日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13) |
讃美歌21 289番 みどりもふかき
「命の言」
ヨハネの手紙一1章1~4節
関口 康
「初めからあったもの、わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て、手で触れたものを伝えます。すなわち、命の言について。」
今日開きました聖書の箇所は、新約聖書のヨハネの手紙一の冒頭部分です。1章1節から4節までを司会者に朗読していただきました。
「ヨハネの手紙」と題される文書は三つあります。そのうち「二」(第二の手紙)と「三」(第三の手紙)には、「長老のわたしから」と記されていて、「長老」を名乗る人物が書いた文書であることが明らかにされていますが、「一」(第一の手紙)の中には著者についての情報がありません。
ヨハネス・シュナイダーという聖書学者によると、「ヨハネ福音書とヨハネの第一の手紙の著者は同一人である」とされます(『NTD新約聖書註解 第10巻公同書簡』日本語版1975年、307頁)。しかしシュナイダーは、ヨハネ福音書とヨハネの手紙一の著者はイエス・キリストの12人の弟子の中の使徒ヨハネが書いたとするキリスト教会の伝統的な理解に立つわけではありません。使徒ヨハネではない別の誰かが書いたものであるが、今日まさにわたしたちが開いている冒頭部分の記述内容からして、主イエスの地上の生涯と活動を目の当たりにした人物が書いたものであるとしています。私も基本的にその線で同意します。
ヨハネの手紙一の冒頭部分に書かれているのは、「初めからあったもの、わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て、手で触れたものを伝えます。すなわち、命の言について」(1節)という言葉です。この「命の言(ことば)」は「聖書」という言葉で置き換えることはできません。そうではなく、ヨハネによる福音書の冒頭部分に記されている言葉が思い起こされるべきです。「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった」(ヨハネ1章1~5節)と記されているあの言葉です。
そうです、「命の言(ことば)」とは、真の救い主イエス・キリストのことです。人間を照らす光としての命の言はイエス・キリストご自身です。ヨハネの手紙一の冒頭部分に、その「命の言」を著者自身が「聞き」、「目で見」、「よく見」、「手で触れた」と記されています。これは明らかに、イエス・キリストと著者との間に直接的なかかわりと交わりがあったことを意味しています。
ヨハネの手紙一の「初めからあったもの」の意味は、ヨハネ福音書の「初めに言があった」と呼応しています。ヨハネ福音書の続きに「万物は言によって成った」とあるとおり、「初めから」の意味は「天地創造よりも前」です。神は天地創造のとき「光と闇を分け、光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれ」(創世記1章4~5節)ました。これは、神が天地創造のとき「時間」を創造されたことを意味します。その「時間の創造」より前を指すのが今日の箇所の「初めから」の意味であり、ヨハネ福音書1章1節の「初めに言があった」の意味です。つまり、イエス・キリストは「時間の創造」よりも先におられた“永遠の存在”であるという信仰をヨハネ福音書もヨハネの手紙一も告白しています。
続きを読みます。「この命は現れました。御父と共にあったが、わたしたちに現れたこの永遠の命を、わたしたちは見て、あなたがたに証しし、伝えるのです。わたしたちが見、また聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたもわたしたちとの交わりを持つようになるためである。わたしたちの交わりは、御父と御子イエス・キリストとの交わりです」(2~3節)。
この言葉の意味を、正しく理解すべきです。この手紙の中で一度も自分の名を名乗っていない著者は、主イエスの地上の生涯と活動を目の当たりにした人物であることを明らかにしています。しかし、この人はそのことを自分の特権であると考えていません。「わたしとイエスさまは直接の知り合いだけれども、当時イエスさまと関係を持っていなかったあなたはそうではない。わたしとあなたは違うのだ」というような仕方で、自分の優位性を主張し、相手を見下げるような考えは全く持っていませんでした。そうではなく、わたしはイエス・キリストの福音を宣べ伝えるのだ、その福音を信じる人はだれでも、主イエスの声を直接聞き、その生涯と活動を直接見、手で触れたわたしたちと全く同じ交わりの中に入ることができるのだと、心から信じていました。
そうでないなら、教会の存在は無意味です。宣教は無意味です。主イエスの地上の生涯と活動を直接知っている二千年前の最初のひと握りの人たちだけが特別扱いされ、それ以外の人たちはその他大勢扱いされるだけであるのであれば。
ヨハネの手紙一とヨハネ福音書の共通の著者の確信は、それとは正反対です。直接の知り合いであろうとなかろうと、そのこと自体は問題でない。ユダヤ人だろうと異邦人だろうと、豊かだろうと貧しかろうと関係ない。宣べ伝えられた福音を信じる人はだれでも、国境も人種も時代もすべて超えて、御父と御子の交わりに入ることができるし、その関係は平等である。だからこそ、わたしたち教会は、あらゆる困難を乗り越えて福音を宣べ伝えるのだと、心から信じていました。
「交わり」と訳されているギリシア語は、コイノニアです。ここでの意味は「参加すること」です。かつての英国聖書学の権威者C.H.ドッドは英語の「パートナーシップ」を意味すると理解しました。しかし、くれぐれも誤解のないように。「御父と御子イエス・キリストとのコイノニア(交わり)」を与えられた人は、神の“第四位格”へと組み入れられて、「父・子・聖霊・わたし」の四位一体(The Quaternity)にはなりません。「いち人間」として、しかし、他のキリスト者と比較して「自分はあの人より下だが、あの人より上だ」などと高ぶったことを考えるべきでなく、神の前で平等な「いちキリスト者」として、教会に参加し、伝道と教会形成のわざを通して神と教会に仕える人生を送ることができる、という意味です。それ以上でもそれ以下でもありません。
ヨハネの手紙一の冒頭部分は「わたしたちがこれらのことを書くのは、わたしたちの喜びが満ちあふれるようになるためです」(4節)で締めくくられます。「これらのこと」はそれ以前の1節から3節までだけを指していません。そうではなく、この手紙全体を指します。さらに広げて、教会のすべての宣教を指すと言っても過言ではありません。ヨハネ福音書にもイエス・キリストご自身の言葉として同じ趣旨のみことばがあります。「これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである」(ヨハネ15章11節)。
宣教の目的は「喜び」にある、ということです。「命の言(ことば)」としてのイエス・キリストが来てくださったのは、世界を喜びで満たすためである、ということです。
使徒パウロも書いています。「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい」(テサロニケ一5章16~18節)。
わたしたちの今週1週間が、喜びに満たされたものでありますよう、お祈りいたします。
(2024年1月28日 聖日礼拝)