2021年1月3日日曜日

エジプトのイエス(2021年1月3日 新年礼拝)


マタイによる福音書2章13~23節

関口 康

「ヨセフは起きて、夜のうちに幼子とその母を連れてエジプトへ去り、ヘロデが死ぬまでそこにいた。」

あけましておめでとうございます。今年もどうかよろしくお願いいたします。

東京都内に限られたことではありませんが、少なくとも東京のすべての教会が、今日の礼拝を行うかどうかで迷い抜いたはずでしょう。通常礼拝を行っている教会もあれば、閉鎖を決断した教会もあると思います。私も迷いました。しかし、決断する勇気がありませんでした。自発的に出席をお控えになった方々のことを覚えます。ぜひ自衛していただきたいです。

今日の聖書の箇所も、いつもと同じように日本キリスト教団の聖書日課に基づいて選びました。しかし、この箇所のテーマが「避難」であることは、この段落に共同訳聖書が付けた小見出しにあるとおりです。避難すること、逃げること、これが今日の箇所のテーマです。

だれが、だれから、どこへ、なぜ逃げたのかは今日の箇所に記されているとおりです。「だれが」の答えは「生まれたばかりのイエスさまを抱いたヨセフとマリアの夫婦が」です。「だれから」は「当時のユダヤの王ヘロデから」です。「どこへ」は「エジプトへ」です。「なぜ」は「イエスさまの生命を守るため」であり、「ヘロデがイエスさまを殺そうとしていると天使が告げたから」です。

このような歴史的事実が本当にあったかどうかは分かりません。わたしたちにできるのは聖書に書いてあることを読んで、その意味を考えることだけです。しかし、わたしたちにとって大事なことは、歴史の事実がどうだったかというよりも、人の大切な生命を守る行動として避難すること、逃げることは、正当かつ適切な行動であるということを、聖書が保障し、天使が保障し、神が保障してくれているという事実を受け入れることです。

「逃げる」ということで、私がいつもすぐに思い出すことがあります。その最初は、旧約聖書の出エジプト記に描かれている、モーセと共にエジプトからカナンの地へと逃げるイスラエルの民の姿です。2章15節の「わたしは、エジプトからわたしの子を呼び出した」は旧約聖書ホセア書11章1節です。ホセア書を見ると「わたしの子」が明らかにモーセを指し、出エジプトの出来事を指しています。これで分かるのは、マタイによる福音書はイエスさまを「新しいモーセ」として、イエスさまと共に始まった事態を「新しい出エジプト」として描いているということです。

次に思い出すのは世俗的な話です。毎回のようにノーベル賞候補者にあがる小説家の村上春樹氏のことです。私は村上さんの小説は読んで理解できたためしがありません。しかし、1980年代後半に、村上さんが爆発的な勢いで有名人になった頃、ちょうど私は東京にいました。きわめて高い評価をする人々がいる一方、激しく批判する人々がいたのを覚えています。その後、1990年代に村上さんが活動の拠点をアメリカに移しました。それを「村上春樹が逃げた」と言う人々がいました。しかし、「逃げた」と言われながら活動を続けた結果として今があるのですから、あれでよかったのです。

3つめは、東日本大震災です。2011年3月11日。私は千葉県松戸市の教会にいました。松戸も非常に激しく揺れました。私は教会員の安否確認をしなくてはと立ち上がりましたが、電話が通じなくなり、テレビも通常の放送をやめ、ガソリンスタンドに長蛇の列ができ、自動車を動かすこともできなくなりました。唯一頼りにできたのがインターネットでした。

地震と津波で一切を失った東北の教会を支援しなければと動き始めた、他教派の教会関係者がいました。3月14日の夜から高速道路を使って自動車で福島を通って仙台まで行くという情報を得ました。その人たちがインターネットで情報を発信していましたので、多くの人が見守っていました。

すると、3月15日の朝になって福島原発が爆発した(?!)というニュースが飛び込んできました。ネットで見ていた人たちの中に「行くな、止まれ」と伝えた人がいました。しかし、別の人は「イエス・キリストは逃げない!」という言葉で煽り始めました。それで私は本当に失望したのです。宗教はしばしば暴走します。教会も例外ではありません。

すべてを奪われた人々のもとにいち早くかけつけて助けなければならないという確信をもって動き始めた人々の判断は百パーセント正しいものでした。しかしだからといって「原子力発電所が爆発した」(?!)と報道されている最中に危険地域に突入することは、全く別問題です。

教会も同じです。礼拝も同じです。生涯かけて信仰を守り、礼拝を続けることと、新型コロナウィルス感染の危険が襲い掛かっている今このときに、自分自身と教会の自粛を拒むことは全く異なる次元の問題です。

そこまで言うならば、なぜ今日の礼拝を行うことにしたのか、閉鎖すればよかったではないかと思われるかもしれません。それも考えました。しかし、とにかく今申し上げているようなことについて、みなさんに直接お話ししたうえで、みんなで考えて判断する必要があるだろうと思いましたので、今日は通常礼拝を行うことにしました。

もしかしたら今週中にも政府から緊急事態宣言が発出されるかもしれません。危ないものからは逃げましょう。「逃げること」は、悪でも罪でもありません。イエス・キリストが生まれたとき、ヨセフとマリアに神が命令したことです。神の御心であれば従いましょう。

(2021年1月3日、新年礼拝)