2004年5月23日日曜日
神与えし任務
ガラテヤの信徒への手紙2・1~10
「その後十四年たってから、わたしはバルナバと一緒にエルサレムに再び上りました。その際、テトスも連れて行きました。」
パウロは、再びエルサレムに上って行きました。「その後十四年たってから」とあります。おそらくパウロが使徒ペトロとの第一回目の会見を許された日から14年後の意味であると思われます。
そのときパウロは、彼一人ではなく、バルナバとテトスという二人の伝道者と一緒に行きました。この三人がエルサレムに上った目的は、はっきりしていました。それはもちろん、エルサレムにいた当時のキリスト教会の最高指導者であった使徒ペトロに、再び会いに行くためでした。つまり、使徒ペトロとの第二回目の会見を果たすためであったと考えることができます。
ただし、第二回目の目的は、ペトロ一人だけに会いに行くことではなかったようです。2節に「おもだった人たち」とあります。この人たちの名前は、9節に書かれています。ヤコブとケファとヨハネです。ケファは使徒ペトロのことです。ヤコブとペトロとヨハネです。9節には「柱と目されるおもだった人たち」とあります。この三人が当時の教会の中で「柱」と呼ばれていたことが分かります。
教会の三本柱です。柱が倒れると、家全体が倒れます。「柱」と呼ばれたこの三人は、当時の教会において、まさに彼らが立つか倒れるかによって、教会全体が立つか倒れるかが決まるというほどに重要な存在であったということです。
「エルサレムに上ったのは、啓示によるものでした。わたしは、自分が異邦人に宣べ伝えている福音について、人々に、とりわけ、おもだった人たちには個人的に話して、自分は無駄に走っているのではないか、あるいは走ったのではないかと意見を求めました。」
「エルサレムに上ったのは、啓示によるものでした」という一文の中で、パウロ自身が最も強調を置いているのは、「啓示」という言葉です。原文では「啓示」という言葉に、定冠詞がつけられています。「the啓示」です。「まさに啓示によって」です。この定冠詞つきの「啓示」には、神御自身がパウロに「エルサレムに行け」という命令を、何らかの仕方で啓示された、という意味が込められていると思われます。
どういう仕方かについては書かれていません。そのような夢を見た、ということかもしれません。聖霊の働きというべきかもしれません。書かれていないので分かりません。
しかし、パウロが言わんとしていることは明らかです。この手紙の冒頭から繰り返し強調されてきた、あのことです。「人々からでもなく、人を通してでもなく、イエス・キリストと、キリストを死者の中から復活させた父である神とによって使徒とされた」というこのことです。人間によるのではなく、神による。神の啓示によって、わたしは使徒とされ、伝道者とされた。エルサレムに行くことも、人間によるのではなく、神の啓示による、というこのことを、パウロは、とにかく強調しているのです。
ここで二つの問題が残っています。
第一に、パウロはなぜ、エルサレムに行く際にバルナバとテトスという二人の伝道者を連れて行ったのか。第二に、パウロはエルサレムの使徒たちに、具体的に何を言いたかったのか、です。
第一の問題を考える際に重要であると思われるポイントは、バルナバとテトスとの間にあったと考えられる国籍の違い、という点です。
バルナバの国籍についての明確な記録は見当たりませんが、テトスについてはギリシア人であったと、3節にはっきりと書かれています。テトスはギリシア生まれのギリシア人、生粋のギリシア人でした。
これに対して、バルナバは、おそらくユダヤ人であったと思われます。「バルナバは立派な人物で、聖霊と信仰とに満ちていた」と使徒言行録11・24に書かれています。彼は有能な伝道者でした。パウロがバルナバを伝道のパートナーとして選び、また、エルサレムに行く際にもパートナーとして選んだ理由は、この点にあると思われます。
しかし、テトスについては、いくらか別のことを考える必要がありそうです。テトスはギリシア人であった、というこの点が、パウロが彼を、エルサレム行きのもう一人のパートナーとして選ぼうと決心する際に決定的に重要な意味を持っていたと思われるのです。
第二の問題は、パウロはエルサレムの使徒たちのところに行って、具体的に何を言いたかったのか、ということです。
2節には「自分が異邦人に宣べ伝えている福音について、自分は無駄に走っているのではないか、あるいは走ったのではないかと意見を求めました」とあります。これだけでは何のことか、ほとんど分かりません。日本語がおかしい感じもします。
それでもいくらか分かることは、要するにパウロは、イエス・キリストの福音というものを、異邦人と呼ばれていた人々に宣べ伝えていたということです。
異邦人とは、ユダヤ人たちから見た外国人という意味以上に、異教徒という意味を持ちます。異邦人伝道とは、すなわち異教徒伝道です。別の宗教を信じている人々、そして、そこには現代的な意味の無神論者も含まれてよいと思いますが、聖書の神を信じていない人々を信仰へと導くこと、です。少し耳障りの悪い言葉を用いて言えば、その人々に改宗をしていただくことです。
パウロの仕事は、これでした。しかし、そのパウロが自分の仕事としていることとしての異邦人伝道ということ自体が、無駄なことであり、全く意味の無いことをしている、というふうに、教会の人々から見られているのではないか、ということが、少し不安になったのではないでしょうか。
ただし、今わたしが「不安になったのではないか」と言いましたのは、パウロが自分のしていることに自信を持てなくなった、という意味では全くありません。パウロはむしろ、非常に自信を持っていました。彼が不安になったのは、自分のしていることに対する自分自身の確信に揺らぎが生じたからでは全くなく、むしろ教会の人々に対する彼自身の不安、ないし不満があったからです。
わたしのしていることを無駄なことだと見る人々がいないかどうか。いるとしたら、そういう人々にはぜひとも考え方を変えてほしいと訴えるために、パウロは、エルサレムの使徒たちのもとに、乗り込んで行ったのです。これが第二の問題、パウロはエルサレムに具体的に何を言いたかったのか、という問題の答えです。
このとき、パウロは、ユダヤ教団から離脱してキリスト教会のメンバーになってから、17、8年たっていたと思われます。その頃になりますと、最初の遠慮は、そろそろ無用になるでしょう。なんでもかんでもズケズケと言うというのは、礼儀や常識という観点から言えばどうかと思うところがあります。しかし、教会に対してでさえ、はっきりと言わなければならないことがあるならば、遠慮なく言わなければならない。少なくとも伝道者たちには、教会の内部の問題に対して、率直な言葉を語らなければならない、その責任があるのです。
そして、まさにそのことを訴えるために、パウロは、テトスを、エルサレムまで連れて行ったのだ、と考えることができます。
ここで第一の問題に帰ります。先ほど申しましたとおり、テトスはギリシア生まれのギリシア人、生粋のギリシア人であるという意味で、ユダヤ人たちにとっての異邦人、そしてユダヤ教徒にとっての異教徒でした。そういう人が、しかし、イエス・キリストを信じて生きるキリスト者になり、キリストを宣べ伝える伝道者になりました。そしてその際、テトスは、ユダヤ教徒の男子が受けることになっていた割礼という儀式を、受けないままで、キリスト者になりました。
ここで間違いなく言えることは、テトスに洗礼を授けた人がそのように判断したということです。テトスが割礼を受けていないことの全責任は、彼に洗礼を授けた教師にあります。テトス自身が割礼を受けることを拒否した、という事実はありませんし、拒否する理由がテトス側にあったとは思えません。
そして、その場合、割礼を受ける意味は、そのとき、そのひとはユダヤ教徒になる、ということです。反対に、割礼を受けないということは、ユダヤ教徒にはならない、ということです。つまり、テトスに洗礼を授けた教師が判断したことは、異教徒であるギリシア人テトスは、キリスト者になるために、ユダヤ教徒になる必要は無い、ということでした。それは要するに、ユダヤ教徒になることとキリスト教徒になることとは別のことである、ということでした。
このようなことは、今のわたしたちにとっては、当たり前のことです。しかし、そのことは、当時のキリスト教会全体の中では、必ずしも、十分な意味で一致した考えや立場にはなっていませんでした。
と言いますのは、当時においてはまだ新しく生まれたばかりのキリスト教会のメンバーの大半は、生まれてすぐに割礼を受けることを習慣づけられていた(ただし、男子のみ)ユダヤ人たちだったからです。
そういう中で、当時のキリスト教会を構成していたメンバーの大半がユダヤ人であり、常識的に割礼を受けていた人々である、その中で、割礼を受けないままでキリスト教会のメンバーでありうると主張する人々が現われてきたときに、それは正しい判断かどうかということが、新しい問題として起こってきたのです。
そもそも、イエス・キリストを信じて救われるとは、罪の中から救い出されて、全く自由になること、心の重荷が取り去られて、軽くなることです。しかし、もしキリスト者になる前にユダヤ人にならなければならないということになれば、軽くなるどころか、負担がもっと増えます。たいへんだなあ、ということになるのです。
負担が減り、軽くなることが救いです。そのことを、パウロは、まさに全教会の全信徒に、受け入れてもらいたかったのです。だからこそ、パウロは、割礼を受けていないキリスト者の代表としてテトスを選び、エルサレムに連れて行ったのです。
「しかし、わたしと同行したテトスでさえ、ギリシア人であったのに、割礼を受けることを強制されませんでした。潜り込んで来た偽の兄弟たちがいたのに、強制されなかったのです。」
当時の教会のおもだった人々、つまりエルサレムの使徒たちは、テトスに洗礼を授けた教師の判断を是としました。彼らはテトスの存在を認めました。それが意味することは、異邦人・異教徒がキリスト教会のメンバーに加わる前に、まず割礼を受けてユダヤ教徒にならなければならないというようなことは、必要ないことであり、全く意味のないことである、という判断を、使徒たちが正式に下したのだ、ということです。
このことは、逆に考えてみることも大切です。もし、そうではなく、エルサレムの使徒たちが、異邦人・異教徒が割礼を受けないままで、洗礼だけを受けて、キリスト教会の仲間とみなされているテトスの存在を認めなかったとしたら、このテトスのような人々をたくさん生み出している教師の授けている洗礼は、意味が無いものである、と教会が認めることを意味することにもなったのです。
そのような洗礼を授けていた教師の、少なくとも一人は、間違いなくパウロです。テトスの洗礼が全教会の全信徒に受け入れられるかどうかという問題は、パウロの伝道方法や洗礼方法には意味があるかどうか、という問題に、直接関係していたということです。
自分が喜びと確信と誇りをもって携わっている仕事に対して、あなたのしていることは無駄であるとか、意味が無いと言われて気持ちが良い人はいないでしょう。
しかし、誤解がありませんように。パウロがエルサレムで主張したかったことは、パウロが自分の仕事に対して持っていたプライドとか自信が傷つけられることが許せなかった、というような次元に留まるものではありませんでした。
そのために、教会の教師が一人の人に洗礼を授けることの持つ意味の大きさということが、正しく理解される必要があります。それは、まさか、その教師の手柄だとか勲章だというようなことではありえません。冗談でも、そんなことを言ってはなりません。
「割礼を受けた人々に対する使徒としての任務のためにペトロに働きかけた方は、異邦人に対する使徒としての任務のためにわたしにも働きかけられたのです。」
洗礼の意味は、一人の人がイエス・キリストのものとされるということです。神がその人を、イエス・キリストのものにするということです。洗礼は神御自身の行為です。とりわけ聖霊なる神のみわざです。洗礼はそれを受けた人の人生にかかわり、生命にかかわります。そのために、教師が用いられるのです。
割礼を受けないままで受けた洗礼は有効である、ということは、エルサレムの使徒たちが認めた真理です。こうしてパウロは、異邦人たちに授けてきた洗礼は有効であると公に認められました。
それは神が認めたことです。その洗礼が無駄であるとか、意味が無いというようなことを言われるなら、その教師は、生命をかけて戦わなければならないのです。
(2004年5月23日、松戸小金原教会主日礼拝)
2004年5月16日日曜日
今は福音
ガラテヤの信徒への手紙1・18~24
「それから三年後、ケファと知り合いになろうとしてエルサレムに上り、十五日間彼のもとに滞在しましたが、ほかの人にはだれにも会わず、ただ主の兄弟ヤコブにだけ会いました。わたしがこのように書いていることは、神の御前で断言しますが、うそをついているのではありません。」
ここに記されておりますのは、この手紙の著者である使徒パウロが、イエス・キリストを救い主として信じることができるようになり、キリスト教の洗礼を受けて間もなくの頃の話です。
いわゆる初心者の時代です。悪い意味ではありません。当たり前のことですが、あの偉大な伝道者パウロにも、そのような時代があったのです。
もちろんそれは、だれにでもあります。すべてのキリスト者に初心者の時代があります。今は立派な長老たちにも、教会の中でいろいろな奉仕を熱心にくださっている人々にも、もちろん牧師たちにも、初心者の時代がありました。その頃の思い出や体験は、たいへん貴重なものです。
ただし、これから申し上げることは、少し悪い意味を含みます。おそらくすべての人に当てはまることです。神の恵みと憐れみによって、わたしは、イエス・キリストを、わたしの真の救い主として信じることができました。そして、洗礼を受けて、キリスト者としての人生を、新しく始めることができました。しかし、その後、しばらく経つと、良い意味でも、少し悪い意味でも、そのことにすっかり慣れてしまうということが起こります。
悪い意味だけではありません。どんなことでも、いつまでも初心者ということはありえません。成長していくことが望ましいし、成長していくべきです。
しかし、すっかり慣れてしまうとき、私たちは、イエス・キリストを信じて生きる者として体験する、さまざまな出来事の一つ一つを、最初の頃ほど、重く、あるいは深く受けとめないようになり、感動しなくなる、さらりと流してしまい、あまりよく覚えてもいない、というふうに、つい、なっていってしまうのです。
信仰生活は、しばしば結婚の生活にたとえられるものです。よい出会いがあり、やがて結婚した。最初は、すべてのことが、うれしくて、うれしくて、どんなことにも感動して、感謝して。しかし、そのうちすっかり慣れてしまい、一緒にいても、いないかのごとく。よく言えばお互いが空気のような存在になります。一緒に居て当たり前。居ないと困る。しかし、一緒に居るからと言って、特別に感謝するわけでもなし。
夫婦はそれでよいと思います。いつまでも、何かあるたびに大げさに騒ぐのも、わざとらしいものがあります。でも、最初の情熱を忘れることは、少し寂しいことでもあります。
イエス・キリストを信じる信仰の生活も、まさにそのようなものです。良い意味でも、少し悪い意味でも、すっかり慣れてしまうときが来る。すべて当たり前のことであるかのように感じる。新鮮さや初々しさを失い、不平や不満をたくさん口にするようにさえなる。避けがたいことですが、寂しいことでもあります。だからこそ、時間と共にますます重要な意味を持ち始めるのが、いわゆる初心者の時代の思い出であり、記憶であり、証しです。
このわたしは、どのようなきっかけで教会に通うようになったのか。どのような思いと感動をもってイエス・キリストを救い主として受け入れ、洗礼を受けたのか。内村鑑三氏の有名な書物に『余は如何にして基督信徒となりし乎』(How I become a Christian)というのがありますが、まさにこれです。このことを常に思い起こすことが大切です。
使徒パウロにも、かつてキリスト者でなかった時代がありました。しかし、心を入れ替えて、キリストを受け入れ、洗礼を受けた。「見よ、すべてが新しくなった」と力強く告白し、全く新しい人生の歩みを始めた頃があったのです。その頃、何があったのでしょうか。今日はそのことを学びたいと思います。
パウロが洗礼を受けた場所は、ダマスコという町でした。その一連の出来事についての比較的詳しい記録が使徒言行録9章にあります。もちろん当時、そのダマスコの町にも、私たちがそう呼ぶところの"教会"が存在したわけです。
ダマスコの教会でパウロに洗礼を授けた人は、その町に住んでいたアナニアという人でした。そしてパウロは、しばらくの間、ダマスコの町にとどまって、イエス・キリストの福音を宣べ伝えること、すなわち伝道の働きを行いました。こうして、ダマスコは、パウロの人生におけるまさに決定的な転換点となり、思い出の場所となりました。
こういうことは非常に大事なことです。すべてのキリスト者にパウロにとってのダマスコがあるはずです。そこで全く心を入れ替えた場所。イエス・キリストを受け入れた場所。人生の新しい出発における原点。このわたしの人生が決定的な仕方で全く方向転換してしまった場所。
皆さんにとって、それはどこでしょうか。松戸市小金原である、という方もおられるでしょう。そして、これからも、この町、この教会が、このわたしのダマスコである、と告白する人々が生み出されていくでしょう。
まさにこの意味で、私たちの人生において教会の果たすべき役割は、非常に大きいのです。
こうして、パウロは洗礼を受けた後、しばらくダマスコの町を中心に、活動していました。「それから三年後、ケファと知り合いになろうとしてエルサレムに上り、十五日間彼のもとに滞在しました」とある中の「ケファ」とは、使徒ペトロのことです。その意味は「岩」です。
これはイエスさまご自身が付けた名前です。ペトロの本名、彼の親がつけた名前は、シモンでした。このシモンにイエスさまがペトロと名づけ、しばしばシモン・ペトロと呼びました。ペトロの意味がケファ、つまり岩です。これは覚えていただく必要があります。
ところで、パウロがなぜ「ケファと知り合いになろうとして」エルサレムに上ったのか、その理由は何でしょうか。
ケファ、すなわち使徒ペトロは、いちばん最初にイエスさまの弟子になり、イエスさまが最も愛された弟子の一人であったことから、イエスさまの復活以後に生まれたキリスト教会における最高指導者になっていました。この教会の最高指導者としてのペトロと知り合いになるために、パウロは、ペトロのいるエルサレムに上っていったのです。
そして、そのときペトロは、パウロとの会見を許可しました。「十五日間彼のもとに滞在しました」と書かれているとおりです。
一つ、細かいことですが、別の翻訳の聖書の中には、「十五日間」ではなく「二週間」と訳されているものがあります。「二週間」ならば、十四日間です。どちらが正しいかは、わたしには判断がつきません。
ただ、はっきりしていることは、教会が公の礼拝を行うのは日曜日です。滞在が十五日間であれ、十四日間であれ、その間に二度、公の礼拝が行われ、そこに大勢のキリスト者が集まったはずです。もちろん、それ以外の日にも、祈祷会はじめ、いろいろな集まりが行われていましたので、そこにもパウロは出席したはずです。そして、個人的にペトロと会い、いろいろなことを語り合ったに違いありません。
ただの観光旅行ではありません。滞在先の町の教会で行われる礼拝に出席するために、出かけていくのです。二週間あれば、その地の礼拝に、少なくとも二回は出席できます。私たちにとっても、比較的長期の旅行は、いずれにせよ、"教会訪問"の意味を持ちます。
そして、先ほど、わたしは「そのときペトロは、パウロとの会見を許可しました」と申しました。あえて少し微妙な言い方をしました。ペトロは、当時のキリスト教会の最高指導者として、そのとき初めて訪ねてきたパウロとの会見を拒否する権限も持っていた、と理解すべきです。
そのように理解しなければならない理由は、はっきりしています。パウロはかつて、まさに熱心なユダヤ教徒として、まさに熱心なキリスト教迫害者だったからです。
パウロは、教会の「敵」でした。より正確に言えば、パウロが教会を「敵」とみなしていました。そして、教会に対する実際的な暴力や虐待もパウロ自身の手によって行われていました。当時の教会の中には、パウロ自身によって殺された人々の家族や仲間もいたはずです。そんなパウロと教会の最高指導者であるペトロとが、どうして会わなければならないのでしょうか。
易々と会ってよいはずがない。会うとなれば、それはまさに歴史的な大事件です。
しかし、その会談は実現しました。ペトロがパウロとの会見を許可したのです。パウロというあの凶暴なキリスト教迫害者が、全く心を入れ替え、洗礼を受けて、キリスト者になり、教会の仲間に加わったということが、正式かつ公に認められたのです。
別の言い方をするなら、そのとき、教会が公にパウロの罪を赦したのです。ですから、ここで理解しなければならないことがあります。この個所にパウロが書いていることは、「ちょっとエルサレムまで旅行してきました」とか、「ちょっとペトロさんに会ってきました」というような軽い調子の話ではありえない、ということです。
それは、パウロ自身にとっても、教会にとっても、重大な歴史的事件であった、ということです。少なくともパウロ自身にとっては、教会に対して自分が犯した罪を、教会が赦してくれたということを、感謝と喜びをもって実感し、体験することができた、決定的な瞬間を意味しています。
わたしは間違っていた、ということを、深く反省もしたでしょう。そして、彼は、救われたはずです。
そして、そのことは、教会の側にとっても、必ず大きな意味を持ちます。自分たちを迫害していた人を、自分の家族や仲間を殺した相手を、赦して受け入れるというわけですから。そんなことは、簡単にはできないことです。そうではないでしょうか。
「その後、わたしはシリアおよびキリキアの地方へ行きました。キリストに結ばれているユダヤの諸教会の人々とは、顔見知りではありませんでした。ただ彼らは、『かつて我々を迫害した者が、あの当時滅ぼそうとしていた信仰を、今は福音として告げ知らせている』と聞いて、わたしのことで神をほめたたえておりました。 」
なんとなく、さらっと書いているように感じなくもありませんが、ここに書かれていることは、ものすごい内容を持っている、ということは、これまでお話しいたしましたことで、理解していただけるはずです。
ペトロとの会見を許されたパウロの後日談です。教会が、正式かつ公に、パウロをキリスト教会の仲間として受け入れることができた、その後のことが、書かれています。
「その後、パウロが、シリアおよびキリキア地方の教会に行ったとき、その人々とは顔見知りではなかったのに、彼らは、わたしのことで、神をほめたたえていた。」
このわたしが救われたこと、そして「かつての迫害者が、あの当時は滅ぼそうとしていたこの信仰を、今は福音として告げ知らせている」ことを、喜んでくれていた。
エルサレムにいるペトロや他の使徒たちだけがパウロを受け入れただけではなく、世界のキリスト教会全体が、このわたしを受け入れてくれた。
そのことを実感したパウロの心に、感謝と喜びがあふれたに違いありません。
ひとの罪を赦すことも、赦されることも、簡単なことでも、当たり前のことでもありません。たとえ、それが救い主イエス・キリストのご命令であっても、そこがキリストの体なる教会の要請であっても、です。しかし、それが実現するとき、ひとの心は、感謝と喜びに満たされます。
パウロ自身が、その感謝、その喜びを、最も深く知っている一人です。このわたしの罪が赦された、というその思い出、その記憶、その証しが、その後の彼の人生を支える力となりました。
だからこそ、彼もまた、ひとの罪を赦すために来てくださった救い主イエス・キリストを信じる信仰を、「今は福音として」宣べ伝えることができました。そして、イエス・キリストの体なる教会を、この地上に建て上げていく仕事のために、全生涯をささげることができたのです。
(2004年5月16日、松戸小金原教会主日礼拝)
2004年5月9日日曜日
母の胎から
ガラテヤの信徒への手紙1・11~17
「兄弟たち、あなたがたにはっきり言います。わたしが告げ知らせた福音は、人によるものではありません。」
わたしが告げ知らせた福音は、人によるものではない。パウロが福音を告げ知らせたのは誰に対してか。もちろん、「あなたがた」です。この手紙の宛先であるガラテヤ教会の人々です。
福音とは、パウロ自身が語った言葉です。あなたがたガラテヤ教会の人々は、わたしが告げ知らせた福音をたしかに聴いた。しかし、あなたがたが聴いたわたしの言葉は、人によるものではない、とパウロは言います。
別の翻訳の聖書によりますと、「人によるものではない」の部分は、「人間の事柄ではない」と訳されています。「人間的な事柄ではない」と訳すこともできます。福音の言葉は「人間の事柄」あるいは「人間的な事柄ではない」としたら、誰の事柄、あるいは誰的な事柄だというのでしょうか。
「わたしはこの福音を人から受けたのでも教えられたのでもなく、イエス・キリストの啓示によって知らされたのです。」
これは驚くべき言葉です。パウロは、福音の言葉を人から受けたのでも教えられたのでもなく、イエス・キリストの啓示によって知らされた、と書いています。
しかし、パウロは、たしかに彼自身が書いたとされる別の手紙の中で、次のように書いています。コリントの信徒への手紙一15・3を見てください。
「最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。」
ここでパウロが「最も大切なこと」と言っているのは、福音のことです。福音とは、喜びの知らせという意味です。父なる神が、キリストを通して、わたしたちこの地上に生きる人々を、罪の中から救い出してくださる。わたしたちは、罪から全く自由なものとして生きることができるようになる。それは喜ばしいことです。まさにその喜び、救いの喜びを告げ知らせる喜ばしい知らせのことを、福音と呼ぶのです。
この喜ばしい知らせとしての福音を、パウロは、「わたしも受けた」とコリントの信徒への手紙には、たしかに述べています。福音とは、自分で考え出すもの、瞑想を通して悟るものではありません。全く正反対です。福音とは、伝え聞くもの、受け継ぐものです。
しかし、パウロは、コリントの信徒への手紙においても、その福音を人から受け継いだとは書いていません。「わたしも受けた」と書いているだけです。
それでは、だれから受けたのか。イエス・キリスト御自身から受けた、とパウロは主張します。どうやって?「イエス・キリストの啓示によって知らされた」とあります。啓示とは、日本語の文字通り「啓き示すこと」です。雲に覆われた太陽が、雲の後ろから出てくるごとくです。隠されたものが明らかにされることです。
「イエス・キリストの啓示」とあります。これは誤訳ではありませんが、事柄をいくらか分かりにくくしてしまう訳かもしれません。
事柄に即して言えば、「イエス・キリストという啓示」です。救い主イエス・キリストは神の啓示そのものです。啓示そのものとしてのイエス・キリストです。雲に覆われた太陽はイエス・キリストの父なる神でもありますが、神の御子なるイエス・キリスト御自身でもあります。
イエス・キリストは、神の御子であると同時に、世界の中に生まれ、生活し、生きた一人の歴史上の人物でもあります。一人の歴史上の人物が、父なる神からこの地上に遣わされ、父なる神御自身の御言を世界の人々に宣べ伝えてくださったのです。
パウロは、このイエス・キリストを知りました。しかしパウロは、イエス・キリストを信じる者になる前に、イエスさまの地上におけるお姿を見たことがあるとか、実際に語り合ったことがある、ということを、書いている個所はありません。
たとえば、イエスさまがゴルゴタの丘の上で十字架につけられたとき、多くの人々がその場面を見ていますが、その中にパウロがいたかどうかということは、聖書のどこにも書いていないので、分かりません。反対に、全く見たことがない、ということも、どこにも書いていません。
しかし、パウロにとって、そのこと自体は、あまり問題ではなかったようです。パウロにとって「イエス・キリストの啓示」とはどのようなものであったかを知るために決定的に重要な聖書の個所は、使徒言行録9・1以下です。
この個所で、パウロはまだ「サウロ」と呼ばれていましたが、主の弟子たち、すなわち救い主イエス・キリストを信じる人々を脅迫し、殺そうと意気込んでいました。その様子は、今日の個所にもはっきりと書かれています。
「あなたがたは、わたしがかつてユダヤ教徒ととして、どのようにふるまっていたかを、聞いています。わたしは、徹底的に神の教会を迫害し、滅ぼそうとしていました。また、先祖からの伝承を守るのに人一倍熱心で、同胞の間では同じ年ごろの多くの者よりもユダヤ教に徹しようとしていました。」
パウロは、かつて、人一倍熱心なユダヤ教徒として、キリスト教徒を迫害し、血祭りに上げ、抹殺することを、自分の使命としていました。この人がのちに熱心なキリスト教徒になることなど、その当時のパウロを知っている人にとっては、考えられないようなこと、想像を絶することであった、と言えるほどです。
皆さんの中には、「あなたがクリスチャンになるだなんて、想像を絶することでした」と言われたことがある方は、おられませんか。
ところが、そのパウロがキリスト教徒迫害のための旅をしていたとき、突然、天からの光が彼の周りを照らし、「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか」と呼びかける声を聞いた、というのです。
それに対してパウロが「主よ、あなたはどなたですか」と言うと、答えがありました。「わたしは、あなたが迫害しているイエスである」。このような声が聞こえてきた。この声をパウロは、イエス・キリスト御自身の声であると信じたのです。信じることができたのです。
「そんなの、おかしいよ!」と感じる方がおられるかもしれません。どこからともなく聞こえてくる声が、イエス・キリストの声かどうか、どうして分かるのか。それはあなた自身の心の声かもしれない。だれかが言った言葉を心のどこかで覚えていて、それを思い出しただけだ、というような見方もありうるだろうと思います。
しかし、これは、真実が何であれ、パウロ自身の信仰なのです。パウロが聞いたのは人の声ではなく、キリストの声であった。この出来事を、彼が、そのように受けとめたこと自体を、だれもとやかく言うことはできません。
少し開き直ったような言い方を許していただくならば、わたしたちにとって信仰というのは、いずれにせよ、そんなようなものです。わたしがこれをそのように信じる、と言いきってしまえば、それはもう、だれも手をつけることができない、一つの聖域を作り出すことになります。
わたしは、このことを、悪い意味で言っているわけではありません。信仰とは、いずれにせよ、そういうものだと言いたいだけです。
16世紀スイスの宗教改革者カルヴァンは、まさにこの事態を「キリストとの神秘的結合」と呼びました。イエス・キリスト御自身とキリストを信じるわたしたちの関係は、まさに神秘的に結合し、一体となっているのです。
それは人間同士の結婚関係にたとえられるものです。その関係の中に、第三者が介入する余地は全くありえない。いや、介入の余地があってはならないのです。だれが何と言おうと、このわたしがキリストから引き離されることはありえないのです。他の誰からも、文句を言われたり、注文をつけられる筋合いにもないのです。
たとえば、牧師になるという決心をして、神学校に入学する人がいます。彼らは一様に「神がわたしをお召しになった」と言います。そのように言わない、または言えない人には、神学校は入学を許さないでしょう。
ところが、そのことを、たとえばキリスト者ではない家族の人々の中には「ホントかいな?」と疑う人もいるに違いない。彼がまだ小さな子どもだった頃からよく知っている人々にとっては、「あの子がねえ」と、思わず笑ってしまうようなことでさえある。
しかし、これはまさに信仰であり、信仰以外の何ものでもない、と認めざるをえません。その信仰を抱いた人々は、自分勝手な思い込みだとか何だとか、だれから何を言われても、甘んじて受けるしかありません。
ただし、その信仰を抱いた人々が、その次にしなければならないことがあります。それは、一言で言えば、証しです。その信仰を自分の身をもって証明することが、求められるのです。
わたしはイエス・キリストの声を聞いた。キリストの御言を宣べ伝える者になるように、キリスト御自身がこのわたしにお命じになった。このことを信じた人は、実際にキリストの御言を宣べ伝えなければなりません。そして、御言を宣べ伝えることをやめてはなりません。
いや、やめることができません。彼は、キリストの言葉を聞いてしまった人なのです。
ある先生から教えられたことです。キリストの福音を宣べ伝えるとは、ちょうど、うわさ話を、人から人へと耳打ちしていくことに等しい、と。「こんなことがあったんだって、すごいでしょ?」「え、ホント?」。
わたしたちは自分に耳打ちされた言葉が、驚くべき内容を持ち、非常に興味深く、かつ面白いものであれば、おそらく必ず、別の人にも伝えたいと感じます。だれかに言いたくて言いたくて、たまらなくなります。
「松戸小金原教会に新しい牧師さんが来たんだって」「え、うそー、どんな人」「えーとねー」。
残念な話を聞いたときは、別の人に話したいと思わないかもしれません。
伝道とは何かを、考えさせられます。あるいは、とくに教会ということを考える場合、毎週日曜日に行われる礼拝の説教とは何かを考えさせられます。
イエス・キリストの御言を聞いたのは、パウロだけではありません。十二人の使徒たち、そしてまた、多くの主の弟子たちも聞きました。彼らは、イエス・キリストから聞いた言葉を、別の人々に耳打ちしました。それが驚くべき言葉であり、興味深い言葉であり、面白い言葉であったから、それを聞いた人々は、さらに別の人々にも耳打ちしました。
今日わたしたちが福音の御言を聞くことができるのは、この耳打ちが二千年間も続けられてきた結果なのです。
「しかし、わたしを母の胎内にあるときから選び分け、恵みによって召し出してくださった神が、御心のままに、御子をわたしに示して、その福音を異邦人に告げ知らせるようにされたとき、わたしは、すぐ血肉に相談するようなことはせず、また、エルサレムに上って、わたしより先に使徒として召された人たちのもとに行くこともせず、アラビアに退いて、そこからダマスコに戻ったのでした。」
ここでパウロが書いていることは何でしょうか。これは明らかに、彼が宣べ伝えた福音は人によるのではない、ということを、極限まで突き詰めていくと、こういう話になる、という一つの究極表現である、と言えます。
「母の胎内にあるときから」と、パウロは言い切ります。これは間違いなく、非常に過激な言葉です。聴く人によっては腹を立ててしまうかもしれないほど過激です。なぜなら、これは、いわゆる教育の賜物というべき要素を、根本的に問いに付す言葉になりうるからです。
わたしたちは、教会とそれぞれの家庭において、信仰教育ということを考えざるをえません。自分の子どもたち、日曜学校の生徒たち、自分自身が、教会や家庭で聖書を学ぶ。教会が学校になり、先生がいて生徒がいる。家庭が学校になり、親が先生になり、子どもが生徒になる。そのこと自体が間違っているわけでは、決してありません。
ところが、だれかある先生のおかげで、わたしは信仰を持つことができたとか、御言を宣べ伝える伝道者になることができたという言い方に根本的・究極的な疑問符を付けるのが、このパウロの言葉です。
「母の胎内にあるときから、神がわたしをお選びになった」。
恩知らずな言葉かもしれません。しかし、信仰に関しては、恩知らずでもよいのです!恩知らずであることが許されるのです。
だれのおかげでもない、神よ、あなた御自身が、このわたしが母の胎内にあるときから、だれの教育も影響も受けていないそのときから、このわたしを召してくださっていたのである、というこの一点を信じることができるときに、その信仰が本物の信仰になるのです。
人の支えによって立つのではなく、神御自身の支えによって立つ信仰になるのです。
(2004年5月9日、松戸小金原教会主日礼拝)
「兄弟たち、あなたがたにはっきり言います。わたしが告げ知らせた福音は、人によるものではありません。」
わたしが告げ知らせた福音は、人によるものではない。パウロが福音を告げ知らせたのは誰に対してか。もちろん、「あなたがた」です。この手紙の宛先であるガラテヤ教会の人々です。
福音とは、パウロ自身が語った言葉です。あなたがたガラテヤ教会の人々は、わたしが告げ知らせた福音をたしかに聴いた。しかし、あなたがたが聴いたわたしの言葉は、人によるものではない、とパウロは言います。
別の翻訳の聖書によりますと、「人によるものではない」の部分は、「人間の事柄ではない」と訳されています。「人間的な事柄ではない」と訳すこともできます。福音の言葉は「人間の事柄」あるいは「人間的な事柄ではない」としたら、誰の事柄、あるいは誰的な事柄だというのでしょうか。
「わたしはこの福音を人から受けたのでも教えられたのでもなく、イエス・キリストの啓示によって知らされたのです。」
これは驚くべき言葉です。パウロは、福音の言葉を人から受けたのでも教えられたのでもなく、イエス・キリストの啓示によって知らされた、と書いています。
しかし、パウロは、たしかに彼自身が書いたとされる別の手紙の中で、次のように書いています。コリントの信徒への手紙一15・3を見てください。
「最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。」
ここでパウロが「最も大切なこと」と言っているのは、福音のことです。福音とは、喜びの知らせという意味です。父なる神が、キリストを通して、わたしたちこの地上に生きる人々を、罪の中から救い出してくださる。わたしたちは、罪から全く自由なものとして生きることができるようになる。それは喜ばしいことです。まさにその喜び、救いの喜びを告げ知らせる喜ばしい知らせのことを、福音と呼ぶのです。
この喜ばしい知らせとしての福音を、パウロは、「わたしも受けた」とコリントの信徒への手紙には、たしかに述べています。福音とは、自分で考え出すもの、瞑想を通して悟るものではありません。全く正反対です。福音とは、伝え聞くもの、受け継ぐものです。
しかし、パウロは、コリントの信徒への手紙においても、その福音を人から受け継いだとは書いていません。「わたしも受けた」と書いているだけです。
それでは、だれから受けたのか。イエス・キリスト御自身から受けた、とパウロは主張します。どうやって?「イエス・キリストの啓示によって知らされた」とあります。啓示とは、日本語の文字通り「啓き示すこと」です。雲に覆われた太陽が、雲の後ろから出てくるごとくです。隠されたものが明らかにされることです。
「イエス・キリストの啓示」とあります。これは誤訳ではありませんが、事柄をいくらか分かりにくくしてしまう訳かもしれません。
事柄に即して言えば、「イエス・キリストという啓示」です。救い主イエス・キリストは神の啓示そのものです。啓示そのものとしてのイエス・キリストです。雲に覆われた太陽はイエス・キリストの父なる神でもありますが、神の御子なるイエス・キリスト御自身でもあります。
イエス・キリストは、神の御子であると同時に、世界の中に生まれ、生活し、生きた一人の歴史上の人物でもあります。一人の歴史上の人物が、父なる神からこの地上に遣わされ、父なる神御自身の御言を世界の人々に宣べ伝えてくださったのです。
パウロは、このイエス・キリストを知りました。しかしパウロは、イエス・キリストを信じる者になる前に、イエスさまの地上におけるお姿を見たことがあるとか、実際に語り合ったことがある、ということを、書いている個所はありません。
たとえば、イエスさまがゴルゴタの丘の上で十字架につけられたとき、多くの人々がその場面を見ていますが、その中にパウロがいたかどうかということは、聖書のどこにも書いていないので、分かりません。反対に、全く見たことがない、ということも、どこにも書いていません。
しかし、パウロにとって、そのこと自体は、あまり問題ではなかったようです。パウロにとって「イエス・キリストの啓示」とはどのようなものであったかを知るために決定的に重要な聖書の個所は、使徒言行録9・1以下です。
この個所で、パウロはまだ「サウロ」と呼ばれていましたが、主の弟子たち、すなわち救い主イエス・キリストを信じる人々を脅迫し、殺そうと意気込んでいました。その様子は、今日の個所にもはっきりと書かれています。
「あなたがたは、わたしがかつてユダヤ教徒ととして、どのようにふるまっていたかを、聞いています。わたしは、徹底的に神の教会を迫害し、滅ぼそうとしていました。また、先祖からの伝承を守るのに人一倍熱心で、同胞の間では同じ年ごろの多くの者よりもユダヤ教に徹しようとしていました。」
パウロは、かつて、人一倍熱心なユダヤ教徒として、キリスト教徒を迫害し、血祭りに上げ、抹殺することを、自分の使命としていました。この人がのちに熱心なキリスト教徒になることなど、その当時のパウロを知っている人にとっては、考えられないようなこと、想像を絶することであった、と言えるほどです。
皆さんの中には、「あなたがクリスチャンになるだなんて、想像を絶することでした」と言われたことがある方は、おられませんか。
ところが、そのパウロがキリスト教徒迫害のための旅をしていたとき、突然、天からの光が彼の周りを照らし、「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか」と呼びかける声を聞いた、というのです。
それに対してパウロが「主よ、あなたはどなたですか」と言うと、答えがありました。「わたしは、あなたが迫害しているイエスである」。このような声が聞こえてきた。この声をパウロは、イエス・キリスト御自身の声であると信じたのです。信じることができたのです。
「そんなの、おかしいよ!」と感じる方がおられるかもしれません。どこからともなく聞こえてくる声が、イエス・キリストの声かどうか、どうして分かるのか。それはあなた自身の心の声かもしれない。だれかが言った言葉を心のどこかで覚えていて、それを思い出しただけだ、というような見方もありうるだろうと思います。
しかし、これは、真実が何であれ、パウロ自身の信仰なのです。パウロが聞いたのは人の声ではなく、キリストの声であった。この出来事を、彼が、そのように受けとめたこと自体を、だれもとやかく言うことはできません。
少し開き直ったような言い方を許していただくならば、わたしたちにとって信仰というのは、いずれにせよ、そんなようなものです。わたしがこれをそのように信じる、と言いきってしまえば、それはもう、だれも手をつけることができない、一つの聖域を作り出すことになります。
わたしは、このことを、悪い意味で言っているわけではありません。信仰とは、いずれにせよ、そういうものだと言いたいだけです。
16世紀スイスの宗教改革者カルヴァンは、まさにこの事態を「キリストとの神秘的結合」と呼びました。イエス・キリスト御自身とキリストを信じるわたしたちの関係は、まさに神秘的に結合し、一体となっているのです。
それは人間同士の結婚関係にたとえられるものです。その関係の中に、第三者が介入する余地は全くありえない。いや、介入の余地があってはならないのです。だれが何と言おうと、このわたしがキリストから引き離されることはありえないのです。他の誰からも、文句を言われたり、注文をつけられる筋合いにもないのです。
たとえば、牧師になるという決心をして、神学校に入学する人がいます。彼らは一様に「神がわたしをお召しになった」と言います。そのように言わない、または言えない人には、神学校は入学を許さないでしょう。
ところが、そのことを、たとえばキリスト者ではない家族の人々の中には「ホントかいな?」と疑う人もいるに違いない。彼がまだ小さな子どもだった頃からよく知っている人々にとっては、「あの子がねえ」と、思わず笑ってしまうようなことでさえある。
しかし、これはまさに信仰であり、信仰以外の何ものでもない、と認めざるをえません。その信仰を抱いた人々は、自分勝手な思い込みだとか何だとか、だれから何を言われても、甘んじて受けるしかありません。
ただし、その信仰を抱いた人々が、その次にしなければならないことがあります。それは、一言で言えば、証しです。その信仰を自分の身をもって証明することが、求められるのです。
わたしはイエス・キリストの声を聞いた。キリストの御言を宣べ伝える者になるように、キリスト御自身がこのわたしにお命じになった。このことを信じた人は、実際にキリストの御言を宣べ伝えなければなりません。そして、御言を宣べ伝えることをやめてはなりません。
いや、やめることができません。彼は、キリストの言葉を聞いてしまった人なのです。
ある先生から教えられたことです。キリストの福音を宣べ伝えるとは、ちょうど、うわさ話を、人から人へと耳打ちしていくことに等しい、と。「こんなことがあったんだって、すごいでしょ?」「え、ホント?」。
わたしたちは自分に耳打ちされた言葉が、驚くべき内容を持ち、非常に興味深く、かつ面白いものであれば、おそらく必ず、別の人にも伝えたいと感じます。だれかに言いたくて言いたくて、たまらなくなります。
「松戸小金原教会に新しい牧師さんが来たんだって」「え、うそー、どんな人」「えーとねー」。
残念な話を聞いたときは、別の人に話したいと思わないかもしれません。
伝道とは何かを、考えさせられます。あるいは、とくに教会ということを考える場合、毎週日曜日に行われる礼拝の説教とは何かを考えさせられます。
イエス・キリストの御言を聞いたのは、パウロだけではありません。十二人の使徒たち、そしてまた、多くの主の弟子たちも聞きました。彼らは、イエス・キリストから聞いた言葉を、別の人々に耳打ちしました。それが驚くべき言葉であり、興味深い言葉であり、面白い言葉であったから、それを聞いた人々は、さらに別の人々にも耳打ちしました。
今日わたしたちが福音の御言を聞くことができるのは、この耳打ちが二千年間も続けられてきた結果なのです。
「しかし、わたしを母の胎内にあるときから選び分け、恵みによって召し出してくださった神が、御心のままに、御子をわたしに示して、その福音を異邦人に告げ知らせるようにされたとき、わたしは、すぐ血肉に相談するようなことはせず、また、エルサレムに上って、わたしより先に使徒として召された人たちのもとに行くこともせず、アラビアに退いて、そこからダマスコに戻ったのでした。」
ここでパウロが書いていることは何でしょうか。これは明らかに、彼が宣べ伝えた福音は人によるのではない、ということを、極限まで突き詰めていくと、こういう話になる、という一つの究極表現である、と言えます。
「母の胎内にあるときから」と、パウロは言い切ります。これは間違いなく、非常に過激な言葉です。聴く人によっては腹を立ててしまうかもしれないほど過激です。なぜなら、これは、いわゆる教育の賜物というべき要素を、根本的に問いに付す言葉になりうるからです。
わたしたちは、教会とそれぞれの家庭において、信仰教育ということを考えざるをえません。自分の子どもたち、日曜学校の生徒たち、自分自身が、教会や家庭で聖書を学ぶ。教会が学校になり、先生がいて生徒がいる。家庭が学校になり、親が先生になり、子どもが生徒になる。そのこと自体が間違っているわけでは、決してありません。
ところが、だれかある先生のおかげで、わたしは信仰を持つことができたとか、御言を宣べ伝える伝道者になることができたという言い方に根本的・究極的な疑問符を付けるのが、このパウロの言葉です。
「母の胎内にあるときから、神がわたしをお選びになった」。
恩知らずな言葉かもしれません。しかし、信仰に関しては、恩知らずでもよいのです!恩知らずであることが許されるのです。
だれのおかげでもない、神よ、あなた御自身が、このわたしが母の胎内にあるときから、だれの教育も影響も受けていないそのときから、このわたしを召してくださっていたのである、というこの一点を信じることができるときに、その信仰が本物の信仰になるのです。
人の支えによって立つのではなく、神御自身の支えによって立つ信仰になるのです。
(2004年5月9日、松戸小金原教会主日礼拝)
2004年5月2日日曜日
キリストの僕として生きる
ガラテヤの信徒への手紙1・1~10
「人々からでもなく、人を通してでもなく、イエス・キリストと、キリストを死者の中から復活させた父である神とによって使徒とされたパウロ、ならびに、わたしと一緒にいる兄弟一同から、ガラテヤ地方の諸教会へ。わたしたちの父である神と、主イエス・キリストの恵みと平和が、あなたがたにあるように。」
この手紙の著者は使徒パウロです。パウロは、自分自身を指して「使徒」と呼んでいます。「使徒」とは、神が彼に与えた仕事の名前です。その意味は「遣わされる者」です。
彼らは"どこから"あるいは"誰から"遣されるのでしょうか。「人々からではない」、すなわち、使徒は人間が遣わした者ではない、とパウロは書いています。そして「人々を通してでもない」。この意味は、人間の仲介によらない、ということです。遣わしてくださる方と、遣わされるこのわたしとのあいだに、誰ひとり別の人間が介入していない、という意味です。
そうではない。使徒は、イエス・キリストと、キリストを死者の中から復活させた父である神御自身が遣わしたのだ、というわけです。
これは、パウロだけのことではありません。すべての使徒は、父なる神と御子イエス・キリストから遣わされた者です。
それでは、彼らは"どこへと"、あるいは"誰へと"遣わされるのでしょうか。そのことは、書かれていません。しかし、答えは明らかです。父なる神と御子キリストがおられるのは天です。遣わされる先は、天とは対極の場所です。この地上の世界です。私たち人間が生活している、この地上の現実の世界です。
使徒は、天から地へと、神から人間へと遣わされる者である。わたしはそれである、とパウロは、自分自身をそのような者として理解しているのです。
それは何のためか、という問いが成り立つと思います。使徒は何のために、天から地へと、神から人間へと遣わされるのか。神の言葉、神の救いを、地上に住む多くの人々へと宣べ伝えるためです。彼らは、そのために、特別に選ばれた人々なのです。
さて、いきなりという感じもしますが、パウロは、今日私たちが開いているこの手紙の冒頭の部分で、非常に険しい調子で、ある人々のことを非難しています。
「キリストは、わたしたちの神であり父である方の御心に従い、この世の悪からわたしたちを救い出そうとして、御自身をわたしたちの罪のために献げてくださったのです。わたしたちの神であり父である方に世々限りなく栄光がありますように、アーメン。キリストの恵みへ招いてくださった方から、あなたがたがこんなにも早く離れて、ほかの福音に乗り換えようとしていることに、わたしはあきれ果てています。」
キリストは、父なる神の御心に従い、わたしたちを、この世の悪から救い出すために、御自身を献げてくださいました。このキリストの恵み、つまり、キリストがわたしたちに与えてくださった"この世の悪からの救い"という内容を持つ恵みへと招いてくださった方とは、父なる神のことです。
この父なる神から、あなたがたが、こんなにも早く離れて、ほかの福音に乗り換えようとしている。そのことにわたしはあきれ果てている、とパウロは書いています。
パウロがあきれ果てている理由は、ここを読むかぎり、二つあります。第一は「こんなにも早く」という点です。第二は「ほかの福音に乗り換えようとしている」という点です。
ただし、パウロは、間髪を入れず、「ほかの福音」などというものは存在しない、と付け加えています。福音は一つしかない。二つも三つも無い、というわけです。ほかの福音があると考えている人は、だまされているだけだ、というわけです。かなり厳しい言葉です。
「キリストの恵みへ招かれる」とは、おそらく、イエス・キリストを信じる信仰を告白し、洗礼を受けることと、別のことではありません。洗礼を受けたばかりの人々は、教会にとっては、生まれたばかりの赤ちゃんです。大切な、大切な宝物です。
その人々が、しかし、こんなにも早く、ほかの福音に乗り換えようとしている、というわけです。一つの福音、正しい信仰を捨てて、間違った教えに引きずられてしまっている。産みの親パウロは、彼らの変わり身の早さに、嘆き悲しんでいるのです。
どれくらい早かったかということは、書かれていないので分かりません。一年くらいでしょうか。五年くらいは保っていたのでしょうか。あまりにも早すぎる、なぜこんなことになってしまったのか。そのことに、パウロは、苛立ちもし、腹を立ててもいるのです。
しかし、パウロは、さすがというべきでしょうか、まさに彼らの産みの親として、彼らのことを悪く言いたくなさそうです。本当に責められるべきは、惑わされている彼ら自身ではなくて、彼らを惑わしている人々である。間違った教えを宣べ伝えている教師たちが悪い。生徒たちは、その教えに忠実に従っていただけなのです。
「しかし、たとえわたしたち自身であれ、天使であれ、わたしたちがあなたがたに告げ知らせたものに反する福音を告げ知らせようとするならば、呪われるがよい。」
パウロは、呪いの言葉さえ口にします。しかし、ここはどうか、理解していただきたいと願います。洗礼を受けたばかりの人を躓かせることや、間違った教えに誘うことは、本当に悪いことです。
そうではありませんか。一人の人生を台無しにしてしまうことを意味しています。万死に値する大罪です。
もちろん、躓いたその人の側には、全く何の責任も無い、とは言い切れない場合もあるでしょう。聖書の御言も教会の事情もよく分からないうちに、なんとなく洗礼を授けられてしまった。そして、よく分からないうちに躓いてしまった、というケースも耳にします。誰が責められるべきか、誰にも責任がないのか、判断に苦しむケースもあるでしょう。
しかし、しかし、です。パウロは、生まれたばかりの大切な赤ちゃんを鞭で打つようなことは、しません。責められるべきは教師たちであり、信仰の先輩たちです。洗礼を受けたばかりの人々を、パウロは、体を張ってでも、かばうのです。
パウロは、ローマの信徒への手紙14・1に、「信仰の弱い人を受け入れなさい。その考えを批判してはなりません」と書いています。同書15・1には、「わたしたち強い者は、強くない者の弱さを担うべきであり、自分の満足を求めるべきではありません」とも書いています。
これが今日の個所にも当てはまります。パウロは、産まれたばかりの赤ちゃんを心から愛しているのです。だからこそ、次のような言葉が出てくるのかもしれません。
「こんなことを言って、今わたしは人に取り入ろうとしているのでしょうか。それとも神に取り入ろうとしているのでしょうか。あるいは、何とかして人の気に入ろうとあくせくしているのでしょうか。もし、今なお人の気に入ろうとしているなら、わたしはキリストの僕ではありません。」
弱い人々をかばう。その人々の存在や立場を擁護する。そのことは、いずれにせよ、逆の立場の人々と対峙することを余儀なくされます。そのようなやり方は人気取りである。票集めの手段である、という中傷誹謗を受けやすくなります。
また、もう一つの点として、パウロが宣べ伝えていた福音は、人を真に自由にするものであった、というこのことが、逆の立場にいる人々にとって大きな問題でした。
自由にすることと、いいかげんにすることは、紙一重です。反対者からすれば、パウロは、信仰の弱い人々をかばおうとする勢い、信仰そのものをいいかげんにしてしまう張本人である、というふうにも見えてくるわけです。
あまり固いことを言わない。なんでもかんでも、「いいよ、いいよ」で済ませてくれる。そういう人(リベラルな人?)は、相対的に言って、固くて難しい人(保守的な人?)よりも人気がある、と言えます。
パウロも、そのように見られました。しかし、それは誤解であり、意図的な中傷誹謗でもありました。だからこそ、パウロは、そんなことではないのだ、ということを、口をすっぱくして言わなければなりませんでした。
キリストの僕(しもべ)たちが「強い者が強くない者の弱さを担わなければならない」のは、人気取りや票集めのためではありません。キリストの御前に差し出された一人の救われた魂の価値を重んじるためです。キリストの僕の役割は、キリストに仕えることです。自分の野心や名声に仕えることではありえない。このように語ることができると思います。
(2004年5月2日、松戸小金原教会主日礼拝)
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