2009年9月12日土曜日

『福音と世界』座談会に登場

新教出版社の看板雑誌である『福音と世界』誌の最新号(2009年10月号)の特集記事「座談会 今カルヴァンをどう読むか」に、田上雅徳氏(慶應義塾大学法学部准教授)と私、関口康、そして芳賀繁浩氏(日本キリスト教会豊島北教会牧師)(以上、発言順)が登場します。



この三人(プラス司会者)の座談会は、今年8月1日、東京・新宿の新教出版社本社ビルの一室で行いました。



『福音と世界』は定価600円(税込)です。近くのキリスト教書店でお求めになれます。



新訂版『ファン・ルーラー著作集』第三巻、やっと配本

2007年から毎年一冊のペースで配本されている新訂版『ファン・ルーラー著作集』(A. A. van Ruler Verzameld Werk)の第三巻がようやく配本されました。出版社が公表した最初の計画表では昨年12月10日の「国際ファン・ルーラー学会」(アムステルダム自由大学)に間に合うはずだったのですが、8か月遅れとなりました。編集者や出版社を責めるつもりはありませんが、首を長くしすぎて肩がこりました。しかし、ともかく出ましたので、一安心です。



第三巻(2009年)のテーマは「神、創造、人間、罪」(God, Schepping, Mens, Zonde)。さあ、いよいよこれから神学の本論に突入です。第一巻(2007年)のテーマは「神学の本質」、第二巻(2008年)は「啓示と聖書」でした。



第三巻(2009年)に収録されている論文名は、以下のとおりです。



1、神



我々の神認識の本質
神の存在証明
旧約聖書と新約聖書の神
神を語ること
三位一体の教理
三位一体
我々は神なしでありうるか
神の隠匿性



2、創造



天国の五つの定義
天使
創造と贖いの関係
存在の奇跡性
逆の意味での「実存」
我々は事物をいかに評価するか



3、神の摂理



神の摂理
我々はキリスト者として神の御手のうちなる世界に立っている
秩序と混沌
神は世界のために一つの計画を持っておられる
1953年の惨事
神と混沌
苦悩
教導



4、人間



今日の共同体問題
人間の責任と神の教導
良心について 成人の宗教教育との関連で
神と人間の出会い
権威
オランダの精神生活に映し出された人間
なぜ私は個人主義者でないか
プロテスタント的人間観
福音における非人間的要素
個人化の一形態としての成熟
心と事物
そのとき人間に何が起こるのか 教会の永続的要素
神と歴史
聖書とキリスト教の光のなかでの歴史における人間
変えられること
歴史の意味としての人間
わたしは元々何なのか
人間は創造者の王冠か



5、罪



新約聖書の身体論と精神論
聖定における罪
罪の陽気さ
罪人としての人間



6、地上の生



信仰と現実
我々の人生の意味
世界に対するキリスト教信仰の誠実さ
地上の生の評価
我々は何のために生きているのか
聖書の視点から見た喜び
キリスト教的生活感情としての喜び
意味を見出し意味を得る
存在の秘儀:無意味か罪か
人生の意味を問うことに意味があるか
垂直的なるものと水平的なるもの



7、時事問題



今日におけるキリスト教信仰の意味
王冠をかぶった馬鹿野郎
母性
豊かであることと増やすこと
結婚
家族
教会と動物愛護
『聖書と動物愛護』付録
プロテスタンティズムと動物愛護
心臓移植をめぐる道義的・宗教的問題
(新しきアダム)
(初めての月面着陸)



2009年9月10日木曜日

Google翻訳にビビる

パソコンソフトやインターネット上の自動翻訳というものを正直言って全く信用していなかったのですが、今回ばかりはかなり動揺させられました。「Google翻訳」はすごいと思いました。



いかなるサイトでも瞬時のうちに50以上の言語に「翻訳」して表示されます。「翻訳」とカギカッコをつけたのは、いまだにもちろん笑える翻訳が多いからですが、しかし、少し前と比べると状況は相当変わってきているように感じられました。



一例として、本ブログ「関口 康 日記」をGoogle翻訳で「翻訳」してみると、こんなふうになります。



ヘブライ語



ギリシア語



アラビア語



ドイツ語



オランダ語



フランス語



ロシア語



韓国語



でたらめばかり書きつけている拙ブログでも、他の国の言葉で表示されると、まるで自分のものではないかのように、なんとなく立派に見えてしまいました。ただ、この記事のタイトルはさすがのGoogleさんにとっても難解のようで、Google Translation Bibiruと訳してくれます。



しかし、特に驚いたのは、「関口康日記」よりも「今週の説教」や「改革派教義学」や「『キリスト教民主党』研究」などの各国版のカッコよさです。たとえば、ドイツ語版などは次のように表示されます。国際的に活躍している人の気分をちょっとだけ味わうことができます。説教に至っては、パッと見だけなら「カール・バルト説教集」さながらです。



今週の説教(ドイツ語版)



改革派教義学(ドイツ語版)



「キリスト教民主党」研究(ドイツ語版)





2009年9月9日水曜日

こういうのが我々にも欲しい

言うまでもないことですが、「私は知らないことだらけだ」と改めて思わされています。



「フォーラム神保町」というグループ、否、彼らの表現で言うところの“トポス”(場)があることを知り、羨望の思いでいっぱいです。



フォーラム神保町
http://www.forum-j.com/



ここに行けば、なんと、あの佐藤優氏の「神学講座(組織神学)」のゼミに参加することができます!



こういうトポスがファン・ルーラー研究会にも欲しいと、私は個人的に以前から強く願ってきました。ただし、開催場所は、教会ではなく、大学や神学校でもなく、できたら都内有名某所のビルで。



「フォーラム神保町」の向こうを張って、「神学フォーラムお台場」とかがいいです。



以上、「キリスト教民主党」研究といい、私のブログはすっかり妄想地帯と化しております。ああ恥ずかしい。



2009年9月8日火曜日

太宰治「一歩前進 二歩退却」(1938年)に共感して(2)

太宰治の「一歩前進 二歩退却」(1938年)を読みながら考えさせられたのはやはり説教の問題です。「三人姉妹を読みながらも、その三人の若い女の陰に、ほろにがく笑つているチエホフの顔を意識している」読者たちに苛立ちを隠せない太宰の様子が他人事とは思えません。



もちろん「説教は精神修養の教科書ではないのか」と問い詰められるならば「まさにそのようなものである」と答えねばならないとは思いますが、かたや、説教がイエス・キリストについて語る、あるいはパウロについて語るとき、そのイエス・キリストやパウロの陰に説教者自身の顔をあまりにも意識されすぎると困ってしまうのも説教者ではないかと考えざるをえないのです。



「可哀さうなのは、説教者である。うつかり高笑ひもできなくなった。」



松戸小金原教会では、主の日の礼拝の中で(カルヴァンと改革派教会の伝統に基づいて)「罪の告白と赦しの宣言」を行っています。「赦しの宣言」を朗読するのは牧師です。しかし牧師は、「赦しの宣言」を朗読する前に、教会員と共に自分自身の「罪の告白」をしなければなりません。私はたぶん教会員の誰よりも大きな声で「罪の告白」を読み上げ、その後、いくぶん小さな声で講壇の上で「赦しの宣言」を朗読しています。



この「赦しの宣言」の意義や本質を考えていくと、説教とは何かが分かるような気がしています。説教とは、かなり乱暴に言えば「自分のことを棚に上げて」語ることです。あるいは、「自分に罪がないと思う者がこの女に石を投げよ」とだけおっしゃって、御自身はしゃがみこんで地面に何かをお書きになっていた(ヨハネ8章)あのイエス・キリストの御姿に倣うことです。そうでなければ、どうして我々人間が「神の言葉」を語ることができるでしょうか。



日曜日の礼拝説教の善し悪しの問題が、教会にとっては最も深刻な事柄であるということは間違いありません。しかし、「説教者の言行不一致」(説教で言っていることと普段の行状が違いすぎる)という点が告発される場合には、ほとんどのケースは告発者の言うとおりなのだろうとは思っていますが、稀に(としておきます)、太宰がいら立ちを覚えた「三人の若い女の陰に、ほろ苦く笑つているチエホフの顔を意識している」というような本の読み方をするのと同じような仕方で、説教というものを把え、聴いているゆえに出てくる告発も含まれているように感じるのです。



太宰治「一歩前進 二歩退却」(1938年)に共感して(1)

このところ、「聖書よりも」とは申しませんが、カルヴァンよりも、ファン・ルーラーよりも、太宰治が面白くて困っています。



お恥ずかしながら、これまで太宰「など」真面目に読んだことがなかったのです。そもそも小説というものをほとんど読むことができませんでした。小説家の妄想に付き合えるほど暇じゃないと、思いこんでいたところがありました。他人の心の中に入り込んでいく想像力が根本的に欠如していたのです。



しかし、どうしたことでしょう、年齢のせいでしょうか、ここに至って、太宰の文章が私の胃袋に流れ込んでくるものがあります。



ただし、まだ小説ではありません。彼の手記のたぐいにハマっています。近日感銘を受けたのは、「一歩前進 二歩退却」(初出1938年8月、太宰28歳)という短文です(『太宰治全集』第10巻、筑摩類聚版、117~118ページ)。



「日本だけではないやうである。また、文学だけではないやうである。作品の面白さよりも、その作家の態度が、まづ気になる。その作家の人間を、弱さを、嗅ぎつけなければ承知できない。作品を、作家から離れた署名なしの一個の生き物として独立させては呉れない。三人姉妹を読みながらも、その三人の若い女の陰に、ほろにがく笑っているチエホフの顔を意識している。
(中略)
可哀さうなのは、作家である。うつかり高笑ひもできなくなった。作品を、精神修養の教科書として取り扱はれたのでは、たまつたものぢやない。
(中略)
作家は、いよいよ窮屈である。何せ、眼光紙背に徹する読者ばかりを相手にしてゐるのだから、うつかりできない。あんまり緊張して、つひには机のまへに端座したまま、そのまま、沈黙は金、といふ格言を底知れず肯定してゐる。そんなあはれな作家さへ出て来ぬともかぎらない。



謙譲を、作家にのみ要求し、作家は大いに恐縮し、卑屈なほどへりくだつて、さうして読者は旦那である。作家の私生活、底の底まで剥がうとする。失敬である。安売りしてゐるのは作品である。作家の人間までを売ってはゐない。謙譲は、読者にこそ之を要求したい。



作家と読者は、もういちど全然あたらしく地割りの協定をやり直す必要がある。(後略)」



この文章のどこに感銘を受けたかをきちんと説明できるまで太宰の意図を斟酌できてはいませんが、とにかく「そうそう」と、膝を打って喜びながら読みました。



ブログとかメールなどを書いておりますと、私の文章を読んでくださる方々の中に、記述内容についての賛否や感想を知らせてくださる方がおられることには、励まされます。



しかし、「なんでこんな時刻にメールを書いているのだろう」とか「どうしてこんなことをブログなどに書いているのだろう」というような、その文章を書いている私の「態度」ばかりが気になるらしい方に接することがありまして、そういうことと太宰への「共感」とがどうやら関係しているらしいことに気づかされます。



まさに、「一歩前進 二歩退却」です。



2009年9月7日月曜日

ファン・ルーラー研究会神学セミナーの歩み

第1回 2001年9月3日(月)      日本キリスト改革派園田教会(兵庫県尼崎市)

第2回 2002年9月2日(月)・3日(火)熱海網代オーナーズビラ(静岡県熱海市)

第3回 2003年9月1日(月)      日本キリスト改革派東京恩寵教会(東京都渋谷区恵比寿)

第4回 2004年8月23日(月)・24日(火)母の家べテル(兵庫県神戸市東灘区御影)

第5回 2007年9月10日(月)・11日(火)日本基督教団頌栄教会(東京都世田谷区北沢)

第6回 2014年10月27日(月)      日本基督教団頌栄教会(東京都世田谷区北沢)



2009年9月6日日曜日

生きた水が川となる


ヨハネによる福音書7・32~39

「ファリサイ派の人々は、群衆がイエスについてこのようにささやいているのを耳にした。祭司長たちとファリサイ派の人々は、イエスを捕らえるために下役たちを遣わした。そこで、イエスは言われた。『今しばらく、わたしはあなたたちと共にいる。それから、自分をお遣わしになった方のもとへ帰る。あなたたちは、わたしを捜しても、見つけることがない。わたしのいる所へに、あなたたちは来ることができない。』すると、ユダヤ人たちが互いに言った。『わたしたちが見つけることはないとは、いったい、どこへ行くつもりだろう。ギリシア人の間に離散しているユダヤ人たちのところへ行って、ギリシア人に教えるとでもいうのか。「あなたたちは、わたしを捜しても、見つけることがない。わたしのいる所に、あなたたちは来ることができない」と彼は言ったが、その言葉はどういう意味なのか。」祭りが最も盛大に祝われる終わりの日に、イエスは立ち上がって大声で言われた。『渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。』イエスは、御自分を信じる人々が受けようとしている“霊”について言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、“霊”がまだ降っていなかったからである。」

今日の個所のイエスさまは、まだエルサレムにおられます。先週の個所でイエスさまはエルサレム神殿の境内で説教なさいました。また、説教の内容をめぐって、人々といろんなやりとりをなさいました。そうしましたところ、「人々がイエスを捕らえようとした」(7・30)というのです。この「人々」は、いわゆる群衆のことです。普通の人、一般の人です。イエスさまの命を狙っていたファリサイ派や祭司長や律法学者たちではありません。その彼らがなぜイエスさまのことを捕らえようとしたのでしょうか。これは考えてみる必要がある点です。

思い当たることは、彼らはおそらく非常に腹を立てたのだろうということです。問題点はいくつかあります。第一は、イエスさまが「わたしをお遣わしになった方」と言われるのを聞いたとき、彼らが最初に思い浮かべたのは天地の造り主なる父なる神さま御自身のことだったはずですが、そのとき「まさか、そんなはずはない」と思ったに違いないという点にかかわります。なぜなら彼らは父なる神さまのことを知っていると思っていたからです。わたしたちは聖書を繰り返し学んできたし、神を信じてもいる。それなのに、この人は「あなたたちはその方を知らない」と我々に向かって言い放つ。我々のことを侮辱しているのかと腹を立てたに違いありません。

しかし、理由はそれだけではなさそうです。第二に考えられることは、イエスさまは「学問をしていなかった」からです。この場合の「学問をする」の意味は、エルサレム神殿の律法学校を卒業することであると、先週申しました。そしてそれは、我々が「神学校を卒業する」と言うのと同じ意味であるとも申しました。イエスさまは神学校を卒業していません。そうであるにもかかわらず「わたしをお遣わしになった方」のもとから来たなどと言う。そのことで彼らは腹を立てたに違いありません。

なぜそのようなことに腹が立つのかと言いますと、彼らはおそらく悪い意味での権威主義者だったのです。あの学校を卒業した人の言うことだから間違いない。そうでない人の言葉は信用できない。このような道筋で事柄を把えようとする人々だったのです。だからこそ、イエスさまの説教を聴いた彼らにとって、「あの人は学問をしたわけでもないのに、どうして」という点が問題になったのです。

校長から卒業証書を受け取ってもいない。何かの試験に合格したわけでもない。客観的な意味でこの人が「教師」と呼ばれるための根拠は、どこにもない。だとしたら、この人が「わたしを遣わした方」と言っているのは、ただの思い込みである。しかしこの人は、自分はそうだと言い張る。それならば、この人は嘘つきである。この人を誰も遣わしてなどいない。まして、父なる神が遣わしたなどということはありえない。彼らの心の中にこのような一種独特の三段論法が駆け巡った可能性があるのです。

しかしこのような考え方はやはり、悪い意味での権威主義です。このことは一般論としても言えることです。その人が卒業した学校がその人の価値を決めるわけではありません。その学校を卒業した人のすべてが必ず真理を究めつくした権威者であると思いこむことは、事情を知らなすぎる見方です。あえて変な言い方をしますが、どの学校にも優秀な人とそうでない人が必ずいるものです。勉強するのは自分自身です。学校は勉強の仕方を教えてくれるだけです。極端な言い方をすれば、自分で勉強することができる人は学校になど行かなくてもよいのです。

教会の場合も同じですし、教会こそそのことが当てはまります。自分のことを全く棚に上げて言いますが、神学校の学業成績が優秀だった人々の中にも牧師としては全くふさわしくないと判断される人々がいます。逆も然り。成績が悪かった人の中にも立派な牧師はたくさんいます。あの学校を卒業した人だから、何々先生の弟子だから、絶対に間違いないなどということは全くありえないのです。

話がまた脱線しかかっています。私はいま、イエスさまのことを考えております。「学問をしたわけでもないのに、どうして」と疑惑の目がイエスさまに向けられました。わたしをお遣わしになった方のもとから来たと言い張るこの人は嘘つきであると、腹を立てられ、捕まえられそうになりました。イエスさまがそのような目に遭われたのは、イエスさまが悪いわけではなく、イエスさまをそのように見た人々の価値観、とくにその権威主義的な意識感覚に問題があったに違いないと申し上げているのです。

しかし、イエスさまがおっしゃっていることは嘘でも何でもなく、まさに真理であり、真実でした。そして、これはイエスさまだけに当てはまる真理であり真実であるというだけではなく、イエスさまの体なる教会にかかわるすべての事柄にも当てはまることなのです。

たとえば、教会とは誰のものでしょうか。牧師の所有物(もの)でしょうか、長老や執事のものでしょうか、会員一人一人のものでしょうか。「そうでもある」と答えたい気持ちが私にはありますが、そのように決して語ってはならない場面があると思っています。教会は、人間のものではありません。神御自身のものであり、神の御子イエス・キリストのものです。

教会がこの地上でなすすべてのわざは、誰が行うのでしょうか。「それは我々人間自身でもある」と私自身は声を大にして言いたいところを持っていますが、このことも我慢しなければなりません。教会が行うすべてのわざは、神御自身のわざです。わたしたちは神の道具になることに徹する必要があります。

いまここで私がしている説教とは、なんでしょうか。「これは関口さんのお話である」と思われても仕方ない面があることを私自身は否定しません。しかしそれでもなお、わたしたちが信じなければならないことがあります。説教とは、本質的に神御自身の言葉なのです。説教者もまた、神の道具になりきる必要があるのです。

ですから、説教者としてのイエスさまが父なる神さまのことを「わたしを遣わした方」とお呼びになったことは、イエスさまだけに許された特別な言葉遣いであるわけではなく、この宗教にかかわるすべての人に許されているし、そのように語ることを命じられていることでさえあるのです。

しかし、彼らはイエスさまの言葉を受け入れることができませんでした。嘘を言っていると思ったか、あるいは芝居がかったきれいごとを言っているとでも思ったか、ともかく現実味のない話であると聞いたのです。だから彼らはイエスさまが「わたしのいる所に、あなたたちは来ることができない」(34節)とおっしゃった言葉を聴いて「ギリシア人の間に離散しているユダヤ人のところへ行って、ギリシア人に教えるとでもいうのか」と、つまり外国旅行でもするつもりなのかと誤解したのです。宗教的な話を聴いても、それを宗教的な次元で捉えることができなかったのです。

イエスさまが「今しばらく、わたしはあなたたちと共にいる。それから、自分をお遣わしになった方のもとへ帰る。あなたたちは、わたしを捜しても、見つけることがない。わたしのいる所に、あなたたちは来ることができない」(7・33~34)とおっしゃった意味を、わたしたち自身は知っています。イエスさまは死ぬ覚悟をなさったのです。その言葉を、外国旅行に行くつもりなのかと全く違う意味で聞かれてしまったのです。イエスさまの言葉をなかなか理解できない人々の姿が、ここに描き出されています。

イエスさまは、祭りの最終日に大声で言われました。「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる」(7・37~38)。

この御言葉もまた、宗教的な次元の事柄としてとらえる必要があります。「生きた水」とは“霊”のこと、つまり「聖霊」のことであると説明されています。そしてそれは同時に、聖霊なる神がわたしたちに与えてくださる「信仰」のことです。イエス・キリストが十字架にかかって死んでくださり、三日目によみがえってくださった後に、天の父なる神のみもとにお戻りになりました。そしてその後、イエス・キリストを信じる弟子たちのうえに聖霊が注がれました。その聖霊が「生きた水」となってわたしたちの心に信仰を呼び起こしてくださいました。そして信仰はわたしたちの内から溢れだし、川となってとうとうと流れ続けるのです。

「川」とは継続性と広がりのイメージです。これはわたしたちの信仰生活や教会の伝道を指しています。信仰は一瞬で終わるものではなく、継続的なものです。わたしたちの信仰は神から恵みとして与えられ続けるものなのです。

「イエスがまだ栄光を受けておられなかったので、“霊”がまだ降っていなかった」とあります。「イエスが栄光を受ける」の意味は、十字架の上で全人類の罪を贖うみわざを成し遂げられ、かつ、そのイエスさまを父なる神が復活させてくださることを指しています。イエスさまの栄光とは、すなわち、わたしたち罪人の身代わりに死ぬこと、死んでくださることなのです。しかしまたイエスさまが天に昇られたあと、イエスさまの代わりに聖霊なる神が地上に来てくださり、信仰をもって生きる人々の心の中に住み込んでくださるのです。

ですから、イエスさまが目に見えない存在になられた後も弟子たちは寂しくはありませんでした。聖霊の助けによって力強くイエス・キリストの御言葉を宣べ伝え、教会を建て上げていきました。

「生きた水が川となる」とは、それらすべてを指しています。もちろんそれはわたしたちにも当てはまります。松戸小金原教会が来年30周年を迎えます。「生きた水」としての聖霊がわたしたちの教会を導いてくださいました。この地に30年間、一度も尽きることの無い「川」を流し続けてくださいました。そのようにして、信仰者の群れを守り続けてくださったのです。そのことを神に感謝したいと思います。

(2009年9月6日、松戸小金原教会主日礼拝)

はじめのことば

「『キリスト教民主党』研究」「はじめのことば」を書きました。



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はじめのことば



関口 康



日本国内で「キリスト教民主党」(Christian Democratic Party)を云々することがどれほど困難で危険を伴うことであり、また、どれほど虚しさや惨めさが漂う取り組みであるかは、よく分かっているつもりです。



そして、そのようなものがわが国に生まれる可能性というような次元に至っては、どれほど早くても半世紀ないし一世紀以上先のことであるという点も明言しておかねばならないほどです。



しかし、国際社会に目を転じてみますと、「キリスト教民主党」を名乗る政党が世界80数か国に存在し、力強い活動を続けていることが分かります(「世界のキリスト教民主党一覧」参照)。なかでもオランダとドイツの「キリスト教民主党」は、現在の政権与党を担当していることで特に有名です。



これで分かることは、「キリスト教民主党」という具体的な形式をもってのキリスト者の政治参加(Christian Political Engagement)は、理論上の空想にすぎないものではなく、世界史の過去と現在において多くの実践事例があるということ、平たく言えば、成功と失敗の歴史があるということです。



そして私がしきりに考えさせられていることは、日本におけるキリスト者の社会的発言と実践の目標は何なのかということです。どうしたらこの国の政治の場に、わたしたちキリスト者の声が、歪められることなく正しく届くのでしょうか。



「教会は政治問題を扱う場ではない」と語られることが多くなった昨今、それではキリスト者は、いつ、どこで、どのようにして政治に参加すべきでしょうか。



それとも、そもそも「キリスト者としての政治参加」(Political Engaging as a Christian)ということ自体がもはや無理なことであり、今日においては時代遅れであると言われなければならないのでしょうか。我々が「キリスト者として」立ちうるのはもっぱら教会の内部だけであり、せいぜい日曜日の朝の一時間だけである。社会と政治の場においては、中立者のふりでもして、自分の信仰を押し隠して立つというような、世事に長けた使い分けをするほうがよいでしょうか。あるいは、「素人どもは黙って手をこまねいていなさい。どうせ歯が立ちっこないのだから」というご丁寧なアドバイスに聞き従うべきでしょうか。



あなたに謹んでお尋ねしたいのは、このあたりのことです。



「キリスト教民主党」について誰かが、ただ《研究》するだけで、わが国にもそのような政党が即座に誕生するというようなことがたとえ奇跡としてでも起こりうるのであれば、誰も苦労しません。私自身はそのようなことは夢想だにしておりませんので、どうかご安心ください。



しかし、《研究》そのものは、誰にでも、そして今すぐにでも始めることができます。とにかく誰かが研究し続けているということが重要です。同じテーマについての先行の研究者たちを批判する意図などは皆無です。どのような協力でもさせていただきますので、お気軽にご連絡いただけますとうれしいです。



なお、このサイトはこのたび全く新規に開設したものというわけではなく、「ファン・ルーラー研究会」や「信仰と実践」(廃止)という名前のサイトで公開してきた政治ジャンルの情報提供サイトを引き継ぐものです。また、「キリスト教民主党」「改革派教義学」は姉妹関係にあります。両者の歴史的かつ思想的な相互関係はそのうち明らかにしていきます。古くからお付き合いいただいている方々には、これからもお世話になりたく願っております。



2009年9月5日土曜日

「キリスト教民主党」研究(4)

たった今、私のブログにコメントが付きました。いわく、「キリスト教を使った侵略者は国外退去」だそうです。そのコメントは、即刻削除しました。



この種の誤解や馬鹿らしい中傷誹謗に、いちいち答えていくことはできません。それをやりはじめると、この国のほとんど1億人ほどの人々を相手にしなくてはならなくなり、その状態が少なくともあと百年は続くでしょう。その苦痛たるやローマのコロシアムでライオンの前に立たされた初代のキリスト者たちと同じか、それ以上でしょう。それに耐えられる人間は、たぶんいません。



インターネット上の中傷誹謗には、人をとことん追いつめるものがあります。日本ではキリスト者として社会的発言をするだけで、なんと「キリスト教を使った侵略者」扱いですから。やれやれです。