2005年3月6日日曜日

安息日の主

ルカによる福音書6・1〜11


関口 康


今日は、二つの段落を読みました。あらかじめ申し上げておきたいことは、この二つの段落において扱われている主題は、同じである、ということです。


1節に「ある安息日に」と書かれています。また6節には「ほかの安息日には」と書かれています。描き出されているのは、いずれも「安息日」に起こった出来事であるということです。


旧約聖書の律法が定める「安息日」は土曜日です。そして、モーセの十戒の第四戒には、「安息日(あんそくにち)を覚えて、これを聖とせよ」(出エジプト記20・8、申命記5・12、いずれも口語訳聖書)と書かれています。新共同訳聖書では「安息日(あんそくび)を心に留め、これを聖別せよ」と訳されています。


そして、第四戒の続きには、「六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない」と書かれています。


今日の個所、二つの段落にわたって問題になっていることは、まさに今の点です。


「安息日には・・・いかなる仕事もしてはならない」と定めているモーセの第四の戒めの真意ないし本意は何なのか、ということです。


「ある安息日に、イエスが麦畑を通って行かれると、弟子たちは麦の穂を摘み、手でもんで食べた。」


そのときイエスさまの弟子たちは、おそらくお腹がすいていたのです。麦畑の中を通りながら、麦の穂を摘み、手でもんで食べた、というのです。


その麦畑は明らかに、弟子たち自身のものではなく、他人のものでした。しかし、彼らは、いわゆる盗みを働いたわけではありません。他人の麦畑から麦の穂を摘んで食べること自体は、許されていることでした。


ところが、です。彼らがしたことを、ファリサイ派のある人々が、強く批判しました。


「ファリサイ派のある人々が、『なぜ、安息日にしてはならないことを、あなたたちはするのか』と言った。」


この人々が言った「安息日にしてはならないこと」とは、先ほどご紹介しましたモーセの第四戒の「安息日には・・・いかなる仕事もしてはならない」です。ファリサイ派の人々が不満に思ったのは、弟子たちが「麦の穂を摘み、手でもんで食べた」という点です。


彼らの考えによると、「麦の穂を摘むこと」は、農業という仕事における“収穫行為”に当たりました。また「手でもむこと」は、“脱穀行為”に当たりました。つまり、弟子たちは「仕事」をした、とみなされたのです。


ですから、彼らにとって、イエスさまの弟子たちがしていたことは、全くけしからんことであり、許しがたいことである、というふうに見えたのです。


しかし、どうでしょうか。ここでやや個人的な感想めいたことを言わせていただくなら、ずいぶん大げさな物言いであると思われてなりません。ささいなことに目くじらを立てるとは、まさにこのようなことを言うのではないでしょうか。


「イエスはお答えになった。『ダビデが自分も供の者たちも空腹だったときに何をしたか、読んだことがないのか。神の家に入り、ただ祭司のほかにはだれも食べてはならない供えのパンを取って食べ、供の者たちにも与えたではないか。』」


ここでイエスさまは、サムエル記上21・3〜6に記された出来事を引き合いに出しておられます。


ダビデ王とその軍隊が、さあこれから戦争に出かけよう、という場面です。「腹が減ってはいくさができぬ」とばかりに、何かを食べようとした。しかし、食べる物がなかったので、神殿の祭司のもとに行き、神殿に供えている聖別されたパンを食べさせてもらった、という物語です。


要するに、それは、ダビデたちが、お祭りの日に祭壇に置く“お供え物”のパンに手をつけた、という物語です。神の御前に聖別されたパンを、これから戦争に行くための軍人たちの腹ごしらえ、という目的に利用した、という物語です。


これは、聞く人によっては、非常にけしからん話であり、なんといかがわしいことか、と感じるような話です。しかし、そういうことが、旧約聖書の中に記されているのです。


ここでイエスさまが問題にしておられることは、「聖別された」とは、どういう意味か、ということです。


聖別されたパンを、ダビデたちは、「お腹がすいている」という理由で食べた。言うならば、これと同じように、「これを聖別せよ」と言われている安息日の過ごし方として「お腹がすいている」という理由で、麦の穂を摘み、手でもんで食べることの何が悪いのかと、イエスさまは答えておられるのです。


このイエスさまのお答えは、必ずしも、理路整然としたものではないかもしれません。しかし、ポイントは、はっきりしています。


「安息日には・・・いかなる仕事もしてはならない」という戒めを、「お腹がすいても、我慢しなさい」というように、拡大解釈してはならない、ということです。


また、もう一つ、別の観点から申し上げておきたいことがあります。ある注解者の言葉を読んで、ハッと気づかされたことです。


それは、そのとき弟子たちがしたことに対するファリサイ派の人々の批判には、イエスさまご自身がお答えになっている、ということです。


イエスさまという方は、弟子たちがしたことについて、誰かが抗議し、批判してくるときに、弟子たちに答えさせるのではなく、イエスさまご自身がお答えになる、そのようなお方である、ということです。


思い返していただきたいのは、シモン・ペトロがイエスさまの弟子になったあとに行われた二人の病人を、イエスさまがいやされたときのことです。


とくに二人目の病人(中風の人)をいやされる場面で、律法学者たちやファリサイ派の人々が「神を冒涜するこの男は何者だ」と心の中で考えはじめたとき、彼らの考えを知ったイエスさま御自身がお答えになっています。


また、レビが弟子になったあとに開かれた宴会の場面で、イエスさまの弟子たちが徴税人や罪人たちと食事をしていたことについて、またユダヤ教の断食規定を守らなかったことについて、ファリサイ派の人々やその派の律法学者たちが抗議してきたときにも、イエスさまご自身がお答えになっています。


先週わたしは、イエスさまは弟子たちの行為を弁護されている、と申しました。イエスさまは、弟子たちの弁護士になってくださるのです。


もちろん、イエス・キリストの弟子であるとは、すなわち、イエス・キリストの教えに従って生きる人々であるということですから、教えを守る者たちの生き方についての責任は、教える者の側にある、と語ることができます。


しかし、たしかにそうではあっても、教える者たちの中には、その意味での責任をとらない人も、決して少なくないのです。ただ教えるだけであって、自分はその教えを守ろうとしないとか、自分の教えを守っている人が批判を受けたときには、弁護するのではなく、逃げてしまう、など。


イエスさまは、このような(厳しい言い方かもしれませんが)“無責任な”教師ではなかった、ということです。イエスさまは、批判する人々の前に立ちはだかって、弟子たちを守り、弁護してくださる、そういうお方なのです。この点は、特筆に価します。


「そして、彼らに言われた。『人の子は安息日の主である。』」


ここで「人の子」とは、イエスさま御自身のことです。ですから、「安息日の主」とは、イエスさま御自身のことです。


しかし、この意味については、注意が必要です。イエスさまは、安息日そのものを廃止するために来られた主ではありません。イエスさまの御言に、そのような意味は、ありません。


そうではなく、「安息日の主」の意味は、その日に礼拝され、讃美されるべき神御自身の御心を、自由なる意志をもって、実現されるお方である、ということに他なりません。


イエスさまが引き合いに出されたダビデの物語にも、そのことが当てはまります。


戦争をすることが正しいか間違っているか、ということは、問題にすべきことかもしれません。しかし、歴史的な事実として、そのとき戦争があり、それに参加せざるをえない人々がいた、ということまでを否定することはできません。


そういう場面において、です。お腹をすかしたままで戦いの場に人々を連れ出すことが、神の御心に適うことなのか、という問題です。そのような場面で、聖別されたパンだからという理由で、それを彼らに与えることができない、とする判断が、はたして、本当に神の御心に適うことなのか、という問題です。


ここで、わたしたち自身のことを考えることもできます。


わたしたちの信じるキリスト教安息日は、今日、まさに日曜日です。日曜日を、わたしたちは、聖別しなければなりません。


しかし、この聖別された今日の日、日曜日に、わたしたちは、どうなるのでしょうか。わたしたちは、何をするのでしょうか。


神さまに礼拝をささげること。


もちろん、そうです!


けれども、“ささげる”だけでしょうか。もっとはっきり言うなら、“奪われる”だけでしょうか。神さまから、豊かな恵みを、しっかりと“いただく”日でもなければならないのではないでしょうか。


日曜日にしっかり“いただく”ことがなくては、どうして、次の日からの仕事に、勇気と希望、喜びと感謝をもって、出かけることができるでしょうか。


「安息日の主」としてのイエス・キリストが、今日、この礼拝においても、わたしたちに、たくさんの恵みと力を与えてくださっているのです。


「また、ほかの安息日に、イエスは会堂に入って教えておられた。そこに一人の人がいて、その右手が萎えていた。律法学者たちやファリサイ派の人々は、訴える口実を見つけようとして、イエスが安息日に病気をいやされるかどうか、注目していた。イエスは彼らの考えを見抜いて、手の萎えた人に、『立って、真ん中に出なさい』と言われた。その人は身を起こして立った。」


第二の段落の主題も、第一の主題と同じです。


しかし、今度は、律法の拡大解釈とは言えません。明確な仕事でした。治療ないし医療行為です。右手の萎えた人のその手をいやされる、という仕事を、安息日に、イエスさまがなさったのです。


「そこで、イエスは言われた。『あなたたちに尋ねたい。安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、滅ぼすことか。』そして、彼ら一同を見回して、その人に、『手を伸ばしなさい』と言われた。言われたようにすると、手は元どおりになった。ところが、彼らは怒り狂って、イエスを何とかしようと話し合った。」


このイエスさまの問いは、わたしたちにも、向けられています。問われていることは、安息日の目的は何か、ということです。


神さまに礼拝をささげること。


もちろん、そのとおりです!


しかし、ここで注意しなければならないことは、“ささげる”ということでわたしたちが意識していることは、多分に、わたしたち自身の行為である、ということです。この礼拝において、わたしたちが何をなすべきか、ということです。


“ささげる”という言い方が、どうしても、その点を意識させます。わたしたちの中から、わたしたちの側から、“出て行くもの”や“失うもの”を意識せざるをえません。


しかしながら、安息日において、そして、その日にささげられる礼拝において、わたしたちが、じつは、もっと関心を向けるべきことがあるのです。


それは、この礼拝において、神さまご自身が、わたしたちにしてくださること、わたしたちに与えてくださるものは何か、ということです。


イエスさまのお答えは、もちろん、「善を行うこと」です。「命を救うこと」です。そのことを、「人の子」と称せられる「安息日の主」イエス・キリストが、わたしたちに、してくださるのです。


そのために、安息日があります。キリスト教安息日としての「日曜日」があります。


神さまがわたしたちに恵みを、喜びを与えてくださるために、礼拝が、教会が、あるのです。


(2005年3月6日、松戸小金原教会主日礼拝)