2020年8月23日日曜日

力を合わせて働く


コリントの信徒への手紙一3章1~9節

関口 康

「大切なのは、植える者でも水を注ぐ者でもなく、成長させてくださる神です。」

今日も暑い中お集まりくださり、ありがとうございます。新型コロナウィルス感染拡大防止の観点から、教会も多くの点で自主規制を余儀なくされています。それでも日曜の教会学校と主日礼拝、また木曜の聖書に学び祈る会の出席人数は、徐々にですが、元通りになってきています。

しかし、このことを申し上げるのも、事柄を急かす意味も、裁く意味も全くありません。どうかご自愛ください。決して無理をしないでください。「責任逃れでそのように言うのだろう」とか言わないでください。そういう問題ではないと、どうかご理解ください。

教会というものの本質を考えると、教会に集まるわたしたちひとりひとりの命が教会の命です。わたしたちひとりひとりが教会です。その意味では「教会は人の集まり」です。いろんな意味で言われる言葉です。「教会もまた、複雑に絡み合った人間模様が展開される場である」というような意味で「教会は人の集まりにすぎない」とまるで吐き捨てるように言われる場合もあります。しかし、今申し上げているのは、その意味ではありません。

人がいなければ教会ではありません。わたしたちの生身の命の集まりが教会です。イエスさまも弟子の存在をお求めになりました。イエスさまひとりだけがいて、それで教会だということはありません。人がいて、それで初めて教会です。だからこそ、わたしたちひとりひとりが自分の命を大切にすることは教会を守ることを意味しています。その意味でくれぐれもご自愛くださいと申し上げています。

しかし、これからどうすればよいかは本当に分かりません。手をこまねいているわけには行きませんが、途方にくれます。

近所のコンビニエンスストアに、毎日のように行っています。贅沢するつもりはありません。最近はコンビニでなんでも買えますので、特に学校が夏休みの間は、野菜や豆腐などを買っては自分で料理をしています。

今お話しするのは、料理自慢ではなく、コンビニのアルバイトの人のことです。インドの南端から東の海にスリランカという国の島がありますが、そこから来た男子学生がいます。私が牧師であることを明かしたら「ぼくもクリスチャンです」と教えてくれて、意気投合しました。

話すと言っても、レジ中の一言二言です。昨日「ご家族は大丈夫ですか」と尋ねたら、「はい、大丈夫です」と返ってきました。「向こうはどう」と尋ねたら、それだけで通じて「国全体で感染者が200人ほどしかいません」と返って来たので、それはすごいと驚きました。「日本から帰ってくるなと言われるでしょ」と尋ねたら「はい、言われます」と笑ってくれました。

後ろにお客さんが並んでいますので、それ以上の会話はできません。帰宅してその会話を思い出しているとき考えさせられたのは、コロナの話題は国籍を越えるということでした。これほど例外なく全世界の全人類が共有し、共感できる話題はありません。互いを思いやり、心配しあう心のつながりが、全く思いもよらぬ仕方で生まれてきた気がしてなりません。

今日朗読していただいた聖書の箇所も日本キリスト教団の聖書日課『日毎の糧2020』に従って選びました。このことを毎回言うのは、特に今年に関してはコロナとの関係で聖書の箇所を選んだわけではないと申し上げたいからです。2020年版の発行日は「2019年12月1日」ですので、コロナとは無関係に編集委員会が作成したものです。

しかし、毎週感じるのは、その日の聖書の箇所はわたしたちの状況によく当てはまっているということです。ただし、今日の箇所に関してはよく当てはまってよいかどうかは考えどころです。

コリントの信徒への手紙一3章1節から9節までを先ほど司会者に朗読していただきました。この箇所に記されていることを今のわたしたちの言葉づかいで説明するとしたら、使徒パウロがいわば開拓伝道者として設立したコリント教会が、パウロがその教会の牧師を辞職して次の任地に移動したのち、次に来た牧師がアポロという名前でしたが、教会が分裂してパウロ派とアポロ派ができてしまったという話です。ひとつの教会の中で両派がけんかしている状態です。

しかもそれを、よりによって設立者であるパウロ自身が口をはさむ仕方で「ある人が『わたしはパウロにつく』と言い、他の人が『わたしはアポロに』などと言っているとすれば、あなたがたは、ただの人にすぎないではありませんか」(4節)というような強烈な言葉でずけずけと教会を責めている箇所ですので、教会というものの現実をよく知る人であればあるほど複雑な気持ちで読まざるをえないところです。

しかし、今回改めてこの箇所を読み直してみて気づかされたのは、6節と7節に記されている「わたしは植え、アポロは水を注いだ。しかし、成長させてくださったのは神です。ですから、大切なのは、植える者でも水を注ぐ者でもなく、成長させてくださる神です」という使徒パウロの言葉は、なにかこう、どこか下世話に響く言い方をお許しいただけば「きれいごと」のようなことでは決してないということです。

私個人の気持ちを言わせていただけば、「あなたがたは、ただの人にすぎないではありませんか」とパウロのような人から言われても「私はただの人だよ。文句あるか」と返したくなるところがあります。どの牧師が好きとか、どの牧師につくとか、そういうことは阻止されるようなことではないし、阻止したところで無駄な抵抗です。「どうぞご自由に」としか言いようがありません。

いま申し上げたのは私の気持ちですが、パウロも同じ気持ちだったのではないかと想像します。「わたしは植えた」と言っているのですから。コリント教会の創立者はこの私であると明言しているのですから。「アポロは水を注いだ」とも言っています。各教師の働きの努力を、パウロ自身が否定しているわけではありません。

問題なのは、なんだかんだ理由をつけて、教会の中でけんかすることです。そんなことをしていると、教会は四分五裂、雲散霧消です。跡形もなく消滅してしまいます。そうならないために「成長させてくださる神」を共に信じようではありませんかというのが今日の箇所の主旨です。

教会を失うことが最大の損失です。「失ってみれば分かる」という言い方はしたくありません。コンビニの彼が教会に来てくれるかどうかは分かりません。しかし、いろんな機会を得ながら、友達を増やしていくことが今の危機を乗り越える道ではないかと思う次第です。

教会のみんなで、力を合わせて伝道しましょう。

(2020年8月23日、日本キリスト教団昭島教会 主日礼拝)

2020年8月9日日曜日

聖餐を待ち望む


コリントの信徒への手紙一11章23~29節

関口 康

「だから、あなたがたは、このパンを食べこの杯を飲むごとに、主が来られるときまで、主の死を告げ知らせるのです。」

今日の聖書の箇所も、いつもと同じく、日本キリスト教団の聖書日課『日毎の糧』に基づいて選びました。説教題も、『日毎の糧』どおり「聖餐」とする予定でした。しかし、今のわたしたちの状況を考えて、言葉を少し伸ばして「聖餐を待ち望む」としました。

今のわたしたちの状況とは、「新型コロナウィルス感染拡大防止の観点から」多人数の集会の中で飲食をふるまうのを控えるべきであるという考えのもと、原則として毎月第1日曜の礼拝と、キリスト教の三大祝祭としてのクリスマス、イースター、ペンテコステの各礼拝とで行っている聖餐式を、今年3月から半年間も中止したままである、ということです。

その間、イースター(4月12日)もペンテコステ(5月31日)も過ごしました。両日とも聖餐式を行わなかったどころか、各自自宅礼拝でした。礼拝堂にみんなで集まっての礼拝をしませんでした。

そのような状況の中で、今日私は「聖餐を待ち望む」という題でお話しします。さっそく誤解が起こりそうなので申し上げます。今日の説教題には、半年も行えていないわたしたちの聖餐式を今すぐ再開すべきだと急かす意味はありません。そのようなことは全く考えていません。

「コロナ禍が過ぎ去るまで、忍耐して待ちましょう」と言えば、もちろんそのとおりです。それ以外に言いようがありません。しかし、いつ過ぎ去るのでしょうか。

そんなことは気にしないで、どんどんやりましょうと言うべきでしょうか。不安と恐れをもつ人々のほうが悪いでしょうか。そのようなことは、私は全く考えもしませんので、聖餐の再開を急かす意味も意図もありません。

否定的な言葉ばかり並べるのは、みなさんをがっかりさせるだけで申し訳ないです。なんとか肯定的な言葉も語りたいです。

それで申し上げたいことですが、このたび図らずも、わたしたちがもしかしたら見落としていたかもしれないけれども、考えてみれば当たり前すぎるほど当たり前の事実を、再認識できたのではないだろうか、ということです。

それは何かと言いますと、端的に「聖餐とは飲食である」ということです。だからこそ、それを行うのを今わたしたちは取りやめています。飲食でないならば、取りやめる必要はありません。

聖餐は「飲食」です。その「飲食」を教会は、イエス・キリストが弟子たちと共に行われた最後の晩餐を記念する仕方で、なんと2千年ものあいだ続けてきたと、わたしたちは信じています。

ひとつのことだけを強調して言うと、まるでなにか極端なことを言っているのではないかと思われてしまうかもしれません。しかし、事実です。教会は「飲食」の場であり、礼拝は「飲食」の時間です。教会における「飲食」の要素は、あってもなくても構わないような、どうでもよいものではありません。密接不可分の関係にあります。

いちいち箇所を挙げて説明するのは割愛しますが、西暦1世紀の教会の活動の様子が描かれているのが、新約聖書の使徒言行録です。読むと必ず分かるのは、最初のキリスト者たちは礼拝のために日曜日に集まるたびに、イエス・キリストが最後の晩餐でなさったように、パンを割いて、それをみんなで食べていたことです。そのことが繰り返し記されています。

今日の箇所に記されているのも、当時の教会で行われていた「飲食」の様子です。それについてパウロが、自分の目で見ておかしいところがあるので改めたほうがいいとか、こうすべきだとか、やや厳しい内容を含む意見を述べている箇所です。

当時の教会でどのような礼拝が行われ、そこで「飲食」が行われていたかについて、聖書の研究者が言うことには諸説あるようです。

私なりに理解しているところを申せば、今のわたしたちが「聖餐」と呼ぶ部分と「愛餐」と呼ぶ部分は、当時から分かれていました。どこが違うかといえば、飲食の量の違いであるとしか言いようがありません。ちょっと食べるか、いっぱい食べるかの違いです。しかし、それだけ言うと誤解を招くでしょう。

今日の箇所で大事なのは、パウロが「空腹の人は、家で食事を済ませなさい」(33節)と書いていることです。これは「聖餐」だけではなく「愛餐」にも当てはまることだと思われます。しかし、もしそうなら、疑問がわいてきます。だって普通、飲食の席に人を誘うときは「家で食事しないで、お腹をすかして来てくださいね」と言うではありませんか。パウロが言っているのは正反対です。

これで分かるのは、パウロが言おうとしているのは、教会に通う目的は、教会でお腹いっぱい食べるためではない、ということです。そうではなく、たとえ少量であっても、あるいは実際には家でごはんをしっかり食べて来て、お腹に入るところはもうどこにもないほどであっても、そのこととは別に、教会で「飲食」をすること自体に意味がある、ということです。

彼らがなぜ、それほどまでに「飲食」を重んじていたかといえば、それがイエス・キリストのご生涯を現していると、彼らが信じたからです。

私は今ここに、パンとぶどうジュースを持ってきました。礼拝の直前に、あそこのコンビニで買いました。残念ながら白ブドウのジュースしかありませんでした。そして、申し訳ありませんが、皆さんに分けるためではなく、私があとでひとりで食べます。

そんなものをなぜ持ってきたのかといえば、こんなふうにイエスさまがなさったのではないかと想像していただくためです。

最初に、このようにしてパンを割って「これが私の体だからね。私の命をあなたがたにあげるからね」とおっしゃったのではないでしょうか。

次に、ぶどうの杯を取り上げて「これが私の血だからね。私の命をあなたがたにあげるからね」とおっしゃったのではないでしょうか。

もちろん特に最後の晩餐に関していえば、十字架上での処刑前夜という状況だっただけに深刻な場面だったとは思います。しかしそれでもなんとなくユーモラスな雰囲気があったのではないかと想像できます。イエスさまは、笑顔だったのではないでしょうか。

しかしイエスさまは、小さなパンやわずかなぶどう液を見せつけてありがたがらせるようなことをなさったわけでは決してなく、食べるにも困っている人たちや、寂しい人たちや、世で差別されている人たちを積極的に招いて、あるいはイエスさま自ら訪問されて、共に「飲食」をすること自体でその人々を励まし助けることに、ご自身の一生をささげて取り組まれた救い主です。

イエスさまのお姿をまざまざと思い起こすための「飲食」、それが「聖餐」であり「愛餐」です。逆に言えば、そうでないような「飲食」であれば、教会で行う意味はありません。「空腹の人は家で食事を済ませなさい」とパウロが書いているとおりです。

「聖餐」の再開を待ち望みます。それがいつかは分かりません。しかし「聖餐」の再開の目的は、イエスさまのお姿をまざまざと映し出し、喜びと救いの恵みにあふれる教会本来の姿を取り戻すことです。その日を心から待ち望みます。

(2020年8月9日、日本キリスト教団昭島教会 主日礼拝)