ルカによる福音書5・33〜39
関口 康
今日の個所は、先週の個所(5・27〜32)と、内容的に直接つながっています。
主イエス・キリストが、徴税人レビを弟子にしました。そのことを、レビは心から喜び、自分のためにパーティーを開きました。
そのパーティーには、レビの徴税人仲間がたくさん参加していました。そしてもちろんイエスさま御自身も参加しておられました。
また、明言されてはいませんが、パーティーには、レビよりも前に弟子になったシモン・ペトロやその兄弟アンデレ、ゼベダイの子ヤコブとヨセフも参加していたようです。
そして、そこでは、イエスさま御自身も、そしてイエスさまの弟子たちも、本当に楽しそうに、食べたり飲んだりしていました。
ところが、です。楽しそうにしていた彼らに、なにやら文句を言いたい人々が、現われました。
先週の個所では「ファリサイ派やその派の律法学者たち」が、つぶやきました。彼らはそのつぶやきを「イエスの弟子たち」にぶつけました。
今日の個所には「人々は」と書いてあるだけです。今度は、イエスさま御自身にモノを言う人々が、現われたのです。
「人々はイエスに言った。『ヨハネの弟子たちは度々断食し、祈りをし、ファリサイ派の弟子たちも同じようにしています。しかし、あなたの弟子たちは飲んだり食べたりしています。』」
先週の個所に出てくるファリサイ派の人々は、イエスさまが徴税人や罪人たちと一緒に飲んだり食べたりしていることに、疑問を持ちました。
朱に交われば赤くなる、と言います。彼らが思ったことは、あんな連中と一緒にいる、イエスというあの男は、あの連中と同類である、ということでしょう。
しかし、今日の個所に出てくる人々のクレームの内容は、ファリサイ派のものとは内容が異なるものです。イエスさまの弟子たちが「食べたり飲んだりしている」そのこと自体が問題である、というのです。
「ヨハネの弟子たち」とは、イエスさまに洗礼をさずけた、あのバプテスマのヨハネの弟子たちのことです。以前確認しましたように「らくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べ物としていた」(マタイ3・4)、あのヨハネの弟子たちです。
ヨハネは、いわゆる禁欲主義者でした。そのようなものとして宗教をとらえ、実践した人でした。ただ、本当に何も食べないでいることは、いくらなんでも不可能ですので、「いなごと野蜜」というような人間が食べるようなものではないものを食べていました。そしてヨハネは、弟子たちにも、自分と同じような生活をさせていました。
ファリサイ派の弟子たちも、断食を行っていました。彼らは週に二回、断食をしていました(ルカ18・12)。月曜日と木曜日です。もちろん、宗教的な行為としての断食です。別の動機ではありません。自分自身の罪の悔い改めのしるしとして、断食の苦行をするのです。
ところが、イエスさまの弟子たちは、そんなことには全くお構いなしであるかのように、食べたり飲んだりしていました。
すると、彼らのその様子を見て、そういうのは、ちょっとおかしいのではないか、と問題に感じる人々が出てきたのです。そして、「あなたたち、もう少し真面目におやんなさい」と言いはじめたのです。
そのように考えたり言ったりする人々には、当然のことですが宗教というものに対する彼ら自身の前提理解があるわけです。宗教とは、本来こういうものであるべきである、という自分なりの理解があるのです。
宗教には、やはり、何らかの仕方で禁欲的な要素が必ずあるものだし、あるべきだ。盛大なパーティーを開いて楽しむだとか、自由気ままに食べたり飲んだりすることなど、宗教にはふさわしくない不謹慎な態度である。
そのような、宗教に対する前提理解が、この人々の中にあったのです。
じつは、そのような前提理解に立つ人々は、今でもいますし、決して少なくありません。わたしたちの教会なども、いつもどおり楽しくやっていますと、そのうち、そのような考えの人々から、いろんなことを言われてしまうかもしれません。
しかし、わたしは、たいていの場合、だれに対しても、「教会は、楽しいところですよ」と言います。事実、教会は、難行苦行を積みに来る修行道場ではありませんし、嫌々ながら、体を引きずってでも、来なければならない、というようなところではありません。あまり気難しく考えすぎる必要はないのです。
ですから、その意味で、ただし、その意味でだけ、わたしは時々、大いに誤解を恐れながらではありますが、その人々に、こう言います。「ぜひ、教会に遊びに来てください」と。
しかし、そう言いながら、わたしは、誤解されることを、内心で非常に恐れています。だれに誤解されることを恐れるのかと言いますと、最も恐れるのは、教会の皆さんの誤解です。
「わたしたちは、教会に、遊びに来ているわけではない」と言われてしまうことがあるからです。
ですから、これは、非常に難しい問題であると、わたし自身、痛感しております。
「そこで、イエスは言われた。『花婿が一緒にいるのに、婚礼の客に断食させることがあなたがたにできようか。しかし、花婿が奪い取られる時が来る。その時には、彼らは断食することになる。』」
ここでイエスさまがしておられることは明らかです。イエスさまは、弟子たちが自由に食べたり飲んだりしていたこと、そのようにして人生を楽しんでいたことを、弁護しておられるのです。
はっきり言って、彼らは、そのとき遊んでいたのです。遊んでもよい場面でした。ところが、遊びというものは、とくに大人の遊びの場合は、時として、弁護される必要があるのです。
日本人は遊ぶことが下手である、と言われた時期があったと思います。今はどうでしょうか。変わってきた面と、少しも変わっていない面とがあるように感じます。
わたしも、どちらかと言えば、遊ぶことが下手です。すべてを仕事として考えてしまう傾向があります。
牧師の日曜日は労働日になりえます。休日も、お正月も、クリスマスも、牧師にとっては労働日になりえます。子どもたちが休みの日にこそ、仕事が集中します。一緒に遊んでやることが、なかなかできません。
それでは、それ以外の日の牧師は遊んでいるのかと言うと、そうだとも言えるし、そうでないとも言えます。ヒマそうにしていると思われるのが嫌だと、感じるときがあります。
わたしの尊敬する先輩牧師は、自分の手帳の予定欄が真っ黒でないと不安でたまらなくなる人でした。今日の予定は何もない、という日があると、無理やりでも何か仕事を探してきて、空欄を埋めようとしました。
わたしは、それほどではありませんが、その先輩牧師の影響を、いまだに引きずっているようです。わたしはヒマではない、と言いたくなります。
しかし、イエスさまは、弟子たちが遊んでいることを、弁護してくださいました。
彼らが自分の人生を心から喜び、楽しんでいる姿を、温かく見守ってくださり、彼らの生き方にケチをつけようとする人々に、反論してくださいました。
牧師だけの話にしないほうがよいと思います。皆さんの話です。わたしたちの話です。
「花婿」とは、イエスさまのことです。「花婿が一緒にいる」のは、お祝いの席です。イエスさまが共におられるところは、喜びに満ちあふれた楽しい場所であってよいのだと、イエスさま御自身が認めてくださったのです。
わたしたちの礼拝とは、何でしょうか。教会が主催する集会は、何でしょうか。ここはイエスさまが共にいてくださる場所なのですから、楽しんでよい場所なのです。
わたしたちの家庭での生活とは、何でしょうか。今日この礼拝が終わり、それぞれの家に帰ります。明日から職場に復帰します。そこにはイエスさまが共におられないのでしょうか。日曜日は天国、週日は地獄でしょうか。
そんなことはないのです。わたしたちは、教会生活だけではなく、日常生活、人生そのものを楽しんでよいし、楽しまなければならないのです。イエスさまは、いつも、わたしたちと一緒にいてくださるからです。
わたし自身も、何度となく、人から言われることがあります。「教会に通える人は、ヒマでいいですねえ」と。しかし、そんなことを言われても気にしないことです。イエスさまが、わたしたちを弁護してくださるのです。
「そして、イエスはたとえを話された。『だれも、新しい服から布切れを破り取って、古い服に継ぎを当てたりはしない。そんなことをすれば、新しい服も破れるし、新しい服から取った継ぎ切れも古いものには合わないだろう。また、だれも、新しいぶどう酒を古い皮袋に入れたりはしない。そんなことをすれば、新しいぶどう酒は皮袋を破って流れ出し、皮袋もだめになる。新しいぶどう酒は、新しい皮袋に入れねばならない。また、古いぶどう酒を飲めば、だれも新しいものを欲しがらない。「古いものの方がよい」と言うのである。』」
イエスさまのこのたとえ話が、前の話とどのように結びつくのかは、少し考える必要がありそうです。
二つのたとえ話の趣旨は、ほとんど同じ、と見てよいものです。
新しい服から破り取った布切れを古い服に継ぎ当てると、新しい服のほうをだめにするし、古い服のほうも新しい部分と古い部分とで、ちぐはぐになるだろう。
新しいぶどう酒を古い皮袋に入れると、発酵の力が強いので、その皮袋を破ってしまう。だからこそ、新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れねばならない。
この二つのたとえ話の共通点は、明らかに、新しいものと古いものとの関係はどうあるべきかということです。
しかし、それでは、ここで言われている「新しいもの」とは、何でしょうか。「古いもの」とは、何でしょうか。
イエスさま御自身は、必ずしも、そのことをはっきりと定義しておられるわけではありません。
ただ、しかし、全く分からないという感じはしません。むしろ、状況としては、非常によく分かるものがあると感じます。
状況として想定しうるのは、レビの家で開かれていたパーティーの場面です。
そこにいた人々は、言うならば、「新しい」人々です。レビ自身も、またレビよりも少し前にイエスさまの弟子になったばかりのシモン・ペトロたちも、新しい道を歩きはじめたばかりの人々です。
レビの友人たちも、イエスさまの弟子にはなっていなかったとしても、イエスさまの存在を知り、少なくともイエスさまの語られる説教を耳にし、なんだかまだよく分からないことばかりだけれども、それまでは触れたこともなかったような新しい何かに触れ、何かを考えはじめた可能性のある人々です。
それに対して、「古い」人々とは、だれでしょうか。「古い」とは「新しい」の反対です。それはどういう人々か、想像してみていただきたいと思います。
イエスさまのお考えの要点は、どうやら、「古いもの」と「新しいもの」とを混ぜっ返してしまったり、一緒くたにしてしまったりしないほうがよい、というあたりにある、と見てよさそうです。
ただし、決して悪い意味ではありません。差別の意図はありません。
わたしたちのこととして考えてみると、よく分かるはずです。
たとえば、わたしは、洗礼を受けたばかりの方々や新しく松戸小金原教会のメンバーになってくださった方々に向かって、いきなり、日本キリスト改革派教会が定めている教会規程をすべてきちんと勉強してくださいとか、ウェストミンスター信仰告白のすべてを暗記してください、そうでなければ困ります、などとは言いません。
あるいはまた、先週洗礼を受けたばかりの人を、今週長老に選んだりはしません。
これは差別ではありません。教会生活、あるいは信仰生活にも、長い年月をかけた熟成の期間が必要なのです。
そして、そのようなことよりも、何よりも、むしろ、この意味での「新しい」人々に、教会として提供すべきことがあるのです。
それは、教会は楽しいところである、と知っていただくことです。その楽しさを十分に味わい、堪能していただくことです。教会に来てよかった、洗礼を受けてよかった、と喜んでいただくことです。
「あなたは洗礼を受けました。はい、それでは、来週から、週に二回、断食をしてください」と言われて、教会に来てよかったと喜んでくださる方が、おられるでしょうか。
わたしなら逃げます、と申し上げておきます。
今日の個所で学びうることは、イエス・キリスト御自身の伝道方針が、どういうものであったか、ということです。
(2005年2月27日、松戸小金原教会主日礼拝)