2021年10月31日日曜日

救いの約束(2021年10月31日 永眠者記念礼拝 宗教改革記念礼拝)

讃美歌21 510番 主よ、終わりまで 奏楽・長井志保乃さん 字幕・富栄徳さん

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「救いの約束」

創世記45章1~8節

関口 康

「神がわたしをあなたたちより先にお遣わしになったのは、この国にあなたたちの残りの者を与え、あなたたちを生き永らえさせて、大いなる救いに至らせるためです。」

今日の礼拝は「永眠者記念礼拝」です。同時に「宗教改革記念礼拝」でもあります。さらに来週11月7日(日)は「昭島教会創立69周年記念礼拝」です。この3つの「記念礼拝」は、昭島教会で毎年この時期に行っていますので、ぜひご予定ください。

その中で「永眠者記念礼拝」は世界のキリスト教会が重んじ、日本キリスト教団も準じている教会暦にある「聖徒の日(永眠者記念日)」が11月1日で、「記念礼拝」は11月の第1日曜日に行うことになっているので、教会暦どおりなら今年は11月7日(日)です。

しかし、昭島教会はいつからそうするようになったかは私には分かりませんが、その教会暦の「聖徒の日(永眠者記念日)」よりも1週前に永眠者記念礼拝を行うことにしています。教会暦はわたしたちが絶対守らなければならないものではありません。あくまでも参考にするだけです。

1週ずらして行う理由は2つあると聞いています。ひとつは、永眠者記念礼拝の午後に墓前礼拝を行いますが、昭島教会墓地の周囲一帯がキリスト教墓地で、他の教会の墓前礼拝と重なって混み合うケースがあるので、それを避けるため、という実際問題です。

もうひとつは、必ず11月の第1日曜日には昭島教会の創立記念礼拝を行うので永眠者記念礼拝と重ならないようにするためです。昭島教会は1952年11月2日に「日本基督教団昭和町伝道所」として伝道を開始しました。その日から数えて今年で69年になります。

3つの「記念日」はすべて日付が決まっています。早い順でいえば、10月31日が宗教改革記念日です。翌日の11月1日が聖徒の日です。その翌日の11月2日が昭島教会の創立記念日です。それぞれの「記念礼拝」は最も近い日曜日に行います。

説明に時間を割いているのは、3つの「記念日」は関係あると申し上げたいからです。宗教改革記念日が10月31日になったのは、11月1日の「聖徒の日」の前日だったからです。古い本ですが、ベイントン『宗教改革史』(出村彰訳、新教出版社、第5版1977年)から以下引用します。

「ルター自身の領主、ザクセンのフリードリヒ賢公(1463~1525)は、毎年、万聖節(11月1日)の前夜に贖宥券を頒布する特権を与えられていた。1516年中に、ルターは二度にわたってこの慣習に抗議した。贖宥券は聖徒の余剰の功徳という誤った仮定に基づいているゆえに、欺瞞的かつ邪悪であり、痛悔よりも自己満足をもたらすことは確かである」(45頁)。

「万聖節」と訳されているのが「聖徒の日」です。16世紀にはすでに「聖徒の日」があったということです。その前日の10月31日に、「贖宥券」が頒布されたというわけです。「厳密に言えば、贖宥券は売られたのではなく、恵与されたのであるが、この恵与は支払い能力に応じて定められた献金と、全く時を同じくして行われた」(同上頁)ともベイントンが記しています。

その「贖宥券」(「免罪符」とも呼ばれる)を手に入れるとどうなるかについては、これも古い本ですが、岸千年『改革者マルティン・ルター』(聖文舎、1978年)に次のように記されています。

「中世の民衆は、地獄よりも煉獄を恐れていたが、その理由は、地獄における刑罰は悔い改めによってのがれることができるが、煉獄の刑罰は、教会が定めた苦行によるほかはないと教えられていたからである。この苦行はきびしく、パンと水だけで数年間の断食をしたり、長い年月にわたる巡礼をしたりしなければならなかった。民衆は、こうした苦行をどうにかして軽くしようと考えていたが、教会においても、よい行為の報酬として苦行の一部をゆるす方法を考え出した」(76~77頁)。それが「贖宥状」(免罪符)だったというわけです。

しかし、そのような思想そのものが間違っていると抗議したのがマルティン・ルターでした。その抗議の内容を記した「95か条の提題」をドイツ・ヴィッテンベルクの城教会で公開した日付が、ザクセンのフリードリヒ賢公が贖宥券を頒布する日である聖徒の日前夜の1517年10月31日だったので、その10月31日が「宗教改革記念日」になりました。つまり、「宗教改革記念日」と「聖徒の日(永眠者記念日)」は歴史的に明白な関係があるということです。

その関係をひとことで言えば、ルターの宗教改革の出発点は、「人は死んだらどこに行くのか」という最も根本的で深刻な問いに対して当時のローマ・カトリック教会が示した結論が間違っていることに対する徹底的な抗議だったということです。2つの記念日は表裏の関係にあります。

それでは、昭島教会の創立記念礼拝はどういう関係にあるか。69年前から「宗教改革記念日」と「聖徒の日」との関係を考えて1952年11月2日をもって伝道を開始なさったかどうかは私には分かりません。しかし、そのことよりもむしろ、年月を重ね、今日この礼拝堂に飾られている多くの信仰の先達がたのお写真を拝見しながら深まる思いが私にはあります。

教会は歴史的な存在です。地上で生を営んでいるわたしたちだけでなく、今は天国におられる信仰の先達がたこそ、教会の歴史を築き、作り上げてくださいました。

昭島教会の「創立記念礼拝」の関心は、69年前にどうだったかではなく、むしろ逆に、69年後の今がどうなのか、です。そして、今は「聖徒の日」として、「永眠者記念礼拝」として、教会の歴史を築き上げてくださった方々のことを覚えつつ、さらにこれからの昭島教会の歩みを続けていくことの決心と約束をすることこそ「教会創立記念礼拝」の趣旨でなければならないでしょう。その意味で、3つの記念礼拝は相互に関係している、ということです。

最後に今日の聖書箇所について短く説明します。ここに登場するのはヨセフです。アブラハム、イサク、ヤコブと3代続く族長の3代目のヤコブの12人の子どもの11番目のヨセフです。

ヨセフは父ヤコブの寵愛を受けたため、10人の兄たちから憎まれ、エジプトの奴隷商人に売り飛ばされます。しかし、エジプトで苦労して王のもとで司政官になり、エジプトやカナン地方を襲った大飢饉の中でエジプト人を救い、またカナンに住んでいた父ヤコブとその子どもたちにも食糧を分けて助けました。ヨセフは、自分を憎み、金で自分を売り飛ばした兄たちの罪を赦し、受け入れました。そのことがヨセフにできたのは、彼には神を信じる深い信仰があったからです。兄たちが自分をエジプトに売り飛ばしたのは、神が自分を兄たちよりも先にエジプトへと遣わし、兄たちを救うためだったと、そういう信仰をヨセフが持っていた、ということです。

神を信じる信仰とは、そういうものです。救いの約束はしばしば隠れています。人間には最初は分からないし、むしろ人間にとっては理不尽なことだらけです。神がわたしを見放されたのではないかと絶望する思いになることの連続です。しかし、理不尽の中で神が常に働いてくださり、ご自身のご計画を進め、世界を救ってくださいます。「信仰」こそがわたしたちの最後の砦です。

(2021年10月31日 永眠者記念礼拝 宗教改革記念礼拝)

2021年10月17日日曜日

天国(2021年10月17日 主日礼拝)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13)


讃美歌21 504番 主よ、み手もて 奏楽・長井志保乃さん

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「天国」

ヨハネの黙示録7章9~17節

関口 康

「彼らは大きな苦難を通って来た者で、その衣を小羊の血で洗って白くしたのである。」

今日は新約聖書のヨハネの黙示録を開いています。旧約聖書39巻、新約聖書27巻、合計66巻の最後の66番目の書物です。旧約と新約の書物の数は「さんく、にじゅうしち」と九九(くく)の語呂合わせで覚えると忘れません。

ヨハネの黙示録が書かれた時代的背景として考えられているのは西暦1世紀末、特に紀元81年から96年までローマ帝国がドミティアヌス皇帝によって支配されていたことと関係あるだろうということです。

ドミティアヌス皇帝は、ローマ帝国が支配する地域の至るところに自分の像を建てさせ、その像の前で自分に対する忠誠を誓わせた人です。ローマ皇帝を神として礼拝させる行為です。像を拝もうとしない人々は迫害し、殺害しました。そのような行為は偶像礼拝であるとみなして拒否するユダヤ人やキリスト者は、迫害と殺害の対象でした。

今のわたしたちにそのようなことはないと言い切れるかどうかは、考え方次第です。私自身は体験的には知らない世代ですが、80年前の大日本帝国の時代には、それときわめて近い、または同じと言いうる状況だったことを実際に体験なさった方々がおられるでしょう。

戦後はどうでしょうか。宮城遥拝をしない者は逮捕抑留されるという状況はなくなりました。しかし、違う形のもっと巧妙な方法による宗教抑制が今でも続いていると私は感じます。うまく説明できませんが、何かしら抑制をかけられている気がしてなりません。

日本のキリスト者人口が何十年も国民の1%を越えないことは、諸外国の教会の謎だそうです。以前もお話ししましたが、アメリカ人の宣教師から直接聞いたのは、日本でキリスト教を広めるために多くのアメリカ人の献金と人材を送ってきたのに一向に伸びない。同じだけのお金と人材をミャンマー伝道へと振り替えれば日本の教会の何十倍も多くの信徒を得られることが分かったので、日本伝道から撤退しようという提案が何度となくなされるという話です。

しかし、その話をしてくれた宣教師たちはなんとか日本にとどまって伝道を続けたいので本国教会で事情を説明しなくてはならないが、うまく説明できなくて悩むというのです。

作り話ではなく、まだ10年ほど前に、私のこの耳で、しかもアメリカ教会と日本教会の正規の会議の場で実際に聞いた話です。

そういう話を聞くと「わたしたちは」と言っておきますが、日本のキリスト者は真面目なので、自己責任を感じやすいところがあり、自分たちの努力が足りないから教会が伸びない、キリスト者人口が増えないと当然考えるわけですが、本当にそうなのか、理由はそれだけなのか、わたしたちの努力不足なのかという点は、一向に分からずじまいです。

それでも何らかの説明をしなければならないので、「日本の風土や伝統文化にキリスト教は適合しにくい」とか「日本古来の強大な宗教の壁はあまりにも厚い」などの理由を考えることになりますが、私に言わせていただけば、どの説明を聞いてもよく分からないし、納得が行きません。

これだけは言わせてほしいです。個人的な努力や小さな集団の努力だけでは如何ともしがたい、政治や経済という大きな力が働いているような気がしてならないということは、決して責任逃れの意味ではなく思うところです。今のわたしたちはまるで、ローマ帝国の全領土の住民にローマ皇帝の像を拝むように強いられた只中にいた、西暦1世紀の教会さながらです。

そのような圧力も障害も何もないと言うかどうかは考え方次第です。私には、どうしてもそのように思えないです。圧力も障害も「ある」としか言いようがありません。

その中で、イエス・キリストへの信仰を守り、かつ信仰共同体としての教会の存在にとどまり続けた人々に待ち受けるのは迫害と殉教の道だったわけですが、その道を貫いた人々を神御自身が、神の小羊なるイエス・キリストがそこで待っておられる「天国」へと受け入れてくださるというのが、ヨハネの黙示録の基本思想であると言えます。

ヨハネの黙示録が描く「天国」だけが聖書における天国の意味ではないと言うべきかもしれません。確かに「天国」にはもっと他にも多くの異なる意味があります。ヨハネの黙示録における意味だけで「天国」を説明しますと、不満が生じる可能性がないと限りません。

なぜなら、その意味での「天国」は、先ほど申し上げたとおり、地上においてイエス・キリストへの信仰を与えられ、信仰共同体としての教会の仲間に加えられたうえで、ローマ皇帝の像の前で忠誠を誓う皇帝礼拝を拒否したことで迫害を受け、殉教した人々の信仰の努力に対する報いとして与えられるものだからです。

すでに疑問を感じておられる方がいらっしゃるのではないかと思います。私自身もこの説明をしながらすでに葛藤しています。もしそれが「天国」だというなら、地上で信仰を持たなかった、教会に通わなかった、あるいは、ある時期までは熱心に教会に通っていたけれども人生の途中でそれをやめてしまった、その人々はいったい今どこにおられるのだろうという問いが、おそらく必ず誰の心の中にも起こるであろうからです。

どんなことであれ、わたしたちがいろんなことについて筋道を立てて順を追って考えるときに必ずするのは、ひとつのことの表側だけではなく、裏側まで考えることです。「このような人々が天国に受け入れられる」という話を聞くだけで、「その説明に該当しない人々は、どこに受け入れられるのか」ということをだれでも必ず考えます。そこが天国でないなら「地獄」なのか。それとも、天国でも地獄でもない「第三の」場所なのか。そんなところが本当に存在するのかと。

それだけではありません。そもそも、迫害だとか殉教だとかを耐えて我慢してまで信仰を守り、教会の交わりにつながることを、神が本当に求めておられるのか。そのような苦しみに堪えられない弱い人々を、神は切り捨て、我慢強い人々だけの「天国」を神が要求しておられるのかと。

もしそれが神だというのなら、私にとっては堪えられない神なので、信じることができないし、信じることで苦しみ、信じることで死なねばならないなら、信じるのをやめて楽になり、生きる道を選ぶほうが救いだろうにと考える人々は必ずいるだろうと、私には思えてなりません。

しかし、今申し上げているのは結論ではありません。ただ「考えている」だけです。はっきりしているのは、わたしたちの神は弱い人を切り捨てる方では断じてないということです。しかしまた、信仰をもって生き抜き、教会の交わりの中にとどまり続ける人々を神は喜んでくださり、「天国」を約束してくださっています。その2つのことは矛盾しないと私は考えます。そのことを皆さんに納得していただける言葉で、うまく説明できないだけです。言葉の限界を感じます。

(2021年10月17日 主日礼拝)

2021年10月10日日曜日

教会と政治(2021年10月10日 主日礼拝)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13)
讃美歌21 443番 冠も天の座も 奏楽・長井志保乃さん

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「教会と政治」

ローマの信徒への手紙13章1~10節

関口 康

「愛は隣人に悪を行いません。だから、愛は律法を全うするものです。」

今日の宣教題を「教会と政治」としたのは、今日の朗読箇所の最初に「人は皆、上に立つ権威に従うべきです。神に由来しない権威はなく、今ある権威はすべて神によって立てられたものだからです」(1節)と記されている中の「上に立つ権威」は「国家」、あるいは一般社会的な意味での「政治的支配者」を指しているというのが、この箇所の伝統的な理解だからです。

続く箇所に「実際、支配者は、善を行う者にはそうではないが、悪を行う者には恐ろしい存在です。あなたは権威者を恐れないことを願っている。それなら、善を行いなさい。そうすれば、権威者からほめられるでしょう」(3節)とか、「権威者はいたずらに剣を帯びているのではなく、神に仕える者として、悪を行う者に怒りをもって報いるのです」(4節)とか「あなたがたが貢を納めているのもそのためです」(6節)とか、「貢を覚めるべき人には貢を納め、税を納めるべき人には税を納め、恐るべき人は恐れ、敬うべき人は敬いなさい」(7節)と記されています。

いま一気に言いました。これは武器で悪人を取り締まる警察の存在や、税金で社会を整備する国家や政治を指しているということが、少しあるいはかなり分かりにくい書き方ではありますが、たしかに記されているということを確認したいと願うからです。

分かりにくいと申し上げたひとつの理由は、「国家」や「政治」とはっきりとは記されていないからです。その代わりに「支配者」や「権威者」と記されています。しかし、分かりにくい理由はそれだけではありません。

もっと分かりにくいのは、この箇所で「支配者」ないし「権威者」と呼ばれている存在が「神に由来しない権威はない」とか「すべて神によって立てられたもの」(1節)であるとか「神の定め」(2節)であるとか、「権威者は神に仕える者」(4節、6節)であるとか記されているところです。

これはキリスト教国の話でしょうか。いや、いくらなんでもローマの信徒への手紙が書かれた頃にキリスト教国は存在しない。ユダヤのことか。いや待て。この時代のキリスト教会はユダヤ教徒から迫害されていた。まるで手放しに彼らに従うべきだと言い出すのは考えにくい。当時のユダヤを支配していたローマ帝国のことか。ローマ帝国は神が立てたものであるとパウロが本気で言うだろうか。もしそうならそれは一体何を意味するのだろうと考え込んでしまうことになるからです。

「そうではない。これは教会のことを指している。神に由来する権威とは教会だ。それ以外は考えられない」と言いたいかもしれません。しかし、教会が剣で悪人を取り締まるでしょうか。貢や税を要求するでしょうか。そのほうがよほどおかしなことを言っていることになるでしょう。

結論を言えば、これは教会ではありません。やはり、国家ないし一般社会的な意味での政治のことです。王国の場合は王とその家来たちです。民主的な国の場合は「国民が主権者である」ということになるかもしれませんが、選挙で選ぶにせよ、とにかく国家権力や警察権力を委託した相手のことです。教会が武器を持つことはないし、税金を集めることはありません。そういうことをするなら、それは教会ではありません。

私は自分がよく知らないことについては、言わないようにしているつもりです。しかし、気になるのはカトリック教会の存在です。総本山のバチカンは独立国家です。軍隊は無いそうです。警察は永世中立国であるスイスからの傭兵が担当するそうです。それでも、バチカンが国であるという事実に変わりありません。しかし、同時に教会でもあるでしょう。

パウロが書いているのは、現代のバチカン市国のことでしょうか。要するにローマ教皇の権威に従うべきだという意味でしょうか。そうではないということを、「わたしたちはプロテスタントだから」という理由からではなく、別の理由から申し上げる必要があると私は考えます。

分かりやすく説明するのは難しいです。申し上げたいのは、この箇所の「神に由来する権威」は現代のバチカンではない、ということです。キリスト教国に限定される意味でもありません。

そうではなく、教会とは区別される別の存在としての一般社会的な意味での国家であり、政治のことです。それは西暦1世紀のパウロをとりまく社会そのものです。キリスト教会を容赦なく迫害してくる強大な国家権力です。一方にユダヤの王とその家来、他方にローマ帝国。その両者からキリスト教会は迫害を受け、死に至らしめられました。

しかし、そのようなキリスト教会の敵対者を指して、パウロが「神に由来する権威」と呼び、「神によって立てられた権威」と書いていることに、わたしたちは大いに驚くべきです。

納得できない方がおられるでしょう。今のわたしたちでいえば、この日本の政治家や警察官、さらに天皇の存在を考えざるをえなくなるからです。あの人々が一体どの意味で「神に由来する権威」なのか全く理解に苦しむと思われる方がおられるでしょう。

納得できないとおっしゃる方にどう説明すればよいか迷うばかりです。しかし、そういう場合は逆のことを考えてみるとよいかもしれません。わたしたちが納得できる存在になるまでは国家権力や警察に従う必要はなく、税金を納める必要もないと考えてよいかどうかです。その理屈が成り立たないことは、だれでも分かります。しかし、問題はどのように説明するかです。

これを「パウロの信仰」と呼ぶべきかどうかは疑問です。私は「聖書の教え」と言いたいです。それは、「神」への「信仰」があるかどうかにかかわらず、一般社会的な意味での政治ないし国家による統治が、人間同士が争い合い、殺し合うのを防ぐために必要であることを神さまがお考えになり、人間社会にそのような制度を神さまが作られたということです。

神は無政府主義者ではありません。神は人間を政治的な存在に造られた、とも言えるでしょう。人間である以上、愛し合い、助け合うことにおいても司法・律法・行政のような政治機構が必要であるということです。無秩序の中では人間同士の愛は成立しない、ということです。

信仰の有無は関係ありません。ひとつの国が「神を信じない人は追放されなければならない」と言うならば、それは国ではありません。宗教団体です。しかも悪い宗教団体です。

家族も同じです。「神を信じない家族には生活費も食事も与えない」と言い出すなら、家族でもなんでもなく、凶悪な宗教団体です。「クリスチャンホームだから」は理由になりません。それは虐待であり、犯罪です。信仰の衣を着た狼です。その手のとんでもないたぐいを取り締まるために、神さまは教会とは別の権威をお立てになりました。そのように考えることができます。

イエスさまがおっしゃったではありませんか、「父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる」(マタイ5章45節)と。神さまは、その人が信仰を持っているかどうかに関係なく、すべての人の命と生活を守ってくださいます。そしてそうするために、神さま御自身が、国の存在とその中で営まれる政治を要求されるのです。

(2021年10月10日 主日礼拝)

2021年10月3日日曜日

信仰による生涯(2021年10月3日 主日礼拝)

台風16号通過後の青天(2021年10月2日)
字は関口牧師が書きました(2021年10月2日)
 
讃美歌21 458番 信仰こそ旅路を 奏楽・長井志保乃さん


「信仰による生涯」

ヘブライ人への手紙11章13~16節

関口 康

「この人たちは皆、信仰を抱いて死にました。約束されたものを手に入れませんでしたが、はるかにそれを見て喜びの声をあげ、自分たちが地上ではよそ者であり、仮住まいの者であることを公に言い表したのです。」

9月末をもって政府の緊急事態宣言が全面的に取り下げられ、すべて終わったかのような空気が蔓延している感があります。しかしそれこそ蔓延防止対策が必要ではないかとかえって警戒心を抱きながらの3日目を、私自身は迎えています。

もっとも私は、現時点においては、週に4日は電車やバスに長時間乗って学校で教える働きをさせていただいている関係上、首都圏の現状を肌感覚で知らずにはいないつもりです。

そのような中で、わたしたちの教会が、9月から礼拝堂での礼拝を再開し、みんなで集まることをしてきたのは良かったと私は考えています。礼拝出席者は以前と同じか、少し多くなってきているようにも感じます。

今教えている高校で一昨日したばかりの話ですが、「教会」はギリシア語で「エクレーシア」と言い、「集会」とか「集まり」という意味です。これは教科書の言葉です。さらに次のように書かれています。「個人の家や公共の建物、時には野外で、イエス・キリストの名のもとに集まり、祈りや礼拝がささげられ、継続的な集会を持っている共同体はすべて、礼拝堂があってもなくても教会と言います」(キリスト教学校教育同盟編『キリスト教入門』創元社、2015年、36ページ)。

この教科書の著者が強調しようとしている点は明白です。「教会」(エクレーシア)とは、人が集まることそれ自体であり、集会そのものであり、集まる人を指すのであって、建物を指すのではないということです。建物としての「礼拝堂」は英語でチャペル(chapel)と言うが、「教会」はチャーチ(church)と言う、という説明まであります。

わたしたち自身が判断して行ったことを否定するつもりはありません。しかし、「各自自宅礼拝」がエクレーシア(教会)かどうかは、よく考えるべき課題です。インターネットの「オンライン礼拝」はエクレーシア(教会)かどうかの問題も同様です。団体を維持できるかどうかの問題ではありません。わたしたちの心の問題、信仰の問題です。独りでいることの寂しさの中で、心の支えを失うことの恐怖のほうが、他のどの恐怖よりも人を苦しめる場合が実際にあります。

今日開いていただいた新約聖書のヘブライ人への手紙は、昨年(2020年)6月28日の礼拝でも取り上げてお話ししたことを、記録で確認しました。そのときも申し上げましたが、この手紙が書かれた年代は西暦1世紀の終わり頃、80年代から90年代だろうと聖書学者が判断しています。つまり、イエス・キリストの死と復活、そして聖霊降臨(ペンテコステ)の出来事を通して地上に「教会」(エクレーシア)が生み出された西暦30年代から50年ないし60年の年月が経過した頃にヘブライ人への手紙が書かれたと考えることができます。

「ヘブライ人」とはユダヤ人のことです。イスラエル人と言っても意味は同じです。西暦1世紀のユダヤ人の中からイエス・キリストを信じて生きる人々の集まりとしての「教会」がいわば分かれ出た関係にあることは、歴史的な説明としては正しいと言えます。しかし、ユダヤ人以外の人々の目から見れば、ユダヤ教とキリスト教のどこがどう違うのかをはっきり区別できるほどの差はまだ無かったかもしれません。そのような時代に書かれた書物です。

昨年6月にこの手紙についてお話ししたときは12章18節から29節までを取り上げましたが、今日は11章13節から16節までです。しかし、この手紙の11章から12章にかけて書かれている内容は一貫しています。わたしたちがそう呼ぶところの「旧約聖書」を要約しています。「わたしたちがそう呼ぶ」とお断りするのはユダヤ教にとっては「新約聖書」は聖書ではなく、キリスト教会が「旧約聖書」と呼ぶ書物こそ、ユダヤ教の「聖書」だからです。

その意味では、ヘブライ人にとっての「聖書」全体を見通して、その中に登場する人々のことを思い起こし、そのひとりひとりの信仰と生きざまを思い起こしなさいと呼びかけているのが、今日わたしたちが開いている箇所の趣旨であると言えます。

なぜこの箇所にそのようなことが書かれ、そのような呼びかけがなされているのかについては、歴史的な文脈があると考えることができます。それは、西暦60年代から70年代にかけて、当時のユダヤを支配していたローマ帝国との間に大きな戦争があったことです。エルサレム神殿は破壊され、さらにその後の西暦135年にも決定的な戦争があり、ユダヤ人が完全に国土を失う事態になったことです。この手紙が書かれたのは、その戦争の最中だったということです。

そのような状況や情景を想像しながら、今日の箇所の特に13節に記された言葉の意味を考えるのは意義深いことです。「この人たちは皆、信仰を抱いて死にました」の「この人たち」は、最初の人間として聖書に登場するアダムとエバの2人の子どものひとりであるアベルから始まります。アベル、エノク、ノア、そしてアブラハム、イサク、ヤコブです。この人たちは「約束されたものを手に入れませんでしたが、はるかにそれを見て喜びの声をあげ、自分たちが地上ではよそ者であり、仮住まいの者であることを公に言い表しました」と記されています。

彼らのどこが「よそ者」であり「仮住まいの者」なのかといえば、特にアブラハムが象徴的な存在ですが、実際に彼らが「遊牧民」だったという事実を考えることができます。文字どおりの移動生活者です。多くの家畜を飼いながらチグリス・ユーフラテスの2つの大きな川に挟まれたメソポタミア地方から、今のパレスティナを経由してナイル川流域のエジプト地方までをつなぐ「肥沃な三日月地帯」を西へ東へ移動していた遊牧民が、彼ら自身の先祖の姿です。

ヘブライ人への手紙の著者が、いにしえの遊牧民たちの姿を思い起こすことを西暦1世紀末の教会に呼びかけているのは、戦争によって神殿を失い、国土すら失いつつあったユダヤ人たちに対する希望と励ましのメッセージだったと考えることができます。

実は私もそうなのですが、移動生活者にとっては、愛着を抱くことができる礼拝堂(チャペル)はありません。神殿もありません。しかし信仰があり、礼拝があり、集会(エクレーシア)がありました。だからこそ、希望があり、喜びがあり、苦難に堪えて生きる勇気の源泉があったのです。

わたしたちはどうでしょうか。幸いなことに、昭島教会には立派な礼拝堂があります。「教会といえば建物のことを指す」と言う人がいても、完全な間違いであるとは言えません。逆に、この建物に集まって行う礼拝以外は教会の正規の礼拝とは言えない、とも言えません。しかし、大事なことは、集まること自体です。エクレーシア(集会)としての教会であるかどうかです。独りで孤立していないかどうかです。信仰の仲間と共に生きているという実感があるかどうかです。

(2021年10月3日 主日礼拝)

2021年9月28日火曜日

中古バイクを購入しました

牧師の機動力を高める目的で教会で中古バイクを購入しました。これからは自転車とバイクのハイブリッドで週報宅配等に行きます。車体選定は役員会にお任せし、昭島市内で定評ある山崎輪業さんが完璧に仕上げてくださった美しく素晴らしい車体になりました。ありがとうございます。

2021年9月28日 山崎輪業にて購入


2021年9月23日木曜日

にじのいえ信愛荘(教団隠退教職ホーム)訪問

2021年9月23日(木) 昭島教会を代表して関口康牧師と滝澤操一兄が日本キリスト教団隠退教職ホーム「にじのいえ信愛荘」(東京都青梅市)を訪問し、以前昭島教会で牧師としてお働きくださった2組の牧師ご夫妻を訪問しました。共同生活を営む隠退教職の方々の健康と安全が守られるようお祈りください。

にじのいえ信愛荘にて(動画)
みんなで寄せ書きした色紙と花束
教会の上空はおおむね好天。暑い
青梅マラソンスタート地点を通過
にじのいえ信愛荘に到着
鈴木正三先生、鈴木信子姉と
滝澤操一さんと鈴木先生ご夫妻
長山恒夫先生、長山篤子姉ご夫妻と
にじのいえ信愛荘の近くを散策
帰り道に多摩川の清流のほとりまで
ままごと屋(青梅線沢井駅すぐ)で食事
多摩川を渡るつり橋の前で
鮎釣りの方ががんばっておられた
青梅市のまちおこし「レトロ映画看板」



2021年9月19日日曜日

新しい戒め(2021年9月19日 主日礼拝)

ご長寿をお慶び申し上げます(2021年度 敬老はがき)
讃美歌21 155番 山べに向かいて 奏楽・長井志保乃さん


「新しい戒め」

エフェソの信徒への手紙5章1~5節

関口 康

「キリストがわたしたちを愛して、御自分を香りのよい供え物、つまり、いけにえとしてわたしたちのために神に献げてくださったように、あなたがたも愛によって歩みなさい。」
明日9月20日が敬老の日で国民の祝日です。昭島教会としても、毎年恒例ですが、75歳以上の方に敬老のはがきを今年もお贈りします。

村上明子さんが生けてくださった美しいいけばなの写真と聖書のみことば付きのはがきです。一言メッセージを私の下手な手書きで書かせていただきました。

送り先のご住所とお名前も、ご奉仕くださった方々がそれぞれ手書きで書いてくださいました。75歳以上の方はどうぞ遠慮なさらず、ぜひお受け取りくださいますようお願いいたします。

手書きであるということを強調させていただきました。下手な字よりもワープロの活字のほうが読みやすくてきれいではないかとお思いになる方がおられるかもしれません。それどころか、21世紀なのだから、紙のはがきより電子メールのほうがかさ張らなくていいのではないかというご意見をお持ちの方がおられるかもしれません。

しかし、こういうことを言いながら笑いが止まらなくなっています。すべて冗談です。不謹慎で申し訳ありません。手書きのほうがいいに決まっているではありませんか。すべて活字の手紙などをもらっても、ありがたくもなんともありません。手書きのほうが、気持ちが伝わる、心の思いが伝わる、それは人間として当然のことです。

この話の流れで申し上げておきたいことがあります。それは、このコロナ状況になって以来、昭島教会の新しい取り組みとして、教会のブログと電子メールを活用して、礼拝開始チャイム、オルガンやピアノによる讃美歌の奏楽、教会が毎週発行している週報、そして宣教要旨などを、インターネット経由で電子的にお配りしていることについてです。

手書きの要素は全く無く、すべて活字です。また、物質的な紙ではなく、電気信号を人間の脳が解読可能な文字に変換して、コンピュータやスマートフォンなどの画面に表示する形です。

敬老はがきも、メールに添付したPDFという形でお送りすれば、いけばなの見事に美しい写真を見ていただくことができますし、字が小さくて読みにくい場合は指先でピッと大きくして見ることができたりします。紙ではないので、汚れたり朽ちたりかびたりすることはありません。

しかし、どうでしょう。電子メールで敬老はがきが届いて「うれしい」と思う方がどれくらいおられるでしょうか。ひとりもおられないとは思いませんが、少数派だろうなと思います。

当然です。そんなのが届いてもありがたくもなんともないです。どうしてだと思われますか。私なりの答えですが、その方法であれば送る側の手間が省け、いとも簡単に大量生産できるからです。100人分でも1000人分でも同じ労力で作ることができます。

そんなものが届いて「うれしい」と思うご高齢の方はおられないと思います。大変失礼なことだと思います。冗談じゃない、どれだけの苦労、どれだけの手間をかけて今日まで生きてきたと思っているんだ、それをなんだ、大量生産の画一的な敬老はがきなど送りつけてきて、失礼にも程があると、お叱りを受けて当然です。

週報や宣教要旨をお送りするメールについても全く同じことが言えると、私は考えています。こんな失礼なものを毎週お送りするのは申し訳ないと本気で考えています。しかし、新型コロナウィルス感染拡大防止の観点から、やむをえず始めたことです。

また、メールやブログで伝えるだけで済むなどと決して考えず、太古の時代から人類の歴史において受け継がれてきた最も素朴な方法で直接お伝えすることと併用することで、なんとか補うという考え方を決して忘れてはなりません。表情と共に、口で、言葉で伝えること。今はマスクで口が塞がれているので、目の表情や声のトーンが大事です。

また、紙と鉛筆や筆で、ひとりひとり固有の、だれが書いたか分かるほど個性ある字で伝える。そのようなことが大事です。お体がご不自由で、字を書いたりすることがおできにならない方を責める意図などは全くありません。そんなことを言いたいのではないということは活字では正確に伝わらないかもしれません。しかし、直接お会いして、目と声の表情を伝え合いながらお話しすれば、必ず真意が伝わるはずです。

今日は、エフェソの信徒への手紙5章の1節から5節までを朗読しました。この中で特に今日、敬老のお祝いとの関係で申し上げたいのは、2節に「キリストがわたしたちを愛して、御自分を香りのよい供え物、つまり、いけにえとしてわたしたちのために神に献げてくださったように、あなたがたも愛によって歩みなさい」と記されていることについてです。

ここに書かれている意味の「供え物」とか「犠牲」は、ユダヤ教では今でも行っている、動物を屠殺して火で焼いて祭壇に置く儀式のことを指しています。それで分かるのは、供え物から立ちのぼる「良い香り」は、香水のかおりではなく、動物の肉を焼いた薫りのことだということです。

動物ならば「おいしそうだ」で済む話ですが、イエス・キリストの場合はそれでは済みません。イエスさまがお受けになったのは火炙りの刑ではありません。しかし、文字通りの命を献げて、全人類を愛し、弟子たちを愛し、わたしたちを愛してくださっています。

そのイエス・キリストの愛に倣ってわたしたちも互いに愛し合い、愛によって歩むべきであることが勧められています。ということは、互いに愛し合いながら生きていくわたしたちから立ちのぼる香りも、動物の肉が火で焼かれて食用にされるときと同じような性質のかおりであることを想像するほうが正しいということです。

もちろん、すべてはたとえです。実際に自分の体を焼いたりしないでください。そんなことをしてはいけません。しかし、イメージとしては、実際に自分の体が現実の火で焼かれているような痛みや苦しみを味わい、最終的に地上の命そのものが終わるのと同じであるということです。

人生というのは、そういうものでしょう。先輩がたはそのことをよくご存じでしょう。現実の火で現実の体を焼かれているのと同じほどの激しい痛みや苦しみを味わいながら生きていくのが人生であり、逃げ場がないオーブンや鍋の中に入れられて焼き殺されるのと大差ないことを。

それだけの痛みや苦しみを現実に味わい続けて来られた方々だからこそ敬老のお祝いをさせていただきたいのです。それは犠牲の愛であり、息の長い、時間をかけた、熟練した愛です。

その愛を、いとも簡単に大量生産が可能なインターネットのメールやブログ、またすべて活字で埋め尽くされた印刷物で伝えることは不可能です。「これですべて片付いた」と私は全く考えることができません。その方向に突き進んで行ったりは決していたしませんので、ご安心ください。

いろんな制約や苦労を伴う形であっても「対面」で行う礼拝や集会を、これからも重んじます。

(2021年9月19日 主日礼拝)

2021年9月17日金曜日

平和学園小学校 児童礼拝


ヤコブの手紙2章1節

関口 康

「わたしの兄弟たち、栄光に満ちた、わたしたちの主イエス・キリストを信じながら、人を分け隔てしてはなりません」

おはようございます。平和学園小学校で今年、5年生と6年生の聖書の授業をしている関口康です。先ほど朗読してもらいました聖書の箇所のお話をします。

「わたしの兄弟たち、栄光に満ちた、わたしたちの主イエス・キリストを信じながら、人を分け隔てしてはなりません」(ヤコブの手紙2章1節)と書かれています。どういう意味でしょうか。

皆さんは「差別(さべつ)」という言葉を知っていますか。まだ知らない、よく分からない人がいるかもしれません。高学年の皆さんは知っていると思います。

今日の聖書の箇所に書かれているのはそのことです。「人を分け隔てしてはなりません」というのは「差別してはいけません」という意味です。

「差別」という言葉をまだ知らない人も含めて、みなさんにお尋ねします。差別することは、いいことですか、悪いことですか。知らない人は「なんとなく」でいいです。差別しても「いい」ですか、それとも「悪い」ですか。

その答えは「悪い」です。人を差別してはいけません。でも、人を差別するとはどういうことかは、人それぞれ考え方やとらえ方が違うかもしれません。「差別」とは具体的にどういうことなのかが続きに書かれています。

「あなたがたの集まりに、金の指輪をはめた立派な身なりの人が入って来、また、汚らしい服装の貧しい人も入って来るとします。その立派な身なりの人に特別に目を留めて、『あなたは、こちらの席にお掛けください』と言い、貧しい人には、『あなたは、そこに立っているか、わたしの足もとに座るかしていなさい』と言うなら、あなたがたは、自分たちの中で差別をし、誤った考えに基づいて判断を下したことになるのではありませんか」(2~4節)。

小学生の皆さんが学校に「金の指輪」をはめてくることは無いと思います。でも仮にそういう人がいることを想像してみてください。ダメですけどね。お母さんから金の指輪を借りて来ないでくださいよ。もししてきたら、校長先生に預かってもらいますからね。あくまでも仮の話です。

そういう「立派な身なりの」人が、この学校のこの部屋に入って来る。その人には特別に立派な椅子があって、「どうぞそちらにお座りください」と誰かが言う。

そこに別の人が入って来る。その人は、聖書の表現をそのまま使うと「汚らしい服装」である。この言い方悪いね。「きたならしい」は、もうちょっといい言葉ないかなと思いますけどね。その「きたならしい」人には、椅子がないの。座らせてもらえないの。「そこに立っているか、わたしの足もとに座るかしていなさい」と言われるの。

どうして座らせてもらえないのでしょうかね。さっきみんな外でドッジボールをしていましたが、そういうときはみんなが泥だらけで「きたならしい」ので、いいのです。そうではなくて、その人ひとりだけが「きたならしい」から、目立つんだよね。そういう人には、そこに立ってなさい、それか、地べたに座ってなさい、椅子が汚れるから、と言われているのだと思います。

しかも、今日の聖書の箇所を読むと分かるのは今から二千年前の話です。イエスさまを信じる人たちが集まる教会の中でそんなことが実際にあった、ということです。

イエスさまを信じている人たちですよ。その人たちが、「汚らしい服の人は、その椅子に座るな、立っているか、地べたに座っていろ」とか言って、美しい身なりの人とそうでない人たちを差別する人がいた、というのです。

ダメでしょ、これ。いいと思いますか、ダメですよね。そんなことを言われた日には、教会なんか一生行くものかと、だれだって思うでしょう。神さまだとかイエスさまだとか、そんなもん、信じてやるもんかと思うでしょう。イエスさまを信じているとか言っている人たちが、そんなひどいことをするなら、何を信じたって意味ないよと、だれだって、そう思うでしょう。

そんなことをしていいと思っているのですか、ダメでしょうという意味のことが、今日の聖書の箇所に書かれています。

これは2千年前の話です。でも、今はこんなことは絶対にない、教会に限っては絶対にないと言えるかどうかは正直ちょっと心配になるときがあります。

私はいま55歳です。ふだんは教会の牧師さんです。牧師さんは、70歳か75歳ぐらいまでは、なんとか仕事ができると思います。なので、私もあと20年ぐらいは牧師さんを続けられるのではないかと思っています。

20年後、みなさんは26歳から32歳までくらいです。ですよね。その頃もたぶん私は牧師さんです。そのころに、皆さんとぜひまたお会いしたいです。ぜひ教会に来てください。皆さんのことを待っています。

そのとき、皆さんがもし「汚らしい服装」で来ても、「どうぞこちらにお座りください」と大切なお客さまをお迎えできる教会の牧師さんでありたいと願っています。

人生いろいろあるんです。30歳にもなると、いろいろ困ったことに直面します。会社をクビになったとか、友達と大ゲンカしたとか、お金が無くなっちゃったとかね。

そういうときに私の教会に来てください。「平和学園小学校の卒業生です」と言ってくれれば、大歓迎します。私もちゃんと覚えてますからね。

そのとき、服を買うお金も無くなって「きたならしい」格好で来てくれても、もちろん大歓迎します。みんなが教会に来てくれたら、そのとき私がみんなのために美味しいラーメンを作ります。美味しいですよ。

いま毎日、ラーメンを作る練習をしてるんです。今から20年も練習したら、ラーメンのプロです。その頃はコロナの心配はなくなっていると思うので、大丈夫です。

20年後にみんなが教会に来てくれるまで、私も教会の牧師さんとしてがんばります。みんなでラーメン食べようね。その日まで「どんな人が来ても絶対に差別しない教会」を目指してがんばります。

だから、みなさんも「絶対に人を差別しない」と心に誓って生きていってほしいです。よろしくお願いします。

(2021年9月17日 平和学園小学校 児童礼拝)


2021年9月12日日曜日

隣人(2021年9月12日 主日礼拝)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13)
  
讃美歌21 510番 主よ、終わりまで 奏楽・長井志保乃さん


「隣人」

ヤコブの手紙2章5~13節

関口 康

「憐れみは裁きに打ち勝つのです」

ヤコブの手紙についての宣教を、昭島教会で過去2回させていただいたことが、手元の記録で確認できました。2回とも2年前の2019年で、その年の9月1日と10月13日です。しかも今日は2章5節から13節までを朗読しましたが、2年前の2019年10月13日に2章の1節から9節までを朗読し、その箇所についてのお話をしましたので、重複しています。

そのときの原稿を読み直しました。それで分かったのは、私の聖書の読み方は変わっていないということです。2年くらいで変わってしまうようでは信用ならない説教者であると言われても仕方がありません。私の信仰がブレていないという意味だろうと、よく解釈しておきます。

この手紙の2章は、新共同訳聖書が「人を分け隔てしてはならない」という小見出しを付けているとおり、《差別》の問題を取り上げています。1節以下に次のように記されています。

「わたしの兄弟たち、栄光に満ちた、わたしたちの主イエス・キリストを信じながら、人を分け隔てしてはなりません。あなたがたの集まりに、金の指輪をはめた立派な身なりの人が入って来、また、汚らしい服装の貧しい人も入って来るとします。その立派な身なりの人に特別に目を留めて、『あなたは、こちらの席にお掛けください』と言い、貧しい人には、『あなたは、そこに立っているか、わたしの足もとに座るかしていなさい』と言うなら、あなたがたは、自分たちの中で差別をし、誤った考えに基づいて判断を下したことになるのではありませんか」(1~4節)。

ほとんどはっきり言えるのは、これは空想の話や仮定の話でなく、西暦1世紀のキリスト教会の中で現実に起こった出来事についての、あからさまな描写であろうということです。どうしてそのようなことが「ほとんどはっきり言える」と言えるのかといえば、どの時代のどの国のどの教会の中でも実際に起こってきたし、今のわたしたちが全く無関係であると言えるだろうかと自分自身に問いかけてみるとおそらくすぐ答えが出るだろうことだからです。

昔も今も人間は変わっていないし、教会も変わっていません。この箇所に描写されているような状況の中で、人が考えること、行動することに大差はありません。しかし、だからといって、教会の中ですら差別が起こるのはやむを得ないことだと開き直って、それをまるで抵抗しえない運命であるかのように言い張るようなことでもするとしたら、果たしてそれはイエス・キリストの体なる教会なのでしょうか、教会ならざる別の集団へと成り代わってしまっているのではないでしょうかと、わたしたち自身も激しく自問自答すべきですし、ヤコブの手紙の著者ヤコブも、同じ問いの前に立たされていたのではないかと、容易に想像することができます。

昭島教会でこのようなことを私が見かけたことは一度もありませんが、美しい身なりの人には「どうぞこちらへ」と勧められる席があり、そうでない人には(椅子が汚れるから、でしょう)「立っていなさい」と言われてみたり、「地べたに座っていろ」と言われてみたり。そんなとんでもないことは、教会に限った話ではなく全世界の全領域において起こってはならないことですが、百歩譲ってせめて教会の中では完全に否定されなければなりませんが、現実はどうでしょうか。

5節に大切なことが記されています。「わたしの愛する兄弟たち、よく聞きなさい。神は世の貧しい人たちをあえて選んで、信仰に富ませ、御自身を愛する者に約束された国を、受け継ぐ者となさったではありませんか」(5節)。

これは、最初にイエスの弟子になった12人の使徒を中心にした弟子集団、そしてまたイエス・キリストの復活と昇天、さらに聖霊降臨の出来事を経て誕生したキリスト教会を指しています。その人々が「世の貧しい人たち」であるというのは、社会的・経済的な意味での貧困層に属していた人々を指します。神はそういう人たちを「あえて」選んだと言われているのは、そこに神の明確な御意志が働いていたという意味です。

もちろん人それぞれの面があるでしょうけれども、教会に初めて足を運び、門をくぐる気持ちになったきっかけが、必ずわたしたちひとりひとりにあるでしょう。「貧しさ」ゆえに現実の生活が立ち行かなくなり、助けを求めて彷徨い、教会にたどり着いたという人もいるでしょう。

しかしまた、その教会自身も、ほとんど同じ境遇の中で、それぞれの個人の歴史の中で貧困を体験し、助けを求めて彷徨って、イエスさまのもとへと、あるいはイエスさまを信じる信仰へとたどり着いた人々の集まりであって、特定の篤志家が築いた財団であるわけでない。教会に援助を求めたとしても、さっとお金を渡してもらえるわけではない。長い年月をかけての地味で地道な助け合いと支え合いの中で各自の人生を立て直していく、その意味での「生活共同体」として教会がある。その事情は二千年の教会の歴史の初めからそうだった、ということです。

そうだったはずでしょうと、ヤコブは読者に問いかけたがっています。「だが、あなたがたは、貧しい人を辱めた」(6節)。教会は初心を忘れてしまったのか、と。身なりの良し悪しなどで差別するような集団に、どうしてなってしまったのでしょうか、と。

「富んでいる者たちこそ、あなたがたをひどい目に遭わせ、裁判所へ引っ張って行くではありませんか。また彼らこそ、あなたがたに与えられたあの尊い名を、冒瀆しているではないですか」(6~7節)とあるのは、当時実際に起こった具体的な出来事を指していると思われます。

イエス・キリストの名を冒瀆する人々が、教会を妨害するための口実を見つけては裁判所に訴えて、教会の活動を妨げる判決を引き出そうとしていたかもしれません。お金が物を言う場合があります。貧しい人たちには太刀打ちできません。そのような妨害者たちが使う手口と、教会がすることと同じでもよいと思いますか、おかしいと思いませんかとヤコブは問いたがっています。

「憐れみは裁きに打ち勝つ」(13節)とヤコブが書いています。この文脈での「裁き」の意味は、裕福な人たちがお金と権力を用いて思いのままに動かす裁判所の判決のことであると思われます。裕福な人たちは自分たちに都合の良い判決を引き出し、弱い人たちを敗訴に追い込もうとするが、人を差別している時点でその人たち自身が重大な罪を犯しているので、神の裁きにおいて敗けているのはその人たちのほうだ、という意味です。

ですから、「人に憐れみをかけない者には、憐れみのない裁きが下されます」(13節)の意味は、支配力をほしいままにして弱い人を虐め、貧しい人を嘲笑したりしてきた人は、神の厳しい裁きを受けるということです。そのようなことをしなければよいのです。神の厳しい裁きを免れるでしょう。「隣人」に対する(良い意味での)「憐れみ」を持つことを決して忘れてはなりません。

わたしたちに直接当てはまることかどうかは各自で考えることです。「耳が痛い」と感じる点があるとすれば、そこがわたしたちの急所です。教会だけが例外であることはありません。

(2021年9月12日 主日礼拝)

2021年9月5日日曜日

教会の一致と交わり(2021年9月5日 主日礼拝)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13)
讃美歌21 390番 主は教会の基となり 奏楽・長井志保乃さん



「教会の一致と交わり」

コリントの信徒への手紙一 1章10~17節

関口 康
「皆、勝手なことを言わず、仲たがいせず、心を一つにし思いを一つにして、固く結び合いなさい。」

今日から礼拝堂での主日礼拝を再開することにしたのは、先週までの状況と比べて今日の状況に大きな変化があったからではありません。それどころか、もしかしたら先週より状況がもっと悪化していると考えなければならないのかもしれません。

8月1日(日)にわたしたちは礼拝堂で礼拝を行いました。しかし、その翌日の8月2日(月)に政府が「重症患者や重症リスクの高い方以外は自宅での療養を基本とする」という声明を発表したことを知り、事実上の「医療崩壊」が公言されたと判断しました。それは、最初は私個人の判断でしたが、役員会の全員が同意してくださいましたので、8月8日(日)から8月末まで礼拝堂での礼拝を取りやめ、各自自宅礼拝の形に切り替えさせていただきました。

しかし、誤解が無いようにはっきり申し上げます。昨年度も今年度も、当教会を含む宗教法人に対する礼拝堂封鎖のようなことが要請されたことは一度もありません。もしそのような要請があるとしたら、言い方は悪いですが「お役所仕事」ですので、紙に印刷された通知の書面が政府名義で全宗教法人に必ず届くはずですが、そのような書面は存在しません。

悪口や当てこすりを言いたいのではありません。しかし、全国の教会の中に「緊急事態宣言が発出されたので」という理由で各自自宅礼拝やオンライン礼拝に切り替えたところがあることを私は知っています。しかし「されたので」と関連付けて言ってしまいますと、まるで政府が教会に何かを命令したかのように誤解する人が出てきかねません。しかも政府は「発令」という言葉を一度も使っていないはずですが、何かにつけて「発令」と言いたがる向きを感じます。誤解や誇張があると言わざるをえません。

なぜこんな話を長く続けているかというと、「まだ緊急事態宣言は終わっていないではないか、さらに延長する可能性があるらしいではないか、それなのにどうして今日からの再開なのか」という疑問があるだろうと思うからです。

結論からいえば、我々は「緊急事態宣言が出たので」礼拝堂を閉鎖するとか、「解除されたので」礼拝堂での礼拝を再開するという関係にない、ということです。だれが何と言おうとお構いなしにやりたい放題やってよいということではありません。冗談にも口にすべきでない。そうでなくわたしたちは、政府とは別に独自の判断をせねばならないということです。

わたしたちが自主的になすべき判断の根拠や基準は何なのかは、必ず問われることになりますが、それは別問題だと私は考えます。このあたりで今日の聖書の箇所に記されていることが深く関係してくると思いますので、そろそろ聖書の話に移ります。

しかし、その前に言うべきことがあります。「主の日」と呼ばれる日曜日ごとに、共に集まって礼拝をささげること自体は、それを「する」か「しない」かを教会ごとに判断するという関係にありません。「する」ことが教会にとって自明なことであり、「しない」という選択肢は教会にはありません。教会の信仰によれば、天地創造の初めから神ご自身が6日働いて7日目に休まれたという教えに基づき、7日ごとに神の前で安息を得るために礼拝することが教会の存在理由です。

ただ、その「共に集まる」の意味する内容が広がってきたことも事実です。特に今日インターネットを用いて「ヴァーチャルに集まる」ことが可能になってきました。それが今のわたしたちのギリギリの判断です。しかし礼拝を「する」か「しない」かは、わたしたちが自由に決める問題ではありません。その選択肢が自分たちの手中にあると思い込んでいるとしたら、もはや「教会」ではありません。

それで今日の聖書の話です。使徒パウロがコリントの教会に宛てて書いた手紙の、比較的冒頭に近い部分です。そこに「皆、勝手なことを言わず、仲違いせず、心を一つにし思いを一つにして、固く結び合いなさい」(10節)と記されています。

「勝手なことを言わず」というのは、ずいぶんきつい言い方ですが、理解はできます。大切なのは「心を一つにし思いを一つにする」ことです。それが「教会」だとパウロは確信しています。心も思いも一つにすることができない状態が続くことを、パウロは懸念しています。

今日の箇所に書かれている内容は、比較的よく知られていることです。コリント教会の設立者はパウロです。パウロが開拓伝道者です。しかし、この手紙を書いているパウロはもうコリントにはいません。別の地で伝道しています。コリント教会にパウロの後に来た伝道者がアポロです。しかし、どうやらアポロの言うこととパウロの言うことに違いや差があったようです。それで、コリント教会の中にどちらが正しいかの論争が始まりました。

しかし、どちらも正しくないと考える人たちが出てきました。当時のキリスト教会の最高責任者は、最初にイエスさまの弟子になったペトロでした。「ペトロ」はギリシア語人名ですが、その意味は「岩」です。当時イエスさまもペトロもアラム語で話していました。「ケファ」は「岩」のアラム語です。つまり、聖書に登場する「ケファ」は使徒ペトロのことです。

パウロの言うこともアポロの言うことも、どちらも正しくないと考えた人たちが、当時の教団の最高責任者のペトロに従おうと考えました。それが「わたしはケファに」(12節)の意味です。いや違う、我々が従うべきは、生前のイエスさまの最初の弟子のペトロだとかではないし、生前のイエスさまに直接会ったことがあるわけでないパウロやアポロでもなく、イエスさまご自身だ、キリストだと言い出した人たちもいました。それが「わたしはキリストに」(同上節)の意味です。

そのような言い争いをしているコリント教会にパウロが言いたいことは、「わたしは誰につく」という発想そのものをやめなさい、ということです。「キリストにつく」という答えが最も正しいという説明を私もどこかで聞いたことがありますが、パウロが言っていることとは違います。

パウロの主旨は、けんかをやめなさい、心と思いを一つにしなさいです。この点、わたしたちは惑わされてはいけません。もし「キリストにつく」だけが正しい選択肢で、パウロもアポロもペトロも神でも救い主でもなく、ただ邪魔なだけで信仰とは関係ないなどと言って、蹴散らしてしまうのであれば、わたしたちが新約聖書を読む意味がなくなってしまうでしょう。なぜなら、新約聖書のすべてがイエスさまの(広い意味での)弟子たちが書いたものなのですから。

回りくどい話になりました。わたしたちが今日から礼拝堂での礼拝を再開するのは、「心と思いを一つにする」ためです。「各自自宅礼拝」が長期化すると、この点が難しくなります。とにかく集まり、顔と顔を合わせて共に礼拝する。それが「教会」です。

礼拝堂での礼拝を再開する「判断基準」があるとすれば、「心と思いが一致しているかどうか」にかかっています。そうかどうかを確認できなくなっていくことが教会にとって最も危機です。インターネットが「共に集まる」の趣旨にぴったり当てはまるかどうかは、今後の課題です。

(2021年9月5日 主日礼拝)