2021年9月12日日曜日

隣人(2021年9月12日 主日礼拝)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13)
  
讃美歌21 510番 主よ、終わりまで 奏楽・長井志保乃さん


「隣人」

ヤコブの手紙2章5~13節

関口 康

「憐れみは裁きに打ち勝つのです」

ヤコブの手紙についての宣教を、昭島教会で過去2回させていただいたことが、手元の記録で確認できました。2回とも2年前の2019年で、その年の9月1日と10月13日です。しかも今日は2章5節から13節までを朗読しましたが、2年前の2019年10月13日に2章の1節から9節までを朗読し、その箇所についてのお話をしましたので、重複しています。

そのときの原稿を読み直しました。それで分かったのは、私の聖書の読み方は変わっていないということです。2年くらいで変わってしまうようでは信用ならない説教者であると言われても仕方がありません。私の信仰がブレていないという意味だろうと、よく解釈しておきます。

この手紙の2章は、新共同訳聖書が「人を分け隔てしてはならない」という小見出しを付けているとおり、《差別》の問題を取り上げています。1節以下に次のように記されています。

「わたしの兄弟たち、栄光に満ちた、わたしたちの主イエス・キリストを信じながら、人を分け隔てしてはなりません。あなたがたの集まりに、金の指輪をはめた立派な身なりの人が入って来、また、汚らしい服装の貧しい人も入って来るとします。その立派な身なりの人に特別に目を留めて、『あなたは、こちらの席にお掛けください』と言い、貧しい人には、『あなたは、そこに立っているか、わたしの足もとに座るかしていなさい』と言うなら、あなたがたは、自分たちの中で差別をし、誤った考えに基づいて判断を下したことになるのではありませんか」(1~4節)。

ほとんどはっきり言えるのは、これは空想の話や仮定の話でなく、西暦1世紀のキリスト教会の中で現実に起こった出来事についての、あからさまな描写であろうということです。どうしてそのようなことが「ほとんどはっきり言える」と言えるのかといえば、どの時代のどの国のどの教会の中でも実際に起こってきたし、今のわたしたちが全く無関係であると言えるだろうかと自分自身に問いかけてみるとおそらくすぐ答えが出るだろうことだからです。

昔も今も人間は変わっていないし、教会も変わっていません。この箇所に描写されているような状況の中で、人が考えること、行動することに大差はありません。しかし、だからといって、教会の中ですら差別が起こるのはやむを得ないことだと開き直って、それをまるで抵抗しえない運命であるかのように言い張るようなことでもするとしたら、果たしてそれはイエス・キリストの体なる教会なのでしょうか、教会ならざる別の集団へと成り代わってしまっているのではないでしょうかと、わたしたち自身も激しく自問自答すべきですし、ヤコブの手紙の著者ヤコブも、同じ問いの前に立たされていたのではないかと、容易に想像することができます。

昭島教会でこのようなことを私が見かけたことは一度もありませんが、美しい身なりの人には「どうぞこちらへ」と勧められる席があり、そうでない人には(椅子が汚れるから、でしょう)「立っていなさい」と言われてみたり、「地べたに座っていろ」と言われてみたり。そんなとんでもないことは、教会に限った話ではなく全世界の全領域において起こってはならないことですが、百歩譲ってせめて教会の中では完全に否定されなければなりませんが、現実はどうでしょうか。

5節に大切なことが記されています。「わたしの愛する兄弟たち、よく聞きなさい。神は世の貧しい人たちをあえて選んで、信仰に富ませ、御自身を愛する者に約束された国を、受け継ぐ者となさったではありませんか」(5節)。

これは、最初にイエスの弟子になった12人の使徒を中心にした弟子集団、そしてまたイエス・キリストの復活と昇天、さらに聖霊降臨の出来事を経て誕生したキリスト教会を指しています。その人々が「世の貧しい人たち」であるというのは、社会的・経済的な意味での貧困層に属していた人々を指します。神はそういう人たちを「あえて」選んだと言われているのは、そこに神の明確な御意志が働いていたという意味です。

もちろん人それぞれの面があるでしょうけれども、教会に初めて足を運び、門をくぐる気持ちになったきっかけが、必ずわたしたちひとりひとりにあるでしょう。「貧しさ」ゆえに現実の生活が立ち行かなくなり、助けを求めて彷徨い、教会にたどり着いたという人もいるでしょう。

しかしまた、その教会自身も、ほとんど同じ境遇の中で、それぞれの個人の歴史の中で貧困を体験し、助けを求めて彷徨って、イエスさまのもとへと、あるいはイエスさまを信じる信仰へとたどり着いた人々の集まりであって、特定の篤志家が築いた財団であるわけでない。教会に援助を求めたとしても、さっとお金を渡してもらえるわけではない。長い年月をかけての地味で地道な助け合いと支え合いの中で各自の人生を立て直していく、その意味での「生活共同体」として教会がある。その事情は二千年の教会の歴史の初めからそうだった、ということです。

そうだったはずでしょうと、ヤコブは読者に問いかけたがっています。「だが、あなたがたは、貧しい人を辱めた」(6節)。教会は初心を忘れてしまったのか、と。身なりの良し悪しなどで差別するような集団に、どうしてなってしまったのでしょうか、と。

「富んでいる者たちこそ、あなたがたをひどい目に遭わせ、裁判所へ引っ張って行くではありませんか。また彼らこそ、あなたがたに与えられたあの尊い名を、冒瀆しているではないですか」(6~7節)とあるのは、当時実際に起こった具体的な出来事を指していると思われます。

イエス・キリストの名を冒瀆する人々が、教会を妨害するための口実を見つけては裁判所に訴えて、教会の活動を妨げる判決を引き出そうとしていたかもしれません。お金が物を言う場合があります。貧しい人たちには太刀打ちできません。そのような妨害者たちが使う手口と、教会がすることと同じでもよいと思いますか、おかしいと思いませんかとヤコブは問いたがっています。

「憐れみは裁きに打ち勝つ」(13節)とヤコブが書いています。この文脈での「裁き」の意味は、裕福な人たちがお金と権力を用いて思いのままに動かす裁判所の判決のことであると思われます。裕福な人たちは自分たちに都合の良い判決を引き出し、弱い人たちを敗訴に追い込もうとするが、人を差別している時点でその人たち自身が重大な罪を犯しているので、神の裁きにおいて敗けているのはその人たちのほうだ、という意味です。

ですから、「人に憐れみをかけない者には、憐れみのない裁きが下されます」(13節)の意味は、支配力をほしいままにして弱い人を虐め、貧しい人を嘲笑したりしてきた人は、神の厳しい裁きを受けるということです。そのようなことをしなければよいのです。神の厳しい裁きを免れるでしょう。「隣人」に対する(良い意味での)「憐れみ」を持つことを決して忘れてはなりません。

わたしたちに直接当てはまることかどうかは各自で考えることです。「耳が痛い」と感じる点があるとすれば、そこがわたしたちの急所です。教会だけが例外であることはありません。

(2021年9月12日 主日礼拝)

2021年9月5日日曜日

教会の一致と交わり(2021年9月5日 主日礼拝)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13)
讃美歌21 390番 主は教会の基となり 奏楽・長井志保乃さん



「教会の一致と交わり」

コリントの信徒への手紙一 1章10~17節

関口 康
「皆、勝手なことを言わず、仲たがいせず、心を一つにし思いを一つにして、固く結び合いなさい。」

今日から礼拝堂での主日礼拝を再開することにしたのは、先週までの状況と比べて今日の状況に大きな変化があったからではありません。それどころか、もしかしたら先週より状況がもっと悪化していると考えなければならないのかもしれません。

8月1日(日)にわたしたちは礼拝堂で礼拝を行いました。しかし、その翌日の8月2日(月)に政府が「重症患者や重症リスクの高い方以外は自宅での療養を基本とする」という声明を発表したことを知り、事実上の「医療崩壊」が公言されたと判断しました。それは、最初は私個人の判断でしたが、役員会の全員が同意してくださいましたので、8月8日(日)から8月末まで礼拝堂での礼拝を取りやめ、各自自宅礼拝の形に切り替えさせていただきました。

しかし、誤解が無いようにはっきり申し上げます。昨年度も今年度も、当教会を含む宗教法人に対する礼拝堂封鎖のようなことが要請されたことは一度もありません。もしそのような要請があるとしたら、言い方は悪いですが「お役所仕事」ですので、紙に印刷された通知の書面が政府名義で全宗教法人に必ず届くはずですが、そのような書面は存在しません。

悪口や当てこすりを言いたいのではありません。しかし、全国の教会の中に「緊急事態宣言が発出されたので」という理由で各自自宅礼拝やオンライン礼拝に切り替えたところがあることを私は知っています。しかし「されたので」と関連付けて言ってしまいますと、まるで政府が教会に何かを命令したかのように誤解する人が出てきかねません。しかも政府は「発令」という言葉を一度も使っていないはずですが、何かにつけて「発令」と言いたがる向きを感じます。誤解や誇張があると言わざるをえません。

なぜこんな話を長く続けているかというと、「まだ緊急事態宣言は終わっていないではないか、さらに延長する可能性があるらしいではないか、それなのにどうして今日からの再開なのか」という疑問があるだろうと思うからです。

結論からいえば、我々は「緊急事態宣言が出たので」礼拝堂を閉鎖するとか、「解除されたので」礼拝堂での礼拝を再開するという関係にない、ということです。だれが何と言おうとお構いなしにやりたい放題やってよいということではありません。冗談にも口にすべきでない。そうでなくわたしたちは、政府とは別に独自の判断をせねばならないということです。

わたしたちが自主的になすべき判断の根拠や基準は何なのかは、必ず問われることになりますが、それは別問題だと私は考えます。このあたりで今日の聖書の箇所に記されていることが深く関係してくると思いますので、そろそろ聖書の話に移ります。

しかし、その前に言うべきことがあります。「主の日」と呼ばれる日曜日ごとに、共に集まって礼拝をささげること自体は、それを「する」か「しない」かを教会ごとに判断するという関係にありません。「する」ことが教会にとって自明なことであり、「しない」という選択肢は教会にはありません。教会の信仰によれば、天地創造の初めから神ご自身が6日働いて7日目に休まれたという教えに基づき、7日ごとに神の前で安息を得るために礼拝することが教会の存在理由です。

ただ、その「共に集まる」の意味する内容が広がってきたことも事実です。特に今日インターネットを用いて「ヴァーチャルに集まる」ことが可能になってきました。それが今のわたしたちのギリギリの判断です。しかし礼拝を「する」か「しない」かは、わたしたちが自由に決める問題ではありません。その選択肢が自分たちの手中にあると思い込んでいるとしたら、もはや「教会」ではありません。

それで今日の聖書の話です。使徒パウロがコリントの教会に宛てて書いた手紙の、比較的冒頭に近い部分です。そこに「皆、勝手なことを言わず、仲違いせず、心を一つにし思いを一つにして、固く結び合いなさい」(10節)と記されています。

「勝手なことを言わず」というのは、ずいぶんきつい言い方ですが、理解はできます。大切なのは「心を一つにし思いを一つにする」ことです。それが「教会」だとパウロは確信しています。心も思いも一つにすることができない状態が続くことを、パウロは懸念しています。

今日の箇所に書かれている内容は、比較的よく知られていることです。コリント教会の設立者はパウロです。パウロが開拓伝道者です。しかし、この手紙を書いているパウロはもうコリントにはいません。別の地で伝道しています。コリント教会にパウロの後に来た伝道者がアポロです。しかし、どうやらアポロの言うこととパウロの言うことに違いや差があったようです。それで、コリント教会の中にどちらが正しいかの論争が始まりました。

しかし、どちらも正しくないと考える人たちが出てきました。当時のキリスト教会の最高責任者は、最初にイエスさまの弟子になったペトロでした。「ペトロ」はギリシア語人名ですが、その意味は「岩」です。当時イエスさまもペトロもアラム語で話していました。「ケファ」は「岩」のアラム語です。つまり、聖書に登場する「ケファ」は使徒ペトロのことです。

パウロの言うこともアポロの言うことも、どちらも正しくないと考えた人たちが、当時の教団の最高責任者のペトロに従おうと考えました。それが「わたしはケファに」(12節)の意味です。いや違う、我々が従うべきは、生前のイエスさまの最初の弟子のペトロだとかではないし、生前のイエスさまに直接会ったことがあるわけでないパウロやアポロでもなく、イエスさまご自身だ、キリストだと言い出した人たちもいました。それが「わたしはキリストに」(同上節)の意味です。

そのような言い争いをしているコリント教会にパウロが言いたいことは、「わたしは誰につく」という発想そのものをやめなさい、ということです。「キリストにつく」という答えが最も正しいという説明を私もどこかで聞いたことがありますが、パウロが言っていることとは違います。

パウロの主旨は、けんかをやめなさい、心と思いを一つにしなさいです。この点、わたしたちは惑わされてはいけません。もし「キリストにつく」だけが正しい選択肢で、パウロもアポロもペトロも神でも救い主でもなく、ただ邪魔なだけで信仰とは関係ないなどと言って、蹴散らしてしまうのであれば、わたしたちが新約聖書を読む意味がなくなってしまうでしょう。なぜなら、新約聖書のすべてがイエスさまの(広い意味での)弟子たちが書いたものなのですから。

回りくどい話になりました。わたしたちが今日から礼拝堂での礼拝を再開するのは、「心と思いを一つにする」ためです。「各自自宅礼拝」が長期化すると、この点が難しくなります。とにかく集まり、顔と顔を合わせて共に礼拝する。それが「教会」です。

礼拝堂での礼拝を再開する「判断基準」があるとすれば、「心と思いが一致しているかどうか」にかかっています。そうかどうかを確認できなくなっていくことが教会にとって最も危機です。インターネットが「共に集まる」の趣旨にぴったり当てはまるかどうかは、今後の課題です。

(2021年9月5日 主日礼拝)

2021年8月29日日曜日

福音の世界(2021年8月29日 各自自宅礼拝)

「雲の中の虹(創世記9章16節)」2021年8月19日午前5時 関口康撮影
讃美歌21 218番 日暮れてやみはせまり 奏楽・長井志保乃さん

「福音の世界」

昭島教会 秋場治憲兄

ローマの信徒への手紙人3章19~28節、4章4~5節

「ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して神の恵みにより無償で義とされるのです。」

私達は今新型コロナウイルスによる感染症予防のため、自宅での礼拝が余儀なくされています。何度も収束するかに思われながらもその都度ぶり返し、現在は更に感染力を増したデルタ株なるものが猛威を振るい、東京都では病床の確保が困難な状況が続いています。しかし同時に新たなワクチンの開発も進んでいるということが報道されています。私達はこの災禍が一日も早く終息することを祈りながら、罹患された方々の回復を祈りながら、今朝も聖書の言葉に耳を傾けたいと思います。

この状況は、しかし、同時にじっくりと腰を据えて、時間無制限で聖書の学びに注力できるという状況でもあるのではないかと思います。語る方も時間を気にせず、皆様もコーヒーブレイクをはさみながら読んでいただければと思い、いつもよりたっぷりの分量をお届けしたいと思います。分からないところは読み飛ばし、分かるところを拾い読みしてください。終わりまで行くと、分からなかった所が分かるようになります。

私は前回5月23日、ペンテコステ礼拝(聖霊降臨日)にお話を致しました。神はその御子イエスの上にアダム以来猶予してきた人間のすべての罪を置き、これを徹底的に打ち砕かれた。そのことによって神は罪に対するご自分の正義を示し、同時に我々罪にまみれた人間が赦される道を開かれた。わずかに50日前の過ぎ越しの祭りにおいて、「殺せ、殺せ、十字架につけよ」と叫んだユダヤ人たちも、主イエスを置き去りにして逃げ去り、自らの身の安全をはかった弟子たちも、また自分の言っていることが真実でないなら、自分は神に呪われてもいいとまで断言したペテロも、その罪が赦されて生きる道が示されたのでした。神はかつてバベルの塔を建設し、神の座に座ろうとした者たちの言葉を通じなくし、地の表に散らされた。しかしペンテコステにおいては罪が赦されたことを知らされた者たちは、深く悔い改め、神に栄を帰す者とされたのです。そして栄を神に帰す者たちは、その謙遜ゆえに互いにその言葉が通じる者たちとされ、ここに教会が誕生したのでした。ペンテコステはバベルの塔の回復となりました。しかしそれには神がアダム以来犯されてきた人間のすべての罪をその独り子イエスの上に置き、十字架の上で断罪するということがなければなりませんでした。

この審きに対して御子イエスは「出来ることなら、この杯を我より取り去り給え」と三度も祈りながらも、「しかしわが思いではなく、御心がなりますように」と祈り、この審きに対して、「否」とは言わず、「御心がなること」を受け入れられた。父なる神はこのイエスをキリスト(油注がれた者、御心にかなう者、神の子)と認定され、よみの世界から高く引き上げ、そして神の右に座す者とされたのです。概略として、こういうお話を致しました。

聖霊はペテロたちにそして三千人のユダヤ人たちに対して、その心を強く刺し貫き、深く悔い改め、神に栄を帰すものとされ、それぞれの生まれ故郷へ送り返された。そしてそれぞれの生まれ故郷で、教会が誕生したのでした。これが使徒言行録2章に書かれていることの概略です。

そして次の3章になりますと、聖霊は300人どころか3人でさえない一人に向かうのです。この人はエルサレム神殿の東側にある「美しの門」を通って、祈りのために神殿にくる人たちに物乞いをするために置かれていた人です。聖霊は自分の力では歩くことも出来ない一人の男に向かうのです。ここから教会が始まるのです。奇しくもここは主イエスが、レプタ2枚を捧げたやもめ[1]に注目した場所でした。

 これらのことを念頭に置き、今日のテキストに入りたいと思います。ローマ人への手紙3:19からですが、19節と20節を読んでみます。

 19.さて、私達が知っているように、すべて律法の言うところは、律法の下にいる人々に向けられています。それは、すべての人の口がふさがれて、全世界が神の裁きに服するようになるためなのです。20.なぜなら、律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされないからです。律法によっては、罪の自覚しか生じないのです。」

マルチン・ルターが修道院の中で、神の前で義とされるために、修道院で定められたものにとどまらず更に多くの苦行をして清くなろうとした際、「手を洗えば洗うほど、汚くなる」と語った言葉が象徴的です。しかし21節以下には、次のように続きます。

21.ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。22.すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません。23.人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、24.ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。25.神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。それは、今まで人が犯した罪を見逃して、神の義をお示しになるためです。26.このように神は忍耐してこられたが、今この時に義を示されたのは、ご自分が正しい方(義)であることを明らかにし、イエスを信じる者を義となさるためです。」(新共同訳)

ある新約学者は「ここはローマ人への手紙の中心かつ心臓部である」と言っています。確かにその通りなのですが、私はここを読んでいてどうもしっくりこない時期がありました。<ガッテン>と手を打ち鳴らすことが出来ない悶々とした時期がありました。それは「信仰」が救われるための条件なのか?ということでした。パウロは24節に「神の恵みにより無償で義とされるのです。」と言っていますが、22節の口語訳は「イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、すべて信じる人に与えられるものである。」と「信仰」が前提となっています。

私の自主的、主体的な人間の業としての信仰により救われる、義とされるというのでは、本質的に律法の下にある行いと変わらなくなってしまう。そうすると19節で「律法によっては罪の自覚しか生じないのです。」という言葉通り、私達はまだ駄目だ、まだ駄目だ、これでもか、これでもかとなり、ルターが言うように「手を洗えば洗うほど、汚くなる」という立場を続けるほかないのです。

またパウロ自身も「善をなそうと思う自分には、いつも悪がつきまとっているという法則に気付きます。『内なる人』としては神の律法を喜んでいますが、わたしの五体にはもう一つの法則があって、心の法則と闘い、わたしを、五体の内にある罪の法則のとりこにしているのが分かります。わたしは何と惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか。[2]」と叫びながら、「わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします。」と罪の法則のとりこになっている自分が、主イエス・キリストを通して救われたことを感謝しています。ここにはいつも悪にまとわりつかれているパウロ自身が、「手を洗えば洗うほど、汚くなってしまう」自分自身が、そのままで「神の恵みにより無償で[3]」(新共同訳)、「価なしに、神の恵みにより、」(口語訳)救われた、義とされたことに感謝をしています。

私達はペンテコステ礼拝において、ペテロも弟子たちも、三千人のユダヤ人達も、そのままで赦されたことを学んだばかりではなかったでしょうか。私達の罪はすべて御子の贖いによって、赦される道が開かれたのではなかったか。主イエスご自身も「律法と預言者は、ヨハネの時までである。それ以来、神の国の福音が告げ知らされ、だれもが力ずくでそこに入ろうとしている。[4]」(新共同訳)

3:23には「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっています」とあります。RSVはここをsince all have sinned and fall short of the glory of God と訳しています。すべての人間は罪を犯したので、神の栄光に届かなくなってしまっている、欠けている、不足している、~を持っていない、というのです。しかし「24.ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。」と続きます。これは私達の側からは神の栄光に(義に)届かなくなってしまっているけれども、神の側から「25.このキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。」という言葉が示す通り、神の義が私たちのところへ届けられた、というのです。

にもかかわらず22節の「イエス・キリストを信じることにより、」という言葉は、私達に自主的で、主体的な信仰と引きかえに神が救いを、義を与えるというニュアンスを拭い去ることはできず、以下に続く「無償で」「価なしに」「神の恵みにより」という言葉と整合性が取れなくなっています。もし神が私たちの信仰と引きかえに救いを、義を与えるというのなら、それは「無償で」「価なしに」「神の恵みにより」というのではなく、当然の「報酬[5]」であり、決して恵みということはできません。そしてもし私たちの自主的・主体的な信仰により神の義に到達することが出来たとするなら、その人は神の前に誇りうることでしょう。しかし聖書はその可能性を23節で「人は皆、・・・[6]」と全面的に否定しています。また、27節では、「では、人の誇りはどこにあるのか。それは取り除かれました[7]どんな法則によってか。行いの法則によるのか。そうではない。信仰の法則によってです。28.なぜなら、わたしたちは、人が義とされるのは律法の行いによるのではなく、信仰によると考えるからです。」(新共同訳)しかし私のイエス・キリストを信じる信仰によって与えられた神の義であるなら、私達は誇りうるのではないでしょうか。

ここには翻訳の問題があります。英語で The love of God というと、これは「神の愛」(神の人間に対する愛)という意味であるということは分かると思います。しかしこの「of」にはもう一つの意味があります。「人間が神を愛する愛」という全く正反対の意味にもなります。これは文法的には「目的関係のof」と言われ、前者は「作者・作為者のof」と言われています。昔使った英和辞典を引っ張り出し、of の項目を上から下まで調べてみて下さい。

22節の言葉を使い分けて訳してみます。一つは聖書にあるように後者の訳(目的関係のofイエス・キリスト信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。

イエス・キリストを信じる私の信仰により、神の義が与えられる、というのです。

これを前者の(作者・作為者のof)で訳してみると、

「イエス・キリスト信仰による神の義が、信じる者すべてに与えらえます。[8]となります。

イエス・キリストの十字架の死に至るまで従順であったその信仰[9]に対して神がイエスに与えた神の義が、私達、不信心で不信仰なすべての者に与えられるということになります。この「信じる」は、私達の働きによることではなく、神の働きに帰せられるべきものであり、人はただ受け取るだけですから条件にはなりません。私達はただ受け入れるだけということになり、次に続く「無償で」「価なしに」「神の恵みにより」ということばと整合性がとれることになります。ペテロが、弟子たちが聖霊降臨によって息をふきかえしたこととも、パウロが「わたしは何と惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか。[10]」と叫びながらも、『わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします。』」という告白に至ったことにも整合性がつきます。

原典の構造は、

「義 つまり 信仰による イエス・キリストの(を) すべての者に 信じる[11]」 となっています。

これをイエス・キリスト信じる我らの自主的な信仰によって与えられる神の義と読むか、イエス・キリスト信仰(従順)によって与えられた神の義が、信じる(受け入れる)すべての者に与えられると読むかということによって、まったく別の世界が広がります。イエス・キリストの信仰(十字架の死に至るまでの従順)によって神からイエスに与えられた神の義が、私達すべての者に与えられるというのです。しかも「無償で」「ただで」「価なしに」与えられるというのです。有償では到達できない者に、価を差し出すことが出来ない者に、無償で、価なしに神の義が分け与えられるというのです。これこそ福音の世界ではないでしょうか。

思い出して下さい。アダムに対する神の怒りは、アダムの首をかすめるようにして、大地に突き刺さったのです。大地は茨を茂らせアダムは額に汗して、その食をえるものとされました。しかも神はアダムに対する刑罰どころか、罪を犯した二人に神が手ずから作った破れることのない皮の衣を着せてエデンの園から送り出されたのです。しかしこのことは「神の義」に対する曖昧さを醸し出す結果となりました[12]。あたかも蛇のエバに対する誘惑の言葉が真実であるかのような結果になっていたのです。「蛇は女に言った。5.決して死ぬことはない。それを食べると目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存じなのだ。[13]」蛇は嘘は言ってない。人は確かに蛇がいうように善悪を知る者となった。しかし善悪を知ったアダムとエバは、神の歩かれる音にさえ怯えるものとなり、その責任を問われると、その責任を転嫁する者となったのです。「あなたがわたしと共にいるようにしてくださった女が、木から取って与えたので、たべました。」アダムは最終的に食べる決断をしたのは自分自身であるにもかかわらず、悪いのは私ではなく女であり、しかもその女を自分に与えたのは神様であり、悪いのは神様、あなたではありませんか、と言わんばかりに神に向かって抗論するのです。神の義ではなく、自分の義を立てようとしているのです。エバはと言えば、「蛇がだましたので、食べてしまいました。」と蛇にその責任を転嫁するのです。善悪を知った二人は、悪を退け善を選ぶのではなく、神をさえ悪者にしてでも<自分は悪くない>という者になってしまったのです。カインにおいても、ノアの時代の人々においても、またイスラエルの歴史においても多くの預言者たちの警告にもかかわらず、人間はその立場を悔い改めることはなかったのです。このことに対する神の刑罰は、イエス・キリストの登場まで猶予されてきたということが、25・26節以下に語られているのです。そしてこのことは既に、創世記3:15に福音の原型(キリストの受難と罪と死の力に対する勝利)として記されているということは、驚くべきことです。

25.神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。それは、今まで人が犯した罪を見逃して、神の義をお示しになるためです。26.このように神は忍耐してこられたが、今この時に義を示されたのは、ご自分が正しい方(義なる方)であることを明らかにし、イエスを信じる者を義となさるためです。」(新共同訳)

25.神はこのキリストを立てて、その血による、信仰をもって受くべきあがないの供え物とされた。それは神の義を示すためであった。すなわち、今までに犯された罪を、神は忍耐をもって見逃しておられたが、26.それは、今の時に、神の義を示すためであった。こうして、神みずからが義となり、さらに、イエスを信じる者を義とされるのである。」(口語訳)

16.神は、その独り子をお与えになったほどに、世(私たち)を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。17.神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。18.御子を信じる者はさばかれない、信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。[14]」(新共同訳)

こうやって見てくると、バプテスマのヨハネの言葉、「見よ、世(私達)の罪を取り除く神の子羊[15]」とはなんと深く、悲しく響いてくることでしょう。そして私達の信仰の確かさは、私達がしがみつくことにあるのではなく、神が私たちを捉えて下さっているということを信じる(受け入れる)ことなのだということがわかるのではないでしょうか。神が人間の罪に対する責任をとられたのです。イエス・キリストの信仰による神の義が、不信仰、不信心な私達に届けられた、分け与えられたというのです。ここに私達の信仰の確かさがあるのです。私達が信じる不確かな信仰にあるのではなく、ゴルゴタの丘の上で示された事実にあるのです。

北森嘉蔵先生がこの事を分かり易く説明していますので、以下に引用しておきます。「この間の消息を明らかにするために、猿と猫のたとえを用いよう。猿の母子の場合には、母猿は四肢を使って木から木へと渡り歩くので、子猿をとらえているわけにはゆかない。子猿のほうから母猿をとらえていなければならない。したがって、子猿のほうが少しでもまどろんだり油断したりすると、転落するのである。ところが、猫の母子の場合には、全く異なる。そこでは母猫のほうが子猫を加えて移動するのである。したがって、子猫のほうが少しぐらいまどろんだり油断したりしても、けっして転落することはないのである。

聖書のいう意味での『信仰』は、猿式ではなくて猫式である。子である人間は父である神によって、知られ、とらえられているところに、確かさを与えられているのである。人間自身の信仰は、この『とらえられている』ことが人間の意識の上に反映しているにすぎない。それは反映であって、決定的なことは反映されている向こうがわにある[16]」。 猿式の信仰と猫式の信仰の背後には、こんなに深い意味が隠されていたのです。

この22節の理解の仕方は一人私の思い付きではなく、20世紀最大の神学者と言われたカール・バルトという人が、「福音と律法」という論文の中でも指摘しています。断っておきますが、私は決してカール・バルトの神学をよく知るものではありません。ドイツ語さえままならない者です。それでも時々井上良雄訳の書物を手にとるのは、難しい内容を部分的にでも理解できるように訳してあるからです。以下にその難しい論文のここに関する部分を引用しておきます。

これこそイエス・キリストが『その地上における全生涯にわたって、ことにその最後に当って、』われわれのためになし給うたことである。彼は全く端的に、信じ給うたのである(ローマ3:22、ガラテヤ2:16等の『イエスの信仰』[口語訳聖書では、「イエス・キリストを信じる信仰」] πιστις(ピスティス信仰)  Ιησου(イエースー 「イエスの」又は「イエスを」)は、明らかに主格的属格[17]として理解さるべきものである)。[18] 注参照。

我らの自主的・主体的な信仰は fall short of the glory of God 神の栄光に届かなくなっている、神の栄光を持っていない、と聖書が断言しているのに、私達は相も変わらず自らの奮闘、努力によって救いを、永遠の命を得ようとして、絶望に打ちひしがれていないでしょうか。これは「善きサマリヤ人」の譬に登場してきた律法学者の立場です。人間の側からの「働き」としての信仰を差し出さなくても、不信仰な者をそのままで義とされる神の恵みを受け入れるなら、その信仰が義と認められるというのです。義と認めるということは、私達の状態が義ではないにもかかわらず、価なしに、ただで、無償で義とみなされるということです。人間の状態が義でないということは、人間の側から救いの条件を満たし得ないということです。万が一にもその条件を満たし得るなら、キリストは十字架に架けられることはなかったのです。そのような不信仰な人間を、イエス・キリストの信仰の故に、神は義とみなされるのです。信仰とはこの神の恵みを受け入れることなのです。

私達が主と仰ぐイエス・キリストは私達に代わって、― 十字架は私達の罪に対する神の答えであり、亡びに至る道 ― その道を私達に代わって歩まれたのです。私たち自身はパウロが言うように、死せるもの以外の何物でもありません。以下はカール・バルトの「福音と律法」からの引用です。

「私はキリストと共に十字架につけられた。生きているのは、もはや、私ではない。キリストが、私のうちに生きておられるのである。しかし、私が今肉にあって生きているのは、私を愛し、私のために御自身をささげられた神の御子の信じる信仰によって、生きているのである。(これを言葉通り理解すれば<私は決して神の子に対する私の信仰に由って生きるのではなくて、神の子が信じ給うことに由って生きるのだ>ということである。)」(ガラテヤ2:19以下)[19]したがって恩寵の下にある人は、「いと高き者のもとにある隠れ場に住む人、全能者の陰に宿る人は、主に言うであろう、『わが避け所、わが城、わが信頼しまつるわが神』と」(詩篇91:1)という旧約聖書の言葉によって、表現することが出来る。[20] 

ガラテヤ2:20を口語訳や新共同訳のように「神の御子を信じる信仰によって生きる」と理解するなら、これほど不確かなものはなく、そこは「わが避け所、わが城、わが信頼しまつるわが神」とはならないことは、私達自身がもっともよく分かっていることではないでしょうか。その不確かな私達の信仰によってではなく、私達の代わりに、代理として、神の御子が十字架の死に至るまで従順に生きられたその信仰を神は義と認め、この御子に賜った「神の義を」、御子を信じる(受け入れる)すべての者に分け与えられるというのです。不信人で不信仰な人間をそのままで、神の子に与えられた義をもって覆われるというのです。丁度父の財産を使い果たしてボロボロになって、裸足で帰ってきた息子をはるか遠くに認めた父が、脱兎のごとく駆け寄り、抱きしめ、接吻し、最上の服を着せ、サンダルを履かせ、子としての証である指輪をはめ、肥えた子牛を屠って食べ祝おうではないか、というのです。子羊ではありません。子牛です。今風に言えばローストビーフかビフテキか、というところです。この放蕩息子の譬に先立って「無くした銀貨の譬」があり、「見失った羊の譬」があります。神は私達の帰還を待ちわびている様子が、手に取るように生き生きと描写されています。

エデンの園には「善悪を知る木」ともう一本「命の木[21]」がありました。神はアダムとエバをエデンの園から送り出した後真っ先にやったことは、エデンの園に至る道に「ケルビムときらめく剣の炎[22]」を置き、命の木に至る道を封鎖された。人間が罪あるままで永遠に生きることのないように。しかし今やこの「命の木」が、ゴルゴタの丘の上に立てられたのです。

そして今やすべての人間に再び神と共にあるエデンの園への帰還が呼びかけられているのです。神はそのためにエデンの園にあったもう一本の木、「命の木」をすべての人間の罪の贖いとして、ゴルゴタの丘の上に立てられたのです。このことがクリスマスの夜に、闇の中で誰よりも暁を待ち望む羊飼いたちに「恐れるな。私は民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。・・・」と真っ先に伝えられたことだったのです。

これらのことを念頭に置き、今一度今日のテキストを3:22を「イエス・キリストの信仰による神の義が、受け入れるすべての者に与えられる。そこにはなんらの差別もない。」と読みかえて読んでみて下さい。今までとは違ったニュアンスを感じられたなら幸いです。

祈ります。今日のこの新型コロナウイルスが猛威を振るうなかで、困難に直面している者、また悲しみのなかにある者、病の床にあり家族、友人との面会さえ出来なくなっている者達と、あなたが共にあり慰め、励まし、その心を平安で満たして下さいますよう御前に切に祈ります。










[1] マルコによる福音書12章41~44







[2] ローマ人への手紙7:21~24







[3] ローマ人への手紙3:24







[4] ルカによる福音書16:16「律法と預言者とはヨハネの時までのものである。それ以来、神の国が宣(の)べ伝えられ、人々は皆これに突入している。」(口語訳)神の国の福音が告げ知らされ、どうして人々が「力づくで」そこに入ろうとしているのか不明です。むしろ口語訳のようにそれまで、律法の世界から排除されていた取税人、遊女、五体の自由がきかない人、目の不自由な人等が、無条件で、無代価で、価なしに喜びに満たされてこの神の国に突入している、という理解のほうがこの箇所の解釈としては適切と思われる。







[5] ローマ人への手紙4:4







[6] ローマ人への手紙3:23「すべての人は・・・」(口語訳)







[7] ローマ人への手紙3:27「すると、どこに私たちの誇りがあるのか。全くない。なんの法則によってか。行いの法則によってか。そうではなく、信仰の法則によってである。」(口語訳)







[8] The righteousness of God through faith
in Jesus Christ
for all who believe,
 RSV(下線部が主部 イエス・キリストにおける信仰による神の義が、信じるすべての者に)







[9] ピリピ人への手紙2:6以下参照







[10] ローマ人への手紙7:21~24







[11] Δικαιοσυνη δε θεου δια πιστεως
Ιησου Χριστου εις παντας τους πιστευοντας ου γαρ εστιν διαστολη
(参考)







[12] ローマ人への手紙3:25 







[13] 創世記3:4~5







[14] ヨハネによる福音書3:16~18







[15]ヨハネによる福音書1:29







[16] 聖書百話 北森嘉蔵著 P.45







[17] 主格的属格というのは、「イエス・キリスト信仰」ということになります。これに対して新共同訳、口語訳の「イエス・キリスト信じる信仰」というのは、目的格的属格ということになります。



難しい文法的な言い方は理解する必要はありません。「イエス・キリストを信じる信仰によって義とされる」のか「イエス・キリストの信仰による神の義が、信じるすべての者に与えられる」のかという二つの読み方があり、カール・バルトは、ここは明らかに「イエス・キリストの信仰による神の義が、信じるすべての者に与えられる」という読み方を取るべきであると言っているということです。







[18] 「啓示・教会・神学 福音と律法」カール・バルト著 井上良雄訳 新教出版 P.69~70







[19] 前掲書P.73







[20] 同書P.73~74







[21] 創世記2:9







[22] 創世記3:24





(2021年8月29日 各自自宅礼拝)

2021年8月22日日曜日

忍耐(2021年8月22日 各自自宅礼拝)

多摩川南側の遊歩道から多摩大橋へと向かう道で(撮影・中島克枝さん)
  
讃美歌21 493番 いつくしみ深い 奏楽・長井志保乃さん

「忍耐」

ローマの信徒への手紙8章18~25節

関口 康

「わたしたちは、目に見えないものを望んでいるなら、忍耐して待ち望むのです。」

私が昭島教会で今日の聖書箇所の宣教をするのは3回目だそうです。教会の様々なことを記録してくださっている林芳子さんが、昨日教えてくださいました。ありがとうございます。

「この箇所が好きだから」何度もお話しするという動機は、私にはありません。いつもと同じように、日本キリスト教団の聖書日課『日毎の糧』に基づいて選ばせていただきました。

しかし、今は教会暦の「聖霊降臨節」です。日本キリスト教団の聖書日課は、教会暦に基づいて聖書箇所が選ばれています。その観点からいえば、「教団の聖書日課」に基づいて聖書の箇所を選ぶことによって「教団の教会暦」に従って聖書を読んでいる、という意味にはなります。

聖霊降臨節とは何なのかについては詳しい説明が必要でしょう。神の御子イエス・キリストが罪人の身代わりに十字架につけられて死に、3日目に復活されました。その40日後に、イエス・キリストが天の父なる神のみもとへとお戻りになり、御父の右に着座される「昇天」の出来事が起こりました。

そしてその後、ユダヤ教の「五旬祭」に当たる日に、御父と御子のもとから聖霊なる神が地上へと降り、その聖霊の力によって勇気づけられた人々の群れが立ち上がり、十字架につけられたイエスこそ真の救い主キリストであると力強く宣べ伝えることを開始する出来事が起こりました。

その出来事を「聖霊降臨」と言い、またそれを「ペンテコステ」という、それだけ耳で聞いてもすぐに意味が分からない方がきっと多いであろうカタカナ言葉で呼びます。そしてその聖霊降臨、すなわちペンテコステの出来事を覚えて過ごす季節が「聖霊降臨節」である、と説明できます。

しかし、このようなことをいくら説明しても「よく意味が分からない」というお返事が戻ってくるだけで会話が終わってしまうことはしばしばあります。「イエス・キリストが父なる神のもとへとお戻りになった」(?)とか「父なる神と御子イエス・キリストのもとから聖霊なる神が来てくださった」(?)とか、まるで現実からかけ離れた、不思議の国の物語を聞かされているような気分になる方が少なくないだろうということも当然理解しています。

しかし、聖書には確かに、いまご説明したようなことが縷々書かれています。しかも、それらのことが、手で触りうるし、肉眼で見うる現象が起こったように記されています。

しかし、こういうことを理解できないとお感じになる方はきっとおられるに違いありませんが、心配する必要はありません。イエス・キリストの十字架と復活と昇天の出来事、そして聖霊降臨の出来事のすべては「キリスト教会の誕生秘話」であり、キリスト教会の「存在理由」(フランス語の哲学用語の「レゾンデートル(raison d'être)」)についての教会自身の自己理解だからです。

それは「教会はなぜ存在するのか。何をする団体なのか」という問いの答えです。別の言い方をすれば、これらの出来事は洗礼を受けて教会の仲間に加わり、教会生活を続けていくうちに、だんだん理解できるようになるような性質のことです。すぐ分からなくても気に病むことは全くありません。教会の中の奥深くへと入って行かないと理解できないことばかりだからです。

ですから、私の心からの願いは「よくわかりません」とおっしゃる方こそ教会の仲間になっていただきたいということです。とことん理解し、納得できるまで共に学ぼうではありませんか。学ぶべき内容は、尽きることがありません。

さて今日の箇所です。私が昭島教会で取り上げるのが3回目だそうですが、ローマの信徒への手紙の8章の18節から25節までで止めて、26節以下に記されている内容と切り離したうえで「忍耐」というタイトルを付けたのは、教団の聖書日課に従った形です。

しかし、私が過去にお話ししたのは、25節までで止めないで、26節以下も含めた記述の流れの中に「3者のうめき」がある、ということではなかったかと、おぼろげに記憶しています。

「3者のうめき」とは「被造物のうめき」(22節)、「わたしたち人間のうめき」(23節)、そして「聖霊なる神のうめき」(26節)の3者です。

人間の罪によって世界が壊れてしまいました。しかし、その世界をなんとかして壊れていない状態へと修復しようと、努力し、うめいている存在があります。その存在が「被造物」であり、「わたしたち人間」であり、「聖霊」と呼ばれる「神ご自身」です。そのことをこの箇所にパウロが、難解な言葉の連続ではありますが、確かに記しています。

そのパウロは一方で「被造物は虚無に服していますが」(20節)とまで書いています。「虚無」はナッシング(nothing)です。何も無い、むなしい、です。「存在するもの」が「無い」と言っています。仏教表現の「色即是空」とほとんど変わらないことを言っています。

目の前に家族や友人がいるところで「すべてはむなしい」と言えば、きっと腹を立てられるか、呆れられるでしょう。目の前にいるわたしたちのことを、まるで存在しないかのように言い放つ、あなたは何様なのかと、叱られるでしょう。しかし、パウロはそれとほとんど変わらないことを言っています。

「被造物は虚無に服している」。存在するものは存在しない。ビーイング・イズ・ナッシング。そう言っているのと同じです。他人を「透明人間」呼ばわりするのと変わりません。

しかし、「そんなわけに行くか」と、もがいているのです。もがいて苦しんで、激しいうめき声をあげているのです、被造物自身と、わたしたち(人間)と、神さまが。神さまは、世界と人類を「甚だ善きもの」(旧約聖書 創世記1章31節)として、ヴェリーグッド(very good)なものとして創造してくださいました。それほど価値あるものを「むなしい」だとか言わせない!

すべての人類が感謝と喜びの人生を安心して送ることができる場として、世界を本来の「甚だ善きもの」へと回復させるために、神と人と被造物が協力するのだと、パウロは信じています。その究極目標にまだ到達していないので「目に見えない」段階ではある。しかしそれは希望の光にあふれる目標である、だから「忍耐して待ち望む」ことができるのだとパウロは信じています。

このパウロの信仰に、わたしたちも今こそ学びたいです。感染症、異常気象、自然災害、人のあざけり、差別。わたしたちの生きる意欲を根こそぎ刈り取っていくような出来事を次々と経験しています。しかし、苦しいのはあなただけではありません。みんな苦しいし、もがいています。

世界を虚無から救い出し、感謝と喜びにあふれる世界を取り戻すために、みんなで協力しようではありませんか。そのことのために、聖霊なる神さまも、そして被造物も、激しいうめき声をあげながら、協力してくれるのだと、パウロが教えてくれています。

だから、わたしたちは孤独ではありません。あなたは孤独ではありません。

(2021年8月22日 各自自宅礼拝)

2021年8月15日日曜日

家族(2021年8月15日 各自自宅礼拝)

教会から見えた夜明けの虹(2021年8月10日(火)午前5時)
讃美歌21 459番 飼い主わが主よ 奏楽・長井志保乃さん


「家族」

コロサイの信徒への手紙3章18節~4章1節

関口 康

「父親たち、子供をいらだたせてはならない。いじけるといけないからです。」

今日も「各自自宅礼拝」です。新型コロナウィルスは幾多にも変異し、その感染は抑制されるどころか、日増しに拡大しています。

そうであるということを教会自身が検証するすべを持ちうるわけではありません。関係機関の発表内容を信頼するしかありません。「恐れることはない。ただの風邪である」と高を括る人たちもいます。しかし、私はそうは思いません。今は礼拝堂に集まって礼拝や集会を行うことは危険です。ご理解いただきたく、伏してお願いいたします。

今日の聖書の箇所も、ずっとそうしているように、日本キリスト教団の聖書日課どおりです。今の私にとっては必ずしも率先して選びたい箇所ではありません。なぜなら今日の箇所のテーマが「家族について」だからです。

ご承知のとおり私は、2018年3月に昭島市に転入したときから単身赴任です。ちょうど3年半になります。妻子3人は東京都内で元気にしています。している「と思います」。おかしな言い方をするのは毎日顔を合わせる関係にないからです。ほとんどのことは、私の想像の範囲内です。

結婚したのが1991年4月ですので30年前です。そのときから数えて27年分の家族と過ごした日々を思い出さない日はありません。しかし、言い方を換えれば、どれもこれも遠い昔の思い出になってしまっている、ということでもあります。

この夏も一度も会っていません。私の家族は、夜勤も多い福祉関係や出勤時刻が早い食品関係の仕事をしています。多忙をきわめ、家には寝るために帰ってきているだけです。加えてコロナです。会いに行っても、マスクすら外すことができず、かえって迷惑になるだけです。

こんな話をするのは、今の私にとって「家族について」語ることは非常に重い気持ちになるということを、明け透けに申し上げておきたいからです。私は自分の家族は(まだ)壊れていないと信じています。それはつまり「信じるかどうか」の問題であると自覚しています。私は妻と2人の子どもを信じています。それ以上ではないし、それ以下でもありません。

こんなことを言うことすら家族にとっては失礼かもしれないし、迷惑かもしれません。しかし、いま申し上げていることのすべては、単身赴任の生活を始めることによって、やっと認識できたことです。「気づくのが遅すぎる」と叱られても仕方がありません。

教会の皆さんの中に、この文章を読んでくださっている皆さんの中に、「家族」の問題で悩んでいるという方がおられるなら、その方々の心に届く言葉を、今の私は語ることができるかもしれません。しかし単身赴任を始める前の私には、それを語る力がありませんでした。

一方で「今日の箇所は必ずしも率先して選びたいと思えない」と言いながら、「今の私なら家族について語る資格があるかもしれない」と言うのは矛盾しているかもしれません。しかし、今日の箇所を開いてみてほしいです。実際に読んでいただけば、いま私が何を言おうとしているのかを理解していただける気がします。

最初に記されているのが、「妻たちよ、主を信じる者にふさわしく、夫に仕えなさい。夫たちよ、妻を愛しなさい。つらく当たってはならない」(18~19節)です。

この言葉を笑いもせず怒りもしないで真顔で読める人が、今どれくらいいるでしょうか。自分に都合の良いほうの文章は「そうだ、そうだ」と同意しながら読めるかもしれません。しかし、そうでないほうの言葉はそうでない。互いに自己主張するために聖書の言葉を利用し合うだけ。どちらの言葉も成り立たないと思えば、聖書の言葉そのものを放棄するだけ。

次の言葉にも同じことが言えるでしょう。「子供たち、どんなことについても両親に従いなさい。それは主に喜ばれることです」(20節)。「主に喜ばれる」うんぬんとあるので、キリスト教の信仰を受け入れている親子関係に該当すると考えるのは可能でしょう。しかし、だからといって信仰と関係なく生きている人々には無関係であるとまで言い切るのは、行き過ぎです。子どもが親に従うことが大切であるという教えは、普遍性を持つでしょう。

しかし、問題はそこから先です。今に始まったことではありえません。しかし広く報道されるようになったのはさほど昔でもないのは、親である人が子どもを虐待する事象です。「どんなことについても」子どもは親に従うべきであると聖書が教えていると、この言葉だけを切り取って、親から虐待を受けている子どもたちに伝えると、その子たちの絶望の根拠になりかねません。

しかし、すぐ後に「父親たち、子供をいらだたせてはならない。いじけるといけないからです」(21節)と記されているので、ちょっとほっとします。とはいえ、なぜ「父親たち」だけなのか、母親は無関係なのかと、即座に反発を感じる方がおられるに違いありません。

この箇所に「母親たち」と書かれていないので、母親は子どもを苛立たせてもよいと読む方がおられるなら、それはもちろん完全なる誤読です。しかし、この箇所の原文に「父親たち」(πατερες パテレス)と記されている事実を変更することはできないでしょう。ただそれだけのことです。

親子関係のことについては、今週の週報に「以下、短くお勧めします」と最初に記した短文を掲載しましたので、ぜひお読みいただきたいです。特にコロナ禍で、ステイホームやテレワークが社会的に奨励されている中で、親が自宅で仕事をすることが家庭内不和の原因になっていることが広く知られています。それを「虐待」だと言われると困る親の立場も痛いほど分かります。しかし、子どもたちの居たたまれない立場も分かります。

週報に載せた短い文章の最後に「いつも共に生活している人たちに対してこそ、敬意を持ち、かけがえのない存在であると信じようではありませんか」と書かせていただきました。

そんなのはきれいごとだ、などと思わないでください。「仕事中に苛立つのは当たり前であり、その苛立つ仕事を自宅でしなければならないのは、自分のせいではなく、コロナのせいであり、会社の命令であり、社会の要請なので、親である自分が子どもの前で苛立ち、つらく当たるのは避けがたいことなので、子どもたちに我慢してもらうしかない」などと合理化しないでください。

わたしたちもかつては子どもでした。そのことを忘れないでいましょう。「自分も親からつらく当たられた。だから、私も自分の子どもにつらく当たる」と考えるのをやめましょう。

自慢ではありませんが、牧師たちはステイホームとテレワークの先駆者です。いま至るところで起こっていると言われる家庭内不和の原因そのものだった過去が、私にもあります。家族には申し訳ない気持ちでいっぱいです。私は皆さんの「反面教師」です。単身赴任は反省期間です。だからこそ、皆さんにお話しできる立場にあると思います。

(2021年8月15日 各自自宅礼拝)

2021年8月8日日曜日

苦難の共同体(2021年8月8日 各自自宅礼拝)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13)
讃美歌21 405番 すべての人に 奏楽・長井志保乃さん


「苦難の共同体」

使徒言行録20章17~38節

関口 康

「そして今、神とその恵みの言葉とにあなたがたをゆだねます。この言葉は、あなたがたを造り上げ、聖なる者とされたすべての人々と共に恵みを受け継がせることができるのです。」

今の予定では、今日から8月29日まで4回の主日礼拝を「各自自宅礼拝」に切り替えることにしました。私の独断ではなく、役員・運営委員の了解を得ました。皆様の中に別のご意見があるかもしれません。しかし、8月5日付けの連絡についてどなたからも直接のご意見をいただいていません。ご理解いただけますと幸いです。

今日の聖書箇所と宣教題は、日本キリスト教団の聖書日課に基づいて半年以上前に決めたものです。今の状況に合わせたものではありません。しかし「苦難の共同体」は今のわたしたちです。

「苦難」という言葉が今日の箇所に出てくるのは23節です。「ただ、投獄と苦難とがわたしを待ち受けているということだけは、聖霊がどこの町でもはっきり告げてくださっています」(23節)。

この「苦難」と訳されている言葉(θλιψις スリフィス)は、聖書の中に多く出てきます。共通しているのは「外部の状況によってもたらされる困難や貧困」という意味、もしくは「心理的・精神的に苦しい状態」という意味であるとギリシア語の辞書に記されています。言い換えれば、自分に原因も責任もないという意味での「外因性の苦しみ」であると言えるでしょう。

今のわたしたちがまさに「苦難の共同体」であると先ほど結び付けて申し上げたのも、わたしたち自身に非がある形での苦しみを味わっているわけではないと言いたい気持ちを含んでいます。運命論や宿命論のような立場から「コロナ禍はあなたの罪への天罰である」とか「あなたの日頃の行いが悪かった」とか、そのようなことは誰にも言われたくありません。

それでは誰の責任なのか、何が原因なのかということに興味や関心を持つことを全く妨げることはできません。考えてはいけないと禁止されたから考えるのをやめるという人はまずいませんし、禁止する権限は誰にもないでしょう。しかしだからといって、考えてもすぐに答えが出ない場合、あるいは原因を突き止め、責任を追及したからといって、苦しい状態や危険な状態をすぐ治めることができない場合は、「とにかく逃げるしかない」としか言いようがありません。

今日の箇所に登場するのは使徒パウロです。「苦難」という言葉を発しているのもパウロです。第2回宣教旅行の最中です。そのパウロが「苦難」を口にすることに、明確な文脈があります。

22節から読むと、その文脈が少し分かります。「そして今、わたしは、霊に促されてエルサレムに行きます。そこでどんなことがこの身に起こるか、何も分かりません」(22節)とパウロはまず語り、その続きに「ただ、投獄と苦難がわたしを待ち受けているということだけは、聖霊がどこの町でもはっきり告げてくださっています」(23節)と語っています。

そのことがはっきり分かっているのならば、エルサレムに行かなければいいだけではないかと言いたくなる気持ちが、私の中に起こらないわけではありません。なぜなら「苦難」の辞書的な意味は「外部の状況によってもたらされる困難や貧困」なのですから。あなたのせいではないのですから。危険からは逃げてもいいし、困難や貧困や苦痛を避けて生きたからといって誰からも咎められることはないし、そのことを咎める権限など誰も持っているはずがないのですから。

いま申し上げた気持ちが私の中に起こらないわけではないと言いました。このパウロの説教を聴いた人々にも同じ気持ちが起こったようです。

パウロが「そして今、あなたがたが皆もう二度とわたしの顔を見ることがないとわたしには分かっています」(25節)と言った言葉に反応した人々が、その説教が終わった後「激しく泣いた」(37節)と記されています。「特に、自分の顔をもう二度と見ることはあるまいとパウロが言ったので、非常に悲しんだ」(38節)と続いています。

つまりこれは、パウロが自分の死を覚悟していることの表明であり、私がエルサレムに行くと殺されるだろうという意味です。しかし、そのことがあらかじめ分かっているのにあなたはなぜそのような危険なところに行こうとするのですか、行かないでください、と引き止めたい人々が泣き出したわけです。しかし、パウロはその人々を振り切ってエルサレムへと旅立ちました。

しかも、この説教の中で、パウロが最も強く、そして最も厳しいことを語っているのは、26節です。「だから、特に今日はっきり言います。だれの血についても、わたしには責任がありません」(26節)と言っています。

「責任」と訳されている言葉(καθαρος カタロス)の辞書的な意味は英語のpure(ピュア)やclean(クリーン)、つまり「純粋」や「きれい」という意味です。転じて、特に道徳的・宗教的な文脈では「罪から自由である」という意味になります。

そして「だれの血についても」の「血」は、神の言葉に背く人に神が与える刑罰の血を指しています。つまり、ここでパウロが言っていることの趣旨は「あなたがたのうちの誰かが神の言葉に背いて神から罰を受けたとしても、あなたがたに神の言葉を教えた者としての私の罪ではない」ということです。その「責任」は私にはない、ということです。

パウロの説教を聴いていた人たちは冷たく突き放されたような感覚を抱いたかもしれません。事実パウロは突き放したのです。パウロは死の覚悟と決意をしていました。自分がいなくなっても、あなたがた自身が神の前で責任をとりうる自己を確立できるようになってほしいとパウロは強く願ったのです。「すべての責任は私が引き受けるので、あなたがたが責任を負う必要はない」などと言わないで。そのように優しく温かく言うほうがパウロの株が上がったかもしれませんが。

31節と32節に記されているパウロの言葉の趣旨も、それと同じです。「だから、わたしが三年間、あなたがた一人一人に夜も昼も涙を流して教えてきたことを思い起こして、目を覚ましていなさい。そして今、神とその恵みの言葉とにあなたがたをゆだねます」(31~32節)。

この箇所は読み間違える可能性がありますので、注意が必要です。パウロは「神とその恵みの言葉と『を』あなたがた『に』ゆだねます」と言っていません。パウロが言っているのは「今までは私が神の言葉を語る立場にあった。しかし、これからはきみたちが神の言葉を語る番だ。私の立場をきみたちに譲る」という意味ではありません。

そうではなく「あなたがた『を』神の言葉『に』ゆだねる」とは、あなたがたについての責任は私には一切ありません、という意味です。文字通りの「別れ」の言葉をパウロは語っています。

パウロの言葉にかこつけて私が何かを言おうとしているのではありません。しかし、パウロの言葉から学べることがあります。それは、聖書に学び、神の言葉に聴くことと、常に誰かに依存して生きるのでなく自立した自己の確立を目指すことは、同じ方向を向いているということです。

(2021年8月8日 各自自宅礼拝)

2021年8月5日木曜日

【重要】昭島教会からのお知らせです

昭島教会の最寄りの公園です(昭島市立富士見公園)

親愛なる各位

国内で新型コロナウィルス感染者が急増する中、政府が「重症患者や重症リスクの高い方以外は自宅での療養を基本とする」との方針を8月2日(月)に表明しました。

わたしたちは、この事態を深刻に受け止め、昭島教会の主日礼拝と集会を8月8日(日)から8月末まで(延長の可能性あり)礼拝堂で行うことを休止いたします。

主日礼拝は「各自自宅礼拝」とします。教会学校と聖書に学び祈る会(木曜)は「休会」とします。

日曜日は礼拝堂を閉鎖する形をとらず、午前9時から12時まで開きます。安全な移動手段でお越しいただき、各自で祈りをささげることはできます。

連絡は、電話、インターネット、郵便で行います。

なにとぞご理解いただけますと幸いです。皆様の健康と安全が守られるようお祈りいたします。

2021年8月5日

日本キリスト教団 昭島教会
牧師 関口 康

〒196-0022 東京都昭島市中神町1232-13
TEL:042-543-9562 akishimakyokai@gmail.com

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【追記】

以上の連絡を、メール、電話、はがき、ブログなどで本日付けでお知らせしましたことをご報告申し上げます。

「郵送不要」を申し出てくださっている方々には、はがきを割愛させていただきました。

上の文章は日ごろ親しくしてくださっている皆様宛てに書きましたので、第三者の観点からすると誤解を招く部分があるかもしれません。

コロナ対策の観点から「各自自宅礼拝」を本教会が行うのは今回が初めてではありませんし、これまで事態を深刻に受け止めて来なかったという意味でもありません。言葉が足りていないところがありましたらお許しください。