「雲の中の虹(創世記9章16節)」2021年8月19日午前5時 関口康撮影 |
「福音の世界」
昭島教会 秋場治憲兄
ローマの信徒への手紙人3章19~28節、4章4~5節
「ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して神の恵みにより無償で義とされるのです。」
私達は今新型コロナウイルスによる感染症予防のため、自宅での礼拝が余儀なくされています。何度も収束するかに思われながらもその都度ぶり返し、現在は更に感染力を増したデルタ株なるものが猛威を振るい、東京都では病床の確保が困難な状況が続いています。しかし同時に新たなワクチンの開発も進んでいるということが報道されています。私達はこの災禍が一日も早く終息することを祈りながら、罹患された方々の回復を祈りながら、今朝も聖書の言葉に耳を傾けたいと思います。
この状況は、しかし、同時にじっくりと腰を据えて、時間無制限で聖書の学びに注力できるという状況でもあるのではないかと思います。語る方も時間を気にせず、皆様もコーヒーブレイクをはさみながら読んでいただければと思い、いつもよりたっぷりの分量をお届けしたいと思います。分からないところは読み飛ばし、分かるところを拾い読みしてください。終わりまで行くと、分からなかった所が分かるようになります。
私は前回5月23日、ペンテコステ礼拝(聖霊降臨日)にお話を致しました。神はその御子イエスの上にアダム以来猶予してきた人間のすべての罪を置き、これを徹底的に打ち砕かれた。そのことによって神は罪に対するご自分の正義を示し、同時に我々罪にまみれた人間が赦される道を開かれた。わずかに50日前の過ぎ越しの祭りにおいて、「殺せ、殺せ、十字架につけよ」と叫んだユダヤ人たちも、主イエスを置き去りにして逃げ去り、自らの身の安全をはかった弟子たちも、また自分の言っていることが真実でないなら、自分は神に呪われてもいいとまで断言したペテロも、その罪が赦されて生きる道が示されたのでした。神はかつてバベルの塔を建設し、神の座に座ろうとした者たちの言葉を通じなくし、地の表に散らされた。しかしペンテコステにおいては罪が赦されたことを知らされた者たちは、深く悔い改め、神に栄を帰す者とされたのです。そして栄を神に帰す者たちは、その謙遜ゆえに互いにその言葉が通じる者たちとされ、ここに教会が誕生したのでした。ペンテコステはバベルの塔の回復となりました。しかしそれには神がアダム以来犯されてきた人間のすべての罪をその独り子イエスの上に置き、十字架の上で断罪するということがなければなりませんでした。
この審きに対して御子イエスは「出来ることなら、この杯を我より取り去り給え」と三度も祈りながらも、「しかしわが思いではなく、御心がなりますように」と祈り、この審きに対して、「否」とは言わず、「御心がなること」を受け入れられた。父なる神はこのイエスをキリスト(油注がれた者、御心にかなう者、神の子)と認定され、よみの世界から高く引き上げ、そして神の右に座す者とされたのです。概略として、こういうお話を致しました。
聖霊はペテロたちにそして三千人のユダヤ人たちに対して、その心を強く刺し貫き、深く悔い改め、神に栄を帰すものとされ、それぞれの生まれ故郷へ送り返された。そしてそれぞれの生まれ故郷で、教会が誕生したのでした。これが使徒言行録2章に書かれていることの概略です。
そして次の3章になりますと、聖霊は300人どころか3人でさえない一人に向かうのです。この人はエルサレム神殿の東側にある「美しの門」を通って、祈りのために神殿にくる人たちに物乞いをするために置かれていた人です。聖霊は自分の力では歩くことも出来ない一人の男に向かうのです。ここから教会が始まるのです。奇しくもここは主イエスが、レプタ2枚を捧げたやもめ[1]に注目した場所でした。
これらのことを念頭に置き、今日のテキストに入りたいと思います。ローマ人への手紙3:19からですが、19節と20節を読んでみます。
「19.さて、私達が知っているように、すべて律法の言うところは、律法の下にいる人々に向けられています。それは、すべての人の口がふさがれて、全世界が神の裁きに服するようになるためなのです。20.なぜなら、律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされないからです。律法によっては、罪の自覚しか生じないのです。」
マルチン・ルターが修道院の中で、神の前で義とされるために、修道院で定められたものにとどまらず更に多くの苦行をして清くなろうとした際、「手を洗えば洗うほど、汚くなる」と語った言葉が象徴的です。しかし21節以下には、次のように続きます。
「21.ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。22.すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません。23.人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、24.ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。25.神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。それは、今まで人が犯した罪を見逃して、神の義をお示しになるためです。26.このように神は忍耐してこられたが、今この時に義を示されたのは、ご自分が正しい方(義)であることを明らかにし、イエスを信じる者を義となさるためです。」(新共同訳)
ある新約学者は「ここはローマ人への手紙の中心かつ心臓部である」と言っています。確かにその通りなのですが、私はここを読んでいてどうもしっくりこない時期がありました。<ガッテン>と手を打ち鳴らすことが出来ない悶々とした時期がありました。それは「信仰」が救われるための条件なのか?ということでした。パウロは24節に「神の恵みにより無償で義とされるのです。」と言っていますが、22節の口語訳は「イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、すべて信じる人に与えられるものである。」と「信仰」が前提となっています。
私の自主的、主体的な人間の業としての信仰により救われる、義とされるというのでは、本質的に律法の下にある行いと変わらなくなってしまう。そうすると19節で「律法によっては罪の自覚しか生じないのです。」という言葉通り、私達はまだ駄目だ、まだ駄目だ、これでもか、これでもかとなり、ルターが言うように「手を洗えば洗うほど、汚くなる」という立場を続けるほかないのです。
またパウロ自身も「善をなそうと思う自分には、いつも悪がつきまとっているという法則に気付きます。『内なる人』としては神の律法を喜んでいますが、わたしの五体にはもう一つの法則があって、心の法則と闘い、わたしを、五体の内にある罪の法則のとりこにしているのが分かります。わたしは何と惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか。[2]」と叫びながら、「わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします。」と罪の法則のとりこになっている自分が、主イエス・キリストを通して救われたことを感謝しています。ここにはいつも悪にまとわりつかれているパウロ自身が、「手を洗えば洗うほど、汚くなってしまう」自分自身が、そのままで「神の恵みにより無償で[3]」(新共同訳)、「価なしに、神の恵みにより、」(口語訳)救われた、義とされたことに感謝をしています。
私達はペンテコステ礼拝において、ペテロも弟子たちも、三千人のユダヤ人達も、そのままで赦されたことを学んだばかりではなかったでしょうか。私達の罪はすべて御子の贖いによって、赦される道が開かれたのではなかったか。主イエスご自身も「律法と預言者は、ヨハネの時までである。それ以来、神の国の福音が告げ知らされ、だれもが力ずくでそこに入ろうとしている。[4]」(新共同訳)
3:23には「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっています」とあります。RSVはここをsince all have sinned and fall short of the glory of God と訳しています。すべての人間は罪を犯したので、神の栄光に届かなくなってしまっている、欠けている、不足している、~を持っていない、というのです。しかし「24.ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。」と続きます。これは私達の側からは神の栄光に(義に)届かなくなってしまっているけれども、神の側から「25.このキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。」という言葉が示す通り、神の義が私たちのところへ届けられた、というのです。
にもかかわらず22節の「イエス・キリストを信じることにより、」という言葉は、私達に自主的で、主体的な信仰と引きかえに神が救いを、義を与えるというニュアンスを拭い去ることはできず、以下に続く「無償で」「価なしに」「神の恵みにより」という言葉と整合性が取れなくなっています。もし神が私たちの信仰と引きかえに救いを、義を与えるというのなら、それは「無償で」「価なしに」「神の恵みにより」というのではなく、当然の「報酬[5]」であり、決して恵みということはできません。そしてもし私たちの自主的・主体的な信仰により神の義に到達することが出来たとするなら、その人は神の前に誇りうることでしょう。しかし聖書はその可能性を23節で「人は皆、・・・[6]」と全面的に否定しています。また、27節では、「では、人の誇りはどこにあるのか。それは取り除かれました[7]。どんな法則によってか。行いの法則によるのか。そうではない。信仰の法則によってです。28.なぜなら、わたしたちは、人が義とされるのは律法の行いによるのではなく、信仰によると考えるからです。」(新共同訳)しかし私のイエス・キリストを信じる信仰によって与えられた神の義であるなら、私達は誇りうるのではないでしょうか。
ここには翻訳の問題があります。英語で The love of God というと、これは「神の愛」(神の人間に対する愛)という意味であるということは分かると思います。しかしこの「of」にはもう一つの意味があります。「人間が神を愛する愛」という全く正反対の意味にもなります。これは文法的には「目的関係のof」と言われ、前者は「作者・作為者のof」と言われています。昔使った英和辞典を引っ張り出し、of の項目を上から下まで調べてみて下さい。
22節の言葉を使い分けて訳してみます。一つは聖書にあるように後者の訳(目的関係のof)「イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。」
イエス・キリストを信じる私の信仰により、神の義が与えられる、というのです。
これを前者の(作者・作為者のof)で訳してみると、
「イエス・キリストの信仰による神の義が、信じる者すべてに与えらえます。[8]」となります。
イエス・キリストの十字架の死に至るまで従順であったその信仰[9]に対して神がイエスに与えた神の義が、私達、不信心で不信仰なすべての者に与えられるということになります。この「信じる」は、私達の働きによることではなく、神の働きに帰せられるべきものであり、人はただ受け取るだけですから条件にはなりません。私達はただ受け入れるだけということになり、次に続く「無償で」「価なしに」「神の恵みにより」ということばと整合性がとれることになります。ペテロが、弟子たちが聖霊降臨によって息をふきかえしたこととも、パウロが「わたしは何と惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか。[10]」と叫びながらも、『わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします。』」という告白に至ったことにも整合性がつきます。
原典の構造は、
「義 つまり 信仰による イエス・キリストの(を) すべての者に 信じる[11]」 となっています。
これをイエス・キリストを信じる我らの自主的な信仰によって与えられる神の義と読むか、イエス・キリストの信仰(従順)によって与えられた神の義が、信じる(受け入れる)すべての者に与えられると読むかということによって、まったく別の世界が広がります。イエス・キリストの信仰(十字架の死に至るまでの従順)によって神からイエスに与えられた神の義が、私達すべての者に与えられるというのです。しかも「無償で」「ただで」「価なしに」与えられるというのです。有償では到達できない者に、価を差し出すことが出来ない者に、無償で、価なしに神の義が分け与えられるというのです。これこそ福音の世界ではないでしょうか。
思い出して下さい。アダムに対する神の怒りは、アダムの首をかすめるようにして、大地に突き刺さったのです。大地は茨を茂らせアダムは額に汗して、その食をえるものとされました。しかも神はアダムに対する刑罰どころか、罪を犯した二人に神が手ずから作った破れることのない皮の衣を着せてエデンの園から送り出されたのです。しかしこのことは「神の義」に対する曖昧さを醸し出す結果となりました[12]。あたかも蛇のエバに対する誘惑の言葉が真実であるかのような結果になっていたのです。「蛇は女に言った。5.決して死ぬことはない。それを食べると目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存じなのだ。[13]」蛇は嘘は言ってない。人は確かに蛇がいうように善悪を知る者となった。しかし善悪を知ったアダムとエバは、神の歩かれる音にさえ怯えるものとなり、その責任を問われると、その責任を転嫁する者となったのです。「あなたがわたしと共にいるようにしてくださった女が、木から取って与えたので、たべました。」アダムは最終的に食べる決断をしたのは自分自身であるにもかかわらず、悪いのは私ではなく女であり、しかもその女を自分に与えたのは神様であり、悪いのは神様、あなたではありませんか、と言わんばかりに神に向かって抗論するのです。神の義ではなく、自分の義を立てようとしているのです。エバはと言えば、「蛇がだましたので、食べてしまいました。」と蛇にその責任を転嫁するのです。善悪を知った二人は、悪を退け善を選ぶのではなく、神をさえ悪者にしてでも<自分は悪くない>という者になってしまったのです。カインにおいても、ノアの時代の人々においても、またイスラエルの歴史においても多くの預言者たちの警告にもかかわらず、人間はその立場を悔い改めることはなかったのです。このことに対する神の刑罰は、イエス・キリストの登場まで猶予されてきたということが、25・26節以下に語られているのです。そしてこのことは既に、創世記3:15に福音の原型(キリストの受難と罪と死の力に対する勝利)として記されているということは、驚くべきことです。
[25.神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。それは、今まで人が犯した罪を見逃して、神の義をお示しになるためです。26.このように神は忍耐してこられたが、今この時に義を示されたのは、ご自分が正しい方(義なる方)であることを明らかにし、イエスを信じる者を義となさるためです。」(新共同訳)
「25.神はこのキリストを立てて、その血による、信仰をもって受くべきあがないの供え物とされた。それは神の義を示すためであった。すなわち、今までに犯された罪を、神は忍耐をもって見逃しておられたが、26.それは、今の時に、神の義を示すためであった。こうして、神みずからが義となり、さらに、イエスを信じる者を義とされるのである。」(口語訳)
[16.神は、その独り子をお与えになったほどに、世(私たち)を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。17.神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。18.御子を信じる者はさばかれない、信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。[14]」(新共同訳)
こうやって見てくると、バプテスマのヨハネの言葉、「見よ、世(私達)の罪を取り除く神の子羊[15]」とはなんと深く、悲しく響いてくることでしょう。そして私達の信仰の確かさは、私達がしがみつくことにあるのではなく、神が私たちを捉えて下さっているということを信じる(受け入れる)ことなのだということがわかるのではないでしょうか。神が人間の罪に対する責任をとられたのです。イエス・キリストの信仰による神の義が、不信仰、不信心な私達に届けられた、分け与えられたというのです。ここに私達の信仰の確かさがあるのです。私達が信じる不確かな信仰にあるのではなく、ゴルゴタの丘の上で示された事実にあるのです。
北森嘉蔵先生がこの事を分かり易く説明していますので、以下に引用しておきます。「この間の消息を明らかにするために、猿と猫のたとえを用いよう。猿の母子の場合には、母猿は四肢を使って木から木へと渡り歩くので、子猿をとらえているわけにはゆかない。子猿のほうから母猿をとらえていなければならない。したがって、子猿のほうが少しでもまどろんだり油断したりすると、転落するのである。ところが、猫の母子の場合には、全く異なる。そこでは母猫のほうが子猫を加えて移動するのである。したがって、子猫のほうが少しぐらいまどろんだり油断したりしても、けっして転落することはないのである。
聖書のいう意味での『信仰』は、猿式ではなくて猫式である。子である人間は父である神によって、知られ、とらえられているところに、確かさを与えられているのである。人間自身の信仰は、この『とらえられている』ことが人間の意識の上に反映しているにすぎない。それは反映であって、決定的なことは反映されている向こうがわにある[16]」。 猿式の信仰と猫式の信仰の背後には、こんなに深い意味が隠されていたのです。
この22節の理解の仕方は一人私の思い付きではなく、20世紀最大の神学者と言われたカール・バルトという人が、「福音と律法」という論文の中でも指摘しています。断っておきますが、私は決してカール・バルトの神学をよく知るものではありません。ドイツ語さえままならない者です。それでも時々井上良雄訳の書物を手にとるのは、難しい内容を部分的にでも理解できるように訳してあるからです。以下にその難しい論文のここに関する部分を引用しておきます。
これこそイエス・キリストが『その地上における全生涯にわたって、ことにその最後に当って、』われわれのためになし給うたことである。彼は全く端的に、信じ給うたのである(ローマ3:22、ガラテヤ2:16等の『イエスの信仰』[口語訳聖書では、「イエス・キリストを信じる信仰」] πιστις(ピスティス信仰) Ιησου(イエースー 「イエスの」又は「イエスを」)は、明らかに主格的属格[17]として理解さるべきものである)。[18] 注参照。
我らの自主的・主体的な信仰は fall short of the glory of God 神の栄光に届かなくなっている、神の栄光を持っていない、と聖書が断言しているのに、私達は相も変わらず自らの奮闘、努力によって救いを、永遠の命を得ようとして、絶望に打ちひしがれていないでしょうか。これは「善きサマリヤ人」の譬に登場してきた律法学者の立場です。人間の側からの「働き」としての信仰を差し出さなくても、不信仰な者をそのままで義とされる神の恵みを受け入れるなら、その信仰が義と認められるというのです。義と認めるということは、私達の状態が義ではないにもかかわらず、価なしに、ただで、無償で義とみなされるということです。人間の状態が義でないということは、人間の側から救いの条件を満たし得ないということです。万が一にもその条件を満たし得るなら、キリストは十字架に架けられることはなかったのです。そのような不信仰な人間を、イエス・キリストの信仰の故に、神は義とみなされるのです。信仰とはこの神の恵みを受け入れることなのです。
私達が主と仰ぐイエス・キリストは私達に代わって、― 十字架は私達の罪に対する神の答えであり、亡びに至る道 ― その道を私達に代わって歩まれたのです。私たち自身はパウロが言うように、死せるもの以外の何物でもありません。以下はカール・バルトの「福音と律法」からの引用です。
「私はキリストと共に十字架につけられた。生きているのは、もはや、私ではない。キリストが、私のうちに生きておられるのである。しかし、私が今肉にあって生きているのは、私を愛し、私のために御自身をささげられた神の御子の信じる信仰によって、生きているのである。(これを言葉通り理解すれば<私は決して神の子に対する私の信仰に由って生きるのではなくて、神の子が信じ給うことに由って生きるのだ>ということである。)」(ガラテヤ2:19以下)[19]。したがって恩寵の下にある人は、「いと高き者のもとにある隠れ場に住む人、全能者の陰に宿る人は、主に言うであろう、『わが避け所、わが城、わが信頼しまつるわが神』と」(詩篇91:1)という旧約聖書の言葉によって、表現することが出来る。[20]
ガラテヤ2:20を口語訳や新共同訳のように「神の御子を信じる信仰によって生きる」と理解するなら、これほど不確かなものはなく、そこは「わが避け所、わが城、わが信頼しまつるわが神」とはならないことは、私達自身がもっともよく分かっていることではないでしょうか。その不確かな私達の信仰によってではなく、私達の代わりに、代理として、神の御子が十字架の死に至るまで従順に生きられたその信仰を神は義と認め、この御子に賜った「神の義を」、御子を信じる(受け入れる)すべての者に分け与えられるというのです。不信人で不信仰な人間をそのままで、神の子に与えられた義をもって覆われるというのです。丁度父の財産を使い果たしてボロボロになって、裸足で帰ってきた息子をはるか遠くに認めた父が、脱兎のごとく駆け寄り、抱きしめ、接吻し、最上の服を着せ、サンダルを履かせ、子としての証である指輪をはめ、肥えた子牛を屠って食べ祝おうではないか、というのです。子羊ではありません。子牛です。今風に言えばローストビーフかビフテキか、というところです。この放蕩息子の譬に先立って「無くした銀貨の譬」があり、「見失った羊の譬」があります。神は私達の帰還を待ちわびている様子が、手に取るように生き生きと描写されています。
エデンの園には「善悪を知る木」ともう一本「命の木[21]」がありました。神はアダムとエバをエデンの園から送り出した後真っ先にやったことは、エデンの園に至る道に「ケルビムときらめく剣の炎[22]」を置き、命の木に至る道を封鎖された。人間が罪あるままで永遠に生きることのないように。しかし今やこの「命の木」が、ゴルゴタの丘の上に立てられたのです。
そして今やすべての人間に再び神と共にあるエデンの園への帰還が呼びかけられているのです。神はそのためにエデンの園にあったもう一本の木、「命の木」をすべての人間の罪の贖いとして、ゴルゴタの丘の上に立てられたのです。このことがクリスマスの夜に、闇の中で誰よりも暁を待ち望む羊飼いたちに「恐れるな。私は民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。・・・」と真っ先に伝えられたことだったのです。
これらのことを念頭に置き、今一度今日のテキストを3:22を「イエス・キリストの信仰による神の義が、受け入れるすべての者に与えられる。そこにはなんらの差別もない。」と読みかえて読んでみて下さい。今までとは違ったニュアンスを感じられたなら幸いです。
祈ります。今日のこの新型コロナウイルスが猛威を振るうなかで、困難に直面している者、また悲しみのなかにある者、病の床にあり家族、友人との面会さえ出来なくなっている者達と、あなたが共にあり慰め、励まし、その心を平安で満たして下さいますよう御前に切に祈ります。
[4] ルカによる福音書16:16「律法と預言者とはヨハネの時までのものである。それ以来、神の国が宣(の)べ伝えられ、人々は皆これに突入している。」(口語訳)神の国の福音が告げ知らされ、どうして人々が「力づくで」そこに入ろうとしているのか不明です。むしろ口語訳のようにそれまで、律法の世界から排除されていた取税人、遊女、五体の自由がきかない人、目の不自由な人等が、無条件で、無代価で、価なしに喜びに満たされてこの神の国に突入している、という理解のほうがこの箇所の解釈としては適切と思われる。
[8] The righteousness of God through faith
in Jesus Christ for all who believe, RSV(下線部が主部 イエス・キリストにおける信仰による神の義が、信じるすべての者に)
[11] Δικαιοσυνη δε θεου δια πιστεως
Ιησου Χριστου εις παντας τους πιστευοντας ου γαρ εστιν διαστολη (参考)
[17] 主格的属格というのは、「イエス・キリストの信仰」ということになります。これに対して新共同訳、口語訳の「イエス・キリストを信じる信仰」というのは、目的格的属格ということになります。
難しい文法的な言い方は理解する必要はありません。「イエス・キリストを信じる信仰によって義とされる」のか「イエス・キリストの信仰による神の義が、信じるすべての者に与えられる」のかという二つの読み方があり、カール・バルトは、ここは明らかに「イエス・キリストの信仰による神の義が、信じるすべての者に与えられる」という読み方を取るべきであると言っているということです。
(2021年8月29日 各自自宅礼拝)