日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13) |
讃美歌21 405番 すべての人に
奏楽・長井志保乃さん 字幕・富栄徳さん
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「宣教の使命」
使徒言行録11章19~26節
関口 康
「このアンティオキアで、弟子たちが初めてキリスト者と呼ばれるようになった。」
今日の箇所は先週の週報で予告したところから変更しました。先週突然亡くなられた教会員の葬儀を明後日行います。そういうときに読む聖書の言葉は論争的な内容でないほうがよいと考えました。気持ちの問題で変更することをお許しください。
しかし、使徒言行録であることに変わりありません。使徒言行録は、最初期のキリスト教会の宣教ないし伝道の様子を描いている書物です。しかも今日の箇所はとても躍動感があって端的に面白いです。元気が出てきます。
あらすじを申し上げます。「ステファノの事件」(19節)については、使徒言行録6章と7章に詳細が記されています。ステファノはキリスト教会最初の殉教者になった人です。イエスさまと行動を共にした12人の使徒ではありません。
聖霊降臨後のキリスト教会が成長しはじめ、信徒の数が増えてきて、それに伴って教会の中で人間関係のトラブルも増え、交通整理が必要になったので、12人の使徒を助ける人たちが必要だということになりました。
このとき使徒たちが用いた論法はたいへん興味深いものです。6章2節以下に記されています。「わたしたちが、神の言葉をないがしろにして、食事の世話をするのは好ましくない。それで、兄弟たち、あなたがたの中から、霊と知恵に満ちた評判の良い人を七人選びなさい」。その7人の中に選ばれたのがステファノでした。
この論法のどこが興味深いか。おそらく誤解もされやすい言葉であるということをあらかじめ申し上げます。誤解のほうを先に言うほうが分かりやすいと思います。
ありそうな誤解は、「神の言葉」と「食事の世話」を比較したうえで「神の言葉」のほうがどう考えても大切で価値があることで、それは我々のような専門家にしかできないことだけれども、「食事の世話」などという相対的に価値の低いことは、だれでもできることだから、わたしたちに押し付けないでくれと使徒たちが「食事の世話」を他人任せにしようとした、というものです。
まるで自分たちのほうが身分か何かが上で、価値の低いことは自分たちよりも身分が低い人にやらせればいい、と使徒たちが考えたかのように。
しかし、そんなふうに読むのは間違いです。もしそうなら、使徒たちは二度とごはんを食べてはいけません。このように言う私には、使徒たちをかばう気持ちがあります。はたして本当に、彼らの中に「神の言葉」と比較して「食事の世話」を下に見る思いが全く無かったかどうかは、分かりません。そうではないと信じたいだけのところがあります。
「神の言葉」を宣べ伝えるという大切な働きをすべき我々を「食事の世話」などという煩わしいことに巻き込んで邪魔しないでくれと使徒たちが考えたのではなく、その正反対だと。教会の存在理由(レゾンデートル)の中に「神の言葉」と「食事の世話」が必ず両立しなければならないと使徒たちが考えたのだと。「食事の世話」は「神の言葉」と匹敵する同等の価値を持つことだと。そのように使徒たちが考えたのであれば、これからもごはんを食べてくださいと言いたいです。
脱線が長くなりました。今申し上げた文脈の中で選ばれた7人の奉仕者のひとりがステファノだったというわけです。しかしそのステファノがキリスト教会最初の殉教者になりました。どのようにしてステファノが殺害されたかについては使徒言行録7章14節以下に記されていますのでぜひお読みください。
このステファノの事件をきっかけにして迫害が強まったため、人々が「散らされて」いました(19節)。「フェニキア、キプロス、アンティオキアまで行った」(同上節)とあるのはエルサレムからの逃亡先ですが、「フェニキア」は都市の名前ではなく地域の名前、「キプロス」は地中海に浮かぶ島の名前、「アンティオキア」は都市の名前です。
この中で特に重要な拠点になったのが、アンティオキアです。地図で見るとエルサレムの真上(北の方角)です。エルサレムから直線距離で460キロメートル。東京から大阪までが直線距離で400キロメートル。東京から盛岡(岩手県)までが460キロメートルで、ぴったり同じです。そこまで歩いて逃げたのは大変だったと想像できます。
しかし、そのアンティオキアに当時の国際都市の様相があり、ヘブライ語を話すユダヤ人だけでなくギリシア語を話す人々にもイエス・キリストの福音を宣べ伝える交流の場が与えられて、その教会が成長したというのです。
その東京からすればだいたい大阪、あるいはぴったり盛岡の距離があるアンティオキアの教会が成長しているといううわさが、エルサレムにとどまっていた使徒たちの耳に届いたので、強力な応援団としてバルナバが派遣されることになりました。
バルナバは使徒言行録に3か所登場します(4章36~37節、9章27~30節、15章36~40節)。ユダヤ人のレビ族出身、バルナバは通称でその意味は「慰めの子」、本名はヨセフ。キプロス島で生まれる。自分が持っていた畑を売り払ったお金を使徒たちに渡した人。
今日の箇所にも「バルナバは立派な人物で、聖霊と信仰とに満ちていた」(24節)とありますが、自分の畑を売ったお金を教会に献金したから立派だという話ではありません。「聖霊」と「信仰」が並べて書かれていることにどのような意味があるかは、はっきり分かりません。代々の教会の信仰によれば、「聖霊」は父・子・聖霊なる三位一体の神であり、聖霊なる神が我々人間の心と体のうちに宿ってくださることによって、その人に「信仰」が与えられるという関係にあります。
しかしまた、その「信仰」は、あくまでも人間の側に属するものでなくては意味がありません。それはわたしたちが毎週の礼拝で告白する使徒信条にあるとおりです。「我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず。我はその独り子、我らの主、イエス・キリストを信ず。我は聖霊を信ず」と、「我信ず」(I believe)を3回繰り返します。「信仰」はあくまでも「私がすること」です。神が「信じてくださる」のではありません。バルナバは熱心な信者だと語ることに問題はありません。
そのバルナバがまだ「サウロ」を名乗っていた、後の使徒パウロを、パウロの出身地タルソスまで捜しに行って、見つけてアンティオキアまで連れ帰り、コンビで1年間アンティオキア教会にとどまって、多くの人にイエス・キリストの福音を宣べ伝えました。
そして、そのアンティオキアで「弟子たち」(26節)すなわちイエス・キリストこそ真の救い主であると信じた人々が、初めて「キリスト者」(クリスティアーヌス)と呼ばれるようになったというのです。自ら名乗ったのでなく、周囲の人につけられたニックネーム(あだ名)です。それが今日まで二千年、わたしたちの呼び名になっているのですから驚きです。
アンティオキア教会を模範にしながら、わたしたちの教会のあり方を考えることが大事です。
(2022年7月3日 聖日礼拝)