2005年2月13日日曜日

地上で罪を赦す権威

ルカによる福音書5・12〜26


関口 康


今日は、二つの段落を、続けて読みました。最初の段落に書かれていることは、先週の説教の中でも、確認したことです。


それは、イエスさまの伝道活動には、説教の要素と、直接手を置いていやしのみわざを行う要素があった、ということです。“みことば”の要素と“ふれあい”の要素があったのです。


「イエスがある町におられたとき、そこに、全身重い皮膚病にかかった人がいた。この人はイエスを見てひれ伏し、『主よ、御心ならば、わたしを清くすることがおできになります』と願った。イエスが手を差し伸べてその人に触れ、『よろしい。清くなれ』と言われると、たちまち重い皮膚病は去った。」


ここで分かることは、みことばとふれあいというこの二つの要素は、バラバラに切り離されてはならないものである、ということです。


イエスさまは、重い皮膚病にかかっている人の体に触れながら、「よろしい。清くなれ」と言われました。「清くなれ」という御言と共に、清めの出来事が起こりました。両者には密接な関係があるのです。


見方を変えて言いますと、イエスさまが実際になさったことは、“みことば”から離れた“ふれあい”、あるいは“みことば”を抜きにした“ふれあい”だけ、というようなものではなかった、ということです。


「言葉は要らない。ただ一緒に居てくれるだけでいい」というのはドラマのせりふです。イエスさまの伝道は、そういうものではなかったのです。


むしろ、事情はこうです。まず“みことば”が語られます。そして、その“みことば”が、“ふれあい”によって、一人一人の心と体において、実現するのです。


それは、言葉の具現化です。形のないものが、形のあるものとして、示されるのです。


重い皮膚病の人は、イエスさまに「主よ、御心ならば」と願いました。これをもう少し一般的に言い直せば、「主よ、もしよろしければ」となります。


「御心」とは、意志や願いを表す言葉です。ですから、これは「あなたが、わたしの体がいやされるように、と願ってくださるならば」という意味です。


しかし、イエスさまに「もしよろしければ」とお願いするのは奇妙です。わたしたちは、病院で「もしよろしければ、治してくださいませんでしょうか」と言うでしょうか。「いやです」とか言われてしまうと、どうなるのでしょうか。遠慮している場合ではありません。


ただ、この人は、遠慮していたというよりも、むしろ、もうすっかり諦めてしまっていたのではないか、と思われます。


もう治る見込みがない、こんなわたしでもよろしいでしょうか、というような気持ちがあったのではないでしょうか。


事実として、当時、重い皮膚病にかかった人は、治るまで、人々の中で一緒に生活することができませんでした。不治の病と認定されているものにかかってしまったら、二度と社会に復帰できないと、あきらめるほかはありませんでした。


しかし、イエスさまの答えは「よろしい」でした。「もしよろしければ」に対する「よろしい」です。「御心ならば」に対する「御心です!」です。


「そうです。あなたの体が清められることが、わたしの願いです!」という意味です。


「そうです。あなたは独りぼっちではなく、みんなの中で生活できるようになることが、わたしの願いです!」という意味です。


そして、イエスさまは、語られた御言どおりに、その人を清めることがおできになりました。


わたしたちの救い主は、言葉を現実のものとする力を持っておられるのです。


最初の段落については、ここまでにします。今日、主にお話ししたいことは、次の段落に紹介されている出来事です。


「ある日のこと、イエスが教えておられると、ファリサイ派の人々と律法の教師たちがそこに座っていた。この人々は、ガリラヤとユダヤのすべての村、そしてエルサレムから来たのである。」


イエスさまが人々に教えておられました。「教える」の通常の意味は説教です。しかし、その日が安息日だったかどうかは、分かりません。


その場所は「家の中」であったと18節に記されています。安息日ごとに会堂で行われる礼拝ではないことは、明らかです。


マルコによる福音書の平行記事(マルコ2・1以下)を読みますと、どうやら、この「家」は、カファルナウムでイエスさまが滞在されたシモン・ペトロの家であると考えられます。要するに、家庭集会です。


ところが、そこに、ちょっとアヤシイ人々が座っていました。「ガリラヤとユダヤのすべての村、そしてエルサレムから」来たファリサイ派の人々と律法の教師たちがいたのです。


こういうことは、時々あります。


わたしが神戸改革派神学校を卒業して、山梨栄光教会(当時甲府塩部教会)に赴任したのは、1998年7月でした。当時33才でした。


たしか、その7月か8月のことです。礼拝に、千城台教会の高瀬一夫先生が、出席しておられました。「お!」と、びっくりしました。


予告なしに突然来られました。夏休みで来た、と言われました。しかし、じつは、視察の意味で来られたようです。そのことを、あとで知りました。


このことは、ある面から言えば、必要なことです。新人教師が、でたらめなことを教えているかもしれません。それで本当に困ってしまうのは、教会であり、信徒です。


ですから、わたしは、この件に関して、否定的な面だけを強調するつもりはありません。


イエスさまのもとにぞろぞろと集まった教師たちの目的は、明らかでした。


最近ちまたで話題のイエスとかいう30才くらいの若い教師が、何を教え、何をしているかを、調査してみなければならない。もし何か問題があるようならば、ただちに活動を停止させる必要がある、と考えたのです。


わたしは今、東部中会の伝道委員会の書記です。中会所属伝道所の問安の仕事は、中会伝道委員の仕事です。伝道所の内部事情にも遠慮なく立ち入り、教師や教会員のしていることをチェックする仕事です。


ときには憎まれ役です。しかし、誰かがしなければならない、という意味で必要な仕事です。そのことを強調しておきます。


「主の力が働いて、イエスは病気をいやしておられた。すると、男たちが中風を患っている人を床に乗せて運んで来て、家の中に入れてイエスの前に置こうとした。しかし、群集に阻まれて、運び込む方法が見つからなかったので、屋根に上って瓦をはがし、人々の真ん中のイエスの前に、病人を床ごとつり降ろした。イエスはその人たちの信仰を見て、『人よ、あなたの罪は赦された』と言われた。」


イエスさまは、いつもどおり、説教といやしのみわざを行っておられました。


ところが、その日は、いつもより、たくさん、人が集まっていたからでしょう、イエスさまに病気を治してもらいたくて連れてこられた人がイエスさまに近づくことができないという状況が生じました。


それは中風を患っている人でした。その人を連れて来た人々は、何とかしてイエスさまに近づかせたい一心で、その家の屋根瓦をはがし、上から床をつり降ろしたのです。


彼らがしていることは、メチャクチャです。しかし、イエスさまのみわざの本質をよくとらえている人々でした。


先ほどから申し上げていますとおり、イエスさまのみわざには、“みことば”の要素だけではなく、“ふれあい”の要素があるからです。近づくこと、直接さわっていただく必要があることを、彼らは、よく知っていたのです。


だからこそ、イエスさまは、「彼らの信仰」を称賛されました。イエスさまは、「彼らの信仰」をご覧になって、「人よ、あなたの罪は赦された」と言われたのです。


しかし、あなたの「何の」罪が赦されたと、イエスさまはおっしゃっているのでしょうか。


他人の家の屋根瓦をはがすことも、立派な罪です。そのことでしょうか。


イエスさまの説教の最中に、家ごとガタガタ動かし、集まっている人々に迷惑をかけることも、立派な罪です。そのことでしょうか。


イエスさまに病気をいやしてもらいたくて行列をつくっている人々の前に無理やり割り込んで順番を狂わせてしまうことも、立派な罪です。そのことでしょうか。


別のことを考えるほうがよさそうです。もっと根本的な意味です。その人がそのときまで犯してきた罪、また、それ以後も犯し続けるであろう罪のすべてを、イエスさまは、お赦しになったのです。


そのようなこと、すなわち、地上で罪を赦すことができる権威を、イエスさまはお持ちになっているのです。


「ところが、律法学者たちやファリサイ派の人々はあれこれと考え始めた。「神を冒涜するこの男は何者だ。ただ神のほかに、いったいだれが、罪を赦すことができるだろうか。」


ところが、律法学者たちの反応は、否定的なものでした。「罪の赦し」を口にするこの男は何者だと。神を冒涜する罪を犯しているのは、この男自身ではないかと。


しかし、よく考えてみると、この人々の反応は、大いに疑問が残るものです。


「ただ神のほかに、いったいだれが、罪を赦すことができるだろうか」という考えそのものは、間違っているとは言えません。


ところが、彼らは、イエスさまが「あなたの罪は赦された」と語ることは間違っている、と考えたのです。


ここから、彼らの考え方がどのようなものだったかが見えてきます。


説教者に許されているのは、「神が罪を赦してくださる」と語ることだけである。ところが、「あなたの罪は赦された」と語ることは許されていないのだと。


それならば、説教者は、このように語らなければならないのでしょうか。


「わたしは、あなたの罪を赦すことはできません。もしかしたら、神は赦してくださるかもしれません。しかし、それはだれにも分かりません。“ただ神のみぞ知る”です」。


これはやはり、どう考えても、おかしな理屈です。彼らの言い分どおりに考えてみると、それでは、この人に「あなたの罪は赦された」という事実を伝えることができるのは一体誰なのか、という疑問が残るではありませんか。


「イエスは、彼らの考えを知って、お答えになった。『何を心の中で考えているのか。「あなたの罪は赦された」と言うのと、「起きて歩け」と言うのと、どちらが易しいか。』」


皆さんは、どちらが易しいとお感じでしょうか。「あなたの罪は赦された」と言うのと、「起きて歩け」と言うのと。イエスさま御自身は、何も答えておられません。


わたしが信頼している解説書の答えは、前者です。


ここでイエスさまが強調しておられるのは、「言う」という点です。「言う」とは、語ること、ここでは説教の意味です。


なるほど、「あなたの罪は赦された」と説教することは簡単です。「言う」だけならば、だれでも言えます。そうではないでしょうか。


ですから、イエスさまの意図は、それなのに、なぜ、というわけです。


言うだけならば、だれでもできる簡単なことなのに、言わない、言えない、言わせない。言ってはならないと禁じる人々がいる。


その人々は、簡単なことを難しく考え、事柄をややこしくするだけ。人々を単純に慰め、励まし、助ける言葉を語ることができない。


あなたがたは何をしに来たのか。目の前で苦しんでいる人にやさしい慰めの言葉を語ることもできないのかと、イエスさまは、御言の教師たちを抗議しておられるのです。


「『人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう。』そして、中風の人に、『わたしはあなたに言う。起き上がり、床を担いで家に帰りなさい』と言われた。その人はすぐさま皆の前で立ち上がり、寝ていた台を取り上げ、神を賛美しながら家に帰って行った。」


イエスさまは、“口だけの”お方ではありません。「言う」だけではなく、実行される。語られた言葉を実現され、形あるものとして具現化される。そのようなお方なのです。


教会に委ねられた仕事も、じつは同じです。


わたしたち教会に、イエスさまと同じだけのいやしの力が与えられているわけではありません。


しかし、だからと言って、説教だけが、聖書の説明だけが、教会の仕事ではありません。聖書の御言葉を実現し、具現化することが求められます。


たとえば、罪の赦しが、そうです。これを語ることは簡単であると言われます。しかし、「神があなたの罪を赦してくださる」と語るだけでは、不十分です。


イエスさまが弟子たちに教えられた“主の祈り”に「わたしたちの罪を赦してください。わたしたちも自分に負い目のある人を皆赦しますから」(ルカ11・4)とあります。


「わたしは、あなたを赦すことができません。しかし、神は、もしかしたら、あなたを赦してくださるかもしれません」というような屁理屈は、イエスさまの前では通りません。


わたしたちが、このわたしが、今ここで、この地上で、現実に、ひとの罪を赦さなくてはならないのです。


だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなければならないのです(マタイ5・39、ルカ6・29)。


(2004年2月13日、松戸小金原教会主日礼拝)