2004年11月28日日曜日

受胎告知

ルカによる福音書1・26〜38

「六ヶ月目に、天使ガブリエルは、ナザレというガリラヤの町に神から遣わされた。ダビデ家のヨセフという人のいいなずけであるおとめのところに遣わされたのである。そのおとめの名はマリアといった。」

「六ヶ月目に」とあります。何の六ヶ月目なのかということを、最初にご説明いたします。今日の個所を理解するための重要なキーワードであると思われるからです。

見ていただきたいのは1・24です。「その後、妻エリサベトは身ごもって、五ヶ月の間身を隠していた」。このすぐあとに出てくる「六ヶ月目」ですから、これは「妻エリサベト」の妊娠期間を指しているというのが、ごく自然な読み方でしょう。

しかし、これは第一の可能性です。第二の可能性があると思います。そしてわたし自身は第二の可能性のほうを選びたいのです。それは六ヶ月前に起こった出来事との関連で考えられる可能性です。

六ヶ月前に何が起こったかは、1・8以下に書かれています。

「さて、ザカリアは自分の組が当番で、神の御前で祭司の務めをしていたとき、祭司職のしきたりによってくじを引いたところ、主の聖所に入って香をたくことになった。香をたいている間、大勢の民衆が皆外で祈っていた。すると、主の天使が現れ、香壇の右に立った。ザカリアはそれを見て不安になり、恐怖の念に襲われた。天使は言った。『恐れることはない。ザカリア、あなたの願いは聞き入れられた。あなたの妻エリサベトは男の子を産む。その子をヨハネと名付けなさい。』」

この天使はガブリエルと名乗りました。マリアに現れた天使と同じです。そして、この天使の出現からまもなくして、ザカリアの妻エリサベトが男の子を身ごもりました。その名をヨハネと名付けました。のちの偉大な預言者、バプテスマのヨハネです。

それが六ヶ月前の出来事です。そして、六ヶ月目、マリアの前に、再び天使ガブリエルが現われました。つまり、「六ヶ月目」の意味の第二の可能性は、エリサベトの妊娠期間ではなく、天使ガブリエルの出現の間隔を指している、ということです。ルカは、天使の側の動きに注目し、そちらのほうを強調していると思われるのです。

この福音書の中で、次に天使が現われるのはどの場面かを、皆さんはよくご存じでしょう。最初のクリスマスイブです。野宿していた羊飼いたちの前です。「恐れるな」と、その夜も天使は言いました。ザカリアの前でも、マリアの前でも「恐れるな」と言いました。主の天使は、同じ言葉を少なくとも三回、それぞれ違う人々に向かって語りかけました。そのことをルカは、読者に伝えようとしているのです。

ルカがしているのは、要するに「天使の話」であるということです。ですから、これはもちろん、たいへん不思議な話に属します。天使の存在など信じない人々の時代にあっては、こんなのは「神話」であると言って否定する人々が出てきて当然であるとも言えます。

しかし、今日の最初に考えてみたいと願いましたことは、まさにこの問題です。「神話」と言います。「神の話」と書きます。よく考えてみますと、神さまのお名前が出てくる話は、じつはすべて「神話」なのです。

とはいえ、わたしたちの時代において「それは神話である」と言われるなら、ただちにそれは、すべてウソの話である、という意味になってしまいます。ところが、聖書は神の話で満ち満ちています。「神話」で満ち満ちています。ということは、聖書などという書物は、まったくウソに満ち満ちている、ということを意味せざるをえないのです。

しかし、わたしたちは、まさか、聖書のすべてがウソであると考えることはありません。ただ、もし「神話」という表現が誤解を招くようでしたら、「信仰の話」と言い換えるほうがよいかもしれません。なるほど、たしかに言いうることは、聖書の物語はすべて「信仰の話」です。神学も信仰の話です。信仰についての学問的認識です。しかしそれはウソの話ではありません。

次のように理解できるのではないでしょうか。エリサベトとマリア、そして羊飼いたちに天使が現われ、「恐れるな」と語りかけた。このように、彼らが信じたのです。彼らには天使の存在を信じる信仰があり、そして実際に彼らの前に天使が現われたと彼らが信じ、彼らに向かって天使が語りかける言葉を、彼らがたしかに聴いた、と信じたのです。

このことについては、だれも否定できないでしょう。もちろん、彼らの信仰の内容を、わたしたち自身の信仰として受け入れることができるかどうかは、別問題かもしれません。しかし、わたしたちは、彼らの信仰そのものを、否定することはできないのです。

「天使は、彼女のところに来て言った。『おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。』マリアはこの言葉に戸惑い、いったいこの挨拶は何のことかと考え込んだ。」

天使はマリアの前にも現われました。天使がマリアのところに現われた、とマリア自身が信じた、ということでもあるでしょう。

「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる」。この言葉に対して、マリアは戸惑ったと書いています。びっくりした、という意味です。

しかし、彼女がびっくりしたのは、天使が現われたこと自体ではありません。天使の存在自体に驚いたわけではありません。

それどころか、34節を見ますと、マリアは、天使に向かって、まるで当たり前のように言葉を返しています。天使と会話しています。彼女は天使の存在に気づかされて驚いたのではないのです。天使が語りかけてきた言葉の内容に、びっくりしたのです。

「おめでとう、恵まれた方」。これがのちに、ラテン語の「アヴェ・マリア」という表現で広く知られるようになりました。

しかし、マリアが驚いたのは「おめでとう」と言われたからでしょうか。おそらくそれも、彼女の驚きの理由に含まれると思います。おそらくそれだけでは、まだ十分な説明にはなりません。これはマリアの時代のパレスチナ地方では、ごく普通に使われていた挨拶の言葉だったからです。

もっと重大な言葉を、彼女は聞いてしまいました。「主があなたと共におられる」と。

「主」とは、神さまのことです。そして、神である主が「あなたと共におられる」ということは、そのとき、ただちに、神の救いがあなたと共にある、ということを意味します。このような言葉を聞くことができるのは、神への信仰をもって生きている人々にとっては、最も幸せなことです。

「主があなたと共におられる」。この言葉だけでも驚愕に価します。しかし、この言葉を聴いたときのマリアは、まだ、その本当の意味を知りませんでした。

「すると、天使は言った。『マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない。』」

マリアに告げられた言葉の内容は、ごく大まかに言うと、以下の点にまとめられます。

第一に、あなたは男の子を産むので、イエスと名付けなさい、ということ。第二に、その子は「いと高き方の子」と呼ばれる、ということ。第三に、この子に対して、神はダビデの王座を与えてくださり、ヤコブの家(イスラエルの民)を永遠に支配する者になる、ということです。

第一の「イエス」という名の意味については、ハイデルベルク信仰問答の第29問の答えに書かれているとおりです。イエスとは「救う者」であり、そして「罪の中から救い出す者」という意味です。ただし、このイエスという名前自体は、当時のパレスチナにおいて特別なものではなく、ごく普通のありふれた名前であったにすぎません。

第二の「いと高き方の子」と呼ばれる、ということに関して申し上げることができるのは、「いと高き方」というこの表現自体が意味していることは、必ずしも聖書的・ユダヤ教的・キリスト教的な意味での「神」に限定されるものではない、ということです。もっと広い意味であり、異教の神々や偶像のことさえ意味することがありえました。ですから、結論的に言いうることは、「いと高き方の子」という表現が、そのままただちに「神の子」を意味するというふうに、マリアが最初から理解できたとは思えないということです。

むしろ、マリアにとって最も分かりやすく、また驚くに価すると感じられたに違いないことは、第三の点です。あなたの子に神はダビデの王座を与え、ヤコブの家、イスラエルの民を支配すると言われたことです。要するに、「あなたの子どもは、イスラエルのお偉い政治家になりますよ」ということです。

しかし、これからマリアの身に起こる出来事は、それらのこととは比べ物にならない位に、もっともっと大きなことでした。「神の子」が、このわたしから産まれる。このことがマリアにとって最も驚くべき出来事であったはずです。マリアは、まだ、肝心のことに気づいていません。

「マリアは天使に言った。『どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに。』」

このときマリアが戸惑っているのは、わたしは、まだ結婚もしていないのに、子どもが産まれるはずがない、というこの点です。加えて先ほどの第三の点、あなたの息子は将来、立派な政治家になります、という知らせにも戸惑っている、と言えます。

しかし、彼女が驚くべきことは、もっともっと大きなことでした。「神の子」が生まれるのですから。マリアがすぐに事態を理解できなかったのは、ガブリエルが「いと高き方の子」というやや曖昧な表現を使っていることにも、責任があるかもしれません。

「天使は答えた。『聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六ヶ月になっている。神にできないことは何一つない。』」

天使はマリアの気持ちを察してくれた、と言いうるでしょう。マリアの抱いた差し当たりの疑問と不安の内容は、結婚していないのに子どもが産まれることなどありえない、というこの点だけでしたから。

この点については心配しなくてよい、ということです。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む」。そして「神にできないことは何一つない」と、天使は語りました。

「神にできないことは何一つない」は、一種の決めぜりふです。これを言われると、二の句が継げないものがあります。神にできないことは何一つない、と言われると、それ以上語りうる言葉も何一つなくなります。

でも、それでよいのです。神さまがすべてのことを最善に導いてくださるのです。最終局面では、すべてを神さまに任せてしまえばよいのです。

ただ、もしここで、わたしたちが、「マリアの偉大さ」ということを語りうるとしたら、この時点で彼女が次の言葉を語りえた、というこの点であると思います。

「マリアは言った。『わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身になりますように。』」

この意味は、神の御言が、そのままに、自分の身に実現し、成就しますように、ということです。十分には理解できませんが、お任せします、ということでしょう。

しかし、「どうにでもなれ」というような、投げやりな言葉ではありません。神よ、あなたの言葉を信頼し、すべてを委ね、従います、という信頼と服従の表現です。

この言葉を語ることができた人、この信仰深い女性に、主なる神は、御子のご降誕の奇跡のみわざを委ねたのです。

(2004年11月28日、松戸小金原教会主日礼拝)


2004年11月21日日曜日

十字架のほかに誇るものなし

ガラテヤの信徒への手紙6・11~18

「このとおり、わたしは今こんなに大きな字で、自分の手であなたがたに書いています。」

ここで必ず問題になることが二つあります。第一は、なぜパウロはこの部分を「大きな字で」書いたと言っているのか。第二は、なぜパウロはこの部分を「自分の手で」書いたと言っているのか、ということです。

第一の問題は「大きな字」の理由です。考えられる答えの一つは、内容を強調するために大きな字で書いた、ということです。もう一つは、パウロは大きな字しか書けなかった、ということです。

結論から言いますと、前者の説明のほうがよいと思われます。内容を強調するために、大きな字で書いたのです。しかし、後者の説明のほうがよいと考える人々もいます。その理由として挙げられるのが4・12以下に記されていることです。

パウロは、とても重い病気にかかりました。その病気の姿を見たガラテヤ教会の人々はさげすんだり忌み嫌ったりしませんでした。それどころか、自分の目をえぐり出してでもパウロに与えようとしたのです。

ですから、パウロは目の病気にかかったのではないか。パウロの目は、その後も十分に癒されることは無かったのだ。それでパウロは大きな字しか書けなくなってしまったのだ、というわけです。

しかし、パウロの病気が何であったのかは特定できません。その点がはっきりしないかぎり、この問題は解決しません。仮説の上に仮説を重ねて行くことは危険です。それよりも前者の説明のほうがよいでしょう。

第二の問題は「自筆」の理由です。ここに書いてあることを素直に受けとるとしたら、今この個所から、パウロ自身が筆をとって書きはじめた、という意味にとれます。しかし、それなら、これまでの文章は、誰が書いていたのでしょうか。

この問題については、ローマの信徒への手紙16・22の記事がおそらく参考になります。「この手紙を筆記したわたしテルティオ」という名前が出てきます。パウロには、秘書がいたのです。この点は明言されていますので確実に言いうることです。ただし、ガラテヤの信徒への手紙を筆記したのがテルティオだったかどうか、までは分かりません。

しかし、わたしたちにとって大切なことは、この手紙を筆記した人物が誰か、というようなことよりも、むしろ、パウロの伝道活動は、多くのスタッフによる助けとサポートによって成り立っていた、という事実そのものです。

パウロは、自分ひとりで何もかもしていたのではありません。それどころか、彼ひとりでは何もできなかったであろう、というべきです。

誰にも迷惑をかけたくない。わたしひとりで何でもできる。誰の助けも必要ないという思いは、まことに尊いものですが、限界もあるでしょう。

パウロでさえ、自分の手で長い文章を書いたりはしませんでした。伝道旅行にも、必ずパートナーを連れて行きました。旅行先でも、いろんな人々に助けてもらっていました。

「わたしは、誰にも迷惑をかけないで、ポックリ死にたい」と仰る方々がおられます。そのような方々には、どうか、もっとたくさん、周囲の人々に迷惑をかけてください、と申しあげたいのです。教会に大勢の人々が集まっていることの理由を考えてみていただきたいのです。

「肉において人からよく思われたがっている者たちが、ただキリストの十字架のゆえに迫害されたくないばかりに、あなたがたに無理やり割礼を受けさせようとしています。割礼を受けている者自身、実は律法を守っていませんが、あなたがたの肉について誇りたいために、あなたがたにも割礼を望んでいます。」

今日の個所、この手紙の最後には、この手紙全体の要点が書かれている、と考えることができます。内容的には、繰り返しです。もう一度全体の内容を思い返してみてください。長々と書いてきましたが、わたしの言いたかったことは要するにこの点です、ということを最後に整理し、まとめる意図があると言えます。

ガラテヤ教会の人々に、割礼を受けさせようとした人々がいました。とくに「異邦人」と呼ばれる人々は、ユダヤ人のように、幼いときに割礼を受けてはいませんでした。その異邦人たちにも割礼を受けさせるべきだ、と主張した人々がいたのです。

しかし、パウロは、そのような主張に強く反対し、また、そのようなことを語る人々に向かって激しく抗議しました。そのようなことを語る人々の中には、当時のキリスト教会の最高権威者であった使徒ペトロさえ混ざっていたのです。

そういう人に逆らって何かを語ること自体、とてもたいへんなことであると思います。とくに、当時のパウロは、キリスト教会にとっての"新入り"でしたから。

また、彼にはかつてキリスト教会に対する熱心な迫害者であった、という"前歴"がありましたから。そのような彼が、教会の中で信頼されるようになるためには、かなりの時間や努力が必要だったに違いありません。

しかし、この個所を読みながら、わたしは、もう一つの見方ができるのではないか、と思わされました。

ここでパウロは「肉において人からよく思われたがっている者たちが、ただキリストの十字架のゆえに迫害されたくないばかりに」と書いています。

これはおそらくパウロの言うとおりなのだとは思いますが、少し微妙な問題が含まれているのでは、とも感じました。とにかく一度、逆の立場から考え直してみる必要があるのではないか。パウロが激しく抗議した人々、とくに使徒ペトロの側にも、いくらか同情の余地があるのではないか、と感じたのです。

どういうことかと申しますと、たとえば、わたしたち自身のこととして考えてみたときに、同じ教会の仲間たちが、誰かから激しい迫害を受けているような姿を黙って見ていることができるでしょうか。死んでも殺されても構わないという決意や自覚は、尊いものかもしれません。しかし、実際に殺されて死んでいく人々を、冷静に直視できる人がいるでしょうか。難しいと思うのです。

たとえば、もし、このときのペトロの行動が「教会のだれ一人、もう二度と傷つけたくないし、失いたくない」という思いに根ざしたものであったとしたら、同情の余地があるはずです。全く理解できない、とまでは言い切れないものが、あるのです。

しかし、パウロの言葉のほうが、全く理解できない、と言いたいわけではありません。そういう意味ではありません。そして、パウロが語っていることこそが、どちらかといえば"弱い人々"の立場に立っていると感じます。パウロは、イエス・キリストへの信仰を告白し、洗礼を受けたばかりの、生まれたての赤ちゃんの信仰者たちの信仰を守ろうとしているのです。

迫害の手を恐れるがゆえに、迫害を受けないように、こちら側の態度を改める、というのは、結局のところ、迫害者の側に身を置くことを意味します。事実上、迫害の正当性を認めることを意味し、当時新しく誕生したばかりのキリスト教会の信仰の自由を否定することを意味します。

しかし、本当にそれでよいのか、というのがパウロの言い分である、と言えるでしょう。迫害に屈してはならないし、認めてもならない。イエス・キリストを信じて生きる自由によって生きはじめた人々の信仰を守り抜くことこそが、教会の牧者の責任ではないのか、ということを、パウロは語っているのです。

「割礼を受けている者自身、実は律法を守っていません」と書かれています。律法主義者は、少しも律法を守っていない、つまり、神の御心を行っていない、という意味です。律法主義は端的に罪なのです。

迫害を恐れて行動することには、同情の余地があります。しかし、だからといって、罪を是認することはできないのです。

「しかし、このわたしには、わたしたちの主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはなりません。この十字架によって、世はわたしに対し、わたしは世に対してはりつけにされているのです。割礼の有無は問題ではなく、大切なのは、新しく創造されることです。このような原理に従って生きていく人の上に、つまり、神のイスラエルの上に平和と憐れみがありますように。」

先ほどわたしは、パウロの道だけではなく、ペトロの道もある、少なくとも同情の余地はありうる、というような話をしました。パウロのように前に進むか、ペトロのように後ろに下がるか、です。

しかし、さらによく考えてみると、そもそも、この点で、行くべきか・戻るべきかということを判断すること自体、わたしたちキリスト者には、もはや許されていないのではないか、という問題も残るのです。

それはなぜか、と言いますと、わたしたちは、まさにパウロが言うように、今はもう、イエス・キリストと共に十字架にはりつけにされてしまっているからです。

キリストへと結び合わされ、キリストと共に生きるようになった者は、十字架にはりつけにされているのです。そこから降りることは、もはやできません。イエス・キリストと共に生きる人生を、途中でやめることはできないのです。

しかし、このことを、わたしは、何か悲壮感のようなものから、申し上げているのではありません。どんなに苦しくてもつらくても、煮え湯を飲まされても、キリスト者であることをやめることができない、というような悲壮感ではありません。

そうではないはずです。わたしたちは、救われたとき、何よりもまず、この人生を喜ぶ道を教えられたはずです。

ある先生は言いました。

「騙されたと思って、信じてください。わたし自身は、キリスト者になったこと、この信仰に生きるようになったことを、ただの一度も後悔したことはありません。」

わたしも、本当にそうだと思います。しかし、わたしは少し違った言葉でお勧めします。

「決して騙したりはしません。騙されたとは思わないで、信じてください。わたし自身は、キリスト者になったこと、この信仰に生きるようになったことを、ただの一度も後悔したことはありません。」

なぜなら、信仰によって生きるとき、わたしたちには人生の喜びが与えられるからです。罪の泥沼の中で、這いずり回り続ける苦しみから解放されるからです。

だからこそ、パウロは、「わたしたちの主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものがあってはならない」と書いています。「大きな字で、自分の手で」書いています。

わたしには、他に誇るものは何もない。何の取り柄もないし、善いところもない、と感じる。人に見せびらかすことができるようなものは、何一つ持っていない。

しかし、わたしの誇りは、十字架である。十字架につけられて死んでくださった救い主イエス・キリスト、そして、イエス・キリストと共にこのわたしがはりつけにされているこの十字架を、わたしは誇る。

あの十字架、あの救い主イエス・キリストの贖いの死ということなしには、わたしたちは、罪の中から決して救われることはなかったのです。

十字架を誇る、とは、わたしが(キリストの十字架によって)罪から救われていることを誇る、ということでもあります。

「これからは、だれもわたしを煩わさないでほしい。わたしは、イエスの焼き印を身に受けているのです。兄弟たち、わたしたちの主イエス・キリストの恵みが、あなたがたの霊と共にあるように、アーメン。」

最後の最後に、パウロは、またなんだか、ぶっきらぼうで、嫌味っぽい感じのことを書いています。

「これからは、だれもわたしを煩わさないでほしい」。

こんな手紙を二度と書きたくない、という意味かもしれません。この手紙の中には、ケンカ腰で書いたとしか思えない、非常に乱暴に書きなぐった感じの部分もありました。こんな手紙は二度と読みたくない、と思われてしまうかもしれません。

しかし、彼はただ、分かってほしかっただけなのです。パウロの願いは、信仰によって生きる人生の幸福をみんなに味わってほしいという、ただそれだけです。

割礼を受けるかどうかなど、そんなことは、どうだってよいことだ。そんなことは問題にならない。

あなたには信仰があるか。生きる喜びがあるか。それだけが問題だ。

そのことを、それだけを、彼らに分かってほしかった。ただそれだけなのです!

このパウロの願いが、わたしたちみんなの願いとなり、この手紙を読む、すべての時代の、すべての教会の、すべての信徒たちのものとなりますように、祈りましょう。

(2004年11月21日、松戸小金原教会主日礼拝)

2004年11月14日日曜日

互いに重荷を担いなさい

ガラテヤの信徒への手紙6・1~10

「兄弟たち、万一だれかが不注意にも何かの罪に陥ったなら、霊に導かれて生きているあなたがたは、そういう人を柔和な心で正しい道に立ち帰らせなさい。あなた自身も誘惑されないように、自分に気をつけなさい。互いに重荷を担いなさい。そのようにしてこそ、キリストの律法を全うすることになるのです。」

ここでパウロがガラテヤ教会の人々に勧めていることは、すべての時代のすべての教会の信徒たちが、お互いに行うべき「魂の配慮」の必要性です。

教会内で行われる、この意味での「魂の配慮」を、わたしたちは「牧会」という名で呼んできました。「牧会」という言葉そのものは、牧師の「牧」の字、教会の「会」の字が使われますので、つい牧師だけの仕事であるかのように思われがちです。しかし、この意味での牧会は、牧師だけの仕事ではありません。教会員全員の仕事です。

この「牧会」というものを信徒相互で行うことを「相互牧会」と言います。ですから、パウロが書いているのは「相互牧会のすすめ」と呼ぶことができる事柄です。

「万一だれかが不注意にも何かの罪に陥ったなら」とあります。「万一・・・不注意にも」という言葉で強調されていることは、「故意や悪意からではない罪」ということでしょう。故意や悪意は少しも無かった。しかし、たとえそうであっても、「万一・・・不注意にも」、わたしたちは罪を犯してしまうことがある、ということを、パウロは認めています。

そのような場合には、「霊に導かれて生きているあなたがた」、すなわち、聖霊のみわざにおいて救い主イエス・キリストへの信仰を与えられて生きているあなたがたは、「そういう人を柔和な心で正しい道に立ち帰らせなさい」とパウロは勧めているのです。

怖い目でにらみつけて、毛嫌いするのではありません。正反対です。「柔和な心で正しい道に立ち帰らせる」とは、罪を犯した人が真に悔い改めて、正しい信仰に基づく教会生活を再開することです。キリストの兄弟姉妹として、神の家族として、赦し合い、受け入れ合うことができるようにするために、聖書の教えに従って生きる道へと戻っていただくように、働きかけることです。そのことを、わたしたちは「牧会」において最も大切なことと考えます。

しかも、パウロは、この意味での「牧会」を「霊に導かれて生きているあなたがた」がしなさい、と言っています。わたしがします、というのではありません。牧会は伝道者・牧師だけの仕事ではありません。伝道者・牧師の仕事でもあります。しかし、それは聖霊に導かれて生きている、すべてのキリスト者の務めです。教会員全員の務めなのです。

続けて、パウロは、「あなたがた自身も誘惑されないように、自分に気をつけなさい」と書いています。この言葉には、二つの意味を考えることができます。

考えられる第一の意味は、この言葉どおり、自分自身が罪のわざへと誘惑されないようにする、自分自身への注意と反省です。

「人のふり見てわがふり直せ」と言います。「他山の石」という言葉もあります。イエスさまは、語られました。「人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである。あなたがたは、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量り与えられる」(マタイによる福音書7・1〜2)。他人の罪を裁く人は、その裁きのまなざしの中から自分自身を見失ったり、見落としたりしてはならない、ということです。

考えられる第二の意味は、当時の律法学者たちに対する厳しい批判です。

イエスさまやパウロの目から見ると、律法学者たちは、自分のことを棚に上げて、他人を批判することに熱心な人々でした。他人の問題や欠点を見つけ出しては、その人の重荷を増し加えることが得意な人々でした。彼らは「あなたのここが問題だ。ここが悪い」と、ただ指摘するだけです。イエスさまが、そしてパウロが厳しく批判した人々は、どうやら、そのあたりに、大きな問題があったのです。

他人の批判をするだけなら、簡単です。イエスさまは、次のようにも語られました。

「あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。兄弟に向かって、『あなたの目からおが屑を取らせてください』と、どうして言えようか。自分の目に丸太があるではないか。偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からおが屑を取り除くことができる」(マタイによる福音書7・3〜5)。そのとおりです。他人の問題を指摘したいと思う人は、その前に自分の問題を、まず解決することが求められているのです。

しかし、パウロの言葉は、いわばもう一歩、先に踏み込んでいます。

「互いに重荷を担いなさい。そのようにしてこそ、キリストの律法を全うすることになるのです」。ここに「互いに重荷を担う」とありますのは、以前の日本聖書協会訳の新約聖書(1954年)では「互に重荷を負い合いなさい」と訳されていました。前の訳のほうが、わたしの心には、ぴったりはまりますし、パウロの意図を明確に言い当てることができます。

「重荷を互いに負い合う」とは、わたしの重荷をあなたが負い、あなたの重荷をわたしが負う、という相互の助け合いの関係です。この関係は「相互依存関係」(インターディペンデンス)の一種であると理解できます。「完全に自立した両者の対等関係」(サイド・バイ・サイド)を、必ずしも意味しません。言うならば、わたしの目の中の丸太をあなたに取り除いてもらいながら、あなたの目の中のおが屑をわたしに取らせていただくことです。

そのような関係が、わたしたち教会の中では許されることであるし、必要なことでもあるのです。

「完全に自立した両者の対等関係」(サイド・バイ・サイド)の関係は、ある意味で理想的であると言えます。しかし、ただそれだけが、教会の中での信徒同士の協力関係のあり方である、となると、ある人々にとっては、辛いと感じるだけです。

しかし、ある人が他の人に依存しているだけの状態が、いつまでも続く、というのも、考えものです。

一方だけが重荷を負う役目、他方は重荷を負わせる役目、というような関係が固定し、ずっと続いてしまうようであれば、やっぱりちょっと困るし、できればその関係は変えていかなければならない、と感じるでしょう。一方は、毎日泣いている。他方は、毎日笑っている。それでは困ります。

つらいときは、みんな一緒。喜ぶときも、みんな一緒。このような関係は、どのようにしたら、作っていけるのでしょうか。

「実際には何者でもないのに、自分をひとかどの者だと思う人がいるなら、その人は自分自身を欺いています。各自で、自分の行いを吟味してみなさい。そうすれば、自分に対してだけは誇れるとしても、他人に対しては誇ることができないでしょう。めいめいが、自分の重荷を担うべきです。」

ここには、ずいぶんと厳しい言葉が語られているようにも感じます。しかし、ポイントは明確です。先ほど申し上げたことに付随する、もう一つの側面であると思われます。

パウロは、まず「互いに重荷を担いなさい」と書きました。先ほどわたしは、このことを「相互依存関係」(インターディペンデンス)という表現を用いて説明しました。しかし、パウロとしては、それだけで問題が解決するわけではないと思ったのでしょう。さらなる問題がある。「お互いに」というこの一点が教会の中で真剣に考え抜かれなければならないときには、どうしても避けられない問題がある、ということです。

第一の問題は、一言で言ってしまえば、そのような協力関係の中にさえ、思わず知らず、傲慢の罪というものが忍びこんでくる危険性がある、ということになるでしょう。

「互いに重荷を担う」とはいえ、現実はもう少しシビアである、という場合があります。一方には、常に「みんなの重荷を負わなければならない」と必死で踏ん張っている人々がいる。他方には、常に「わたしの重荷は全部だれかに負ってもらいたい」と感じている人々がいる。このような構造的な関係が、たとえ教会の中であっても、避けがたく起こってきてしまう、という問題です。

そういうときに、教会の中に忍び込んでくるのが、傲慢の罪であると、パウロは考えているようです。もっとも、ここでパウロが「実際には何者でもないのに、自分をひとかどの者だと思う人」と、非常に辛らつな言葉で指摘しているのは誰のことかについては、はっきり特定することができません。

「みんなの重荷を負わなければならない」という言い方そのものが傲慢だ、という意味でしょうか。「わたしの重荷は全部だれかに負ってもらいたい」という言い方のほうが傲慢でしょうか。この判断は難しいものです。

しかし、だからこそ、第二の問題が生じます。「互いに重荷を負い合う」という目標を真に達成し、実現するためには、「めいめいが自分の重荷を担う」ということが、どうしても必要であるということです。一方は全責任を負わされる、他方は全責任を丸投げする、というわけには行かないのです。

ただ、そう言いながら、わたし自身の中には、少し、どちらかと言うと弱いほうの立場を、弁護ないし応援したくなる気持ちがわいてきます。これは、教会に限った話ではありません。どこの社会にも、自分で自分の重荷を負うことが、もはや全くできない状態にある人がいるからです。自分で負える部分は、いわばゼロ。他の人に百パーセント担ってもらわなければ、生きていくことさえできない人がいるのです。

しかし、その人の重荷を担う人の側も、一苦労です。少しくらい、不平や不満を口にしたくなるときがあるでしょう。その言い分も、十分に分かるつもりです。

しかし、そういうときにこそ、わたしたちは、教会だからこそ、考えなければならないことがあるのではないでしょうか。それは、互いに重荷を担うこの場所が他ならぬ「教会」である、というこの点です。

「教会」とは、ただ単なる個人の集まりであるという以上に、組織化され、制度化された「団体」であるという性格を持っているのです。「教会」が「団体」であるかぎり、同じ負担であっても、特定の個人に偏った負担という方法ではなく、できるかぎりこの団体の総力を結集したところで「互いに担い合う」という方法がふさわしいのです。

教会の信徒同士の"魂の配慮"という意味での「牧会」ないし「相互牧会」とは何かということについて、わたしたちは、10月17日に行いました特別伝道集会の午後の第二部で、関口津矢子さんの発題から、いろいろなことを学ぶことができました。わたしも勉強させていただきました。発題の要旨が『まきば』の10月号に掲載されています。

その中で、とくに、ぜひ読み返していただきたい言葉は、以下の部分です。

「カルヴァンは、教会の組織化・制度化によって、ルターよりもいっそう教会の牧会的機能を推し進め、キリスト者がどのように生きるべきかという牧会的配慮に強調点を置きました。これが現代に受け継がれ、『教会訓練』を重んじることが改革派教会の特長になりました」(松戸小金原教会『まきば』第293号、2004年10月24日発行、5ページ)。

このことに関して、わたし自身、いつも考えさせられておりますことは、教会の組織化・制度化の目的は何か、ということです。わたしたち日本キリスト改革派教会は、おそらく日本の他のどの教派・どの教団よりも、教会の組織化・制度化ということに熱心であると思います。これは、大いに自慢してよいところです。

しかし、問題は、その目的は何か、ということです。わたしたちが重んじる教会の組織化・制度化の目的は、ただひたすら「牧会的配慮」ということが、きちんとなされていくためである、ということです。

教会には、いろんな人が集まります。しかも、多くの人々が、自分の人生に重大な危機が訪れ、大きな問題を抱えて駆け込んできます。その意味で、教会は「問題だらけ」です。「そんな言い方、しないでくださいよ」と言われるかもしれませんけれども、わたし自身は、教会とはそういうものであってよいし、そうあるべきだと考えています。

しかし、そこで、わたしたちの話が終わるわけではありません。関口津矢子さんが書いています。「わたしたちは危機的状況を乗り越えたときにこそ、信仰的な成長が与えられることを知っています。そして十分ないやしと慰めが与えられると、今度は他者を理解する者・支える者へと変えられていくのです」(同上頁)。

教会生活の「長さ」のことを言われると、立つ瀬がない、とお感じになる方がおられるようです。おそらく謙遜の表現として「教会生活の年数が長いばかりで、中身はちっとも成長していません」と言われる方がおられます。

しかし、それは禁句にしましょう。他の人々よりも少し先に救われた者たちは、やはり、今度こそは、他の人を助ける働きに就くことが求められているのです。

ただし、その場合、自分自身の重荷も、まだ少し、あるいは、たくさん、他の人々に負うてもらわなければならない状態のままであることには、変わりない。完全な意味での「自立」は、できていない。しかし、たとえそうであったとしても、他のひとの重荷を負い合おうと思う気持ちや心があるかどうかが、問われているのです。

そういう心を持っている人々が増えてくるときに、教会がぐんぐん成長しはじめます。先週、この教会のある方から伺いました。

「最近、教会に来るのが、楽しくなりました。前はそうではなかった、という意味ではありません。でも、教会の門をくぐったばかりの最初の頃は、緊張していましたし、理解できないところもありました。教会に通うのがおっくうだ、と感じたこともあります。しかし、今は、教会の中に友達もできたし、聖書の御言葉もだんだんと理解できるようになったので、教会が楽しくなりました。朝起きたときに、これから教会に行こう、という気持ちがわいてくるのです」。

この気持ちが大切ではありませんか。一つのポイントは、教会の中に友達ができた、ということです。教会の中でこそ、互いに重荷を負い合える仲間が与えられるのです。信仰によって互いに結び合わされた神の家族が与えられるのです。

そして、いわばその次に来る大事なポイントとして、この「互いに重荷を負い合おう」という一人一人の小さな心を集めて、より大きな力とするために、教会の組織化・制度化ということを、きちんとして行かなければならないのです。

この続きのところで、パウロは、いわゆる教会のお金の問題、とくに説教者への謝礼とか、牧師給与といった事柄に直接的に関わってきてしまう非常に具体的な問題を、取り上げています。わたしは牧師という立場にありますので、正直に言って、ちょっと触れにくい問題です。しかし、非常に大事なことだと思っています。

教会の組織化・制度化の目的の大きな一つに、教会財産の管理があります。しかし、そのことが直接的に、「牧会的な」問題でもあります。

なぜかといえば、わたしたちの多くが、教会の中で、信仰的なつまずきを覚え、もはや信仰生活を続けていけないのではないか、と思うほどの深い傷を受けてしまうことさえある、その最も大きな原因は、かなりの部分で、お金の問題なのです。

このことをきちんとしていくことが、教会形成において、「魂の配慮」として、最も重要なことでもあるのです。

(2004年11月14日、松戸小金原教会主日礼拝)


2004年11月8日月曜日

日本キリスト改革派教会創立宣言(1946年)現代語訳

日本キリスト改革派教会創立宣言(1946年)現代語訳

関口 康訳(改訂第2版)

2004年11月8日発行

I 第一の主張:キリスト教有神的人生観・世界観に基づく日本国家の建設

終戦後すでに九ヶ月、敗戦日本の再建は、さまざまな構想と方法とによって計画されつつあるとはいえ、聖書に「主御自身が建ててくださるのでなければ、家を建てる人の労苦はむなしい。主御自身が守ってくださるのでなければ、町を守る人が目覚めているのもむなしい」(詩編127・1)とあるのは本当のことです。宇宙と人類とを支配しておられる、全知・全能にして、このうえなく聖であられ、このうえなく愛に満ちた神を信じるのでなければ、一つの国といえども、よく建ち、よく保持される道はないのです。

このたびの世界大戦に当たっては、信教の自由ははなはだしく抑圧され、わたしたちの教会も歪められ、真理が大胆に主張されることはありませんでした。わたしたちはこのことを神の御前で恥じ、国のために憂いを持っていました。しかし、歴史を支配しておられる神の摂理により、信教の自由は、敗戦を通して、ついにわたしたちの国日本にもたらされるに至ったのです。

今後、よりよい日本の建設のために、わたしたちは、心を尽くして、歴史を支配しておられる、全能にして、この上なく善であられる神の御心にかなう者にならなくてはなりません。神の戒めに従って、神を敬い、隣人を愛し、たんに精神的・文化的側面においてだけではなく、「食べるにしろ飲むにしろ、何をするにしても、すべて神の栄光を現わす」(コリント一10・31)ことをもって最高の目的にしなければなりません。

この有神的人生観・世界観(Theistic life- and world-view)こそ、新しい日本を建設するための、ただ一つの確かな基礎である、ということは、日本キリスト改革派教会の第一の主張であり、わたしたちの熱心はここにあるのです。

ただし、真の宗教だけが国家の基礎、また文化の根底であるという主張は、国政や文化活動そのものを宗教団体の支配下に置くべきであるとする教権主義思想を意味しているわけではありません。とりわけ、地上の政権と宗教との関係について、わたしたちは、政教分離の原則(Separation of Church and State)が、近代国家の知恵であると共に、聖書の教えにかなうものであると信じていますので、信教の自由、教会の自律性を尊重するのです。

II 第二の主張:信仰告白・教会政治・善き生活を具備した教会の建設

そもそも人類は、神の御前に一体であり、等しく罪に仕える者でした。しかし、神は、罪ある人類のために、永遠の熟慮によって救いの御計画を打ちたててくださり、御子イエス・キリストの歴史的な贖いのみわざをもってこれを歴史の中に実現してくださり、永遠の生命に定められた人々に信仰をお与えになり、召してくださり、これを義と認めてくださり、神の子としてくださり、聖なる者に造りかえてくださりながら、その神が人間と共に住んでくださるのです。

これがわたしたちの信じる宗教なのであって、その救いは人類の罪の起源と共に古く、それからまた人類のまったき救いの完成の日にまで至ります。

四千年の昔、神はアブラハムをお選びになって「信仰の父」にしてくださり、彼と契約を結び、彼の子孫に恵みを与えてくださり(ただし不信仰な者はしりぞけられました)、彼らにその知恵、大能、慈愛、真理をあらさわれたのでした。

それからまた、時は満ち、御子イエス・キリストをお遣わしくださり、このお方の十字架の死と復活によってわたしたちの救いの基礎が置かれたとき、不思議な御摂理により、この救いの福音はユダヤ人の不信仰を通して全世界に及ぶことになったのです。

すなわち、神の救いは、旧約時代の一時的なユダヤ民族的な枠組みを克服して、本来有していた国際性を発揮し、使徒たちによって「すべての国民の主、世界の光」として宣べ伝えられましたので、新約時代にあって、キリスト教会は、全世界にその存在を見ることができるようになったのです。

神だけが明らかにご存じであられる、いわゆる「見えない教会」(invisible Church)は、全世界にわたって、過去、現在、未来というすべての歴史を通し、地上と天上とを貫いている、聖なる唯一の公同教会として存在しています。

しかしながら、わたしたちは、地上において、見えない教会の唯一性が、第一に信仰告白(Confession)、第二に教会政治(Church-government)、第三に善き生活(good life)という三つの要素を充分に備えている「一つの見える教会」(visible Church)として具現化されなければならないということを確信するのです。これが、日本キリスト改革派教会の第二の主張です。

1) 信仰告白

「一つの見える教会」を構成する第一の要素である「信仰告白」について言えば、教会は、この問題に関して神の栄光と自分自身の永遠の救いのために、絶え間ない霊的な闘いに励まなければなりません。新約のキリスト教会も、初代から今日に至るまで、あらゆる異端と闘い、これに勝利し、真理を保持してきたのです。わたしたちは、このキリスト教信仰の正しい伝統に立つことに熱心な者たちです。日本キリスト改革派教会が、次に記す前文を付加してウェストミンスター信仰告白ならびに大・小教理問答書を信仰基準として採用した意図も、ここにあるのです。

日本キリスト改革派教会信仰規準の前文

神がご自身の教会にお与えになった神の御言である旧・新両約聖書は、教会の唯一で無謬の正典です。聖書において啓示されている神の御言は、教会によって信仰告白されて、教会の信仰規準になるのですが、これが教会の信条というものです。教会は、昔から、使徒信条、ニカイア信条、アタナシウス信条、カルケドン信条という四つの信条を、キリスト教会の基本信条ないし公同信条として共有してきました。宗教改革の時代に至って、改革派諸教会は、それら諸信条の正統的な信仰の伝統に立ちましたが、これらに留まるのではなく、純正に福音的であろうとし、それだけではなく、すべての教理にわたり、さらに純正であると共に、すぐれて体系的である新しい信条の作成に導かれるに至ったのです。その三十数個の信条の中では、ウェストミンスター信仰規準は、聖書に教えられている教理の体系として、最も完備されているものであることを、わたしたちは確信しています。わたしたち日本キリスト改革派教会は、わたしたち自身の言葉をもって、さらに優れた信条を作成する日を祈り求めているとはいえ、このウェストミンスター信仰規準こそ、今日、わたしたちの信仰規準として最もふさわしいものであることを確信し、讃美と感謝とをもって教会の信仰規準とするのです。

2) 教会政治

第二の要素である「教会政治」に関して言えば、長老主義(presbyterianism)が聖書的教会に固有な政治形態である、と信じることをもって、わたしたち日本キリスト改革派教会は、これを純正に実施したいと願っています。監督制(episcopalianism)、会衆制(congregationalism)は、法王制(Papism)と共に、人間的見地からすれば、それぞれに長所を持っているものなのですが、教理の純正と教会の清潔を守ることのために、長老制に勝るものはありません。わたしたちは、単に伝承主義的(traditionalistic)な意味で長老制に固執しているわけではなく、健全な理性の判断によっても、長老制は最良の政治様式であると言わざるをえないのです。第二次大戦前の「日本基督教会」は、少なくとも教会規定の上では、長老制を採用していたのです。

3) 善き生活

第三の要素である「善き生活」とは何でしょうか。わたしたちは律法主義者ではありませんが、律法廃棄論者でもありません。キリストによる贖いに基づいて、聖霊なる神がわたしたちのうちに恵みとして与えてくださる聖化は、信仰者がかならず熱心に祈り求めなければならないものです。完全な聖化は、地上においては与えられません。わたしたちは、日毎に自分自身の罪の赦しを求めていきます。わたしたちは、自分に罪を犯す者の罪を赦さなければならないとはいえ、聖霊に感化されて互いに兄弟の罪を戒め合うことは、キリストにある者がしなければならないことなのです。宗教改革運動の主要な潮流である改革派教会の最大の指導者、ジャン・カルヴァンが働いたジュネーヴの教会が、信仰生活の訓練に関して模範的な実績を示したことは、多くの人が知っている事実ではないでしょうか。

このように、わたしたちは、一つの見えない教会を、第一に信仰告白、第二に教会政治、第三に善き生活という三つの要素を有する「一つの見える教会」として具現化し、これをもって唯一の聖なる公同の教会の肢であるという事実を確信させられ、わたしたちの救いの確かさを証しすることを願っています。各地に散在している各個教会(local church)の統一は、あくまでもこれら三つの要素の一致に基づくべきであり、またこの三点は、相互に深く論理的・体系的に関係づけられていますので、教理と教会政治と生活の三者は一元的なものなのです。

日本におけるプロテスタント諸派の完全合同をめざした合同運動は、「日本キリスト教団」(United Church of Christ in Japan)の成立により、いちおう目的を達成したと考える人がいます。けれども、「日本キリスト教団」は、今日に至ってもなお、今述べたような意味での一つの教会になることができているわけではありません。彼らの全面的不成功は、それを求める方法が間違っていることに原因がある、と言う他はありません。

以上の略述によって明らかにされたと言いうることは、わたしたち日本キリスト改革派教会は、ほんの少しでも、いわゆる分派的精神(sectarianism)に由来するものではありえないのだ、という一つのことです。正しい筋道に従って形成して行く教会の公同性と統一性は、わたしたちの最も大切にするところであり、わたしたちの教会の真髄なのです。

「改革派教会」(Reformed Church)という名称も、新しい造語であるかのように誤解されてはなりません。教会の歴史が明らかにしているとおり、改革派教会とは、宗教改革によって生み出されたプロテスタント諸教会の内部に組織されたひとかたまりの教会に付けられた名称です。この名をもって呼ばれている教会は、年代的にはすでに四百年以上の歴史を持っており、ヨーロッパ大陸においてはその四分の三を占めるプロテスタント諸教派の中では最大の教派なのです。

しかも、一時代的な、あるいは一地方的な性格を帯びている教派ではありません。改革派教会は、宗教改革の原則を首尾一貫して主張する真の福音主義であるだけではなく、さらに真正なる公同性と正統性をも保有するものであって、聖書的・使徒的教会の再現を標榜する教会です。イングランドやアメリカにおいて長老教会と呼ばれる教会は、すべてこれに属しているのです。

真に世界的で正統的な地上教会でありたいと志すこの光り輝く歴史的改革派教会の一つの肢として、今日、日本人によって、日本において、わたしたち日本キリスト改革派教会が組織され、設立されるに至ったことを、わたしたちは、神の深い恵みの導きとして、厚く感謝せざるをえません。

けれどもまた、わたしたちの教会の誕生が、この国のキリスト教会の歴史における画期的な一頁となり、源清く正しい進展を経由してきたキリスト教教理を堅持する教会として、果敢な進軍をなし、健全な発達を遂げて行くことこそ、日本とその国民に対して示す、わたしたちの愛の最も優れた表現なのです。

III 世界の希望としてのカルヴァン主義

世界はまさに転換しつつあります。近代世界は、すでに終止符を打たれました。新しい世代は、すでに胎動を開始しました。そうであるならば、これから迎えようとしている時代の精神的指導者となるのは、誰なのでしょうか。宗教はすでに実力を喪失し、無神論的唯物史観に場所を譲ったと断定できるでしょうか。いいえ、そうではありません。

過去を公平に静止する人々は、世界における人類の精神文化を生み出し、かつ指導してきた最大の能力は宗教であったということを、否定できません。しかも、純正な宗教の上にだけ、健全な文明は築かれたのです。

ヨーロッパ文明について、このことを見てみましょう。古代社会の危機に際し、個人の道徳観念の腐敗、国家や社会の秩序の崩壊を救い、中世文明を樹立したのはイエス・キリストの宗教(原始キリスト教)に他なりません。中世の危機に際し、同じような働きをしたのはイエス・キリストの宗教(宗教改革のキリスト教)に他なりません。今や三度目に、近代文明がまたもや危機に直面しているのです。世界は、これが救いであるというものを何に求めることができるのでしょうか。同じように、イエス・キリストの宗教(改革派のキリスト教)の他には無いのです。

宗教改革のキリスト教は、原始キリスト教の再興です。改革派教会は、この宗教改革の真理を最もよく保有している教会です。中世に原始キリスト教が、近代に宗教改革のキリスト教が、それぞれ果たした使命こそ、じつに改革派のキリスト教が次の世代に対して負うことができる大きな使命であるということは、わたしたちの自負としてというよりも、重い責任として痛感しているところなのです。

世界の希望はカルヴァン主義の神にあるのです。

神よ、あなたの栄光を仰がせてくださいますよう、お願いいたします。わたしたちは、与えられた一切をあなたにおささげしますので、あなただけを、わたしたちの神、わたしたちの希望として仰がせてください。あなたがすでにわたしたちのうちに始めてくださっている大いなるみわざを完遂してくださいますように。

アーメン。

昭和21年4月29日 (創立大会日)

原典は「教会ハンドブック 宣言集」第三刷(1988年2月20日発行)


2004年11月7日日曜日

喜びを禁じる掟はない


ガラテヤの信徒への手紙5・22~26

「これに対して、霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。これらを禁じる掟はありません。キリスト・イエスのものとなった人たちは、肉を欲情や欲望もろとも十字架につけてしまったのです。わたしたちは、霊の導きに従って生きているなら、霊の導きに従ってまた前進しましょう。うぬぼれて、互いに挑みあったり、ねたみ合ったりするのはやめましょう。」

今日の個所に書かれていることを一言でまとめて言うならば、わたしたちキリスト者に与えられる霊的な賜物とは、どのようなものか、ということです。

「霊の結ぶ実」とあります。「実」の意味はフルーツ(くだもの)です。結果という意味もあります。「霊の結ぶ実」とは、救い主イエス・キリストを信じる人の内に聖霊なる神が住み込んでくださった結果として、その人に与えられる霊的な賜物のことです。賜物とは、贈り物(プレゼント)です。

このことを理解していただくために開いていただきたい関連の個所は、マタイによる福音書7・17~18です。ここでイエス・キリストは、「すべて良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ。良い木が悪い実を結ぶことはなく、悪い木が良い実を結ぶこともできない」と語っておられます。実を見て木を知りなさい、という意味です。

しかし、これは、原因と結果の関係を機械的・法則的に結び合わせる、あの単なるいわゆる「因果論」とは異なるものである、と言わなければなりません。

マタイによる福音書をご覧いただきますと、「実を見て木を知る」という御言が記されている段落は、「偽預言者を警戒しなさい」という警告から始まっています。そして、次のように言われます。「彼らは羊の皮を身にまとってあなたがたのところに来るが、その内側は貪欲な狼である」。

ここでイエスさまが問題にしておられることは、明らかに、ひとりの人間の「内と外」、つまり、心の中にあるものと外側に見えるものとの関係です。単純に、原因と結果の関係についての話ではない、ということが分かるのです。

むしろ、ある意味で、もっと厳しいかもしれません。あの人は、あのものは、外側から見ると善いものに見えるかもしれないが、内側がひどいということがありうるから、気をつけなさい、というわけですから。

パウロの場合も、じつは、同じことが言えると思われます。

「霊の結ぶ実」、すなわち、聖霊なる神がわたしのうちに住み込んでくださった結果としてわたしに与えられる霊的賜物の意味は、このわたしの「内と外」、すなわち一人の人間の内面性と外面性は決して無関係ではありえない、ということを語っているのである、と理解することができるのです。

少し分かりにくい言い方になってしまったかもしれません。もっと平易に言い直せると思います。ごく単純に言えば、たとえば、わたしたちは、とても腹が立っているときニコニコ笑っていられることは、ほとんどありえないだろう、というようなことです。

もちろん、なかには、「顔で笑って・心で泣いて」ということが上手な方がおられるかもしれません。そのほうがオトナらしい態度であり、中身が丸見えというのはコドモっぽい、と思われるかもしれません。しかし、顔のどこかが歪んでいる。目の奥が笑っていない、ということがありえます。見抜く人は、見抜くのです。

あるいは、逆に考えてみて、その人が今このとき考えていること、心の中で思っていることが、全く外から見えないし、分からない、というのは、恐ろしいことでもあります。

児童心理学者たちが口を揃えて言うことは、「グズグズ言ったりわがままを言ったりするくらいの子どものほうが健全である」ということでしょう。

思ったことを口にできないし、表情にも表さない。質問しても答えない。固い殻に閉じこもり、無表情のマスクをかぶり、自分の中身、真の姿、あからさまな正体を寸部漏らさず隠し通してしまえる子どもがいるとしたら、周囲の人は心配になります。

いや、心配になるくらいなら、まだマシなのかもしれません。何かを隠している様子が、ほんの少しでも伺えるなら、まだ良いほうです。全く分からない。いや、じつは、自分自身でも自覚がない。自覚がない、というのが、最も恐ろしいことかもしれません。

先ほどのマタイ7章の「偽預言者を警戒しなさい」という御言にこだわるようですが、ここでイエスさまが「偽預言者」と呼んでおられるのは、明らかに、当時の宗教家たちである、ということが、ここで注目されるべき点です。

彼らは当時、最も尊敬されていたのです。誇り高い仕事でした。しかし、その宗教家たちが偽物だと。「偽預言者だ」と、イエスさまは告発されました。彼ら自身に、そうであることの自覚が無かった可能性があります。

偽預言者は本物の預言者にそっくりである、と言われます。偽キリストは本物のキリストにそっくりである、と言われるのと同じです。悪い意味でのイミテーションは、本物と見分けがつかないくらい酷似しているからこそ、商売が成り立つのです。

しかし、です。たとえ、その人々が、どんなに固い殻に閉じこもり、無表情のマスクをかぶり、また、いかなる行いにおいても善意をもって振舞うことができ、人々の尊敬を集めることができたとしても、どうしても、最後まで隠し通すことができない部分がある。本物か偽物かが、バレてしまう。

そういうところが必ずある。この点こそがまさに、イエスさまの言われる「実を見て木を知ること」であり、パウロの語る「御霊の結ぶ実」という言葉の真意です。明らかに、ひとりの人間の内側と外側との関係の問題が語られているのです。

しかし、わたしは今日ここでユダヤ教の批判をしたいわけではありません。イエスさまの時代の宗教家たちの批判をしたいわけでもありません。

あるいはまた、わたしたちの時代の、あの人・この人の批判をしたいわけでもありません。わたしたち自身の日常生活の反省や自己批判をしたいわけでもありません。そうすることは大切なことではありますが、今日の話の目的ではありません。

そうではなくて、わたしが今日申し上げたいことは、わたしたち人間は、言ってみれば、じつは「薄皮一枚」のような存在であるということです。

「神さまの目から見たら」と付け加える必要があるかもしれません。

わたしたちの内側と外側との関係、内面性と外面性との関係は、少なくとも神さまの目からご覧になったときには、まさに薄皮一枚にすぎない。透けて見える。全部見える。何もかも顕わである。神はすべてをお見通しである、ということです。神の御前で何かを隠そうだなんてことを考えること自体が愚かである、ということです。

しかし、まだ、この点だけなら、わたしたちは、どこかで責められているような気持ちが残ると思います。牧師は、何かを言いたがっている。奥歯に物が挟まったような口ぶりがある、と思われるかもしれません。

しかし、今日のポイントは、誰かへの批判でもなければ、自分への批判でもありません。むしろ、神さまの目から見るとまさに「薄皮一枚」であるこのわたしの存在は、入れ物であり、器(うつわ)であり、容器である、ということです。

そして、その入れ物の中に、もし救い主イエス・キリストを信じる信仰があり、また、その信仰を持っている人々の内側に聖霊というお方が住み込んでくださるならば、その人の存在はまさに光り輝くものになるのだ、ということです。そして、その光は、外側から見ても、よく見えるものなのだ、ということです。

まだダメでしょうか。

まだ責められているような気がする。あるいは、どこか貶(けな)されているような気がする。人間は入れ物だ。その中に宿ってくださる神が輝いている、と牧師は語る。入れ物である人間、このわたし自身は、ガラスのような存在であり、道具にすぎない、ということだ。それならば、神さまが輝くんでしょ。人間自身が輝くわけではないんでしょ、と思われるでしょうか。

しかし、そうではありません。たしかに、わたしたちは、ある意味で、わたしたちの内なる御霊の働きの輝きを外側に照らし出すことが許されている存在です。自分自身は薄皮一枚のような存在であり、透明ガラスのような存在です。けれども、わたしたちは単なる道具なのか、自分自身には存在する目的も意味もない物体にすぎないのか、というと、決してそういうことではないのです。

パウロは語ります。「霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です」。ここでまず認めたいことは、これらの“善きもの”が、わたしたちの中には確かにある、という事実です。

そして、その上で、その次に、先週学んだガラテヤ5・16以下の御言葉、とくに19節の「肉の業は明らかです」以下に書かれていた、いわゆる「悪徳表」の内容を思い起こさなければなりません。あれらの“悪しきもの”も、わたしたちの内側には、たくさん潜んでいます。そのことを完全に否定できる人は一人もいないのです。

しかしまた、このように考えてくると分かるのは、このわたしという一人の人間の中には“善きもの”と“悪しきもの”との両方が共存している、ということです。

そして、もしそうであるならば、わたしたちの中身がすべて透けて見える、ということのすべてが悪いわけではない、と考えることもできるでしょう。わたしたちの内側にあるものすべてが悪いわけではないからです。「ほらほら、見て見て」と多くの人々に見せびらかしたいものも、わたしたちの内側には確かにあると信じることができるからです。

それこそがわたしの愛、わたしの喜びです。

わたしの内に神御自身が与えてくださった喜びは、たとえば、わたしの中で、わたしを抜きにして、神さまだけが勝手に喜んでおられるというようなものではありえません。

それは全くおかしな話です。プレゼントなのですから。神の喜びがわたしの喜びになるのです。

また、わたしの平和、わたしの寛容、わたしの親切、わたしの善意です。わたしの誠実、わたしの柔和、わたしの節制です。

そういうものを、わたしたちは、いわば先天的に生まれ持っている、と語ることについては、慎重でなければならないと思います。そうかもしれないし、そうでないかもしれません。わたしたちの心の中に、生まれたときから良いものがある、ということは、絶対的に否定されるべきことではありません。

しかし、問題が起こるのは、むしろ、“生まれた後”でしょう。

「ほらほら、見て見て」と見せびらかしたいような、このわたしの内なる善きものを、見て見ぬふりをされる。全く評価してもらえない。「それがどうしたの?」と冷たくあしらわれる。「うるさいな!」と突き飛ばされる。

そのような積み重ねの中で、わたしたちは、次第に、わたしの内なる“善きもの”には意味も価値もない、と思い込み、わたしの外に追い出してしまおうとするのです。

けれども、また、ここに挙げられている“善きもの”を、パウロが「霊の結ぶ実」と呼んでいることが救いです。

なぜなら、それが人間の内に生まれる前から備わっていたもの、と言われているのではなくて、聖霊なる神の賜物である、と言われているかぎり、それは、まさに、あとから、外から、このわたしの中に入れ込まれ、混ぜ込まれた何かである、ということを意味する以外にないからです。

そうだとすれば、一度くらい失われても、いや、何度失われても、何度でも、詰め込み直すことができるものである、と信じることができます。

そうであるならば、わたしたちは、自分の中には“善きもの”がない、ということで、絶望すべきではありません。わたしの中の“善きもの”は、言うならば、「これから身につけていくことができるもの」であり、「いつでも詰め込むことができるもの」なのです。

だからこそ、わたしは、このわたしたちの小さな入れ物の中に、大いに、どんどん、大量の神の恵みを詰め込んでいきましょう、と先週申し上げたのです。

キリストの言葉があなたがたの内に豊かに宿る「ようにしましょう」。讃美歌をうたい、祈りましょう、と。

豊かに宿る「ようにする」のは、自分自身です。このわたしが、キリストの言葉を、自分の中に、たくさん詰め込むのです。それは自分の努力目標です。わたしのなすべき仕事です。これこそが、先週ご紹介しましたコロサイの信徒への手紙3・16~17の真意なのです。

御言葉と讃美と祈りは、わたしたちの存在を支える生命そのものです。これらのものが失われると、わたしたちの存在は倒れてしまうのです。

豊かな神の恵みによって、このわたしが喜びに満ちあふれる存在になること。このことを禁じる掟は、どこにもない。

喜んで、楽しんで、礼拝して、讃美して、祈って、何が悪いのか、ということです。

このわたしが喜びの人生を送ることを、誰にも、何にも、邪魔させない!

これがパウロのメッセージです。

(2004年11月7日、松戸小金原教会主日礼拝)