新教出版社の看板雑誌である『福音と世界』誌の最新号(2009年10月号)の特集記事「座談会 今カルヴァンをどう読むか」に、田上雅徳氏(慶應義塾大学法学部准教授)と私、関口康、そして芳賀繁浩氏(日本キリスト教会豊島北教会牧師)(以上、発言順)が登場します。
この三人(プラス司会者)の座談会は、今年8月1日、東京・新宿の新教出版社本社ビルの一室で行いました。
『福音と世界』は定価600円(税込)です。近くのキリスト教書店でお求めになれます。
新教出版社の看板雑誌である『福音と世界』誌の最新号(2009年10月号)の特集記事「座談会 今カルヴァンをどう読むか」に、田上雅徳氏(慶應義塾大学法学部准教授)と私、関口康、そして芳賀繁浩氏(日本キリスト教会豊島北教会牧師)(以上、発言順)が登場します。
この三人(プラス司会者)の座談会は、今年8月1日、東京・新宿の新教出版社本社ビルの一室で行いました。
『福音と世界』は定価600円(税込)です。近くのキリスト教書店でお求めになれます。
2007年から毎年一冊のペースで配本されている新訂版『ファン・ルーラー著作集』(A. A. van Ruler Verzameld Werk)の第三巻がようやく配本されました。出版社が公表した最初の計画表では昨年12月10日の「国際ファン・ルーラー学会」(アムステルダム自由大学)に間に合うはずだったのですが、8か月遅れとなりました。編集者や出版社を責めるつもりはありませんが、首を長くしすぎて肩がこりました。しかし、ともかく出ましたので、一安心です。
第三巻(2009年)のテーマは「神、創造、人間、罪」(God, Schepping, Mens, Zonde)。さあ、いよいよこれから神学の本論に突入です。第一巻(2007年)のテーマは「神学の本質」、第二巻(2008年)は「啓示と聖書」でした。
第三巻(2009年)に収録されている論文名は、以下のとおりです。
1、神
我々の神認識の本質
神の存在証明
旧約聖書と新約聖書の神
神を語ること
三位一体の教理
三位一体
我々は神なしでありうるか
神の隠匿性
2、創造
天国の五つの定義
天使
創造と贖いの関係
存在の奇跡性
逆の意味での「実存」
我々は事物をいかに評価するか
3、神の摂理
神の摂理
我々はキリスト者として神の御手のうちなる世界に立っている
秩序と混沌
神は世界のために一つの計画を持っておられる
1953年の惨事
神と混沌
苦悩
教導
4、人間
今日の共同体問題
人間の責任と神の教導
良心について 成人の宗教教育との関連で
神と人間の出会い
権威
オランダの精神生活に映し出された人間
なぜ私は個人主義者でないか
プロテスタント的人間観
福音における非人間的要素
個人化の一形態としての成熟
心と事物
そのとき人間に何が起こるのか 教会の永続的要素
神と歴史
聖書とキリスト教の光のなかでの歴史における人間
変えられること
歴史の意味としての人間
わたしは元々何なのか
人間は創造者の王冠か
5、罪
新約聖書の身体論と精神論
聖定における罪
罪の陽気さ
罪人としての人間
6、地上の生
信仰と現実
我々の人生の意味
世界に対するキリスト教信仰の誠実さ
地上の生の評価
我々は何のために生きているのか
聖書の視点から見た喜び
キリスト教的生活感情としての喜び
意味を見出し意味を得る
存在の秘儀:無意味か罪か
人生の意味を問うことに意味があるか
垂直的なるものと水平的なるもの
7、時事問題
今日におけるキリスト教信仰の意味
王冠をかぶった馬鹿野郎
母性
豊かであることと増やすこと
結婚
家族
教会と動物愛護
『聖書と動物愛護』付録
プロテスタンティズムと動物愛護
心臓移植をめぐる道義的・宗教的問題
(新しきアダム)
(初めての月面着陸)
パソコンソフトやインターネット上の自動翻訳というものを正直言って全く信用していなかったのですが、今回ばかりはかなり動揺させられました。「Google翻訳」はすごいと思いました。
いかなるサイトでも瞬時のうちに50以上の言語に「翻訳」して表示されます。「翻訳」とカギカッコをつけたのは、いまだにもちろん笑える翻訳が多いからですが、しかし、少し前と比べると状況は相当変わってきているように感じられました。
一例として、本ブログ「関口 康 日記」をGoogle翻訳で「翻訳」してみると、こんなふうになります。
でたらめばかり書きつけている拙ブログでも、他の国の言葉で表示されると、まるで自分のものではないかのように、なんとなく立派に見えてしまいました。ただ、この記事のタイトルはさすがのGoogleさんにとっても難解のようで、Google Translation Bibiruと訳してくれます。
しかし、特に驚いたのは、「関口康日記」よりも「今週の説教」や「改革派教義学」や「『キリスト教民主党』研究」などの各国版のカッコよさです。たとえば、ドイツ語版などは次のように表示されます。国際的に活躍している人の気分をちょっとだけ味わうことができます。説教に至っては、パッと見だけなら「カール・バルト説教集」さながらです。
言うまでもないことですが、「私は知らないことだらけだ」と改めて思わされています。
「フォーラム神保町」というグループ、否、彼らの表現で言うところの“トポス”(場)があることを知り、羨望の思いでいっぱいです。
フォーラム神保町
http://www.forum-j.com/
ここに行けば、なんと、あの佐藤優氏の「神学講座(組織神学)」のゼミに参加することができます!
こういうトポスがファン・ルーラー研究会にも欲しいと、私は個人的に以前から強く願ってきました。ただし、開催場所は、教会ではなく、大学や神学校でもなく、できたら都内有名某所のビルで。
「フォーラム神保町」の向こうを張って、「神学フォーラムお台場」とかがいいです。
以上、「キリスト教民主党」研究といい、私のブログはすっかり妄想地帯と化しております。ああ恥ずかしい。
太宰治の「一歩前進 二歩退却」(1938年)を読みながら考えさせられたのはやはり説教の問題です。「三人姉妹を読みながらも、その三人の若い女の陰に、ほろにがく笑つているチエホフの顔を意識している」読者たちに苛立ちを隠せない太宰の様子が他人事とは思えません。
もちろん「説教は精神修養の教科書ではないのか」と問い詰められるならば「まさにそのようなものである」と答えねばならないとは思いますが、かたや、説教がイエス・キリストについて語る、あるいはパウロについて語るとき、そのイエス・キリストやパウロの陰に説教者自身の顔をあまりにも意識されすぎると困ってしまうのも説教者ではないかと考えざるをえないのです。
「可哀さうなのは、説教者である。うつかり高笑ひもできなくなった。」
松戸小金原教会では、主の日の礼拝の中で(カルヴァンと改革派教会の伝統に基づいて)「罪の告白と赦しの宣言」を行っています。「赦しの宣言」を朗読するのは牧師です。しかし牧師は、「赦しの宣言」を朗読する前に、教会員と共に自分自身の「罪の告白」をしなければなりません。私はたぶん教会員の誰よりも大きな声で「罪の告白」を読み上げ、その後、いくぶん小さな声で講壇の上で「赦しの宣言」を朗読しています。
この「赦しの宣言」の意義や本質を考えていくと、説教とは何かが分かるような気がしています。説教とは、かなり乱暴に言えば「自分のことを棚に上げて」語ることです。あるいは、「自分に罪がないと思う者がこの女に石を投げよ」とだけおっしゃって、御自身はしゃがみこんで地面に何かをお書きになっていた(ヨハネ8章)あのイエス・キリストの御姿に倣うことです。そうでなければ、どうして我々人間が「神の言葉」を語ることができるでしょうか。
日曜日の礼拝説教の善し悪しの問題が、教会にとっては最も深刻な事柄であるということは間違いありません。しかし、「説教者の言行不一致」(説教で言っていることと普段の行状が違いすぎる)という点が告発される場合には、ほとんどのケースは告発者の言うとおりなのだろうとは思っていますが、稀に(としておきます)、太宰がいら立ちを覚えた「三人の若い女の陰に、ほろ苦く笑つているチエホフの顔を意識している」というような本の読み方をするのと同じような仕方で、説教というものを把え、聴いているゆえに出てくる告発も含まれているように感じるのです。
このところ、「聖書よりも」とは申しませんが、カルヴァンよりも、ファン・ルーラーよりも、太宰治が面白くて困っています。
お恥ずかしながら、これまで太宰「など」真面目に読んだことがなかったのです。そもそも小説というものをほとんど読むことができませんでした。小説家の妄想に付き合えるほど暇じゃないと、思いこんでいたところがありました。他人の心の中に入り込んでいく想像力が根本的に欠如していたのです。
しかし、どうしたことでしょう、年齢のせいでしょうか、ここに至って、太宰の文章が私の胃袋に流れ込んでくるものがあります。
ただし、まだ小説ではありません。彼の手記のたぐいにハマっています。近日感銘を受けたのは、「一歩前進 二歩退却」(初出1938年8月、太宰28歳)という短文です(『太宰治全集』第10巻、筑摩類聚版、117~118ページ)。
「日本だけではないやうである。また、文学だけではないやうである。作品の面白さよりも、その作家の態度が、まづ気になる。その作家の人間を、弱さを、嗅ぎつけなければ承知できない。作品を、作家から離れた署名なしの一個の生き物として独立させては呉れない。三人姉妹を読みながらも、その三人の若い女の陰に、ほろにがく笑っているチエホフの顔を意識している。
(中略)
可哀さうなのは、作家である。うつかり高笑ひもできなくなった。作品を、精神修養の教科書として取り扱はれたのでは、たまつたものぢやない。
(中略)
作家は、いよいよ窮屈である。何せ、眼光紙背に徹する読者ばかりを相手にしてゐるのだから、うつかりできない。あんまり緊張して、つひには机のまへに端座したまま、そのまま、沈黙は金、といふ格言を底知れず肯定してゐる。そんなあはれな作家さへ出て来ぬともかぎらない。
謙譲を、作家にのみ要求し、作家は大いに恐縮し、卑屈なほどへりくだつて、さうして読者は旦那である。作家の私生活、底の底まで剥がうとする。失敬である。安売りしてゐるのは作品である。作家の人間までを売ってはゐない。謙譲は、読者にこそ之を要求したい。
作家と読者は、もういちど全然あたらしく地割りの協定をやり直す必要がある。(後略)」
この文章のどこに感銘を受けたかをきちんと説明できるまで太宰の意図を斟酌できてはいませんが、とにかく「そうそう」と、膝を打って喜びながら読みました。
ブログとかメールなどを書いておりますと、私の文章を読んでくださる方々の中に、記述内容についての賛否や感想を知らせてくださる方がおられることには、励まされます。
しかし、「なんでこんな時刻にメールを書いているのだろう」とか「どうしてこんなことをブログなどに書いているのだろう」というような、その文章を書いている私の「態度」ばかりが気になるらしい方に接することがありまして、そういうことと太宰への「共感」とがどうやら関係しているらしいことに気づかされます。
まさに、「一歩前進 二歩退却」です。
「『キリスト教民主党』研究」の「はじめのことば」を書きました。
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はじめのことば
関口 康
日本国内で「キリスト教民主党」(Christian Democratic Party)を云々することがどれほど困難で危険を伴うことであり、また、どれほど虚しさや惨めさが漂う取り組みであるかは、よく分かっているつもりです。
そして、そのようなものがわが国に生まれる可能性というような次元に至っては、どれほど早くても半世紀ないし一世紀以上先のことであるという点も明言しておかねばならないほどです。
しかし、国際社会に目を転じてみますと、「キリスト教民主党」を名乗る政党が世界80数か国に存在し、力強い活動を続けていることが分かります(「世界のキリスト教民主党一覧」参照)。なかでもオランダとドイツの「キリスト教民主党」は、現在の政権与党を担当していることで特に有名です。
これで分かることは、「キリスト教民主党」という具体的な形式をもってのキリスト者の政治参加(Christian Political Engagement)は、理論上の空想にすぎないものではなく、世界史の過去と現在において多くの実践事例があるということ、平たく言えば、成功と失敗の歴史があるということです。
そして私がしきりに考えさせられていることは、日本におけるキリスト者の社会的発言と実践の目標は何なのかということです。どうしたらこの国の政治の場に、わたしたちキリスト者の声が、歪められることなく正しく届くのでしょうか。
「教会は政治問題を扱う場ではない」と語られることが多くなった昨今、それではキリスト者は、いつ、どこで、どのようにして政治に参加すべきでしょうか。
それとも、そもそも「キリスト者としての政治参加」(Political Engaging as a Christian)ということ自体がもはや無理なことであり、今日においては時代遅れであると言われなければならないのでしょうか。我々が「キリスト者として」立ちうるのはもっぱら教会の内部だけであり、せいぜい日曜日の朝の一時間だけである。社会と政治の場においては、中立者のふりでもして、自分の信仰を押し隠して立つというような、世事に長けた使い分けをするほうがよいでしょうか。あるいは、「素人どもは黙って手をこまねいていなさい。どうせ歯が立ちっこないのだから」というご丁寧なアドバイスに聞き従うべきでしょうか。
あなたに謹んでお尋ねしたいのは、このあたりのことです。
「キリスト教民主党」について誰かが、ただ《研究》するだけで、わが国にもそのような政党が即座に誕生するというようなことがたとえ奇跡としてでも起こりうるのであれば、誰も苦労しません。私自身はそのようなことは夢想だにしておりませんので、どうかご安心ください。
しかし、《研究》そのものは、誰にでも、そして今すぐにでも始めることができます。とにかく誰かが研究し続けているということが重要です。同じテーマについての先行の研究者たちを批判する意図などは皆無です。どのような協力でもさせていただきますので、お気軽にご連絡いただけますとうれしいです。
なお、このサイトはこのたび全く新規に開設したものというわけではなく、「ファン・ルーラー研究会」や「信仰と実践」(廃止)という名前のサイトで公開してきた政治ジャンルの情報提供サイトを引き継ぐものです。また、「キリスト教民主党」と「改革派教義学」は姉妹関係にあります。両者の歴史的かつ思想的な相互関係はそのうち明らかにしていきます。古くからお付き合いいただいている方々には、これからもお世話になりたく願っております。
たった今、私のブログにコメントが付きました。いわく、「キリスト教を使った侵略者は国外退去」だそうです。そのコメントは、即刻削除しました。
この種の誤解や馬鹿らしい中傷誹謗に、いちいち答えていくことはできません。それをやりはじめると、この国のほとんど1億人ほどの人々を相手にしなくてはならなくなり、その状態が少なくともあと百年は続くでしょう。その苦痛たるやローマのコロシアムでライオンの前に立たされた初代のキリスト者たちと同じか、それ以上でしょう。それに耐えられる人間は、たぶんいません。
インターネット上の中傷誹謗には、人をとことん追いつめるものがあります。日本ではキリスト者として社会的発言をするだけで、なんと「キリスト教を使った侵略者」扱いですから。やれやれです。