ご長寿をお慶び申し上げます(2021年度 敬老はがき) |
讃美歌21 155番 山べに向かいて 奏楽・長井志保乃さん
「新しい戒め」
エフェソの信徒への手紙5章1~5節
関口 康
「キリストがわたしたちを愛して、御自分を香りのよい供え物、つまり、いけにえとしてわたしたちのために神に献げてくださったように、あなたがたも愛によって歩みなさい。」
明日9月20日が敬老の日で国民の祝日です。昭島教会としても、毎年恒例ですが、75歳以上の方に敬老のはがきを今年もお贈りします。
村上明子さんが生けてくださった美しいいけばなの写真と聖書のみことば付きのはがきです。一言メッセージを私の下手な手書きで書かせていただきました。
送り先のご住所とお名前も、ご奉仕くださった方々がそれぞれ手書きで書いてくださいました。75歳以上の方はどうぞ遠慮なさらず、ぜひお受け取りくださいますようお願いいたします。
手書きであるということを強調させていただきました。下手な字よりもワープロの活字のほうが読みやすくてきれいではないかとお思いになる方がおられるかもしれません。それどころか、21世紀なのだから、紙のはがきより電子メールのほうがかさ張らなくていいのではないかというご意見をお持ちの方がおられるかもしれません。
しかし、こういうことを言いながら笑いが止まらなくなっています。すべて冗談です。不謹慎で申し訳ありません。手書きのほうがいいに決まっているではありませんか。すべて活字の手紙などをもらっても、ありがたくもなんともありません。手書きのほうが、気持ちが伝わる、心の思いが伝わる、それは人間として当然のことです。
この話の流れで申し上げておきたいことがあります。それは、このコロナ状況になって以来、昭島教会の新しい取り組みとして、教会のブログと電子メールを活用して、礼拝開始チャイム、オルガンやピアノによる讃美歌の奏楽、教会が毎週発行している週報、そして宣教要旨などを、インターネット経由で電子的にお配りしていることについてです。
手書きの要素は全く無く、すべて活字です。また、物質的な紙ではなく、電気信号を人間の脳が解読可能な文字に変換して、コンピュータやスマートフォンなどの画面に表示する形です。
敬老はがきも、メールに添付したPDFという形でお送りすれば、いけばなの見事に美しい写真を見ていただくことができますし、字が小さくて読みにくい場合は指先でピッと大きくして見ることができたりします。紙ではないので、汚れたり朽ちたりかびたりすることはありません。
しかし、どうでしょう。電子メールで敬老はがきが届いて「うれしい」と思う方がどれくらいおられるでしょうか。ひとりもおられないとは思いませんが、少数派だろうなと思います。
当然です。そんなのが届いてもありがたくもなんともないです。どうしてだと思われますか。私なりの答えですが、その方法であれば送る側の手間が省け、いとも簡単に大量生産できるからです。100人分でも1000人分でも同じ労力で作ることができます。
そんなものが届いて「うれしい」と思うご高齢の方はおられないと思います。大変失礼なことだと思います。冗談じゃない、どれだけの苦労、どれだけの手間をかけて今日まで生きてきたと思っているんだ、それをなんだ、大量生産の画一的な敬老はがきなど送りつけてきて、失礼にも程があると、お叱りを受けて当然です。
週報や宣教要旨をお送りするメールについても全く同じことが言えると、私は考えています。こんな失礼なものを毎週お送りするのは申し訳ないと本気で考えています。しかし、新型コロナウィルス感染拡大防止の観点から、やむをえず始めたことです。
また、メールやブログで伝えるだけで済むなどと決して考えず、太古の時代から人類の歴史において受け継がれてきた最も素朴な方法で直接お伝えすることと併用することで、なんとか補うという考え方を決して忘れてはなりません。表情と共に、口で、言葉で伝えること。今はマスクで口が塞がれているので、目の表情や声のトーンが大事です。
また、紙と鉛筆や筆で、ひとりひとり固有の、だれが書いたか分かるほど個性ある字で伝える。そのようなことが大事です。お体がご不自由で、字を書いたりすることがおできにならない方を責める意図などは全くありません。そんなことを言いたいのではないということは活字では正確に伝わらないかもしれません。しかし、直接お会いして、目と声の表情を伝え合いながらお話しすれば、必ず真意が伝わるはずです。
今日は、エフェソの信徒への手紙5章の1節から5節までを朗読しました。この中で特に今日、敬老のお祝いとの関係で申し上げたいのは、2節に「キリストがわたしたちを愛して、御自分を香りのよい供え物、つまり、いけにえとしてわたしたちのために神に献げてくださったように、あなたがたも愛によって歩みなさい」と記されていることについてです。
ここに書かれている意味の「供え物」とか「犠牲」は、ユダヤ教では今でも行っている、動物を屠殺して火で焼いて祭壇に置く儀式のことを指しています。それで分かるのは、供え物から立ちのぼる「良い香り」は、香水のかおりではなく、動物の肉を焼いた薫りのことだということです。
動物ならば「おいしそうだ」で済む話ですが、イエス・キリストの場合はそれでは済みません。イエスさまがお受けになったのは火炙りの刑ではありません。しかし、文字通りの命を献げて、全人類を愛し、弟子たちを愛し、わたしたちを愛してくださっています。
そのイエス・キリストの愛に倣ってわたしたちも互いに愛し合い、愛によって歩むべきであることが勧められています。ということは、互いに愛し合いながら生きていくわたしたちから立ちのぼる香りも、動物の肉が火で焼かれて食用にされるときと同じような性質のかおりであることを想像するほうが正しいということです。
もちろん、すべてはたとえです。実際に自分の体を焼いたりしないでください。そんなことをしてはいけません。しかし、イメージとしては、実際に自分の体が現実の火で焼かれているような痛みや苦しみを味わい、最終的に地上の命そのものが終わるのと同じであるということです。
人生というのは、そういうものでしょう。先輩がたはそのことをよくご存じでしょう。現実の火で現実の体を焼かれているのと同じほどの激しい痛みや苦しみを味わいながら生きていくのが人生であり、逃げ場がないオーブンや鍋の中に入れられて焼き殺されるのと大差ないことを。
それだけの痛みや苦しみを現実に味わい続けて来られた方々だからこそ敬老のお祝いをさせていただきたいのです。それは犠牲の愛であり、息の長い、時間をかけた、熟練した愛です。
その愛を、いとも簡単に大量生産が可能なインターネットのメールやブログ、またすべて活字で埋め尽くされた印刷物で伝えることは不可能です。「これですべて片付いた」と私は全く考えることができません。その方向に突き進んで行ったりは決していたしませんので、ご安心ください。
いろんな制約や苦労を伴う形であっても「対面」で行う礼拝や集会を、これからも重んじます。
(2021年9月19日 主日礼拝)