2022年5月22日日曜日

喜びに変わる(2022年5月22日 聖日礼拝)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13)
讃美歌21 インマヌエルの主イエスこそ 356番(1、4節)
奏楽・長井志保乃さん 動画・富栄徳さん

礼拝開始のチャイムはここをクリックするとお聴きになれます

宣教要旨(下記と同じ)PDFはここをクリックするとダウンロードできます

「喜びに変わる」

ヨハネによる福音書16章16~24節

関口 康

「はっきり言っておく。あなたがたは泣いて悲嘆に暮れるが、世は喜ぶ。あなたがたは悲しむが、その悲しみは喜びに変わる。」

今日の箇所もヨハネによる福音書です。しかも、先々週の5月8日日曜日に取り上げた箇所からの続きで、今日を含めて3回連続で、イエスさまと弟子たちとの最後の晩餐での「遺言(ゆいごん)」に属する箇所を今日もお話しします。先週の「わたしは真のぶどうの木」とイエスさまがお語りになっている箇所とも同じ文脈です。

わたしたちはやはり「自分と関係ある」と思えることに興味を持ちます。このように申し上げてから続けると「違います」とおっしゃられるかもしれません。先々週の箇所を私がイエスさまの「遺言」としてご紹介したことに強く関心を持ってくださった方がおられました。「自分と関係ある」と思われたからではないでしょうか。

私自身はまだ、自分の「遺言」を書いたことがありません。必要ないかどうかの判断は難しいです。いつ何が起こるか分からない、明日の予測すら難しい、それがわたしたちの人生です。まして今、世界を大混乱に陥れている感染症、世界を巻き込み始めている戦争。「自分とは関係ない」と考えるほうが難しいことばかり。そしてもちろん、わたしたちは確実に1年ごとに年齢がひとつずつ加わります。自然の意味での「高齢化」が無関係な人は、ひとりもいません。

もうすっかり絶望してしまって人生をあきらめる思いで述べる、または書く「遺言」も、きっとあるでしょう。お勧めする意味で言うのではありません。しかし、そういう気持ちになる人をだれが責めることができるでしょう。

しかし、そのような気持ちや考えで述べる、または書くのではない「遺言」もきっとあるでしょう。私は自分で書いたことはないので現時点では想像にすぎません。しかし、そのように言ってよいのではないかと思います。

希望と喜びに満ちあふれた「遺言」があるでしょうか。そうでなければならないという意味で言うのではありません。しかし大切なことは、「遺言」の読者はそれを書く人自身ではないということです。今は話す声を録音したり、ビデオで録画したりすることもできます。しかし、それを聴くのも観るのもその人自身ではありません。

もしそうであれば、「遺言」の目的ははっきりしています。地上に遺される人たちに託すことです。わたしが命がけで守ってきた、愛する人たちを、家族や仲間を、この世界を、そしてこの教会をあなたに託すと明確に意思表示すること、それが「遺言」の目的です。

イエスさまの「遺言」も同じです。イエスさまの意志を、そしてそれは永遠の神の御子なるイエス・キリストを通して表された父なる神ご自身の御心を、あなたがたに託すという意思表示でした。

今日の箇所を一読して分かるのは、イエスさまが弟子たちに繰り返し「悲しみが喜びに変わること」をお語りになっていることです。悲しみは過ぎ去り、喜びが訪れるということを。

特に注目したいのは、20節です。「はっきり言っておく。あなたがたは泣いて悲嘆に暮れるが、世は喜ぶ。あなたがたは悲しむが、その悲しみは喜びに変わる」(20節)。

イエスさまがお語りになっている直接の相手は弟子たちです。「あなたがたは泣いて悲嘆に暮れる」と言われているのも、第一義的には弟子たちのことです。

なぜ弟子たちが「泣いて悲嘆に暮れる」のでしょうか。イエスさまとの死別は彼らにとって恩師との別れであり、心の支えを失うことを意味します。しかし、ここで再びブルトマンの註解書(『ヨハネの福音書』日本キリスト教団出版局、2005年)を参照します。「それ〔悲しみ〕は愛する者の喪失や偉大な人間の逝去についての個人的な悲嘆ではない」(455頁)と解説されています。私の乏しい想像力では思いつかない解釈でしたので、とても驚きました。

それでは「悲しみ」とは何か。ブルトマンによると、「むしろそれ〔悲しみ〕は、イエスによって世(コスモス)から呼び出されていながら(15章19節、17章16節)、まだ世にとどまり(17章11節)、世の憎悪にさらされている(15章18節~16章4節a)という世における孤独の状況」です(同上頁。ギリシア文字をカタカナ表記に変更)。

「世から呼び出されている」のは「教会」です。教会が世から孤立していて、世の憎悪にさらされていることが「悲しみ」の意味です。ブルトマンの解説の紹介を続けます。

「世(コスモス)はイエスの退去を喜ぶ。イエスの出現は世の確かさを疑わしくしたからである。世は教会を憎む。教会の実存は躓きの継続を意味するからである。だが教会はイエスに属しているゆえに世における孤独と世の憎悪を引き受けなければならない。まさに教会はイエスに属していて、もう世には属していないからである(15章19節)。それは教会にとって『悲しみ、苦難(33節)、動揺(14章1節)』を意味する。教会の状況は自明なものではないからである。教会は道を見出さねばならない」(455~456頁)。

興味深い解釈です。納得もできます。言われているとおり、イエスさまとの出会いは「世の確かさ」を疑わしくします。世に来られたイエスさまを、世が十字架につけて殺したからです。その事実を目の当たりにし、世に信頼を置けなくなり、真実を求める人々が呼び集められたのが「教会」です。だからこそ「教会」は世から憎まれ、孤立します。それは悲しいことです。

「分かりました。それではその『悲しみ』がなぜ『喜びに変わる』のでしょうか」と疑問を抱く方がおられるでしょう。この点のブルトマンの解釈にも驚きました。次のように記されています。

「その喜びの本質はどこにあるのか。それは恍惚という心霊状態としてではなく、信仰者がもう何も問う必要がない状況として規定されている。次に彼らはもう無理解な者ではないし(17~18節、14章5節、8節、22節)、これまで彼らの状況にふさわしかった問い(5節)は消えている。(中略)そのときイエスはもう彼らにとって謎ではなくなる。だれももう問いをもたない!」(460頁)。

「信仰者がもう何も問う必要がない状況」になることが「喜び」だというのです。そのとおりです。わたしたちも同じ経験をしてきました。わたしたちも、イエスさまを知り、世の確かさに疑いを抱き、真理を求めて生きようとして、孤立する日々です。わたしたちは、義人ヨブが理由の分からない苦難に悶える姿さながらです。「もし神がおられるなら、なぜこれほど人生は苦しく、世界はひどいのか」と問い続けるばかりです。

しかし、そのわたしたちに「もう何も問う必要がない状況」が訪れます。それこそが、わたしたちの喜びであり、希望です。

「もう何も問う必要がない」のは、十字架につけられたイエス・キリストがすべての悩みと苦しみを引き受けてくださる方だと分かり、心から信頼して生きていけるようになるからです。その日がまだ来ていないとしても、これから必ず来ます。そう信じるのが「教会」です。

(2022年5月22日 聖日礼拝)

2022年5月15日日曜日

真の葡萄の木(2022年5月15日 聖日礼拝)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13)

讃美歌21 すべての民よ、よろこべ 327番(1、3節)
奏楽・長井志保乃さん 字幕・富栄徳さん

礼拝開始のチャイムはここをクリックするとお聴きになれます

宣教要旨(下記と同じ)PDFはここをクリックするとダウンロードできます

「真の葡萄の木」

ヨハネによる福音書15章1~11節

関口 康

「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしがその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。」

私は今日のこの箇所のみことばを読むたびに、避けて通ることができない記憶と立ち向かうことになります。それは、私が生まれると同時に両親に連れられて通い始めた教会に関する記憶です。

日本キリスト教団岡山聖心教会です。近くに岡山地方裁判所があるなど、岡山県岡山市の市街地の中心に位置します。今も存在し、日本キリスト教団の最大規模(何位かは知りません)の教会です。

昭島教会と同じで、太平洋戦争後、自給開拓伝道の形で始まった教会です。なぜ私の出身教会がその教会なのかといえば、私の母の実家があった場所から徒歩3分の距離にあった江戸時代の武家屋敷が礼拝堂として用いられていたからです。今は同じ場所にコンクリートの巨大な礼拝堂が立っています。

その武家屋敷の住所は、母の実家と同じ町名でした。岡山市は1945年6月29日にアメリカ軍のB-29爆撃機140機による無差別爆撃を受け、市街地が一気に焦土と化しました。当時14歳の母も戦火の中を逃げ惑う体験をしたそうですが、家屋を失うまでには至りませんでした。

岡山聖心教会が開拓伝道を始めた江戸時代の武家屋敷も、灰にならずに残りました。岡山聖心教会の創立は、日本基督教団年鑑によれば1947年5月ですので、母は16歳ですが、開拓伝道が始まった直後、最初期の教会員になりました。母は熱心な仏教徒(日蓮宗不受不施派)の家庭に生まれましたが、実家の近くに教会ができたので、そこに通い、まもなく信仰を与えられ、教会員になりました。

その後、私の父が独身の頃、岡山に引っ越して来て、岡山聖心教会の教会員になります。父は群馬県前橋市の出身者で、岡山とは無縁でしたが、大学卒業後、農業高校教員になることを志し、就職のために岡山に移住しました。そして、父は大学時代に日本キリスト教団松戸教会で洗礼を受けてキリスト者になりましたので、岡山で通う教会を求めて岡山聖心教会にたどり着きました。

そこで両親が出会い、結婚し、兄と私が生まれました。両親とも教会学校の教師になりましたので、日曜日の朝は家族で教会に行き、多くの時間を教会に費やし、帰宅する生活でした。

そのような中、私が物心つく3歳くらいからの記憶は1960年代後半から始まりますが、私の記憶の中の岡山聖心教会は、日曜の礼拝でも、日曜午後7時半からの夕拝でも、水曜の夜の祈祷会でも、日曜の教会学校の礼拝でも、朗読される聖書箇所はすべて、今日の箇所でした。

それが、私が高校を卒業する18歳まで続きました。3歳引いた15年間は間違いなく、私の記憶の中の岡山聖心教会で朗読される聖書の箇所はすべて今日の箇所だけでした。

理由は分かりません。高校卒業後は東京神学大学に入学し、神学大学卒業後は日本キリスト教団南国教会に赴任しましたので、岡山の記憶は高校卒業と同時に終わります。

私がはっきり覚えているのは、物心つく頃から高校を卒業するまでの15年間で岡山聖心教会が急激に成長し、私が高校生の頃には現住陪餐会員が500名を超え、礼拝出席者が250名を超え、3つの附属幼稚園を有する教会になったことです。250名が武家屋敷の大広間に敷き詰められた座布団の上に正座して礼拝をささげました。

私が高校を卒業するのが1984年ですので、岡山聖心教会は当時で創立37年です。今年75周年です。戦後の自給開拓伝道教会が、37年後には礼拝出席者250名を超える教会になった理由も私には分かりません。私に分かるのは、私が憶えているかぎり15年間ずっと今日の箇所だけが、どの礼拝でもどの集会でも読まれ続けた事実だけです。

私の話が長くなりすぎましたので、そろそろやめます。しかし、もうお気づきでしょう。私がこのことを必ずしも良い意味でお話ししていない、ということに。

今日の箇所は、イエス・キリストご自身が語られたみことばとして、ヨハネが記しているものです。しかし、この箇所のイエスさまのお言葉の印象は、どちらかといえば、肯定的な言葉よりも、否定的な言葉のほうが前面に出てきていることにお気づきいただけると思います。

「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である」(1節)は肯定的です。しかし、その次は「わたしにつながっていながら、実を結ばない枝は、父が取り除かれる」(2節)と否定的です。

「わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている」(4節a)は、肯定的です。しかし次は「ぶどうの枝が、木につながっていないならば、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない」(4節b)と否定的です。

否定的な言葉はまだ出てきます。「わたしを離れては、あなたがたは何もできない」(5節)、「わたしにつながっていない人がいれば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる。そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう」(6節)。

岡山の牧師はこの箇所を朗読するだけで一度も説明してくれませんでした。そのことも確実に証言できます。実はかなり長いあいだ疑問を抱いていましたので直接質問すべきだったかもしれませんが、1906生まれで私より59歳も年上の方でしたので、質問する勇気がありませんでした。

疑問を抱いていたのは、私だけではなかったかもしれません。「わたし」につながっていなければ、実を結ぶことができない、「わたし」を離れては、あなたがたは何もできない、「わたし」につながっていない人は、枝のように外に投げ捨てられて枯れ、集められて、火に投げ入れられて焼かれてしまう。

この「わたし」は誰のことかを牧師が説明しないので、各自が自由に解釈し、なかにはひどい誤解を抱き、信じた方がいたかもしれない、いなかったかもしれない。そのように考えざるをえません。

はっきり申します。この「わたし」はイエス・キリストただおひとりだけです。他のいかなる存在とも結び付けることは不可能です。ヨハネによる福音書の「わたしは~である」(エゴー・エイミー)は排他的・絶対的な意味を持つとブルトマンが書いていることは、先日ご紹介したとおりです。

しかも、この箇所で、イエス・キリストに「つながる」か「離れる」かという問題と、ひとつの教会のメンバーかどうかという問題、あるいは日曜日の礼拝に来るか来ないかという問題は、完全に区別して考えないと、ひどい誤解を生むことに必ずなります。

「わたしは~である」(エゴー・エイミー)形式の「わたし」は、イエス・キリストおひとりだけであって、「教会」も該当しません。「教会」から離れた人は「火に投げ入れられて焼かれてしまう」のでしょうか。礼拝をしばらく休むと焼かれるのでしょうか。そういう話であっていいわけがありません。

私の出身教会の批判をしているのではありません。申し上げたいのは、わたしたちは今日の聖書の箇所をどう読むかです。もしこの箇所に恐怖を抱くとしたら読み方が間違っていると考えるべきです。

イエスさまは「わたしの愛にとどまってほしい」と心から願っておられます。「木から枝が離れたら、その枝は枯れる」というのも大自然の法則です。反対者は処罰するという話ではありません。

イエスさまはどこまでも愛してくださる方です。わたしの愛のうちにとどまってほしい、愛の関係を続けてほしいと願っておられます。恐怖と脅迫による支配は、イエスさまとは一切無縁です。

(2022年5月15日 聖日礼拝)

2022年5月8日日曜日

互いに愛し合いなさい(2022年5月8日 聖日礼拝)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13)

讃美歌21 ハレルヤハレルヤ 328番(1、4節)
奏楽・長井志保乃さん 字幕・富栄徳さん

ヨハネによる福音書13章31~35節

関口 康

「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」

今日の聖書のみことばは教会の教えにおいて根本的な意味を持っています。わたしたちの救い主、神の御子イエス・キリストご自身の言葉としてヨハネによる福音書が記しているものです。

これはイエス・キリストが十字架にかけられる前の夜に行われた最後の晩餐のとき、弟子たちに語られた言葉です。しかし、「ユダが出て行くと」(31節)と記されていますので、そこにいたのは11人の弟子たちだということになります。

しかし、いま申し上げたことを狭くとらえて、イエスさまが「互いに愛し合いなさい」と命令されたのはイスカリオテのユダを除く11人だけであって、ユダは愛の対象外であるというような意味が含まれている、などと考えるべきではありません。裏切り者がやっと部屋から出て行ってくれたから安心して真実を話せるようになった、というような話ではありません。

それどころか、むしろ正反対に、イエスさまはユダにこそ、このことをおっしゃりたかったのではないかと、私には思えてなりません。なぜ愛し合うことができないのか。なぜ裏切るのか。もう一度考え直してほしいと。しかし、この点は私個人の想像の域を出ません。

そして、もっと大事なことがあります。この教えが最後の晩餐の席で語られたということは、人間的な言い方をお許しいただけば、つまりそれは、イエスさまが御自身の処刑と死を強く意識なさったうえでの遺言(ゆいごん)であることを意味します。もしそうなら、ユダを含むか含まないかはともかく、その場にいた弟子たちだけにイエスさまがおっしゃっているのではないことは明らかです。

なぜなら、最後の晩餐でイエスさまが弟子たちにお語りになったことのすべては、全世界の全歴史の全人類に対して、ご自身の言葉を伝えてもらいたいというご意志をお持ちだったからです。

「互いに愛し合いなさい」という新しい掟を守ってもらいたいという願いをイエスさまが具体的にだれに対してお持ちになったのかと、もし考えるとすれば、狭い範囲に限定して考えてよいことでは全くなく、全世界の全歴史の全人類に対してであると、わたしたちは躊躇なく考えなければなりません。例外があるかどうかはイエスさまがお決めになることです。わたしたちが勝手に決めることはできません。

「あの人は愛せるが、この人は愛せない。わたしたちの愛は選り好みをする。互いに愛し合いなさいと、たとえイエスさまがおっしゃったことだと言われても、だめなものはだめ。愛せない人は愛せない。そのような罪深いわたしたちの身代わりにイエスさまは死んでくださって、わたしたちの罪を赦してくださった。わたしたちが選り好みをしてしまうこともイエスさまは赦し、受け入れてくださっているので、安心してよい」という論法が成り立つかどうかは、ぜひ考えていただきたいことですが、私個人は無理だと考えています。

今日もまた、いつもとはいくぶんか趣向を変えたことをお話ししたいと思い、そのような準備をしてきました。「母の日」のことを話すべきかもしれませんが、申し訳ありませんが、その準備はありません。

今日お話しするのは、私個人がまだほとんど全くその正体を見抜くことができておらず、本質を理解することができていない、現在起こっている「戦争」についてです。

ただし、「戦争」が始まると、一方に偏っていない情報を入手することが困難な状況になりますので、現時点で第三者の立場にいる者は、不用意な発言を控えなければなりません。

特に今はインターネットがあります。宣教要旨をメールで配布したりブログで公開したりしています。予想がつかない範囲に悪影響を及ぼす可能性が否定できません。

しかし、比較的最近になって報道されるようになったことの中に、この「戦争」の一方の当事者とその国のキリスト教の指導者が深い関係にあるという情報があります。

キリスト教についてはわたしたちに責任があります。無視することはできません。

そう考えて、その人の著書を探し、4月21日にインターネットで注文しました。ロンドンの書店で、4月25日に発送され、ようやく昨日(5月7日)届きました。注文から16日、発送から12日かかりました。

本のタイトルは『自由と責任』(Freedom and Responsibility)で、副題が「人権と個人の尊厳の調和についての研究」です。原著はロシア語ですが、とても読みやすい英語で訳されています。読書に夢中になりそうでしたが、読みふけると日曜日に差しつかえるので最初だけ読みました。

実に明快な文章です。英訳者が優れているのだと思います。そして驚くほどプロテスタントに対する強烈な敵意が表現されていました。核心部分と思える箇所を、拙訳でご紹介いたします。

「真の問題は、現在の世界において国民が霊的に健全さを保つために、彼らの宗教的・歴史的な自意識をエイリアンの破壊的な社会的文化的要素から保護するバリアがないことにある。世界の脱工業化に影響された、いかなる伝統(tradition)とも無関係の新奇な生活様式からも、彼らを守れない。

新奇な生活様式の土台にリベラル思想があり、それが異教的な人間中心主義と手を結んでいる。その人間中心主義は、ルネッサンス期にヨーロッパ文化に入り込んで来た、プロテスタント神学とユダヤ人の哲学思想である。啓蒙主義の時代が終わりを迎え、彼らの思想がひとつのリベラル原理を形成した。その精神とイデオロギーの絶頂点が、フランス革命である。あの革命の根本にあったのは、伝統(tradition)が持つ規範的な意義を拒絶することだった。

あの革命はどこで始まったか。宗教改革である。宗教改革者たちが、キリスト教の教義を扱う場で、伝統(tradition)が持つ規範的な意義を拒絶した、あのときから始まっている。

プロテスタントでは、伝統(tradition)は真理の基準ではない。信者の個人的聖書理解や個人的宗教体験が彼らの真理の基準である。プロテスタンティズムの本質は、キリスト教のリベラルな解釈である」(Patriarch Kirill of Moscow, Freedom and Responsibility: A Search for Harmony – Human Right and Personal Dignity, Moscow Patriarchate, 2011, p. 5-6)。

この文章を紹介するのは、「理解」が必要だと思うからです。「戦争」を肯定する意図は私には全くありません。残虐行為にいかなる言い逃れの道もありません。しかし、いかなる「戦争」も必ず終わらせなければなりません。問答無用だとは思いません。何度でも平和を取り戻すために、「互いに愛し合う」ためにわたしたちにできるかもしれないことは、まだ残っています。

(2022年5月8日 聖日礼拝)

2022年5月1日日曜日

良い羊飼い(2022年5月1日 聖日礼拝)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13)
讃美歌第二編 主はその群れを 56番(1、2節)
奏楽:長井志保乃さん 字幕:富栄徳さん

「良い羊飼い」

ヨハネによる福音書10章7~18節

関口 康

「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。」

ゴールデンウィークの最中です。気分転換も必要です。今日はいつもと少し趣向を変えたお話をさせていただきます。それは、聖書の読み方に関する問題です。

ヨハネによる福音書について非常に詳しく解説された注解書をルードルフ・ブルトマンという20世紀のドイツ人の新約聖書学者がドイツ語で書いたものの日本語版が、2005年3月ということは今から17年前ですが、日本キリスト教団出版局から出版されました。

ドイツ語原著は1941年に出版されましたが、画期的な名著として有名になりました。私もそのドイツ語版を持っています。しかし、ドイツ語に苦手意識を持っている私には歯が立ちませんし、ドイツ語の昔の印刷書体(ひげ文字)で書かれていて、見ているだけで頭が痛くなるものです。

しかし、難解な注解書の日本語版が出版されたと今から17年前に知り、大喜びしたのですが、それも束の間、定価を見て落胆しました。18,900円。とても買う力がありませんでした。

しかし、喜んでください。昭島教会にブルトマン『ヨハネの福音書』(杉原助訳、大貫隆解説、日本キリスト教団出版局、2009年)があります。教会の財産です。教会員の方はもちろんお読みいただけます。ご関心のある方はぜひ読んでみていただきたいです。

わたしたちが聖書を読むときに大事なことが最低でも2つあります。1つは聖書に何が書かれているかを著者の心の側に立って考えることです。特に大切なのは、わたしたちの側から「こういう意味であってほしい」という願いや思い込みがある場合はそれをいったん横に置くことです。自分が読みたいように読むのでなく、著者の意図を読み取ることが大事です。

2つめは、そのようにして読み取った著者の意図と今のわたしたちの関係を考え抜き、著者は「この私」に何を語ろうとしているかを明らかにすることです。その場合「聖書の著者はだれか」という問いに対しては、究極的な意味では、イエス・キリストを通して聖霊によって人の中からお選びになった著者の心と筆を用いて神おんみずからがお書きになったと信じる信仰が最終的に重要になります。短く言えば、聖書の著者は神さまです。神さまが「この私」に「何」を語ろうとしているかを知ることが、聖書を読むときに重要です。

しかし今、2つ言いました。その両方が大事だということです。2つめの「今のわたしたちに神が何を語っておられるか」を知るためにこそ、1つめの「聖書の歴史的解釈」が必要です。そちらのほうをしっかり理解するために、ブルトマンの注解書なども熟読すべきです。

それで今日は、私の考えや気持ちは少し横に置いて、ブルトマンが今日の箇所について書いていることを皆さんに紹介したいと思いました。

ところどころ、ブルトマンの表現をそのまま引用しながら言います。今日の箇所の直前の10章1節から3節までに「羊飼いが盗人や強盗とはどう違うか」が描かれています。羊飼いは「正規の門を通って囲いの中の羊のもとに行く」が、「門は門番によって彼には開かれているのに対し、盗人には閉ざされているため、盗人は塀を乗り越えなければならない」が、「塀を乗り越える盗人を羊たちは恐れる」とブルトマンが書いています(同上書、296~297頁)。

しかしブルトマンによると、だからといって「まるで羊の群れが疑い深く批判的な集団であるかのように」描かれているわけではなく「羊たちは羊飼いを本能的な確かさによって見分けることが明らかにされねばならない」ので「羊たちが〔本物の〕羊飼い〔かどうか〕を見分けるための基準が示されなければならないわけではない」と言います(同上箇所)。よく分かる話です。

しかし、ここから先のブルトマンの解釈は圧巻です。このたとえの中に、羊飼いが「規則的、日常的に彼の羊の群れのもとに来て、羊たちを牧場に連れ出すという事実を解釈の中に持ち込んではならない」(297頁)と言います。言い換えれば、羊飼いは羊たちとふだんから行動を共にしているので本物かどうかが分かるという解釈を持ち込んではならないということです。

なぜなら、この箇所の「羊飼い」はイエスさまを指しているからです。ヨハネによる福音書は、イエスさまは「言(ことば)が肉となって」(1章14節)ただ一度だけ神のもとから到来された方であると教える書です。一度だけ来られた方のことを、以前からよく知っているし、いつも一緒にいるから羊はその相手が本物の羊飼いかどうかが分かると言えるわけがない、ということです。

それでブルトマンが言うのは、このたとえの中の「羊」は、キリスト教共同体(すなわち教会)にまだ属しておらず、世に散らされている人たちを指している、ということです(297~298頁)。つまり、「羊」にたとえられている存在が「羊飼い」にたとえられているイエスさまをずっと前から知っていたわけでなく、むしろまだ出会ったことがなく、初めて出会う関係だというわけです。だからその存在はまだ教会員になっていないというわけです。

それならどうして初対面なのに本能的に本物だと分かるのかといえば、イエスさまが「真理」を語られる方だからです。しかし、「(キリスト教共同体に属していない)羊が集まって共同体になることによってはじめて彼の羊の群れになるのではない」(298頁)ともブルトマンは言います。そうではなく、「イエスを羊飼いとする羊の群れ」こそが「教会」であり、「教会は(中略)羊飼いの声に従うことによって実現されるべき羊の群れである」(同上頁)と言います。

ここから先に申し上げることは、ブルトマンが書いていることではありません。私も「牧師」なので「羊飼い」と呼ばれることがあります。しかし、今日の箇所のたとえを牧師に当てはめるのは間違いです。イエスさまを差し置いて、その人が「羊飼い」を名乗り、羊に向かって「わたしに従いなさい」と言い出す牧師は、正規の門から入らず、塀を乗り越えて入る盗人や強盗の側にいるのと同じです。

今日の箇所の「羊飼い」を当てはめてよいのはイエスさまだけです。たとえば「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。羊飼いでなく、自分の羊を持たない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして逃げる」(11~12節)を、牧師一般に当てはめてはいけません。

ヨハネによる福音書でイエスさまが「わたしは~である」(エゴー・エイミー)と語られるとき、神がモーセに「わたしはある、わたしはあるという者だ」(出エジプト記3章14節)とご自身を啓示されたのと同じ意味があります。そのことをブルトマンも書いています。イエスさまが語る「わたしは~である」(エゴー・エイミー)は排他的で絶対的な意味です。「わたしこそ、わたしだけがあなたの羊飼いである」と語られているのと同じです。

イエスさまだけが、わたしのために命を捨ててくださいました。イエスさまだけが、わたしの羊飼いです。そのように信じる羊の群れが「教会」です。わたしたちはこれからも「良い羊飼い」であるイエスさまの御声に従って生きて行こうではありませんか。

(2022年5月1日 聖日礼拝)