じ内容のうわさを、弟子たちも聞いていた、ということでしょう。これが意味していることには、二つほどの可能性が考えられます。
一つの可能性は、領主ヘロデとイエスさまの弟子たちは、それぞれの生活圏としている場所が、全く同じうわさを聞くことができるほどに、近かったのではないか、ということです。
もう一つの可能性は、領主ヘロデが政治権力者に特有の地獄耳を持っていたのでないか、ということです。自分の側近たちを町の中に遣わし、自分にとって不利になるようなことならば、どんな小さなことでも情報を収集していた可能性があります。恐怖政治には必ずつきものの、一種のスパイ活動です。
どちらの可能性にせよ、ここで明らかなことは、イエスさまというお方について、町の人々が、いろいろなうわさをしていた、ということです。
しかも、興味深いことは、そのうわさの内容は、「洗礼者ヨハネ」であれ、「エリヤ」であれ、ユダヤ人たちの中では、非常に大きな尊敬を集めた、偉大な人物だった、ということです。
その偉大な人物の生まれ変わりだというのですから、そのうわさをしている人々は、イエスさまのことも、偉大な人物である、と認めていた、ということです。
そしてまた、その同じうわさを聞いたヘロデも、イエスさまの存在が非常に気になり、会ってみたいと思うようになったというのですから、その存在の大きさそのものは、彼も認めざるをえなかった、ということが、分かります。
イエスさまご自身の宣教の目的は、ヘロデのような人を、その権力の座から引き降ろし、その代わりにご自身がヘロデの座に着く、というようなことにあったわけではありません。しかし、結果として、ヘロデが非常に不安を感じるほどに、イエスさまの存在は、大きなものとなっていた、ということが、分かります。
そのことは、おそらく、イエスさまの弟子たちにとっては、うれしいことだったのではないでしょうか。イエスさまの宣教活動の進展と拡大が進んでいくことを、彼らは、自分のことのように喜んでいたに違いありません。
ところが、イエスさまご自身はどうであったか、と考えてみますと、今日の個所を読むかぎり、いくらか微妙な、といいますか、はっきり言えば、とても困った気持ちを持っておられたのではないか、と思われます。
そのように言いうる根拠は何かといいますと、あとでもう一度触れますが、21節に書かれていることです。「イエスは弟子たちを戒め、このことをだれにも話さないように命じた」。
イエスさまのうわさが広まることで、ヘロデのような人々が動きはじめるということを、イエスさまは、よくご存じであった、ということです。
しかし、それは非常に困ることです。ヘロデのような人々に動いてもらっては、困る。なぜなら、そういう人々は、必ずイエスさまのお働きの邪魔をしてくるのですから。
今、イエスさまの助けを必要としている人々が、大勢いるわけです。
それこそ、順番待ちしているような人々が、たくさんいる。今か今かと、イエスさまが来てくださるのを、待っている人々が、たくさんいる。
待ちきれなくて、あるいは、自分に順番が回ってくることはないと考えて、どさくさに紛れて、イエスさまの服に触れるだけでもかまわないと、手を伸ばしてくる人さえ、いる。
イエスさまのご関心は、その人々を、ただ助けることだけです。その救いのみわざを、イエスさまとしては、邪魔されたくなかったはずです。
イエスさまの目的は、ご自身の名前が、あるいは存在が広く知られることにあったわけではありません。
むしろ、ご自身は、できるだけ隠れておられたかった。逃げたり隠れたりする、という意味ではなく、です。今、助けを求めている人々を、今、助ける、ということができなくなるのを、避けたい、とお考えになったのです。
しかし、そのこととは別に、イエスさまは、弟子たちに対して、「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」と問われました。それに対して、ペトロが答えました。「神からのメシアです」と。
これはペトロの信仰告白、あるいはキリスト告白と呼ばれます。イエスさまが弟子たちにお求めになったのは、信仰です。
はっきり言えば、イエスさまは、ご自身の名前が広く知れ渡ることについて、信仰ではない仕方で、町の人々の、ただうわさ話にされてしまうことを、嫌がられたのです。そんなことは、イエスさまにとっては、少しもうれしいことではなく、むしろ、たいへんお困りになることだったのです。
「イエスは弟子たちを戒め、このことをだれにも話さないように命じて、次のように言われた。『人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている。』」
イエスさまは、ペトロがイエスさまに対する正しい信仰を告白したのちに、そのことをだれにも話さないようにお命じになりました。その理由として考えられることは、先ほど申し上げましたとおりです。
そして、イエスさまは、御自分の身の上に日増しに近づいている危険を、よくご存じでした。
ここで「人の子」とは、イエスさまご自身のことです。人の子は必ず、多くの苦しみを受けるのだ、と。長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺されるのだ、と。
ここで興味深いこと、といいますか、おそるべきこと、注目すべきことは、イエスさまを排斥し殺すのは、「長老、祭司長、律法学者」、すなわち当時のユダヤ教の指導者たち、宗教の専門家たちである、とイエスさまが認識しておられた、ということです。
宗教が、教会が、罪を犯すのです。これは本当に困ったことです。
なぜ、そういうことになるのか、といいますと、一言で言うならば、要するに、ねたみです。宗教家が、教会の指導者が、自分の立場や地位を守るために、イエスさまにねたみを抱き、殺すのだ、ということです。
このイエスさまの予言は、現実のものとなりました。
「それから、イエスは皆に言われた。『わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを救うのである。』」
イエスさまは、弟子たちに「わたしに従いなさい」と言われました。
ただし、条件があります。「自分を捨てること」、そして「日々、自分の十字架を背負うこと」です。その道は、決して容易いものでも、軽いものでもありません。
「自分の十字架を背負う」とは、何でしょうか。説明は、どこにもありません。「十字架」とは、死刑台のことです。自分の死刑台を日々背負って歩きなさい、というのですから、常に死の覚悟をもって歩め、自分の犯した罪や受けるべき罰を強く自覚せよ、ということではないでしょうか。
「自分を捨てなさい」とは、何でしょうか。それは、自分のために生き、自分のために死ぬことの正反対です。
そうです、イエスさまが求めておられるのは、キリストのために生きること、キリストのために死ぬことです。その決意と覚悟をもって、キリストに従うことです。
しかし、それは、キリストの弟子たちにとっては、なんら悲壮なことではありません。
イエスさまは、「わたしのために命を失う者は、それを救うのである」とも言われました。
キリストのために苦労すること、キリストのために死ぬことは、まさに生きることであり、命が救われることである、ということです。
これは、わたしたちにも、当てはまることです。
今、助けを求めている人を、今、助けること。
そのことのために苦労することができる人々は、幸いです。
それは、イエスさまと同じ道を、イエスさまのあとに従って、歩むことです。
邪魔が入るのは困ります。しかし、ねたみや迫害をおそれては、何もできません。
前進あるのみです。
一歩一歩、前に進んで行きたいと思います。
(2005年6月26日、松戸小金原教会主日礼拝)