2005年6月19日日曜日

五つのパンと二匹の魚

ルカによる福音書9・1〜17


関口 康


今日は三つの段落をお読みしました。実際にこのように続けて読んでみますと、三つの段落には何らかの関連がある、ということが分かります。


第一の段落に記されていますことは、イエスさまが十二人の弟子たちを呼び集められ、「あらゆる悪霊に打ち勝ち、病気をいやす力と権能」をお授けになり、そして、神の国を宣べ伝え、病気をいやすためにお遣わしになる、という出来事です。


要するに、それは、主イエス・キリストによる、弟子たちの、この世に向かっての派遣、という出来事です。


第二の段落に記されていますことは、領主ヘロデがイエスさまとその弟子たちのうわさを聞いて、イエスというその人に会ってみたいと考えはじめた、という出来事です。


そして、第三の段落に記されていますことは、イエスさまの周りに集まってきた男性たち五千人(ただし成人のみと思われます)、そしておそらく女性や子どもたちを合わせると一万人とも考えられる数の群集がお腹をすかせていたので、イエスさまが、十二人の弟子たちに命じて、五つのパンと二匹の魚だけで、すべての人々を満足させた、という出来事です。


この三つの段落に記されている三つの出来事には、何らかの関連性がある、とわたしには思われます。


それを一言で言いますならば、それは、要するに、その日そのときに至るまでイエスさまが宣べ伝えられてきた「神の国」というものが、次第に進展と拡大を見せ、いよいよもって、多くの人々に大きな影響を与えていく様子が、明らかにされている、ということです。


第一の段落に記されている、イエスさまの、弟子たちに対する、力と権能の付与ないし授与の意味は、神の国の進展と拡大という流れの中で考えていくと、よく分かることです。


別の言い方をしますならば、イエスさまというこのお方の伝道の方法は、どのようなものであったか、ということを考えると、よく分かることであるとも言えます。


それは要するに、救いを求めてイエスさまのもとに訪れる一人一人に対し、あるいはまた、たとえ自分の足でイエスさまのもとに来れなくとも、だれか人を介して、イエスさまのもとに助けを求めてくる一人一人に対して、ひとつずつのみわざを行ってくださる、という方法です。


イエスさまは、一人一人に近づき、一人一人に語りかけ、一人一人に手を置き、一人一人のために祈り、ひとつずつのみわざをなしてくださいます。イエスさまというお方は、そういうお方です。


不特定多数の人々に向かって、「神の恵み」を、一人一人の顔も見ることをせず、一人一人の状況も何ら知らずして、ただばらまき、それだけで事の一切を済ませる、というようなやり方の、ちょうど正反対、とお考えいただくことも、できると思います。


今であれば、テレビという手段があります。そこで、神の御言としての説教を語る。そうすれば、一度に何百万人、何千万人という不特定多数の人々に聖書の御言葉を宣べ伝えることができる、というふうに考え、実際にそのようにしている人々がいます。


わたしは、そのようなやり方に反対したいがために、今、このようなことを申し上げているわけではありません。いろいろな伝道の方法がある、ということは、否定されるべきではありません。


とはいえ、どう控えめに考えてみましても、そのようなやり方は、やはり、イエスさまご自身の伝道の方法とは、相当隔たりがある、と言わざるをえません。


わたしたちがこのルカによる福音書を学びはじめた最初の頃に、わたしが繰り返し強調してお話ししておりましたひとつのことは、イエスさまの伝道には、“みことば”の要素と共に“ふれあい”の要素がある、ということでした。そのことを、ここでも、思い返していただきたいです。


もし、この伝道というわざが、ただ言葉だけによる、というのなら、それこそテレビのような方法、あるいは、著名な牧師や神学者の説教集で、事が足ります。


ところが、実際には、そうではない。伝道は、言葉の伝達に終わらない。そこには必ず“ふれあい”の要素が必要なのです。


要するに、伝道者たちは、苦しみの中で救いと助けを求めている一人一人に“さわりに行く”必要があるのです。そのことなしには、真の意味で、言葉がひとに伝わる、ということさえ、起こらないのです。


しかし、だからこそ、次のこともまた、語られなくてはなりません。


だからこそ、イエスさまは、弟子たちをお選びになり、その弟子たちに、ひとを救い、助けることのできる力と権能を、お授けになるのです。


それは、何のためでしょうか。


神の国の進展と拡大に伴い、イエスさまに助けを求めてくる人々の数も増えてきました。


しかし、イエスさまは、おひとりです。


その人々、その一人一人に、イエスさまが一度に同時にかかわることは、おできにならないし、そのようなことはなさらないのです。


そのように、わたしは、先週申し上げました。


いわば、その代わりに、です。


イエスさまは、御自身がなさるみわざが弟子たちを通しても行われるように、つまり、その弟子たちを通して多数の人々に、一度に同時に救いのみわざが行われるように、弟子たちに、力と権能をお授けになるのです。


弟子たちのなすわざは、イエスさまのみわざと全く同じとは言えないかもしれませんが、イエスさまが弟子たちにお与えになった力と権能のゆえに、彼らもまた、救いのみわざを行うのです。


このように考えますと、今日お読みしました個所の第一の段落に記されている事柄は、神の国の進展と拡大に伴う出来事である、ということを、ご理解いただけるのではないかと思います。


第二の段落に記されている、領主ヘロデがイエスさまのうわさを聞いて、イエスさまに会いたくなった、というのも、やはり同じように、イエスさまが宣べ伝れられた神の国の進展と拡大に伴う出来事であった、と理解することができます。


「領主ヘロデは、これらの出来事をすべて聞いて戸惑った」とあります。なぜヘロデは「戸惑った」のでしょうか。おそらく、なんらかの圧力を感じ、身の危険を感じたのです。


ヘロデは、いわゆる政治家です。神の国ではなく、ヒトの国、人間の国の支配者です。かたやイエスさまは、神の国の支配者として、王として、この地上に来てくださいました。しかし、そのことは、ヘロデに圧力や身の危険、不安をもたらすことになりました。


ここで考えるべき問題は、はたして、イエス・キリストが王としてお立ちになる神の国は、ヘロデのような人が支配するヒトの国、人間の国と競合するものであろうか、ということでしょう。


はっきり言いうるひとつの点は、イエスさまは、ヘロデのような人に圧力をかけるために、神の国の福音を宣べ伝えられたわけではない、ということです。


イエスさまは、地上の一国の王になるために来られた方ではありません。そのようなことが、イエスさまが父なる神のみもとから来られた理由や目的ではありません。


しかし、それにもかかわらず、ヘロデは、イエスさまの動きに「戸惑い」を覚え、不安を感じました。それはおそらく、自分の支配が崩れるかもしれない、という不安でしょう。


地上の権力者は、いつでもそういうことを考えます。その支配のあり方が独裁的なものであればあるほど、自分の地位や立場を脅かすことになるかもしれない存在を許すことができません。


そう、そのような人々は、自分の思い通りにならないものの一切の存在を、許すことができないのです。


この点については、ヘロデの嗅覚は、なるほど、たしかなものであった、ということができそうです。


イエスさまも、イエスさまの弟子たちも、まさに神の国に生きる者たちとして、ヘロデのような人の思い通りにはなりません。


神の国とは、神の御言葉によって立つ国です。不法や不正を許しません。


わたしたちの救い主は、正義と公正の主です。その方が来てくださるとき、不法や不正によって成り立っている地上の国とその支配者は、打ち砕かれるのです。


第三の段落に記されている、イエスさまのみもとに集まった一万人以上とも考えられる群集のお腹を、イエスさま御自身が、弟子たちの働きを用いて、五つのパンと二匹の魚をもって満たされる、ということもまた、同じように、神の国の進展と拡大に伴う出来事であった、と理解することができます。


イエスさまの十二人の弟子たちは、イエスさまに「群集を解散させてください。そうすれば、周りの村や里へ行って宿をとり、食べ物を見つけるでしょう。わたしたちはこんな人里離れた所にいるのです」と言いました。彼らは、ごく普通の、当たり前の判断をしたにすぎません。


ところが、イエスさまは「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」とお命じになりました。


今、群衆を解散させる必要はない、ということです。イエスさまの御言葉を聞いた人々が食べ物を得ることは、彼らの責任ではなく、あなたがた弟子たちの仕事である、ということです。


これは明らかに、第一の段落に記されている、イエスさまが、その弟子たちに対して、人々をいやす力と権能をお与えになった、という出来事に関連しています。


人々をいやす、というのは、ただ単に、今、いわゆる病気にかかっている人々の、その病気をいやす、ということに、とどまりません。


おそらくもっと広い意味です。お腹がすいている人のそのお腹を満たすことも、立派にいやしです。十分な意味でのいやしのひとつです。


それができるように、イエスさまは、弟子たちに、力と権能をお与えになったのです。


ところが、弟子たちは、「わたしたちにはパン五つと魚二匹しかありません、このすべての人々のために、わたしたちが食べ物を買いに行かないかぎり」と、至極もっともらしい、しかし、ちょっと情けないことを言いはじめます。わたしたちにはできません、と。


しかし、イエスさまは、彼らとは全く違うことを、お考えになりました。そして、そのお考えどおりになさいました。


「イエスは弟子たちに、『人々を五十人ぐらいずつ組にして座らせなさい』と言われた。弟子たちは、そのようにして皆を座らせた。すると、イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで、それらのために賛美の祈りを唱え、裂いて弟子たちに渡しては群衆に配らせた。すべての人が食べて満腹した。そして、残ったパンの屑を集めると、十二籠もあった。」


わたしは、ここで、ものすごく単純なことを申し上げたいと思います。


それは、イエスさまは、純粋な意味で「分けて食べる」ということを、お考えになり、そのようになさったのだ、ということです。


イエスさまは、「分けて食べる」ということを、なさいました。そうすると、パンと魚の量が、増えました。理由は、分かりません。神の奇蹟と呼ぶほかはありません。


この個所を読む人々の中には、そのとき集まっていた群衆が、じつは、それぞれお弁当を隠し持っていたので、増えたのだ、というような、きわめて合理的で、身も蓋もない話にしてしまう人々も、いるようです。


しかし、わたしたちは、そのような説明で納得できるでしょうか。なんだか嫌な気分にさせられます。


まさか、そんな話ではないはずです。イエスさまは、まさに純粋に、そしてごく単純に「みんなで分けて食べる」ということを、実践なさったのです。それ以上でも、それ以下でも、ありません。


ただ、しかし、ひとつの点だけ、いくらか合理的な話もしておきます。


今日のこの個所の話は、ひとりで食べる食事を体験したことがある人(おそらく、ここにおられる皆さんすべて)ならば、きっと、理解していただけるのではないか、ということです。


おいしくないです。さびしいです。どんなにたくさんあっても、どんなに高級な食材が使われていても、ひとりの食事は味気ない。おそらく、このことは、多くの人々に了解していただけることではないでしょうか。


食事とは何か、を考えさせられます。それは、わたしたちの日常生活全体を考えることでもあります。


少し大げさに言わせていただくならば、わたしたちが何のために生きるのか、という問いそのものを考えることでもあります。なぜなら、わたしたちが仕事によって手にするものの多くは、わたしたちの食べるもののために消えていくからです。


イエスさまと共に生きること、そして、イエスさまを信じる人々と共に食卓を囲む喜びを味わったことのある人々は、きっと、その問いの答え――食事とは何かという問いの答え――を知っています。


おそらく、わたしたちにとって、食事の満足は、その量や味だけで、得られるものではありません。


信仰が必要です。


賛美の祈りが必要です。


みんなで分け合うこと、


そして、楽しい語らいが必要です。


イエスさまと共に生きること、それは、イエスさまと共に、またイエスさまを信じる人々と共に食卓を囲むことでもあります。


それが、それこそが、神の国なのです!


わたしたちは、日常生活の中で、神の国を真に体験することができるのです!


(2005年6月19日、松戸小金原教会主日礼拝)